昨夜何気なく(そして実に久々に)聴いたシューマンの交響曲の第2番がけっこう良かったもので、本日は出張中の車の中で第1番の方を何回か繰り返し聴いてみた。こちらは一応「春」というニックネームがついていて、当初は各楽章にも「春のはじめ」「たそがれ」「楽しい遊び」「春たけなわ」という標題もついていたらしいが、それほど標題性があるような曲とも思えず、なにやらもやもやとしたうっそうとした響きの中で、随所に春らしい部分が顔を出すというイメージだが、案の定今聴いてもそうとうに渋い作品だ。20代の中頃に聴いて、「なにかいまひとつ実体の掴みがたい曲」と思ったのも無理もないと思う。
第1楽章はファンファーレのような金管に始まる序奏部で始まり、分厚いもやもやとした響きの中、やがて第1主題が登場するという典型な交響曲第1楽章スタイルだ。この第1主題はシンコペーションの効いたシグナル風のもので、かなり精力的な勢いをもっている。これに対して第2主題の方はややもの悲しい叙情的なもので、かなり対照的な趣があるのはやはりロマン派の感性というべきなのだろう。展開部はややくどいくらい入念に主題操作が行われ(トライアングルの響きが印象的だ)、そのピークで型どおり主題が回帰する訳だけれど、どうもいまひとつ突き抜けたものがなく、なんとなく不完全燃焼のまま終わるような感がなくもない。
第2楽章はいかにもドイツ~ウィーン流の平穏な田園風景が思い浮かぶ緩徐楽章で、これはとてもいい。昨夜も書いたけれど、こういう音楽は聴く方のコンディションによってはどうしようもなく退屈に感じてしまったりもする訳だけど、今の当方の気分としてはこの楽章のやさしげな雰囲気がなんとも心地よく感じるのだ。
第3楽章は「楽しい遊び」というには、おっとりした感じとちと妙なものものしさが共存したスケルツォだが、この無骨なムードが印象的なせいで、久しぶりに聴いても、この楽章はよく覚えていた。トリオはふたつあるが最初の方は散文的というか、田舎風景というより、スケルツォの合間におかれた経過的なブリッジのように聴こえる。後の方はメンデルゾーン風なチャーミングなせわしなさが魅力的な。
最終楽章は確かに「春たけなわ」といった感じの楽しげな楽章で、どことなくブラームスの第2番の最終楽章を思い出させる。ただ、やはりもやもやしたサウンドのせいなのか、リズムがいまひとつシャープでないせいなのか、ここでも聴いていて、もう少し炸裂してもいいのにな....と感じでしまう。という訳で、全体に決して悪くはないのだが、やはりいまひとつなのだなぁ....って、これじゃ20年前と同じ印象だ(笑)。
第1楽章はファンファーレのような金管に始まる序奏部で始まり、分厚いもやもやとした響きの中、やがて第1主題が登場するという典型な交響曲第1楽章スタイルだ。この第1主題はシンコペーションの効いたシグナル風のもので、かなり精力的な勢いをもっている。これに対して第2主題の方はややもの悲しい叙情的なもので、かなり対照的な趣があるのはやはりロマン派の感性というべきなのだろう。展開部はややくどいくらい入念に主題操作が行われ(トライアングルの響きが印象的だ)、そのピークで型どおり主題が回帰する訳だけれど、どうもいまひとつ突き抜けたものがなく、なんとなく不完全燃焼のまま終わるような感がなくもない。
第2楽章はいかにもドイツ~ウィーン流の平穏な田園風景が思い浮かぶ緩徐楽章で、これはとてもいい。昨夜も書いたけれど、こういう音楽は聴く方のコンディションによってはどうしようもなく退屈に感じてしまったりもする訳だけど、今の当方の気分としてはこの楽章のやさしげな雰囲気がなんとも心地よく感じるのだ。
第3楽章は「楽しい遊び」というには、おっとりした感じとちと妙なものものしさが共存したスケルツォだが、この無骨なムードが印象的なせいで、久しぶりに聴いても、この楽章はよく覚えていた。トリオはふたつあるが最初の方は散文的というか、田舎風景というより、スケルツォの合間におかれた経過的なブリッジのように聴こえる。後の方はメンデルゾーン風なチャーミングなせわしなさが魅力的な。
最終楽章は確かに「春たけなわ」といった感じの楽しげな楽章で、どことなくブラームスの第2番の最終楽章を思い出させる。ただ、やはりもやもやしたサウンドのせいなのか、リズムがいまひとつシャープでないせいなのか、ここでも聴いていて、もう少し炸裂してもいいのにな....と感じでしまう。という訳で、全体に決して悪くはないのだが、やはりいまひとつなのだなぁ....って、これじゃ20年前と同じ印象だ(笑)。
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