何年か前に米国に行った時、東海岸のとあるハイスクールの寮の一室に友人と二人で泊まったことがありました。夜、部屋でくつろいでいると、廊下で寮生たちが話している声が聞こえます。英語の聞き取りには全く自信がない私にも、“jap”という言葉が彼らの会話の端々にはさみこまれるのが聞こえてきました。この部屋に今日“jap”が泊まっているんだ…といったようなことを噂しているんだな、と直感しました。何となく歓迎されていない雰囲気を感じて、ちょっと落ち込みました。
“jap”という言葉を、彼らが蔑称であると意識した上で使っていたわけではなかったのかもしれません。「自分たち」と違う人たち(寮生には白人も黒人もいましたが)がいるというだけで、軽い気持ちで使っていただけなのかもしれません。しかし、言われる方としては、決していい気持ちはしないということをその時痛感しました。同時に、勝手に言ってろ俺たちゃ日本人だ、文句ある~?というそれまで感じたことのないような「日本人としての意識」がわき上がってきたこともまた事実でした。同室の友人と二人で、こんな時ってつい「にわか愛国者」になるよなあという会話を交わしたことを覚えています。
また、こんなこともありました。勤務していた高校に初めてのALT(英語指導助手)として米国人がやって来ました。明るくてとても気のいい人でしたが、それにもかかわらず、私たちは陰で彼の言動をちゃかすような話をしたりすることがよくありました。もちろん決して悪意を込めた物言いではなく、むしろ親しみを込めた噂話と記憶しているのですが、一歩引いて考えてみた時、「内輪話」的な雰囲気がちょっといやだなと思ったことがありました。自分たちは彼と違う「日本人」の「仲間」なんだという感じ。自分もその中の一人だったわけですが。
「黒人差別をなくす会」が非難した「黒人商品」も、きっと同じように悪意のない「仲間意識」が作らせたんじゃないのかなと思います。決して馬鹿にしようとか差別的な意味合いを込めたものではないと思うのです。悪く言えば「何も考えないで」ということになるのかもしれません。
「黒人差別をなくす会」を揶揄したあるサイトには、例えば「インドカレー」のルーの箱に描かれた「ターバンを巻いたインド人」や「ハワイアンを踊る少女」といった例が取り上げられています。「黒人商品」がダメなら、これらの絵も画一的で差別的だからダメなのでは?と皮肉っているのです。要は、「当事者」がどうとらえるかということになると思うのですが、黒人の側に立ってみれば、私が“jap”と呼ばれた時と同じように、そういった商品も見ていやーな気持ちになる人もいるでしょう。ただ、「たった一人でも不愉快な思いをしたらそれは差別商品」という考えはどうなんでしょうか。そういうことを認めていったら世の中何も立ちゆかなくなってしまう…と私は思うのですが。
差別は、偏見から始まると言われます。だから偏見を持ってはいけないよ、先入観を持って色眼鏡で人を判断してはいけないよ、と言われます。しかし、私たちが「偏見や先入観なしでは人やモノを見られない」ということもまた事実です。例えば、初対面の人に会うと、私たちはまず外見でその人を見極めようとします。どんな服を着ているのか、顔つきがどうか、目つきがどうか…。私たちが持つ「第一印象」はいい印象にしろ悪い印象にしろすべて偏見でしかないわけです。偏見をなくしていく、正していくためには、その人とコミュニケーションをとっていく必要があります。話をする、笑い合う、見つめ合う、握手する、けんかする…。そうすることでしか「第一印象=偏見」を消していくことはできないのです。
残念ながら、あの米国の寮で、私たちは彼らとまともに話をする機会はありませんでした。だから余計に“jap”という言葉が耳に残っているのでしょう。
“jap”という言葉を、彼らが蔑称であると意識した上で使っていたわけではなかったのかもしれません。「自分たち」と違う人たち(寮生には白人も黒人もいましたが)がいるというだけで、軽い気持ちで使っていただけなのかもしれません。しかし、言われる方としては、決していい気持ちはしないということをその時痛感しました。同時に、勝手に言ってろ俺たちゃ日本人だ、文句ある~?というそれまで感じたことのないような「日本人としての意識」がわき上がってきたこともまた事実でした。同室の友人と二人で、こんな時ってつい「にわか愛国者」になるよなあという会話を交わしたことを覚えています。
また、こんなこともありました。勤務していた高校に初めてのALT(英語指導助手)として米国人がやって来ました。明るくてとても気のいい人でしたが、それにもかかわらず、私たちは陰で彼の言動をちゃかすような話をしたりすることがよくありました。もちろん決して悪意を込めた物言いではなく、むしろ親しみを込めた噂話と記憶しているのですが、一歩引いて考えてみた時、「内輪話」的な雰囲気がちょっといやだなと思ったことがありました。自分たちは彼と違う「日本人」の「仲間」なんだという感じ。自分もその中の一人だったわけですが。
「黒人差別をなくす会」が非難した「黒人商品」も、きっと同じように悪意のない「仲間意識」が作らせたんじゃないのかなと思います。決して馬鹿にしようとか差別的な意味合いを込めたものではないと思うのです。悪く言えば「何も考えないで」ということになるのかもしれません。
「黒人差別をなくす会」を揶揄したあるサイトには、例えば「インドカレー」のルーの箱に描かれた「ターバンを巻いたインド人」や「ハワイアンを踊る少女」といった例が取り上げられています。「黒人商品」がダメなら、これらの絵も画一的で差別的だからダメなのでは?と皮肉っているのです。要は、「当事者」がどうとらえるかということになると思うのですが、黒人の側に立ってみれば、私が“jap”と呼ばれた時と同じように、そういった商品も見ていやーな気持ちになる人もいるでしょう。ただ、「たった一人でも不愉快な思いをしたらそれは差別商品」という考えはどうなんでしょうか。そういうことを認めていったら世の中何も立ちゆかなくなってしまう…と私は思うのですが。
差別は、偏見から始まると言われます。だから偏見を持ってはいけないよ、先入観を持って色眼鏡で人を判断してはいけないよ、と言われます。しかし、私たちが「偏見や先入観なしでは人やモノを見られない」ということもまた事実です。例えば、初対面の人に会うと、私たちはまず外見でその人を見極めようとします。どんな服を着ているのか、顔つきがどうか、目つきがどうか…。私たちが持つ「第一印象」はいい印象にしろ悪い印象にしろすべて偏見でしかないわけです。偏見をなくしていく、正していくためには、その人とコミュニケーションをとっていく必要があります。話をする、笑い合う、見つめ合う、握手する、けんかする…。そうすることでしか「第一印象=偏見」を消していくことはできないのです。
残念ながら、あの米国の寮で、私たちは彼らとまともに話をする機会はありませんでした。だから余計に“jap”という言葉が耳に残っているのでしょう。
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