暘州通信

日本の山車

玉依姫 様 (二二八)

2013年05月05日 | 日本の山車
玉依姫 様 (二二八)

 これは仮説です。
 韓国にはすばらしい古刹がたくさんあります。残念ながらまだ機会を得ませんが……、

韓国寺院
浮石寺 (プソクサ)
松廣寺(ソンクァンサ)
麻谷寺(マゴクサ)
修寺(ストクサ)
傳燈寺(ジョンドンサ)
金山寺( クムサンサ)
禪雲寺(ソンウンサ)
白羊寺(べギャンサ)
華厳寺 (ファオ厶サ)
大興寺(デフンサ)
双谿寺(サンゲサ)
月精寺(ウオルジョンサ)
桐華寺(ドンファサ)
高雲寺(コウンサ)
雲門寺(ウンムンサ)
石南寺(ソクナムサ)
梵魚寺(ボモサ)
海印寺(ヘインサ)
法住寺(ボップジュサ)
通度寺(トンドサ)
……
ほかにもまだまだたくさんあります。四国八十八ヵ所めぐり、西国四十八ヶ所めぐり、坂東坂東三十三ヶ所めぐりなどをなさる方も多いようですが、韓国三十三ヶ寺巡礼の旅などあってもよさそうですね。

玉依姫 様 (二二七)

2013年05月05日 | 日本の山車
玉依姫 様 (二二七)

 これは仮説です。
 宇治平等院、鳳凰堂の本尊は【定朝】作の阿弥陀如来です。堂々とした体躯の阿弥陀如来も立派ですが、堂内の欄間にはすばらしい【雲中供養菩薩】が、額を演奏していますその様子は敦煌の莫蒿窟(ばっこうくつ)壁画にも通じるものです。このように平安時代に入ると阿弥陀如来に帰依する貴族らもあって【浄土思想】と【唱名念仏】のかかわりが深くなりました。
 難しい教義を理解せずとも唱名念仏により浄土に行かれるという教えは広く大衆に行き渡ってゆきます。
 佛教伝来時には阿弥陀如来によって往生できる浄土は上品上生(じょうぼんじょうしょう)から
下品下生(げぼんげしょう)まで九段階の浄土が説かれていますが、のちの浄土宗、浄土真宗の時代を迎えるともうそのことにも触れられていません。
 日本で阿弥陀如来が王権されるようになったのは十一世紀以後ではないでしょうか。
 善光寺如来と同じように、韓半島(朝鮮半島)から渡来した阿弥陀如来が、いまもひっそりと在家の檀家の仏壇に収められているということはあると思います。

玉依姫 様 (二二六)

2013年05月05日 | 日本の山車
玉依姫 様 (二二六)

 これは仮説です。
 釈迦が涅槃に入られたあと、龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞菩薩、道綽禅師、善導大師らの諸聖賢により、法蔵菩薩が四十八の誓願をお立てになり、これが成就して阿弥陀如来となられたという思想が完成したと考えられます。中国から韓半島(朝鮮半島)を経て日本に佛教が伝来したのは六世紀ころと考えられますが、これは公伝であり、五世紀から六世紀は韓半島(朝鮮半島)からの渡来する氏族が多かった時期であり、これらの渡来人らによって日本に佛教が渡来したはずですが、それらは渡来人たちの信仰のうちにあったものが多く公式に日本に伝えられたものではなかったでしょう。善光寺如来もそのうちのひとつだったのではないでしょうか?
 九州の日羅(にちら)は日本から韓半島(朝鮮半島)にわたってかの地で交換として登用された人物ですが、また韓半島(朝鮮半島)から九州に佛教を移入しています。国東半島、長門、出雲、越前、近江などには、いまもひっそりと眠る古い佛がたくさんあります。

玉依姫 様 (二二五)

2013年05月05日 | 日本の山車
玉依姫 様 (二二五)

 これは仮説です。
 佛教の中で説かれる諸尊を像顕するのは、遠くギリシャで行われていたギリシャ彫刻に起源があり、これが、ガンダーラに伝わって、いわゆる、広義の佛像が作られるようになったのは、ガンダーラでつくられたプリミティブな諸像には、ギリシャ彫刻に通じる特徴が見られることから、いまは否定する方もほとんどないでしょう。
 釈迦が佛教を説かれたころはその教義の中に【阿弥陀浄土】があることにはほとんどの人が気づかず、釈迦入滅後、【龍樹菩薩】が世に出られてから、ようやく【阿弥陀如来】が知られることになり、これが西域からの商人らによって、中国にもたらされたと推定されます。しかし、西域からインド、崑崙山脈を経る、天山南道、天山北道、クチャ(亀爾国)。敦煌莫蒿窟にも、阿弥陀如来の姿は見当たらないのではないでしょうか? 一方、観世音菩薩は釈迦とともによく知られ、チベットのポタラ宮は、観音霊場の【補陀洛】と同義と推定されます。
  

玉依姫 様 (二二四)

2013年05月05日 | 日本の山車
玉依姫 様 (二二四)

 これは仮説です。
 日本にある佛像のうちで最も古いものは? というこの答えはまだないのではないでしょうか? 一般的にいえば法隆寺などに見られる【釈迦如来像】が挙げられるでしょうが、【一光三尊形式】とよばれ、ひとつの光背に、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩を鋳造した【善光寺如来】は、【釈迦如来像】よりふるいともいわれます。
 法隆寺金銅の壁画は惜しくも罹災しましたが、観世音菩薩、勢至菩薩が釈迦如来の趣味段を取り巻くように描かれています。しかし阿弥陀如来はありません。夢違観音、救世観音、百濟観音の書く観世音菩薩も著名ですが、これは、のちの【聖徳太子】を観世音菩薩に比定する思想から発展したと考えるのが通説です。

玉依姫 様 (二二三)

2013年05月05日 | 日本の山車
玉依姫 様 (二二三)

 これは仮説です。
 親鸞の【和讃】のなかに、
  弥陀成仏のこのかたは 今に十劫を経たまえり  弥陀の光輪きわもなく
  世の盲冥を照らすなり
 とあります。さきの『正信偈』のなかにも、【無碍無対光炎王 「碍げるもののない、対(ならぶ)もののない光
とあり、阿弥陀如来には【光炎王】の別名があることを示していて、この名称は【……光炎王佛よ名づけたり】とあって、和讃の中でも用いられています。
 【蓮如上人】は、浄土真宗の中興とも言われますが、蓮如上人がお話になった言葉を書きとめた『蓮如上人御一代聞書』のなかに、「……(本宗)におきては、木造より、繪像、繪像より念佛を旨とすべきなり……」
とあって、偶像より、唱明念仏が大切であると話されたとあります。


玉依姫 様 (二二二)

2013年05月05日 | 日本の山車
玉依姫 様 (二二二)

 これは仮説です。
 親鸞の著といわれる『教行信証』のなかにある【正信偈・しょうしんげ】は、浄土真宗在家門徒の聖典とも言えるものだと思いますが、一部を抜粋すると、

法蔵菩薩因位時  阿弥陀如来がまだ如来におなりになる前は【法蔵菩薩】とおっしゃいました。四十八の誓願をお立てになって、阿弥陀におなりになりました。
龍樹大士出於世  やがて、龍樹菩薩が世にお出になり、
源信広開一代教  源信は、ひろく釈尊の教えである一代教を学ばれました。
天親菩薩造論説  天親菩薩は『浄土論』をおつくりになってとかれた菩薩です。
本師曇鸞梁天子  中国の曇鸞大師は、梁の国王がたいへん敬まったと伝わり、
常向鸞処菩薩礼  曇鸞大師のおられる北に向かって【曇鸞菩薩】と唱えて礼拝されました。
三蔵流支授浄教  玄奘三蔵は、インドの【菩提流支】から【浄土教】を授かりました。
道綽決聖道難証  道綽禅師は自力修行の教えではとても悟ることは困難だと考えられました。
善導独明仏正意  善導大師は、阿弥陀佛の正意を明らかにされたかたです。

とあって、 阿弥陀如来の浄土への導きが日本に伝えられた経緯が解説されています。