カクレマショウ

やっぴBLOG

『食堂かたつむり』─「名前をつけた豚」を食べるということ。

2010-02-28 | ■本
小川糸という作家のことはよくわからないのですが、この小説に出てくる料理のレシピ写真集『食堂かたつむりの料理』 (オカズデザイン、小川糸著)とか、『豚ごはん』(オカズデザイン著)まで出ているのを本屋で見て、そんなにスゴイ料理が登場するのかと思い、小説を読んでみました。



しかし、川上弘美を知ってしまったから、あの研ぎ澄まされた言葉の選び方、文のこしらえ方と比較すると、どうにもこの人の文体は「軽すぎる」感じが…。ま、それは個性と好みの問題ですけどね。

物語は、主人公・倫子がインド人の恋人との突然の別れから始まります。料理人になるために蓄えていたお金はもちろん、家財道具一切を彼に持って行かれたため、ほとんど無一文で路頭に放り出されてしまう。しかもショックのあまり、失語症になってしまった倫子は、10年ぶりにふるさとの村に戻ることにする。

実家では、母親が一人でスナックを経営している。倫子はこの母親が大嫌いなのだが、背に腹は替えられず、母に頭を下げて、スナックの隣のスペースを貸してもらう。そしてそこに、小さな食堂をオープンする。その名も「食堂かたつむり」。

開店準備を手伝ってくれたのは、小学校の頃の用務員だった熊さん。彼もまた、アルゼンチン人の妻”シニョリータ”に子どもを連れて出て行かれた悲哀をまとっている。倫子が「食堂かたつむり」で作る最初のメニューとして選んだのは、熊さんへの感謝の気持ちを表すための料理、「ザクロカレー」でした。ザクロ入りのカレーは、イランの料理だと紹介されています。あまりイメージが湧きませんでしたが、『食堂かたつむりの料理』の写真を見たら、なるほどと思いました。熊さんが「シニョリータにも娘にも、食べさせてやりたかったなぁ」としみじみつぶやいたのも理解できました。

「食堂かたつむり」は、基本的に予約限定で、1日1組の客しか受け入れない。声が出ない倫子は、筆談で客と会話をし、その客に最も合った料理を供する。ブログや口コミで評判が評判を呼び、申し込みはあとを絶たない。「ブログ」を見て知った、ってのがいかにも「今っぽい」のですが、料理のおいしさだけでなく、ここの料理を二人で食べると恋が成就するとか願いが叶うとか、「付加価値」に惹かれて客が来るというのも「今どき」なのかも。

隠遁生活を送る「お妾さん」に供したフルコース、林檎のぬか漬け、サムゲタンスープ、牡蠣と甘鯛のカルパッチョ、カラスミのリゾット、子羊のロースト、マスカルポーネのティラミスとバニラアイス。

高校生カップルのためにつくった野菜のスープ。

お見合いの席に用意した野菜のフルコース。

イチャモンをつけられた、かわいそうな洋ナシのフルーツサンド。

小学生の女の子に頼まれ、拒食症のウサギのために焼いたビスケット。

痴呆症のおじいさんを囲む家族の食事会で作ったお子様ランチ。

どの料理も、料理人・倫子の、食べる人への思いとか、素材に対する愛情が感じられます。なぜ、この料理がこの人に、という意味がとてもよくわかる。もちろんそのおいしさ自体も伝わってくるのですが、『食堂かたつむりの料理』の写真や詳しいレシピを見ると、もっとリアルに伝わってきます。

さて、私が一番惹かれたのは、豚の「エルメス」を倫子がさばく場面です。

エルメスは、倫子の母がずっと飼っていた豚。倫子が来てからは、エルメスの面倒をみるのは倫子の役割になる。天然酵母のパンに木の実を混ぜたパンしか食べないぜいたくな豚。倫子は、エルメスを愛しているからこそ、彼女を自分の手でさばいて、おいしく食べてあげたいと思う。

このシーンを読んで、豚肉が食べられなくなった、という人もいるようですが、私は、豚肉を食べる時には、きっとこの肉がかつては生きている豚だったことを思い出すだろうと思いました。いちいち感謝の祈りを捧げるまではできなくても、きっと、豚がブヒブヒいっていたことに思いを馳せるだろうと。

英語では、生きている豚は"pig"ですが、豚肉にもちゃんと別の単語"pork"を与えています。日本語の「豚肉」みたいに、決して、"pig's meat"ではない。これは、牛肉も鶏肉も羊肉も同じですね。また、英語以外のヨーロッパ系の言語もみんなそうです。これは、彼らが家畜の「肉」にもちゃんと敬意を払っているからではないかと思っています。この「肉」を食べることによって自分たちは生かされているのだという思い。日本でも、切り分けられた部位には、バラとかヒレとかロースとか名前をつけているし、また、内臓の呼び名もハツ(心臓)、ミノ(胃袋)、ヒモ(小腸)、小袋(子宮)と様々ある。でも、それらは、あくまでも料理をする際の必要性から生まれた言葉だと思います。1匹の豚の肉全体を表すのに、「豚肉(豚+肉)」以外の単語はない。

吊されたエルメスの頸動脈に一気にナイフを突き刺した倫子は、エルメスの目玉とひづめ以外は、すべて料理にしようと決める。

全身の血を抜き、表面の毛をこそげ落としてから、まずは内臓を取り出していく。それから、肉の切り分け。血のソーセージづくり。顔の解体。

 確かに、エルメスはもう、元のエルメスではない。
 鳴くことも、食べることも、甘えることもない。
 けれど、エルメスは決して死んでいないのだと思う。
 私は肉を刻みながら、そういう確信で胸がいっぱいになった。
 この、1ミリ四方の肉の中にだって、エルメスの、あの清らかな魂は宿っているのだ。


こうして、エルメスの魂が宿った肉は、倫子の手によって、その素材の良さが一番引き出される料理に姿を変え、人々の口に入り、人々を幸福な気持ちにさせることになります。

「究極の選択」で、「名前をつけた豚」と「つけていない豚」のどちらを食べるか、というのがあります。「名前をつけた豚」を食べるというのは、倫子のような思いでその豚を自ら解体し、料理するということなのですね。

この小説を読んで、映画「ブタがいた教室」を見たくなりました。

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1 コメント

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Unknown (ふふふ)
2018-11-13 05:07:26
死生観を語りました。どうです、感動したでしょう?

と言うためだけに逆算して置かれた豚であって。。。
別に母の死に際だからといってペットを食べなければならない訳では無いです。
なんなら豚を食べるに際して、エルメスは死んでないと思う、などと手前勝手な解釈を付けてまで、まだ生きていられるはずの生命を殺しているわけです。いっそ美味そうに育ったからと開き直ってれば贅沢な餌の理由もあったわけですが。。。
豚の心情にまで踏み込んで勝手な説明を付けることのどこに豚への、食材への感謝があるのでしょう。
理不尽に殺されて食われた挙句に、死人に口なしと言わんばかりに「あいつは”俺は怒ってへんし大丈夫やで!”ってゆってたからセーフ」という態度を取られること、どう思いますか?

こんなのはそれっぽい味付けの子供騙し。蒲焼さん太郎をご飯に乗せてひつまぶしって出されるようなもんですよ。
騙されてはダメです。
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