透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

庚申塔

2012-01-22 | B 石神・石仏

 道祖神の隣に二十三夜塔や庚申塔が建てられていることがよくあります。二十三夜塔については既に数回書きました。今回は庚申塔についてです。

「おこうしんさま」 

最近はあまり耳にすることがなくなりましたが、昔は時々このことばを耳にしました。集落内の隣近所何軒かで(5から10軒くらいでしょうか)、互助組織をつくって冠婚葬祭を扶助しあい、そして庚申信仰に関る行事も行っていたんですね。

手元の資料(*1)によると、庚申信仰というのは中国の「道教」の教えから起こったものだそうで、60日ごとにめぐってくる庚申の夜(かのえさる 十干十二支のひとつですから10と12の最小公倍数で60日ごとになるわけです。庚申の年は60年ごとにめぐってきます。)になると、体の中に宿っている「三尸(さんし)の虫」が本人が眠っている間に体からぬけだして天に昇り、天帝にその人の罪やあやまちを報告するといわれていて、そのために生命を奪われてしまうから一晩中眠らずに善行をしなければならない、ということなんだそうです。(資料136頁による)

道教の教えは奈良時代には既に日本に伝わっていて、平安時代には貴族の間で「守庚申(しゅこうしん)」が行われていたそうで、詩歌管弦の宴を開いたり、語り明かしたりしていたそうですが、これが次第に民間にも広まったということで、江戸時代以降いっそう広まったと資料にあります。

庚申の夜には当屋の座敷の床の間に庚申画像を掛け、供物をあげ、庚申塔にお参りをし、その後料理を囲んで一晩語り明かす、ということがあちこちで行われていたんですね。これは宗教的な意味合いは薄く、変化に乏しい田舎の暮らしに楽しみをつくったということではないのかなと思います。隣近所助け合って仲良く暮らしましょう、ということだったのでしょう。

 
長野県東筑摩郡朝日村西洗馬の庚申塔(庚申碑)とその案内板

ところで庚申塔は庚申の年に建てられることが多かったそうです。例えばこの庚申塔は万延元年(1860年)に建てられたことが案内板に記されていますし、石碑の裏面をみても確認できますが、この年は調べてみると確かに庚申の年です。

庚申塔の他にも大黒天や馬頭観音などが祀られているのを見かけます。それらについても取り上げようと思います。 


*1 『安曇野 道祖の神と石神様たち』西川久寿男/穂高神社


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