暘州通信

日本の山車

玉依姫 様 (三〇八)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇八)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 すでに述べましたように日本には渡来人の方たちが祀った神社が多数あります。それらは、当然古朝鮮人(韓人)の祖先を祀ったはずの神社です。新年にはこの神社に、民族衣装や、白い道服を身にまとった方を見かけることがありますが、日本人になった韓人の方はご先祖を祀る神社に参詣し、丁重に拝礼お辞儀されているのです。
 韓国から日本の親戚を訪問されたときはそっと、日本の神社におまいりされる方もあるそうです。拝殿に平伏して詣りされる姿を見ると感動で胸が熱くなります。自分たちの大切な祖先なのですから当然ですね。
 一方で、神社の起源を持つ韓半島(朝鮮半島)から、神社は消え、日本の神は追放されました。冷静に考えれば第六期までの神社には古朝鮮は深いかかわりがあります。韓国という国は第七期の皇室祭祀とは区別がつかないようですね。

 駈足になりましたが、【東西文化の回廊】 四 神社の来た道 はひとまずここで筆を擱くことにしましょう。

玉依姫 様 (三〇七)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇七)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 この【第六期 神道 皇室神道】はご存知の通り、昭和二〇年八月の日本敗北で終わり、現在の神道は【第七期】に該ると思います。
 しかし、第一期から第七期へと、すべての神社が移行したわけではなく、社殿をおかず、御神体山を捧持する神社をはじめ、従来の祖神を祀る神社はいまもたくさんあり、皇室神道に与しない神社、神社庁に含まれない神社というものもあります。
 佛教國として発足した大和政権が天皇崩御による墳墓を神道の前方後円墳として築造することは考えにくく、いまなお、たくさんある【天皇御陵・古墳】のうち六世紀以前に築造されたものははなはだ疑問があります。

玉依姫 様 (三〇六)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇六)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 役ノ行者は、神と佛を同一視する【本地垂迹説】を立て、一時は流刑となりますが、後にはこれを支持する天皇が出てくることはご存知の通りです。熊野系の神社はいまも【神と佛を等格】に扱っているのではないでしょうか。
 こうして大和朝廷の神道が復活したのは、おそらく【平城京】から都を遷した時期になるでしょう。その背後には新羅系氏族である【秦氏】の力が大きく【平安遷都】が成功したのは秦氏により、大和政権の内部にはびこる不満分子を抑えきれたことにあるでしょう。
 大和朝廷から、三百年足らずの國教としての佛教はしりぞき、復活した神道は第五期までを基礎として体系付けられ、皇室神を加え、一方、従来の神を廃した、【第六期 神道】が、新しい神道となって発足しました。【皇室神道】は江戸時代が終わり、明治を迎えたとき佛教を廃する政策【廃佛毀釈】を採り、佛教と共存する神社から強制的に分離させられました。

玉依姫 様 (三〇六)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇六)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 役ノ行者は、神と佛を同一視する【本地垂迹説】を立て、一時は流刑となりますが、後にはこれを支持する天皇が出てくることはご存知の通りです。熊野系の神社はいまも【神と佛を等格】に扱っているのではないでしょうか。
 こうして大和朝廷の神道が復活したのは、おそらく【平城京】から都を遷した時期になるでしょう。その背後には新羅系氏族である【秦氏】の力が大きく【平安遷都】が成功したのは秦氏により、大和政権の内部にはびこる不満分子を抑えきれたことにあるでしょう。
 大和朝廷から、三百年足らずの國教としての佛教はしりぞき、復活した神道は第五期までを基礎として体系付けられ、皇室神を加え、一方、従来の神を廃した、【第六期 神道】が、新しい神道となって発足しました。【皇室神道】は江戸時代が終わり、明治を迎えたとき佛教を廃する政策【廃佛毀釈】を採り、佛教と共存する神社から強制的に分離させられました。

玉依姫 様 (三〇六)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇六)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 役ノ行者は、神と佛を同一視する【本地垂迹説】を立て、一時は流刑となりますが、後にはこれを支持する天皇が出てくることはご存知の通りです。熊野系の神社はいまも【神と佛を等格】に扱っているのではないでしょうか。
 こうして大和朝廷の神道が復活したのは、おそらく【平城京】から都を遷した時期になるでしょう。その背後には新羅系氏族である【秦氏】の力が大きく【平安遷都】が成功したのは秦氏により、大和政権の内部にはびこる不満分子を抑えきれたことにあるでしょう。
 大和朝廷から、三百年足らずの國教としての佛教はしりぞき、復活した神道は第五期までを基礎として体系付けられ、皇室神を加え、一方じゅうらいの神を廃した、【第六期 神道】が、新しい神道となって発足しました。この【第六期 神道 皇室神道】はご存知の通り、昭和二〇年八月の日本敗北で終わり、現在の神道は【第七期】に該ると思います。

玉依姫 様 (三〇六)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇六)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 役ノ行者は、神と佛を同一視する【本地垂迹説】を立て、一時は流刑となりますが、後にはこれを支持する天皇が出てくることはご存知の通りです。熊野系の神社はいまも【神と佛を等格】に扱っているのではないでしょうか。
 こうして大和朝廷の神道が復活したのは、おそらく【平城京】から都を遷した時期になるでしょう。その背後には新羅系氏族である【秦氏】の力が大きく【平安遷都】が成功したのは秦氏により、大和政権の内部にはびこる不満分子を抑えきれたことにあるでしょう。
 大和朝廷から、三百年足らずの國教としての佛教はしりぞき、復活した神道は第五期までを基礎として体系付けられ、皇室神を加え、一方じゅうらいの神を廃した、【第六期 神道】が、新しい神道となって発足しました。この【第六期 神道 皇室神道】はご存知の通り、昭和二〇年八月の日本敗北で終わり、現在の神道は【第七期】に該ると思います。

玉依姫 様 (三〇五)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇五)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 【大和政権・天皇制】による建国は、韓半島(朝鮮半島)の百濟の衰退期から滅亡期とほぼ重なり、百濟の滅亡前後時より来朝した多くの百濟人がカモ氏と結びついて、発足した可能性が強いと考えます、しかし古来より【祭政一致】をとってきた日本の風土は、政治と佛教の結びついた体制をよしとせず、今度は宮廷から佛教を排斥する動きとなり。日本の國教は【神道】にもどり、寺院は後方に下がりました。行基、伝教大師、最澄、空海らにつながる佛教は平安遷都依頼活発になった【浄土教】が隆盛を見せはじめめます。

玉依姫 様 (三〇四)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇四)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 海神系・綿津見は、祭神・祖神を引き渡さず、困窮した大和政権は佛教を国境とする政策をとることになり、かくて百濟系氏族を重用することになりましたが、これには内部から強い反対が出てかなりの混乱がありましたがたびたびの遷都で反対者を封じ込め、紆余曲折を経ながらも聖武天皇の【平城京遷都】がなり、全国に國分寺が建立されて、日本は佛教国になったかに見えたのですが、ここでいったんは宮廷を出た宮中神は、伊勢國に落ち着き、皇國史である、『古事記』、『日本書紀』が編まれて、神道が復活しました。この神道を復活するためにはもう他に遷ることはないだろうと見られていた皇居はまたさまようことになります。
□参考
次を参考にさせていただきました。
・ 基督の日
2009/12/25(金) 午後 4:25
... 其れは、日本の神道の禊の日である旧暦7月14日が、徳川幕府のキリスト教弾圧の為に ... その発展の源泉は大津宮遷都にはじまる。明治以来、近江神宮御創建への国民運動 ... 国民の支持を受けて急速に復活して来ており、「ドミートリー ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/yakusimajiteki/60770894.html
・日本の古代史が白日のもとに <γ3>          ・倭人は完全に滅びたか?
2009/8/26(水) 午後 7:35
誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都 日本の建国&日本人のルーツ及び日本語 ... 新しい日本政府が強要した神道式の男王制をきらい、また古来の倭国の伝統である女王制を復活させたのである。かつて3世紀にヒミコが死んだあと ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/21214807.html
・日ユ同祖論について…3
2009/3/11(水) 午後 4:19
... また、渡来人であるのにも関わらず、彼らは神道を奉じた。日本古来の神道に帰依し、次々と神社を建立していく。 ... 天使がそれを開けてからイエスが復活している」のだ。日本では古来では人が死ぬ ... 奈良から都を遷都するという動きがあった際に ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/57270899.html
・観光バス記念日
2007/12/15(土) 午前 6:51
... 聖武天皇が山背国相楽郡の恭仁宮へ遷都。難波京遷都まで3年間の都に -838年 病気を理由 ... 紙幣が発行 1945年 GHQが国家と神道の分離を指示する「神道指令」の覚書を出す 1945年 上野 ... 年賀郵便の特別取扱いが9年ぶりに復活 1949年 セントラル野球連盟(セ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/natumi_0_0_1/28401427.html
・今日は何の日? 12月15日
2005/12/12(月) 午後 2:19
... 山背国相楽郡の恭仁宮へ遷都。難波京遷都まで3年間の都に 838年 病気 ... GHQが国家と神道の分離を指示する「神道指令」の覚書を出す 1945年 上野駅地下道の浮浪者2500人を一斉収容 1948年 年賀郵便の特別取扱いが9年ぶりに復活 1949年 セントラル野球連盟(セ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/ganbare_boku/19153715.html
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玉依姫 様 (三〇三)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇三)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 おそらく、五世紀から六世紀にかけて、出雲國は、【大和朝廷】に日本の全権を譲り渡したと推定されます。したがって、【大和朝廷】が成立したのは五世紀から六世紀と推定されます。【大和朝廷】は、大和の巨勢(御所)に勢力を占めていたカモ氏が擁立したと考えます。この時代は韓半島(朝鮮半島)でも次第に台頭した勢力同士の葛藤が生じ、それがますます激しさを加え、高句麗と百濟は滅亡し、統一新羅が建國され、韓半島(朝鮮半島)はおおむね一國の形態をとることになります。すこし戻りますが、百濟は韓半島(朝鮮半島)のうちでもっともはやく佛教が導入されていますが、他の文化面でもいちはやく中国の影響を受けたと推定されます。このことから、日本にカモ氏を介して佛教が伝来し、多くの文官も渡来しました。六世紀から七世紀は、前に記しましたように、【大和朝廷】が積極的に佛教を導入し、難波の【四天王寺】、大和の法隆寺などが相次いで建立されました。百濟からの渡来人を受け入れ、さらにはそのすぐれた人材は【大和朝廷】に登用されています。
□参考
次を参考にさせていただきました。
・漢氏と呼ばれた渡来人
2011/6/23(木) 午後 5:44
... 漢氏は五世紀末か六世紀の初頭、渡来し 彼らが管轄した今来漢人は六世紀前半を 中心とする時期に南朝系中国人を含む 百済から来 ... 漢氏の系統を引く ものと推定されるが 葛城氏や蘇我氏 ... 新米の 渡来人を率いる大和朝廷の 官人的集団として存在した。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/sakon4918/35240695.html
・答えが先か根拠が先か(4)
2010/10/10(日) 午後 7:38
... 大和へは六世紀後半期に播磨からという「仏教伝来地図 ... また右の国内史料の例は、どれも大和朝廷内の人間による、 その朝廷の歴史についての証言であり、 かつ通念よりも「控えめ目」な姿を示し ... 帰結の末端や、そこから生じた推定については、 今後修正すべき点 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/nansei4312/26929528.html
・天氏、尾張氏の時代(8)
2009/10/13(火) 午前 9:56
... 『日本書紀』が記す高天原の様子から推定してたどりついたものである(前回 ... 一宮は、大和朝廷側から見た格付けであり ... ③ 日本武尊は六世紀初頭前後の人物である。すなわち、景行天皇の御世は六世紀初頭ということになる。 ④ 日本武尊の妃の宮簀媛命の父 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/21637929.html
・日本書紀
2009/8/23(日) 午前 2:55
... しかし、当時朝廷内で常時文字による記録がとら ... この神国意識は六世紀後半はもちろん「推古朝」にも存在しなかったとされる。 現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍に遡ると推定され、七世紀末~八世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が ...
http://blogs.yahoo.co.jp/sharmanqueen/5951636.html 
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玉依姫 様 (三〇二)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇二)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 紀元二世紀から七世紀にかけて多くの古墳が築造されるようになりました.初期は小規模の【円墳】から後には大規模な【前方後円墳】が造られ、その後は古墳文化は終わりました。これらの古墳は神道の下で成立しており、仏教遺跡ではありませんね。
古墳文化は韓半島(朝鮮半島)を経て渡来した外国文化であり。構造体に羨道、玄室を備えた【】 横穴式古墳の淵源はドルメン(支石墓)にあるといっていいのではないでしょうか。ただ問題がないわけではなく、韓半島(朝鮮半島)にある膨大な数のドルメンをどのように説明するのか? フランスを期限とするドルメンを築造した多くの民族はその末裔らはいまも韓半島(朝鮮半島)にいるのか?いないのか?

玉依姫 様 (三〇一)

2013年05月28日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三〇一)
【東西文化の回廊】
 四 神社の来た道
 これは仮説です。
 紀元一世紀から五世紀にかけて韓半島(朝鮮半島)からの渡来者は次第に増加しています。この都来社は当初は同じ民族同志が集団を作って生活を恥じまたは図ですが、やがてその小集落に祖先を氏神として祀り、古墳を築造するようになりました。その祭祀様式は従来の日本にはなかった形式でいわゆる、【古朝鮮神道】と呼べると思いますが系統は、第一期から第四期を経た【古日本神道】を踏襲したものということになるでしょう。しかし時代が下がるにしたがって、【古朝鮮神道】と、【古日本神道】が混淆して渾然となってきました。山上に迎えていた神が山を下り、麓に建造された【里宮】に神を祀り、齋事を行うようになってきました。さらに。古墳の上に神社を築くということも行われるようになってきました。
 これを【日本神道 第五期】と、仮称します。