遊びと学び,創造の基地・山のあしおと小学校

冒険,遊び,仕事,学習,生活全般を学ぶ、子ども達のための私設小学校

やまびこ

2007-01-03 19:04:12 | 花・植物・自然界
 色のない季節の中で,ウスタビガの繭は目立つ。今日は10個見つけた。
 本当は夏の頃からそこにあるのに、山が裸になるまでは誰も気がつかない。その方が嬉しいと言うことを知ってか知らずにか,季節は粋な演出をしてくれる。
 律儀なその演出には、律儀に応えるのが礼儀と言うものでありましょう!

炉辺談話はずむ・・・’99・8,大平宿⑥

2007-01-03 17:34:09 | 踏み跡
 鍋がグツグツ煮え、夫人がそれに味噌で味をつけてから、次に大皿たっぷりのワラビと山盛りの漬物を出してくれた。私がワラビのとろろのことを話すと夫婦は、『それは知らなかった。今度やってみる』と言い、さらに私が『ウワバミソウも根っこの部分をよく洗ってたたいてとろろにするとうまい』と言うと『ウワバミソウは知らない』と言うので『ミズナのことだ』と言うと『それならここの沢にいっぱいある』と言った。
 私達が沢で使うのは、たいていこのミズナかフキで、なければサワアザミ。油で炒めてしょうゆで味をつけるだけだが、あるとないとでは食事の内容がうんと違うのでフライパンと油,醤油は欠かせないのだ~,等と話しているところへ小形が20cmくらいのイワナを2尾釣って帰ってきた。そこから釣りの話しになる。
 主人は釣りはやらないがイワナはよく捕ったと言った。その捕り方は無理捕りと言うやつで紹介を憚られる。海でも川でも漁は楽しいが、私達は無理捕りはしないし、イワナ,ヤマメに関してはあくまでも釣りでなくてはならないと考えている。
 小形が風呂から上がってきたところで焼肉が始まったが、私は専ら大根葉とワラビ専門で、大皿にたっぷりあったのをほとんど1人で頂いた。

 所沢氏の『知人がマイタケを見つけてそれを民宿に持ち込んだら宿代を只にしてくれたのだが、別の所でその話しをしたら「馬鹿なことをした。3万円ものだ」と言われた~』と言う話しからキノコの話しになった。
 小形がトンビマイタケの話しを出すと、主人はシロマイタケの話しをした。私はブナハリタケが好きなのだが主人はそれは知らないと言い、ムキタケのことも知らないと言った。キノコは土地によって採れる種類も好みも異なる傾向が強いからか,なかなか話しが噛み合わず、いささか盛り上がりに欠けた。

クマザサ茶・・・’99・8,大平宿⑤

2007-01-03 12:00:14 | 踏み跡
 風呂は4~5人がゆったり入れる大きさで、民宿ではないといいながら明らかに客を迎えることを意識したつくりだった。風呂から上がると、たぎった鍋にカボチャや野菜を入れるところだった。先客は所沢の人で、埼玉県岳連の上の方の人らしく、7月20日に龍飛を発ってあちこちの山を登り、今日ここに着いたところだと言った。
 7月20日と言えば小形と私が谷川岳で落ち合って破間川に入った日で、その時私達が登ろうとした守門岳にも栃尾市の方から登ったと言い、今月の20日まで旅を続けると言った。『豪勢な旅ですネ』と言うと、『若い時、死に物狂いで働いたもの・・』と言った。龍飛の階段のある国道の話しから、大きなプロペラの風力発電の話し,太宰治の「津軽」の話しにおよんだ。
 私は大根葉やコマツナ等の葉菜類とアブラゲの煮ものが好きなので、夫人が出してくれたビ-ルを一口だけ飲んで、専ら大根葉を食べた。
 所沢氏がヤカンを指して『クマザサのお茶だそうだけど飲んで見ますか』と言ってビ-ルのグラスに注いでくれた。すかさず主人が『これで血圧が下がったんだ』と言い、夫人も『本当にこれで下がったのよ』と言った。
 それはお茶といういより白っぽい白湯のようで、飲むととろっとして甘みがあり、子どもの頃によく飲まされた重湯の味に似ていた。『クマザサをどうやるんですか』と聞くと、夫人が『何もしないのよ。生の葉をそのまま入れるのよ』と言い、ヤカンの蓋を開けて見せてくれた。中にはクマザサがぎっしり詰まっていた。『こんなにいっぱい入れるんですか』と言うと、主は『山にいくらでもあるでよ』と言う。『クマに聞いて見ようかしら・・』と言うアレだが、生半可でないその使い方に、山で暮らす者の真骨頂を見た気がした。
 わずかなクマザサ(?)から抽出したわずかなエキス(?)なるものに、もっともらしい効能書きを書いて売ったり買わされたり・・・,人々の健康に対する不安には限りがないが、『クマに聞く』までもない,山で暮らす先人に聞けばいいのだ。

投宿・・・’99・8,大平宿④

2007-01-03 10:07:36 | 踏み跡
 先ほどちらりと見えた学校の校舎らしい建物とその奥の炊事棟を見にいく。建物は飯田市教育委員会管理の建物で、屋根つきの立派な炊事棟は相当の人数が一度に利用できるほど広く、水道をひねると水が出た。
 『使用する場合は○○へ連絡せよ』との標示に従って、飯田市教委へ電話して炊事施設だけ借りようと思い、1台だけある公衆電話の方へ行こうとすると、小形が、『入口の家は民宿ではないけど泊めてくれるらしい。宿泊者が1人いて「1人より仲間がいた方がいいから泊めてもらってはどうか,多分泊めてくれるはずだ」と言っている』と耳よりな情報を掴んできた。いくらで泊めてもらえるのかが心配だったが、たまにはのんびりしたい気もしたのでその話に乗ることにした。
 
 玄関を入ると広い三和土に続く大きな板の間があり、そこから右手奥に広い台所と並んで自在鉤に大ぶりのヤカンがかかった囲炉裏があって、囲炉裏には何本かの薪が燃えていた。真夏だというのにその火は少しも暑さを感じさせなかった。
 囲炉裏のある部屋は西側の道路沿いと南側に窓があり、北側は玄関との間に仕切りがあって、そこがこの家の主の居場所らしく、風呂から上がったばかりの主人が長々とうつ伏せに寝たまま『腰が悪いのでこんな格好で失礼する』と言った。
 夫人は『旅館ではないので特別なものはできないのよ。うちで食べるのと同じものを食べてもらってるのよ』と言った。『その方がよっぽどいい。何だって食べますよ。一緒に話しを聞かせてもらいながら食べるのが一番だ』と言うと、『こんなもんだよ』と言いながら大根の葉とアブラゲを煮たものを見せ、『お父さん,ちょっとお願いネ』と言って、主人が自在鉤のヤカンを下ろしすのと入れ替えに大きな鍋をかけたながら『お風呂に入って下さい』と言った。

保存された宿場・・・’99・8,大平宿③

2007-01-03 01:27:45 | 踏み跡
 先ほどの交差点まで戻って車を停め、宿場の中を歩いてみると200m程の道の両側に“からまつ屋”から始まって“つつみ荘”“紙屋”“下紙屋”“深見荘”“大蔵屋”“八丁屋”等、大小10戸あまりの宿屋が並んでいて、それぞれに屋号と“平入りづくり”か“切妻づくり”かの区別が標示してあった。ほぼ中間地点にはトイレやまき小屋なるものがあり、お月見広場と呼ばれる空き地の手前には庚申塚と斎藤茂吉の歌碑があった。
 これらの建物は、そのほとんどが江戸時代の建物で、別の場所から移築されたものではなく、当時のままの姿で保存されているものらしかった。建物は古く、使うには不便が予想されるが、その不便さをむしろよしとする人達が好んで利用しているようだ。
 何もない宿場町のぬけがらのような所であるが、ただそのたたずまいを愛し、泊まって喋って旧交を温める人あり、高原の林の中でハイキングやキャンプを楽しむ人あり、斎藤茂吉が愛したアララギの里を中心とした文学散歩に訪れる人あり、またそこを拠点に木曽路を歩くもよし、中央アルプスの登山基地として摺古木山や木曽駒ケ岳に登るもよし、自分達の研修会を開くもよしと、どのような使い方もできる所ということらしい。
 こうして、歴史あるこの建物群と往時を偲ばせる静かな宿場町の雰囲気を愛することを旨とする人々に好意的に使われることによって、利用しながら保存すると言うのが大平宿の意義なのだろう。
 その主旨はよく分かるが、床は大丈夫なのだろうか? 屋根は漏らないのだろうか? と言う心配を払拭できないあやうさもある。子ども達は元気がいい。ついどんどんと騒いで床が抜けたりして、修理費を請求されるかも知れない。一度使ってみないと何とも言えない気がする。
 一番奥の家から道路に沿って見取り図を書きながら入口まで来ると、そこには見取り図と宿泊申し込み書のついた立派なチラシが置いてあった。わざわざメモすることはなかったわけだが、これで一通り大平宿のアウトラインが掴めた。あとは今夜の塒を探すだけとなる。



廃村の宿場跡・・・’99・8,大平宿②

2007-01-03 01:17:39 | 踏み跡
 大平高原キャンプ場などの標識を見送って10分ほどで大平宿に入る。宿の入口近くには土産物屋があり、道を挟んでその反対側に民宿かと思わせる大きめの総2階建ての家があって、その前の広い駐車場に車が2台あった。
 その先から左奥に向かって車留めのある道があり、奥には古い学校の校舎のような建物,さらにその奥に大きな屋根つきのキャンプ場の炊事棟が見えた。車留めの先には大平宿利用者専用の駐車場があり、道はそこで左に直角に曲がるのだが、直進する道もあった。
 直進する道は車両進入禁止で、入口の左側に古い旅篭のような建物があり、同じような建物がその奥にもいくつか見えた。
 進路に沿って左折すると左側に“中央アルプス縦走路入口”という標識があって舗装された道が林の奥に伸びている。右手に“水道屋”と書かれた旅篭風の建物があり、小川にかかる橋を渡ると“三河屋”という建物があった。
 そこを通り抜けると道が上り坂になってそこから先にはもう何もない感じだった。つまりそこで大平宿は終わりなのだ。「えっ! もう終わりなの!」と驚く。最初の家からそこまで200mあるかないかなのだ。
 引き返して三河屋の前にある張り紙を見ると“三河屋”という屋号や“平入りづくり”という標示と共に“この家を利用したい方は○○に電話して予約して下さい”という案内があり、飯田市内の電話番号が書いてあった。

大平峠・・・’99・8,大平宿①

2007-01-03 01:11:10 | 踏み跡
 あまり見通しのきかない、細く曲がりくねった道を2kmほど登ると大平峠に着く。峠には歌人斎藤茂吉が大平峠を越えて飯田に向かった時に、自分が主宰した歌集「アララギ」と同じ名前のあららぎという名の里を望んで感嘆し、後に『大平峠』と題して詠んだ17首の歌を歌集『暁紅』に収めたいきさつと、その中の代表的な歌が数首記された碑があった。以下はその碑文。
 「近代詩歌の最高峰と言われる斎藤茂吉が、木曽福島,王滝の旅を終えて三留野宿ゆた旅館に一泊し、飯田に於けるアララギ歌会に出席するために秋深まるこの峠を越えたのは昭和11年10月18日であった。
 この時、紅葉する大自然の壮大な美にうたれてつくった17首の歌が『大平峠』と題されて歌集『暁紅』に収められている。『大平の峠に立てば天遠く 穂高のすそに雲しづまりぬ』『目のまへをそびゆる山に紅の かたまりいくつ清けくなりつ』『ここにして 黄にとほりたる もみぢ斑(ふ)の檜山を見れば言絶えにけり』 あららぎの里を望み、その地名に茂吉が編集・発行者として精魂を傾けた歌誌アララギの名を重ねた深い思いが詠われている。『ふもとには あららぎといふ村ありて 吾に哀しき名をぞとどむる』」
 1台の車が停まっている他に行き交う車もない。ひっそりと静かなたたずまいの峠から北東方向,木の間越しに集落が見える。それがあららぎの里なのだろうか。碑文を手帳に書き写して大平宿に向かう。
名称未入力


大平宿へ・・・’99・8,赤木沢から大平宿へ③

2007-01-03 00:51:39 | 踏み跡
 8月11日(水)
 4時半起き。6:00発。同30,野麦峠。小雨。お助け小屋を復元したものや茶屋,資料館などがあったが時間的にまだ無人。特に注意を惹かれるものはなかったが、旧野麦街道を歩くコ-スに興味を持った。高山から岡谷まで、工女達が歩いた足跡を辿って雪の野麦街道を歩く企画を考えていたので機会を見て歩いてみたいと思う。
 高根村でR367,木曽街道に入り、日和田高原から開田高原を経て木曽福島に向かう。木曽福島からはR19に入り、南木曾から妻籠宿を抜けて木地師の里に着く。薬師岳で会った三河のOさん達から勧められた所だったので立ち寄って木の器や工芸品を見学する。
 圧巻は直径1m50cmの大盆である。木の香りには、鼻の奥をツンと通り抜けて、頭の中の余分な雑念を追い出し、すっきりさせてくれるような作用がある。さっぱりした気分で大平宿に向かう。


野麦峠・・・’99・8,赤木沢から大平宿へ②

2007-01-03 00:20:44 | 踏み跡
 風呂に入りたかった。R158から白骨温泉を通って奈川温泉に抜ける“上高地・乗鞍線”というス-パ-林道は夜間通行禁止で透れず、やむなく県道26号から奈川温泉に入る。何が何でも温泉に入ろうと決めて奈川で日帰り入浴の温泉宿を探したが、時間が遅いからと軒並み断られた。
 温泉の入口近くに民宿があった。釣りと温泉に関しては絶対に諦めない小形が、ダメもとでと持ち前の粘りを発揮して頼み込んでOKをとってきた。
 露天風呂の薄暗い裸電球の光が闇にのみ込まれるその向こうから渓流の音が聞こえる静かな山合いのひなびた一軒宿だった。何年か前,登山の終わりに入った岩手山麓の温泉に似た感じがしたが、その時登った温泉と山の名が思い出せない。
 思いがけず入浴できて後はねぐらを探すだけとなる。6km走って野麦峠方面と木曽福島方面の分岐点を右折し、2~3km走った所でキャンプ場と書いた釣り掘りを見つけてその駐車場を借りる。