世の中、なにか政治的によからぬことがありますと、いっときはデモなどにたくさん人が集まったりいたしますが、やがて時を経るにたがい、先細になっていきます、それが世の常といえば常なのではありますが・・・
GGIが知人たちとともに福島原発事故の二カ月後から始めて、ほぼ月一回のペースで行っているデモも御多聞にもれませぬ、ちかごろはさっぱり人が集まりませぬ、昨日、関電高浜の原発再稼動を認める裁判所の決定が下りましたが、それでも、もうGGIらのデモに急激に人が集まることはおそらくないでありませう・・・
今日の写真は去る19日に行ったデモの様子を撮ったものです、関電湖国支店のビルの前を通り過ぎて解散地点の湖岸の公園に向かっているところです
なぜいろいろあっても人は集まらないのであろうかと勉強家の某知人にたずねてみましたら、方丈記を読めばわかる、方丈記を題材にした堀田氏の名作「方丈記私記」を読めばよくわかるとのたまひました
それではというわけでGGI、久方ぶりにマジメに読書することにいたしました。鴨長明さんあたりなら何か教えてくれるかもしれないと思いましてGGIは堀田善衛氏の作品「方丈記私記」をひもといてみました
そうしましたら、たいへんためになると申しますか意味深いことが記されておりました、以下は「方丈記私記」(筑摩書房)からの丸写しであります
・・・それは鴨長明にも、また数々のすぐれた仏教者たちにも何等直接の責任はないことであるけれども、われわれのなかに、厳然として宿っているものである。
そのものは、言葉を選んでこれを言うとして、いわば無常観の政治化(politisisation)とでも言うべきものであろう・・・・この無常観の政治化されたものは、とりわけて政治がもたらした禍殃に際して、支配者の側によっても、また禍殃をもたらされた人民の側としても、そのもって行きどころのない尻ぬぐいにまことにフルに活用されてきたものであった。
たとえば、長明の言うように、禍殃に際して
「羽なければ、空をも飛ぶべからず、竜ならばや、雲にも乗らむ。」
「世に従えがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いずれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。」
という、こういうことばを何度か念仏のようにとなえていると、いつか、な~るほど、そういうものか、というところから、そうでもあるであろう、その通りだ、というところまで運ばれて行ってしまい、身を起ててデモに行こう、あるいは戦わねばならぬという意思をそらしてしまう作用をもたらす。もとより、そんなことは無常観とは何の関係もない、長明とも関係はない。ただの俗であるにすぎぬという論があるにきまっている。当然である。私もそう言いたい。しかし、そういう反論も含めて、また俗化したものをも含めて、やはりわれわれの思想生活の根源に生きて横たわっているものを、ともにえぐり出してみる必要はあろう。
政治は何かを利用しなければ、それ自体では立たぬものであろう。従って政治はあらゆるものを利用する。無常観などはその最有力な武器となりうるものである。・・・・
なかなかの一文であり、GGIは感じいりました。やはり、たまにはマトモな本をマジメに読んでみるべきあろう、などと反省したしました。
この堀田善衛氏の一文を読んでから、そのことは方丈記に書いてあるなどと教えてくれた知人に感謝の意を伝えました。
「納得したわけではないけれど、問題が極めて深刻であることはよく分かった。ところで君は来年一月はじめのデモには来てくれるやろうな?」
「う~ん、なにしろ長明さんも言うてはるように、古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らずやからなあ・・・」
「何をわけの分からんこと言うてるのや、はっきりしろ」
「この意味はまた教えてあげる・・・まあデモのことは前向きに・・・」
「ええかげんなこと言うな、コーヒーおごってやるから来い!」
「わかった、でもコンビニの百円コーヒーなんてケチなことするなよ」
グッドナイト・グッドラック!