たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

神坂神社の祭神

2020-11-28 08:58:27 | レイライン

左側には東山道が通っています

そしてそのすぐ下には川が流れています。




すでに、何度も訪問しています。

巨木も1,000年を越える杉があります。

おすすめですよ。









過去の記事はこちらです

日本武尊腰掛石

(日本武尊が東征の帰路、神坂峠を越えるにあたり、休まれ、腰掛けたと伝わる)




ということは、ヤマトタケル以前にここが出来たということ。

だれが何のために?



祭神については、住吉大社のhpより引用させていただきます。

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伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。そのケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれました。

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大阪に住吉大社があります。そこは、神功皇后 (じんぐうこうごう)との関わりが深いようです。

簡単にそれぞれの関係を書いてみました



彦坐王の子である 山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、神功皇后の祖祖父

名前に「筒」が出てきますけど、何か関係があるのでしょうか?


底筒男命 、中筒男命 、表筒男命について調べていくと、なんと、オリオン座にある3つの星のことらしい・・・

星については詳しくはありません・・・


普通は、人が祭神になるのですけど「星」が神社の祭神になってるということですよね。

なぜ星なのでしょう?  しかも、人の名前のように呼んでいる。

なぜなんだろう?


話を神坂神社に戻します。

まず、星にかなり詳しい人が関係しているということ。

そして、場所のことですけど、わざわざ標高の高い峠を越えて天竜川から木曽川へ移動していること。

極めつけは、神坂神社からのレイラインです。

見てみましょうか



以前にも調べていますけど、意味が分からなかった。

でも、今回はある程度分かります



熱田神宮・・・直撃ですね!

もちろん、このレイラインを作製した時点では熱田神宮はまだ存在しないでしょう。

でも、すでに湊として利用していた可能性があります。



毎度のことですけど、海面を5m上昇させた図です(当時も今も海面の上昇はありませんけど、現在は土砂の堆積によって海が後退しています。乱暴なやり方ですけど、古代の様子に近づけるため海面を3m~5m上昇させます)

五社神社(五社大名神社;彦坐王の居た場所、朝廷別王も頻繁にここに居たと推測します)から、

庄内川を下り伊勢湾を南に行くとすぐに現在の熱田神宮のある場所にたどり着きます。

熱田神宮の前身である氷上姉御神社は、その先にあります。

五社神社(五社大名神社)から熱田神宮まで直線距離で約20km、徒歩でも1日で行けます。

小さな船で、庄内川を下り伊勢湾を岸伝いに行けばかなり早く到着するでしょう。

熱田の湊で大きな船に乗り換えて、伊勢まで行ったのではないでしょうか。

現在は、七里の渡し跡がありますけど、彦座王のころからすでにその機能があったと思われます。


小滝川翡翠峡のレイラインに書きましたけど、朝廷別王と行動を共にしているレイラインを作成する技術者集団は、 伊豆毛神社から見た夏至の日没のレイラインを見ています。

糸魚川から諏訪に帰るときに測量したとすると、伊豆毛神社付近で測量して、そのあと、

諏訪に滞在してから神坂神社まで行き、冬至の日没の観測をし場所を特定、

そして峠越えの道を探して木曽川に行きつき、尾張に戻ります。このように考えます。



もう誰の仕業かわかりますね。

この技術集団が何人か、どのようにしてレイラインを測量するのか、

それには、どれくらいの時間がかかるのか全く分かりません。

以前、星を使って測量しているのではないかと書いたことがありますけど、

この神坂神社の祭神を星にするあたり、やはりそうなのかもしれませんね。

この時、朝廷別王は一緒に行動していたのだろうか?

現在、彼についていろいろ調べていますけど、どうもかなり茶目っ気がある

性格のようです。そして、大胆な行動をとるみたい。

まだこのとき彼は、20歳ぐらいです。

天竜川から木曽川に行くために峠を越えるということを考えたのは、若さ故かもと思います。



この峠越えは、東山道の中で最も険しい場所です。



神坂神社から神坂峠遺跡までは川を遡れば行けます。

そこからは、別の川沿いに下れば、木曽川に出ます。



木曽川を下った方が、尾張、美濃に行く距離がかなり近くなります。

小さな船を使えばさらに早く楽に行けるでしょう。

祭神である「底筒男命 、中筒男命 、表筒男命」は、ここ神坂神社で生まれたのかもしれません。

なぜ「筒」なのか?

妄想をしてみます・・・

「つつ」とは本来「津」(津 - 港、泊地のこと)つまり湊を指すのではないか?

「湊」を調べると次のようです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「奏」とは「ものを差し出す様子」を表す漢字で、「物を差し出す→物が1ヶ所に集まる」と変化。「氵(さんずい)」を組み合わせて「水が集まる場所」の意味になった。

古くは、港湾施設のうち水上部分を「港」、陸上部分を「湊」と呼んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

多くの船が集まる場所と言うことから、「つつ」と表現したのかもしれません。

その場所とは、今の熱田神宮以前にあった湊でしょう。

以上妄想でした。。。


朝廷別王が、この神坂神社にいたとすると、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)

と言う人物は、朝廷別王の可能性が出てきます。

いなかったら、このレイラインを測量した技術者集団が、山代之大筒木真若王と言う可能性があります

どちらにしても、神功皇后が住吉神社にこの三神を祀る理由にはなるでしょう。


さらに、この「筒」という言葉は、「竹」を意味するのではないかと言う説があります。

「竹」かんむりに「同」と書くのもそういう意味なのかな・・・?

かぐや姫の物語と関係があるそうです。やはり、天体つながりですね。

以前に書きましたけど、斎宮のある場所の住所は 三重県多気郡明和町斎宮ですけど、

この多気郡は、昔は「竹郡(たけのこおり)」と呼ばれたそうです。

倭姫を伊勢まで案内したのは、言うまでもなく猿田彦であり、イコール朝廷別王です。

「竹」そして「筒」とも大に関係があるようですね。



この神坂神社と熱田神宮のレイラインを測量したときに朝廷別王は、その場所にいたかどうかは

いろいろな角度から検討しましたけど、分かりません・・・

でも、もしそこを通って尾張に帰ったとしても、再度糸魚川に行っていると思います。

その後も、狭穂彦(狭穂彦=伊勢津彦=大国主と解釈します)と行動を共にしているようです。

狭穂彦(さほひこ)に朝廷別王は、国を治めるためのいろいろなことを指導してもらったと思います。

年の差は15歳ぐらい。



この神坂神社の時からどれくらい年月が経ったかわかりませんけど、朝廷別王は、

日本海→小浜→琵琶湖→美濃(大垣)→伊勢のルートを作ったようです。







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