中国の梁(502~557年)に朝貢していた外国使節を描いた職貢図(wiki)というものがある。526~539年に作成されたとされているが原本は存在せず1077年宋代の模写である。
梁に朝貢した各国使節像がカラフルに描かれた巻物で、倭や朝鮮半島の百済、新羅、高句麗、法顕が立ち寄った西域の亀茲国や于闐(ホータン)、さらには波斯(ペルシャ)などの國使がいる。渤海の建国は713年なので使節の中には含まれていない。下は倭國使の部分を抜き出したものである。
倭の國使は、頭に布を巻き、上衣らしきものをはおり、腰には布を巻き、手甲脚絆、裸足のいでたちである。隣りの狼牙脩国(マレーシア半島付近にあったとされる国)の國使も似たようないでたちである。人物像の隣に国の説明が書かれている。相当欠損しているので読み取れる字だけを下に記す。
倭國使
倭國帯方東南大海中依山島居自帯方循海東乍南乍東對
其北岸歴三十餘國可方餘里倭王所xx在会稽東氣暖地温
出真珠青玉無牛馬虎豹羊鵲 (欠落) 面文身以木綿帖x衣
横幅無縫但結 (欠落)
(ここから左は”河涼二州”や”隴西”などの文字があり西域の國の記事と思われる)
記述は魏志倭人伝の内容とほとんど同じで、魏志倭人伝を参考にしていることは明らかである。魏志倭人伝、正確には魏志東夷伝倭人条は、西晋の陳寿が3世紀末に記した正史で、邪馬台国と卑弥呼で有名である。靴を履いていない國使は倭國使の両隣を含めわずかで、大半の國使は皆靴を履き色鮮やかな正装をしている。そのため、倭の國使を実際に見て描いた図ではなく倭人伝の記述から想像で描いたのだろうという説が一般的である。しかし、百済などの國使の貴人顔に比べ、倭國使は、あごが張り鬚は濃く腰回りもがっしりしていて野性味があり、リアルである。以前、吉備真備の巻で大伴古麻呂が唐での朝賀の際、日本の席次が新羅の次だったことに抗議し、席次を入れ替えさせたことを書いたが、この倭の國使ならそれくらいのことはしそうである。野生的でありながら、合掌してへりくだった様子も出していて、自分を相手の交渉は一筋縄ではいかないぞという雰囲気を出している。いかにも倭人(日本人)らしく好きである。
実は、この梁職貢図の存在を全く知らなかった。高句麗の広開土王(好太王)のことを調べている時に、新羅の記事でひっかかり知った。広開土王碑は中国吉林省にあり、広開土王の息子が父王の業績を称えるために414年に建てた碑で、”391年倭が海を渡り攻めてきた”という解釈が、関東軍諜報機関の改竄だとか、読み方が違うとか、主語が違うとか、日韓中の歴史学者の間で論争になっている。改竄説は改竄したとされる年よりも以前の拓本が出てきたことで根拠がないことが判明した。漢文は主語が不明瞭、動詞と名詞の区別が不明瞭、動詞に時制がない上に、碑文に判読不能の文字もあるため、解釈が割れているのである。職貢図の新羅國使の文中に、”或屬韓或屬倭 (新羅は)あるいは韓に属しあるいは倭に属した”とあり、4~7世紀に倭軍が朝鮮半島にいた、または行った、あるいは百済や新羅と密な交渉史があったことだけは明らかなようである。古田武彦の倭=九州王朝説は、倭は対馬海峡を挟む海洋王国だったというものであり、奈良を中心とする大和王朝とは別系統とする。古田の一連の著作で初めて九州王朝説を知ったときは衝撃だったが、最近顧みられなくなっているのが何とも寂しい。古田武彦は早い段階から、広開土王碑文改竄説を批判していた。