備忘録として

タイトルのまま

孔子伝

2010-12-23 16:29:34 | 中国

先日、斉明天皇陵墓であることが有力な牽牛冢子塚古墳が斉明天皇陵であることがより有力になった。石室は盗掘されていて、漆塗り木棺の破片が見つかっている。

引っ越しのどさくさで紛失したと思っていたがリュックのポケットで見つかった白川静の「孔子伝」に、儒の盗掘者の話が書いてあった。

”儒、詩禮を以て冢(はか)を發(あば)く。大儒、臚傳(ろでん=声をおくる)して曰く、東方作(あけ)たり。事をはこぶこといかんと。小儒曰く、いまだ裙襦(くんじゅ=喪衣の下着)を解からずに、口中に、珠あり。詩にもとよりこれあり。曰く、青々たる麥(むぎ)、陵陂(岡べの土手)に生ず。生きて布施することもせざりしに、死して何ぞ珠を含むことを為さん、と。その鬢(よこがみ)を接(と)り、そのあごひげをおさへ、儒、金椎(かなづち)を以てそのおとがひを控(う)つ。徐(おもむ)ろに、その頬を別ちて、口中の珠を傷つくることなかれ。”

大儒、小儒の二人組の盗掘者が、塚に忍び込み、金槌で死体の下あごを砕いて口の中にある玉をとりだす場面だが、儒者なので二人のやり取りはすべて詩礼(儀礼)にもとづいているので、被葬者も異論がないだろうという、笑い話である。堕落した儒の一面を告発しようとしたものだが、さらには儒の起源について深い示唆を与えると白川静は書いている。いわく、儒家の経典には驚くほど葬礼にかかわる話が多く、有名な3年間喪に服す話からもそれはわかる。白川静は得意の漢字の分析から需は男巫が雨請いをする形であり、孔子は巫女の庶生子(非嫡出子)だったとする説をとっている。

巫、祝、史は古代の聖職者であり、巫は呪儀を、祝・史は祝詞による祈りを主とし、殷と周の時代に巫がまず衰え、大祝、大史の時代がくる。さらに祝が衰え、巫と祝は祈祷や喪葬などの賤職に従うものになった。春秋時代の反逆者や亡命者は盗と呼ばれ、相当な組織と行動力を持つ集団だった。白川静は、孔子がその徒を率い14年にわたる亡命生活を送ったという事実からも孔子教団は盗であり、孔子の出自や葬礼へのかかわりの大きさから巫祝教団から発展したものと考えるのである。史は祭祀者で、祭儀の儀礼執行者であるとともに、その祭儀の由来する神々の物語の伝承者である。巫・祝と異なり、史は権力者側にとどまり、大史公=司馬遷はこの系譜上に位置する。

ここで思い出すのが、本朝の藤原不比等(ふひと)で不比等は史(ふひと)とも書く。梅原猛は「神々の流竄」の中で、史=神々の物語の伝承者であることや、稗田阿礼と不比等の年齢が同じである可能性が高いことから、藤原不比等は古事記を誦習した稗田阿礼と同一人物だという説を唱えている。

「孔子伝」にある白川静の以下の文章が気になった。

郭沫若が孔子の活動が奴隷制の解放を目指したものだったという見解を批判して、

”歴史的研究が、今日の課題から出発することはもとより尊重すべき態度であるが、それは歴史的なものを、今日に奉仕させるという方向であってはならない。それは歴史をけがし、古人を冒涜するものであるといえよう。歴史的研究は、いわば追体験の方法である。追体験することによって、過去ははじめて過去となり、歴史となる。すなわち歴史としての意味をもちうるのである。しかしそのような追体験は、あくまで個人的な、また主体的な営みを通じて、行なわなければならない。その追体験の場をもつために、われわれは歴史学の方法をとるのである。”

白川静の言ってることがよく理解できない。郭沫若は郭沫若の時代のイデオロギーを通して孔子を解釈した、あるいは当時のイデオロギーに合うように過去を解釈したと批判するが、個人的主観的な追体験で過去を理解するのでは、郭沫若と同じ間違いをすることは避けられないと思う。天皇陵に関して新しい発見が相次いでいるが、宮内庁が個人的主観的歴史観を主張する限り、陵墓比定を再考する必要はないのである。歴史的研究とは事実を積み上げ、事実に最も適合する仮説を立てることであり、新しい事実が出るたびに仮説は塗り替えられていく。個人的主観的とは真逆の客観的科学的なものであるはずだ。と、歴史家でもないものが吠えておく。白川静は歴史学者ではないが、彼の専門分野でも、個人的主観的に漢字の成り立ちが説明されているのではないかと疑ってしまう。


最新の画像もっと見る