大木正夫という人は名前すら初めて聞く人だが、ネットで調べてみると、日本プロレタリア音楽運動の第一人者で、60年安保闘争の頃作られた全二部のカンタータ「人間をかえせ」は、当時けっこうなベストセラーなったというから、かなり有名な人ではあるらしい。世代的には1901年生まれ、伊福部先生より一回り半くらい年長、諸井三郎より2歳上といったところで、キャリアとしては戦前からワインガルトナー賞などとっているというから、そこそこ知名度も高い人だったということになるのだと思う。収録作は戦前の「日本狂詩曲」と戦後の交響曲第5番「ヒロシマ」の2曲となっているが、まずはこの両作品のあまりの作風の違いに驚いてしまう。
「日本狂詩曲」はタイトルから伊福部先生のデビュー作と同じだが、ロシア・スラブ系の作曲家がよくやった自国の民族音楽を西洋流に翻案するというスタイルをそのまま日本でやったという趣である。素材的にはに日本のものだろうか、音楽的には極めて西洋的なもので、オーケストレーションなども非常に練達な印象だ。ボロディンとかスメタナ的な方法論をもうすこしモダンにした印象とでもいったらいいか。具体的にいえば、リズミカルなピアノが途中出てきたり、打楽器が活躍する錯綜するリズム....といった点は、誰が聴いてもストラヴィンスキーの「ペルーシュカ」を思わせることと思う。まぁ、ストラヴィスンスキーなどまだ前衛以外の何者でもなかった戦前の日本でこうしたモダンな作風を持っていたというのは、ある意味かなり驚異だが、まぁ、器用な日本人の面目躍如といったところなのかもしれない。
一方、交響曲第5番「ヒロシマ」は原爆投下された広島惨状を描いた絵画にインスパイアして作曲された8つのパートからなる一種の音画である。基本的には無調以降の非常にシリアスな感じの「現代音楽」で、全編に渡りうごめくような音響のうねり、不協和音による強烈なダイナミズム、そして沈痛なムードが充満した、非常にシリアスな音響作品になっている。ただ、不遜ないい方かもしれないけれど、私のような後発のリスナーの場合、この作品の内包する重さのようなものはあまり関係なく、例えばジェリー・ゴールドスミスあたりがSF映画でよくやる音楽を楽しむが如く、緊張感が高く、確かに設計された音響美の手応えを素直に楽しん聴いた。まぁ、少なくともこの手の左翼的スタンスでありがちな、ちょい気恥ずかしくなるような説教臭い教条主義的なヒューマニズムだの、お涙頂戴式な情緒の垂れ流しみたいなものとは無縁仕上がりなのは、安心したところでもである。
「日本狂詩曲」はタイトルから伊福部先生のデビュー作と同じだが、ロシア・スラブ系の作曲家がよくやった自国の民族音楽を西洋流に翻案するというスタイルをそのまま日本でやったという趣である。素材的にはに日本のものだろうか、音楽的には極めて西洋的なもので、オーケストレーションなども非常に練達な印象だ。ボロディンとかスメタナ的な方法論をもうすこしモダンにした印象とでもいったらいいか。具体的にいえば、リズミカルなピアノが途中出てきたり、打楽器が活躍する錯綜するリズム....といった点は、誰が聴いてもストラヴィンスキーの「ペルーシュカ」を思わせることと思う。まぁ、ストラヴィスンスキーなどまだ前衛以外の何者でもなかった戦前の日本でこうしたモダンな作風を持っていたというのは、ある意味かなり驚異だが、まぁ、器用な日本人の面目躍如といったところなのかもしれない。
一方、交響曲第5番「ヒロシマ」は原爆投下された広島惨状を描いた絵画にインスパイアして作曲された8つのパートからなる一種の音画である。基本的には無調以降の非常にシリアスな感じの「現代音楽」で、全編に渡りうごめくような音響のうねり、不協和音による強烈なダイナミズム、そして沈痛なムードが充満した、非常にシリアスな音響作品になっている。ただ、不遜ないい方かもしれないけれど、私のような後発のリスナーの場合、この作品の内包する重さのようなものはあまり関係なく、例えばジェリー・ゴールドスミスあたりがSF映画でよくやる音楽を楽しむが如く、緊張感が高く、確かに設計された音響美の手応えを素直に楽しん聴いた。まぁ、少なくともこの手の左翼的スタンスでありがちな、ちょい気恥ずかしくなるような説教臭い教条主義的なヒューマニズムだの、お涙頂戴式な情緒の垂れ流しみたいなものとは無縁仕上がりなのは、安心したところでもである。