UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

月日かさなり、年経にしのちは、ことばにかけて言ひ出づる人だになし・・・

2015-12-27 01:10:08 | 日記

みなさんもご存知のように、一昨日1224日に、福井地裁で一年半前に下された関電高浜原発の再稼動差し止めの仮処分の決定が同じく福井地裁において取り消されました。その結果近日中に高浜原発3,4号機は再稼動ということになります

 まあ、この再稼動差し止め仮処分の取り消し、これまで原発の裁判に限らずいったん下された決定が取り消されたり、上級審で(高裁や最高裁)逆転判決ということは珍しいことではなく、GGIもそのような若干の経験をしておりますので、GGIとしましては想定外といったものでは決してありませぬ(たとえばその最も極端な例は、「名張毒ブドウ酒事件」です、一審は無罪、二審で一転して死刑、そしてその後いったん死刑判決に対する再審の決定が下されたものの検察の抗告によって取り消され、結局は半世紀以上に渡る獄中生活の後に獄死、人の命が直接関わっていただけにことは深刻です。)

 そんな「これは十分に想定内」などというエラソーな高みの見物みたいなことを言っていてどういうつもりだ、などとお叱りを受けるかもしれませぬが、やっぱり人間は忘れてしまうんだぁ、あの大地震の怖ろしささえ忘れてしまうんだ、というのが無責任でありますが、1224日の福井地裁の決定を知って、はじめにGGIの心に浮かんだ感想です

 大地震の怖ろしさについては、昨日記しました方丈記にも記されています、すこし長いのですが「元暦の大地震」(1185年)についての鴨長明氏の一文を以下に引用いたします。

元暦の大地震というのは、平安末期、安元三年の京の大火、治承四年の大風と福原遷都騒動、養和の大飢饉に続く大地震のことです、この間、源平がチャンチャンバラバラを行ってたのでありますが、お公家さんの藤原俊成さんは、世の天地大乱をよそに、「千載和歌集」なんか編んであろりました・・・

《また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしよしよ)、堂舎塔廟(だうしやたふめう)、一つとして全(また)からず。あるいはくづれ、あるいは倒れぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内にをれば、たちまちにひしげなむとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚えはべりしか。

 かく、おびたたしくふることは、しばしにてやみにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶えず。世の常驚くほどの地震、二、三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、あるいは四、五度、二、三度、もしは一日(ひとひ)まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波、三月(みつき)ばかりやはべりけむ。

 四大種(しだいしゆ)のなかに、水・火・風は常に害をなせど、大地に至りては異なる変をなさず。昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みくし)落ちなど、いみじきことどもはべりけれど、なほこの度(たび)にはしかずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。》

http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/houjouki2.htmよりの引用です

 大地震の恐ろしさ、怖ろしさを記録した長明氏の描写力の巧みなこと、まさに脱帽です。私たちは東日本大震災のことについてはほとんどが映像によってしか知っていないように思われ、この長明氏のような一文はほとんど目にしていないのではないかなあなどとGGIは思ったりいたします

 この一文、なかなか巧みではあるのですが、問題は最後のフレーズです、最後に以下のような部分がありますね

 《すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。》

 この部分について昨日の日記で紹介しました「方丈記私記」において堀田善衛氏は次のように書いています

 《「すなわち」というのは、多くの研究者諸氏の注釈によると、今日の、すなわち、ではなくて、当座は、という意味であり、文字通りにこれを解していけば、地震のその当座は、どうにも頼りない、つまらぬ、いやになってしまうと言いあっている有様で、心の濁り、つまり世俗についての欲念、執着などもいささかうすらいだかに見えたけれども云々、ということになるのだが、このところをよく読み返してみると、私には「月日かさなり、年経にしのちは、」けろりと忘れてしまう人間というもののしたたかさ加減についての認識が裏打ちとしてあるように思われてくる。実際に、人間はけろりと忘れてしまわぬ限りは生きていけないのである。心の濁りがはうすらぐ筈もないが、記憶はうすらぎ、それを心の芯となるほどの経験と化しうる人は多くないであろう・・・・》

 みなさんいかがでせうか、この堀田氏の解釈・考えをどう思われるでありませうか、GGIとしましては、何となく、この記憶の風化は文明の進歩とともに早くすすむのではないかと思います、まあ、それにしてもあの大震災・大原発事故からまだ四年半余、このたびの決定を下した福井地裁の裁判官諸氏における記憶の風化は早すぎるというべきでありませう

《心の濁りがはうすらぐ筈もないが、記憶はうすらぎ、それを心の芯となるほどの経験と化しうる人が多くないであろう・・・・》

まことにその通りというしかありませぬ。

 今日もどこかからの丸写しという安直なる日記になってしまいましした、どうか許してたもれ・・・

今日の写真は高浜原発の3,4号機です。何の変哲もないものですが、よろしければクリックしてご覧くださいませ

 グッドナイト・グッドラック!