散歩、旅行そして海外滞在の写真備忘録

過ぎ行く時間の中で、心に残り、蘇る記憶を、「私の写真備忘録」としてここにまとめたい。

2004.02.15 日 ローマ遺跡ドゥッガ,神殿が見える風景

2006-05-31 10:28:00 | 回想・チュニジア日記
ドゥッガは、一世紀にローマの支配下に置かれたと言う。
現在、比較的保存状態が良い遺跡が残っている。
遺跡の中心はやはり神殿であろう。はっきり言って、瓦礫のようになってしまっている中、それでも神殿はかつての威厳を十分に感じさせる。

チュニジアには、このようなローマ時代の遺跡がいくつもある。
これらを見ると、チュニジアの歴史を、アフリカというよりむしろ地中海文化の中に位置づけなければならない事が良くわかる。
その、ギリシャ・ローマの地中海文化は、現在西欧諸国の民族が引き継いだ形になっていると思う。そして、彼らが現代世界をリードする民族として大きな顔をしている。
一方、チュニジアでは、アラブ人の侵攻・支配とともにギリシャ・ローマの地中海文化が途絶えてしまった。現在はアラブ文化の国であり、残された遺跡は「よその人の夢の跡」となっている。



CoolPic C4500

2006.4.24 品川区北品川 旧東海道沿いの善福寺

2006-05-30 18:51:15 | 散歩
善福寺は、京急北品川駅を降り、南に200mほどの所にある。旧東海道から少し奥に入ったところだ。
この寺の始まりは1294年と古い。しかし、今の姿は、むしろ「荒れ寺」とも言えようか。
本堂入口の壁面は、伊豆長八が作った漆喰鏝絵が施されているという凝った造り。しかし、その半分以上が剥離してしまっていて、もう無い。埃払いも十分でなく、漆喰鏝絵のあの白さは見る影も無い。
しかし、まあ、それはそれで、移りゆく時の蓄積と哀れさを感じさせる「美」が漂う。

この一帯の旧東海道沿いも、時代に取り残されつつあるような気配が漂う。その分、昔の姿を残していると言えようか。
スローで懐かしげな光景に安堵感を覚え、浸されるような気分になるのは、私が今「高齢者」に片足を突っ込もうとしている故であろうか・・・・?!



山門わき、ブリキ壁の中川は蔵だったのか?


今日東海道沿いの履物屋

カメラ: Nikon NF3, Nikkor 45mm/f2.8
フィルム: Superia 400



2004.02.15 日  世界遺産のローマ遺跡,ドゥッガ(Dougga)

2006-05-30 18:32:09 | 回想・チュニジア日記
ドゥッガは、ブラ・レジアから北北東50kmほど。途中、山間地を抜けていかなければならない。
山間地とは言え、道路の両側には、緑の丘や畑が広がっている。その豊かな風景、日本では北海道を除き、まず見られないだけに我々にはなかなか感動的である。
街路樹にはユーカリ、畑は麦畑、オリーブの木があちこちに見られる。


CoolPix C4500

2004.02.15 日  古代都市,ブラ・レジア(Bullaregia)

2006-05-29 20:52:28 | 回想・チュニジア日記
ブラ・レジアは、アイン・ドラハムから南へ約20km下ったところにある。
紀元前2世紀にこの名で呼ばれるようになったという。以来、ブラ・レジアはベルベル人の国、ヌミディア王国の首都であった。
紀元前1世紀にこの町はローマ人によってローマ化され、繁栄を持続したという。

この一帯は、オリーブの林やトウモロコシの畑が広がる緑豊かな、豊穣を感じさせる地である。我々日本人が描きやすいアフリカ・砂漠といったイメージからは程遠い。むしろ南ヨーロッパのような、「穀地帯」を思わせる。
ローマ人が眼をつけた理由もわかる気がする。
それにしても、車もなく、通信手段も限られていた時代に、彼らローマ人がはるばるとやってきて、よくもまあ立派な町を作ったものだ。機能的な街づくりにもびっくりする。
建物には、夏の日中の暑さを避けるための工夫も凝らされている。壁面や床を飾るモザイクもすばらしい。
2000年も経った今、この遺跡を見つつ往時をしのぶと、文明の発展とは何なのかなどと考えてしまう。

広大な遺跡の多くの部分が未だ未発掘で、地面の下に埋まっていると言う。

日本のガイドブックを見ると、「遺跡に直接行ける交通機関はない」と書いてある。その通り、日本からやってくる個人旅行客にはなかなか行きにくい所だ。
現地の旅行社で車のチャーターなどを手配してもらわなければならない。幸い、チュニスには日本人がやっている旅行社もあるので、相談に乗ってもらえる。
このような旅行をとりまくインフラの状況は、チュニジアの他の観光地でも似たりよったり。
その意味で、チュニジアの観光は、まさに発展途上にあると言える。






CoolPix C4500

2004.02.15 日  アイン・ドラハム

2006-05-28 21:23:24 | 回想・チュニジア日記
タバルカから南方へ約10kmのところにある高原の地、アイン・ドラハムに向かう。ミニバスは、コルクなどの木々が生えた森の間の道路を登っていく。

アイン・ドラハムは、フランス人がその統治時代に避暑地として開発したという。それで、家々の屋根はチュニジアでは珍しくレンガ色の瓦を葺いた三角屋根。暖炉の煙突が突き出ていたりする。まるで、ヨーロッパのような風景である。
(写真)

ここは、冬の間雪が積もる事がある。チュニジアに雪など、日本にいる間は想像すらしなかった。
(昨年の1月26 日は大雪で、アイン・ドラハムだけでなくタバルカさえも雪が降ったと新聞が報じていた)。

さらに、ここは温泉保養地としても有名だ。


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2004.02.14 土 タバルカ(Tabarka),サッカー・アフリカカップ勝利のお祭り騒ぎ

2006-05-27 11:40:56 | 回想・チュニジア日記
タバルカの町に入ったとき、町が静かだったのには理由がある。ちょうどチュニスで、サッカー・アフリカカップ決勝戦が行われていたのだ。それで、皆さん家やカフェでテレビにクギづけ。
勝利の報と共に、熱狂した住民が町の中心部に集まり始め、お祝いで大騒ぎ。

我々がチャーターしたミニバスの運転手もつい興奮して運転を誤り、危うくバスが転覆しそうになった。

ちなみに、前回日本で開かれたワールドカップにチュニジアが参加したことが、両国民の相互の理解向上に随分役立ったと思う。
町中ですれ違う人や、タクシーの運転手から、にこにこしながら「ナカタ!」とよく声をかけられた。これは、彼らの日本への関心を示す一つの表現方法であった。




CoolPix C4500

2004.02.14 土 タバルカ(Tabarka)

2006-05-27 11:19:33 | 回想・チュニジア日記
タバルカは、ビゼルトから西に100kmほど行った所にある地中海に面した町である。
観光地ではあるが、シーズンオフということで、町はひっそりしていた。
最初の写真は、「ジェノバ人の要塞」。16世紀半ば、スペインがタバルカを支配し始めたとき、町の支配権をジェノバ人に譲渡したのだそうだ。
要塞は、その時分に作られたものという。

それにしても、チュニジアにある遺跡は、ベルベル人、フェニキア人、ローマ人、スペイン人などなど、アラブ人以外のものが多い。それが、チュニジアの遺跡の特徴か。
アラブ人の支配は7世紀から初まっている。十分な歴史の積み重ねがある。その割には彼ら自身の遺跡がそれほどにはクローズアップされていないようにも見える。
何故か?
・・・・と、今そんなことを考えてしまう。

この日、タバルカの町並みを遠くに眺める、ビーチ沿いのリゾートホテルに一泊。

ジェノバ人の要塞

ジェノバ人の要塞遠景

ホテルからタバルカの町を望む

CoolPix C4500

2006.5.26 港区三田 玉鳳寺 おしろ い地蔵

2006-05-26 21:52:34 | 散歩
正式には「化粧延命地蔵」だそうだ。
お堂を覗くと、薄暗い中にライトアップされた異様に白いお姿が鎮座されている。
正直言って、ちょっと不気味。

http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/gyokuhouji.htm に依ると;
・・・当時の住職格翁宗逸和尚が修復し、白粉を塗って祀ったところ、和尚の顔面の痣が綺麗に消えたので、人々が自分の体の病気のあるところと同じ部分に白粉を塗って祈願するようになったといわれます。今も病気平癒の祈願の為に白粉を塗る参詣者があり、信仰が続いています。


Lumix DMC-FX9