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清濁併せ呑む

2010年04月19日 | うんちく・小ネタ

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【清濁併せ呑む】 (せいだく あわせのむ)
善・悪のわけへだてをせず、来るがままに受け容れること。
度量の大きいことをいう。
               《広辞苑》

(大海は清流も濁流も区別することなく迎え入れることから)善人も悪人も、善も悪もわけへだてせず、来るものはすべてあるがままに受け入れる。                          広く大きい度量があることのたとえ。        《成語林》                                                                                        


実生活でこの言葉を口にしたことのある方は多いこととと思います。
しかし、改めてこの言葉の意味を考えてみると、これはなかなか大変なことです。

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                                                                「善も悪もわけへだてなく」と言いますが、すでにこの段階で「善」と「悪」を分別しています。
こうして分別してしまえば、どうしても悪よりは善を選びたくなってしまうもので、善を選んで悪を排除すれば、分け隔てしてしまっていることになります。

善と悪が有るなら、善だけを選んで何が悪いとも思います。無分別に一緒くたに扱う方がよっぽどまずいとも思えます。ですが、ここで気を付けなければいけないことが一つ。

善悪を分けるのは良いとして、その善悪をどうやって分けたかと考えてみると、善悪を分けたのは結局自分の判断のはずです。

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さて、自分の判断は100%間違い無いものなのでしょうか? 

善悪を判断したつもりでいて実は、好悪の感覚で分けているかもしれません。
善悪の判断材料としたものに誤認があるかもしれません。

 
Aの点では優れているがBの点では欠点のある人と、その逆の人とがいた場合、どちらが良くてどちらが悪いと考えるのか?
そんな風に突き詰めて考えて行けば善悪の 判断自体があやふやに思えてきます。
そんなあやふやな判断での分別が果たして正しいのか?
いっそのこと、そんな判断は止めて、

 Bの点では問題もあるが、Aの点では優れているじゃないか

と考えれば、受け入れる余地が有るはず。つまり減点法ではなくて加点法で考えれば、誰れも排除する必要はない。そう考えれば、清も濁も受け入れられるのでしょう。
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『大海は』とありましたが、清濁いずれも嫌わず受け入れたことによってはじめて大海は大海となったのです。そして、どんな濁流を呑み込んでも、海は全体としてみれば、相変わらず「青く澄んだ海」。
清濁併せ呑んで大きな海になりましょう(と言は易いですが・・・)。
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