豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

日本人は山へ帰れ・・・

2011-07-30 11:46:04 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

2次世界大戦後のパラグアイ移住は,日本・パラグアイ移住協定に基づき海外移住振興株式会社(後の移住事業団)が進めた,いわゆる直轄移住であった。すなわち,海外移住振興株式会社が取得した土地に開拓農民として入植する方式である。移住者はそれぞれに割当てられた区画(ロッテ)を開墾し,作物の種子を播いた。

亜熱帯の森を拓くには多くの苦難があったことは想像に難くない。しかも,移住者全てが強健な身体の者ばかりというわけでなく,まして全員が農業経験者であったわけでもなかっただろう。後に,1960年代が営農不況の時代であった評されるが,開墾してやっと収穫にこぎつけた生産物の販路もなく,或いは安価に買いたたかれる場面も多かった。

 

資金に余裕のある移住者を除いて,生計成り立たない状況に見舞われた移住者もあったことだろう。夢を追い続けるか,苦労する生活から如何に脱却するか,夜ともなれば星空を仰いだに違いない。或いは,開墾の重労働に健康を害する人もあり,都会に出て商売を始める人々が増え始めた。それは,国内のエンカルナシオンやアスンシオンだけでなく,アルゼンチンのブエノスアイレスであったりする。新しい土地で始めた仕事も,八百屋,雑貨商,旅館業,飲食業,洗濯屋,庭仕事,大工など多岐に亘ったことだろう。

 

不景気な時代に,日系移住者が町に出てきて商売を始める。先住の同業者との軋轢が爆発し,事件が起こった。「パラグアイ日系移住70年誌」によれば,次のような記録がある。『19628月,市内在住の日系人に「商売の営業停止。日本人,山へ帰れ」の市長命令が出た。ことの発端は,ロブレード市長が所有する運送会社と農協連が購入した大型トラックによる運送に一部競合が出たこと,日系人が製造するパンに市場が侵害される事態が発生したため,町の食パン業者が市長に訴えたことが原因と言われる。事態の深刻さに,吉永領事は霜降る真夜中おんぼろバスで未舗装の370kmを,ポンチョを着込みエンカルナシオンに駈けつけ,翌日市長と面談,数日中に問題は解決した。同市長は単純な性格の方で,この問題発生の原因は多分日本側にあったのではと言われている』(一部略)。『同市長は,その数か月後に日本に招待され,東洋綿花からデイーゼル発電機を購入することになり,市内の電化に努力した』とある。

 

このような事件も歴史の一場面にすぎない。市街地に店を構えた人々にとって,言葉の問題や資金力など相当の苦労があったことだろう。先人の地道な努力は,時を経て,日系人=信頼に足る人々との評価を築き上げた。これには,商売をし,金が貯まったらより良い生活を求めてアメリカに移住しようと考える一部アジアンと違い,日系人は腰を落ち着けパラグアイ人としてこの地に骨を埋めようとしている,と理解されたのかもしれない。日系人の信用は確固たるものになり,高等教育を受けた2世が活躍する場面も多くなりつつある。「日本人よ,山に帰れ」とは,もう言われないだろう。

 

だが,戦後移住の総括をするにはまだ早い。成功者もいれば,失意のうちに帰国した人もいる。日本人であることを伏せてひっそり生活する人もいる。道はまだ続いているのだ。

 

一方,祖国日本の山林の現状をみるにつれ,「日本人よ,山に帰れ」の言葉がリンクする。日本の都会人は,山に帰った方が良いかもしれない。

 

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最後の直轄移住地イグアス,新たな展開の兆しが見える

2011-07-28 09:29:48 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイ日系移住地の話をしよう(5

日系移住地を訪れる旅も終わりに近づいた。エンカルナシオンから国道6号線を北東に進む。ピラポを過ぎてから国道の両側には大豆畑が広がり,放牧された牛が草をはみ,川が流れる低地には帯のように緑の木々が連なる。時々出現する市街地は,赤土にまみれた色を呈し,生活臭が満ちあふれている。国道に面して,ガソリンスタンド,食堂,生活用品を売る店が並び,農機具の販売や修理工場,電話や銀行の看板も見える。

 

トーマスロメロペレイラ,ナランヒト,サンタリタなどの町が時間をおいて姿をあらわす・・・。軽食やトイレタイムで,ガソリンスタンドに併設された食堂で休憩することが多いが,店の主人との会話から,この地帯の住民はブラジル系であることが分かる。

 

国道6号線は,エンカルナシオンから約3時間半で国道7号線に突き当たる。突き当たりを右に曲がればシウダデルエステ市,左に曲がってアスンシオン方向に走り7kmの所にイグアス移住地がある。中央公園では赤い鳥居が目に入る。日本旅館,ラーメン屋,カラオケ店もある。ここは,日本政府が推し進めた最後の直轄移住地,現在の日系人口は約930人(イグアス市約8,700人)。

 

◇イグアス移住地の歴史

海外移住振興株式会社は,日本・パラグアイ移住協定に基づき,1960年アルトパラナ県ブリネスク地区に90,000haの土地を購入し,1961年にはフラム地区から14家族を入植させ,指導的役割を担わせた。同年農協設立,翌1962年にはスペイン語学校を開設した。

 

1963年日本から6家族が移住し,日本学校,診療所も開設され,予定入植者2,000家族を目標に事業が展開されることになる。しかし,1960年代の日本は高度経済成長時代に入り雇用が拡大したこともあり,パラグアイへの移住は年間15家族程度にとどまる状況になった。一方,他の地に入った移住者の分家対策としてこの地に転住する家族が多く,入植者は増加して行く。

 

1972年,JICAはパラグアイ農業総合試験場(CETAPAR)を設立し,専門家を日本から派遣して農業生産を技術面でサポートした(2010年日系農協中央会に委譲された)。

 

イグアス移住地は当初,肉牛中心の牧畜を中心に据える計画であった。入植後の1960年代は,トマト・メロン・大豆・鶏卵など多様な生産物を生産販売していたが,1970年代には他の移住地と同じく大豆生産を主体にした畑作経営へと移行した。また,1970年代には日系企業のイグアス進出もみられている(肉牛4,000頭飼育のイグアス農牧,イグアス植林など)。

 

◇土地なし農民による不法占拠事件

1989年,ストロエスネル大統領が革命により失脚し,ロドリゲス大統領が農地改革を掲げると,それに呼応して土地なし農民がデモを繰り返し,入植地にもテントや掘立小屋を作り不法占拠する状態となった。不法占拠者665人が確認されたと記録にある。軍と警察の介入により排除され,不法占拠者は代替地に移住させたが,機材や費用を日本人会が負担せざるを得なかったという。

 

このような土地なし農民の不法占拠は,2000年代になってからも各地で問題になっている。2000年代の場合はGMO大豆の普及による雇用不足が主たる原因とされるが,国道6号線を走るたびによく見かけた風景である。広大な大豆畑の一角,国道に面して黒ビニールで雨除けした小屋,囲いをしただけのトイレ,子供らが裸で遊んでいる。直視しがたい。不法占拠した小屋群落には必ず国旗がたてられている。「俺たちも同じパラグアイ人,何故仕事がないのか」,風にはためく国旗が主張しているようにみえる。

 

不法占拠事件を教訓に,日本人会は日系人のみにとどまらず地域住民全体の利益追求を念頭に活動している。イグアス地域振興協会が進める「牛一頭運動」コミテイ育成事業など,パラグアイ人と共に生きようとする考えは現在も引き継がれている。

 

◇不耕起栽培はこの地から始まる

不耕起栽培はブラジルから導入された技術であるが,CETAPARの支援を受け深見明伸窪前勇等が中心となり導入したもので,現在では環境保全型の安定多収栽培法としてパラグアイ全土に定着している。農協前にその功績を称え,記念碑が建てられている。

 

また,JICAのプロジェクト(CRIA)で育成された大豆品種「Aurora」は,豆腐・油揚に適すると評価され,主にこの地で生産されたものが日本に輸出されている。「日系移住者が生産した大豆で造った豆腐を祖国日本人が食べる」,絵になる話ではないか。

 

◇新たな展開をめざして

1970年代に日系企業の進出があったと前述したが,19902000年代には日系企業によるキノコセンター,OISCAパラグアイ総局の「匠の里開発プロジェクト」や「エコロジー公園」プログラムが開始された。皇室や日本からの賓客訪問,旅の途中に滞在する日本人,テレビ取材など,日本との人の繋がりは移住地の中で最も多い。また,移住者の商・加工・サービス業への進出もめざましく,酪農家が集まりヨーグルトやチーズ製造の「EL SOL」開業,製粉工場の建設と「HARINA NIKKEI」の販売,マカダミアンナッツの生産販売など新たな展開がみられる。

 

この背景には,エステ空港(日本の資金協力で建設された)に近いこと,ブラジルとアルゼンチンに接する活性商業都市シウダデルエステ市に近いこと,さらには世界から観光客が訪れるイグアスの滝に近いことなどの理由があろう。この環境を活かして,移住地は大きく飛躍しようとしている。ただ,此処にも「若年層の流出による日系社会の空洞化」「少子高齢化」「日本人とパラグアイ人の経済格差拡大,治安問題」が潜在していることを忘れてはなるまい。

 

参照:パラグアイ日本人移住70年誌(2007

 

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周到に進められた直轄移住地ピラポ,経済の波に翻弄され新たな時代へ

2011-07-26 18:40:01 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイ日系移住地の話をしよう(4

エンカルナシオンから国道6号線を走る。カピタンミランダ市街を過ぎ右側には地域農業研究センター(CRIA),さらにチャベス,ラパス移住地に向かうD線を左にみて真直ぐ進むと,トリニダ遺跡でお馴染みのトリニダ。さらに橋を渡ればドイツ系移住地オエナウ(左折すればオブリガード)。この町は,ヨーロッパ風の街づくり。農機具工場やレストランPapillón(ドイツ料理)のあるベジャビスタを過ぎる頃,小さな滑走路がある大豆畑の広がりを目にする。しばらくすると庭を小綺麗にした日系の住宅が目につくようになる。左側に農業機械化訓練センター,右側に林業開発訓練センター,坂を上ればピラポ市街の入り口を示す大きなゲートが見えてくる

 

フラム地区の経験を活かして周到に進められた国策移住地

1954年(昭29)にパラグアイへの戦後移住が再開されたことを前述した。すなわち日本政府は,1956年に日本海外移住振興株式会社アスンシオン駐在所,1957年には日本海外パラグアイ支部協会を置き,前者には土地の確保と道路造成,後者には移住者受入を担当させた。

 

1957年には早速,ピラポ地区の調査を開始し,翌1958年にはピラポ,カーレンズ地区65,000ha,アカラジャ地区19,000ha,計84,000haの土地を購入し,道路造成と区画割りを進めた。1ロッテの区画をフラムより少し大きめの30haにし,全分譲地が道路に面するように配置。移住者受入に必要な資材調達,事務所開設,収容所・学校・販売所・倉庫等の建設を進め,1960718日にはアルトパラナ移住地開設式が挙行された。フラム地区の経験を活かして周到に進められた計画であったが,移住者収容施設の建設が間に合わず仮小屋に入るような事態もあったという。

 

移住当初は,他の移住地と同様,自家用野菜,マンデイオカ,ツング,間作にトウモロコシ,棉,大豆を植えることから始めた。1962年にはアルトパラナ農事試験場,1963年にはこれまでの組織を統合して海外移住事業団(後のJICA)が発足しアルトパラナ事業所が設置された。また,カピタンメサに抜ける道路整備や,1965年電話局を開設した。

 

2,000家族の目標が,なぜ331家族に止まったのか

1960年第126家族の入植に始まり,1965年第28次までに331家族1,777人が日本からこの地に入植した。当初の受入目標は2,000家族。移住事業団の努力にもかかわらず,何故331家族の移民に止まったのであろうか。その理由として,日本が高度経済成長期に入ったこと(1964年東京オリンピック開催),移住地ではジェルバ(マテ茶)やツング(アブラギリ)も売れず営農不況に陥り,脱耕者が急増した背景が指摘されている。

 

ちょうどこの頃,未開地区であるカーレンズ地区にパラグアイ人が不法侵入するなどあり,1区画を30haから60haに拡大,1970年代に入ると大豆の価格が高騰し,大豆・小麦を主体にした畑作経営へとシフトする。パラグアイ政府は1972年に国家大豆計画を制定し大豆の作付けを奨励するが,一方機械導入による借入金も増加する。

 

◇超インフレが機械導入による負債を軽減

一方,日本政府は1981年林業開発訓練センター,1984年農業機械化訓練センターを開設支援した。機械導入による負債を軽減させたのは,皮肉なことに南米を襲った超インフレであった。インフレは,借入金の返済を可能にし,さらに大型機械の購入が進み,第二期大型機械化農業時代へと移行する。1983年には農協サイロ,1984年にはトラクタ・コンバインの大量購入がなされている。

 

◇新たな時代へ

そして,1991年ベジャビスタ区役所から独立し,ピラポ市がスタートした。道路も舗装され,学校教育ではバイリンガル,トリリンガルをめざして将来を見据えた後継者教育が進められている。2006年に制定された自然環境保護法(全ての河川の両側100mの植林義務化)に対応して,環境への取り組みも進んでいる。また,大豆を搬出するためのカーレンズ港(パラナ川)整備の夢も広がる。先人が描いた理想郷実現に向けてどう歩み続けるのか。

 

慰霊祭,収穫祭などに訪れる機会が多かったが,昔の良き日本を今に残すコミュニテイが息づいていることをしばしば感じた。

 

参照:パラグアイ日本人移住70年誌(2007

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パラグアイ「大豆栽培発祥の地」(ラパス移住地),いま豊饒の地となった

2011-07-23 09:47:13 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイ日系移住地の話をしよう(3

パラグアイ共和国南部のイタプア県,先に述べたチャベス移住地を過ぎ,幹線であるD線に沿って大豆畑が左右に広がる丘を進むと,日系移住地ラパス(La Pazがある。市の名前を日本語で言えば「平和」,まさにのどかな田舎である。小高い丘には,市役所,農協,小中学校,診療所,日系会館などが並ぶ。国策で進められた移住事業には,勿論日本からの支援もあったが,移住者の弛まぬ努力が「平和」を勝ち得たのであろう。集落には日系人が営む商店もあり,日本語とスペイン語,グアラニー語の会話が行き交う。エンカルナシオンに住んでいた頃,時折ドライブがてら日本食を求めて立ち寄った。また,農協の各種行事でお世話になった。

周辺の日系農家は,大豆と小麦を主に作付けしている。移住後50年が経過し,1世から2世の時代に替わろうとしている。住宅は開拓当初の小さな建物から,今は立派な御殿風建物が多い。中にはみすぼらしい家もあるが,それらは多くが現地人の住まいである。日本人の勤勉さはここでも証明されている。また,勤勉さだけでなく,相互扶助の精神が農協活動や日系人会の活動を支えている。

◇移住地の歴史を「パラグアイ日本移住70年誌」から拾う

1955年(昭30)第4次船で到着した6家族が,フラム(フジ地区)に入植したのがここへの移住の始まりである。

実質的な移住地の歴史は,19569月に日本海外移住振興株式会社(国策会社)を立ち上げ,急増するパラグアイ移住者に対応するため,日本海外協会連合会と日パ拓殖組合と三者一体となって,フラムにパラグアイ初の政府直轄移住地「フラム移住地」を建設したことに始まる。フラム移住地は,フジ,ラパス,サンタローサの3地区から構成されている。

1956年にはラパス地区へ広島県から5家族30名と佐賀県から4家族26名,1957年にはサンタローサ地区へ高知県集団移住21家族と福岡県4家族が入植するなど,1961年(昭36)に入植地が満杯になるまでに367家族が入植している。

入植が開始された1957年頃,この地は原始林に覆われた陸の孤島で,現地受入体制も十分でなかったことからロッテの割振りや食糧の確保も自力でせざるを得ず,携行資金乏しく,農業経験者少なく,生産物の販路もないなど,1年以上無収入が続き生活は苦労の連続であったという。19584月には日本国会に向けて資金援助の嘆願書が出され,日本で「地獄の移住生活」と報道される状況であった。これらのこともあって,環境は徐々に改善されて行った。

◇開墾から50年の農業変遷

入植者はまず原始林を倒し,焼き畑に稲,野菜,マンデイオカ(Cassava,キャッサバ)等を植え,鶏,牛,豚を飼うことから始めた。1960年代にはポメロ(Pomelo,グレープフルーツ),ジェルバ(Yerba mate,マテ茶),ツンク(アブラギリ)を植え,マイス(とうもろこし)に期待をよせ,養蚕の取り組みも行ったが,販売に苦労し,折からの営農大不況で多くの移住者が転出することになった。

その後,1973年に大豆価格の高騰から大豆ブームが起き,大豆は「黄色いダイヤ」と呼ばれる時代が到来する。そして1980年代以降,大豆と小麦の栽培が定着し,この地は豊かな大規模畑作地帯へと発展した。

しかし,この移住地でも定住率は21%。この数値からも開拓移民の苦労が偲ばれよう。

◇大豆栽培発祥の地

ラパスは「パラグアイ大豆栽培発祥の地」と呼ばれる。1957年サンタローサに入植した久岡源二は開墾地に1.5haの大豆を播種した。裏庭に植える自家用大豆ではなく,最初の本格栽培である。1959年にはサンタローサ農協組合長山脇敏麿が訪日して大豆販売ルートの開拓に努め,1960年にイタプア農協連は三菱・住友商事・東洋綿花と500トンの輸出契約を実現している。大豆が輸出作物となった瞬間である。

1961年には,平岩式,田辺式など脱穀機が制作販売され,その後コンバインが導入されるまでこれらの脱穀機は活躍した。1976年イタプア県主催のベジャビスタ大豆祭で,当時のストロエスネル大統領は久岡源二を最初の大豆栽培者として,秦泉寺貞光を大規模栽培・普及に対する貢献から表彰した。これを機に流れは,大豆一色へと向かう。

◇農協,自治組織活動

入植時にフジ,ラパス,サンタローサの3地区で組織された農協は,1970年にはチャベス農協を加えた4農協がフラム農協(1988年改称ラパス農協)となり活動の幅を広げた。自治組織は,1955-1970年の3地区時代,1971-1985年のフラム自治体時代を経て,1986年にラパス市となった。教育,診療所の整備も進み,2003年には南部穀物輸送道路,製粉工場も完成し,豊かな農村地帯が形成された。「地獄の移住生活」報道から50年,今や各分野に多くの人材を輩出しており,この移住地のさらなる繁栄が期待されている。

ちなみに田岡 功氏は,ラパス初代市長,日系農協中央会会長を歴任し,1997年にパラグアイ国家功労章授与,2004年駐日パラグアイ共和国全権大使に任命された。氏は,195814才でこの地に入植した1世である。

参照:パラグアイ日本人移住70年誌(2007),パラグアイ日本人移住50年史(1987

 

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パラグアイの大豆,最初のダイズシストセンチュウ抵抗性品種「CRIA-6,Yjhovy」

2011-07-20 18:15:41 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

 パラグアイで日本人が開発にかかわった,大豆品種の話をしよう(その6

ダイズシストセンチュウ(Heterodera glycines)は,世界各地で発生が確認されているダイズの最も重要な有害線虫です。南アメリカでは,1992年にブラジル,1997年にアルゼンチン,2003年にパラグアイで発生が確認されました。パラグアイでは,その後発生実態モニタリングを実施し,カアグアス県,カニンデジュ県及びアルトパラナ県北部で圃場の汚染が拡大していることが確認しています。

ダイズシストセンチュウに対しては,薬剤での防除がきわめて難しいため,抵抗性品種や非寄生作物の導入(輪作)が防除法として考えられます。中でも,抵抗性品種が有効であることから,パラグアイでは抵抗性品種の開発を緊急課題と考え,地域農業研究センター(CRIA)では1997年から育種を開始し,抵抗性品種の開発を精力的に進めてきました。

このたび,パラグアイ最初のダイズシストセンチュウ抵抗性品種として,CRIA-6Yjhovy」を開発しました。本品種は,本線虫のレース3に抵抗性を示し,カンクロ病にも抵抗性を有する中生の早に属する多収品種です。本品種は,生産者の期待に沿うものと考えます。本稿ではYjhovyの育成経過と特性の概要について紹介します。

なお,本品種は,パラグアイと日本の技術協力プロジェクト(大豆生産技術強化計画1997-2002,ダイズシストセンチュウ及び大豆さび病抵抗性品種の育成 2006-2008)で開発が進められました。また,各地域の適応性を評価するための試験は,パラグアイ国大豆研究プログラムで実施されました。2008年に種苗登録されました。

ちなみに品種名は,抵抗性現地選抜圃場で協力を頂いた方々への感謝を込めて,そこの地名から採りました。

1. 来歴及び育成経過

Yjhovyは,地域農業研究センター(CRIA)において,アメリカ合衆国から導入したBedfordCoker6738の交雑後代を母,ブラジルから導入したFT-EstrelaとパラグアイのALA60の交雑後代を父として1997/98年に人工交配し,以降選抜固定を図ったもので,2007/08年にはF13代に当ります。

F5代までSSD法により世代を進め,2000/01年にF6集団の2,300個体から草型良好な25個体を選抜しました。この間,1997/98年(F1代),1998/99年(F3代),1999/2000年(F5代)には冬季温室において世代促進栽培を実施しました。なお,同年ブラジル連邦共和国マトグロッソ財団研究所に依頼して,ダイズシストセンチュウ抵抗性を検定した結果,8個体が抵抗性を示しました。

2001/02年(F7),2002/03年(F8)及び2003/04年(F9)に系統選抜を続け,2004/05年に実施した生産力検定予備試験の結果を参考にして,中生の早,ダイズシストセンチュウ抵抗性の有望系統CM9718-14-5-1-1にLCM167の系統番号を付しました。2004/05年から2006/07年までの3年間は,CM9718-14-5-1-1及びLCM167の系統名で生産力検定試験及び地域連絡試験を実施するとともに,特性検定試験を実施しました。2005/06年にはカニンデジュ県イホビのダイズシストセンチュウ抵抗性検定圃で抵抗性を確認しました。カンクロ病については2002/03年及び2006/07年の冬季に抵抗性検定試験を実施しました。

2. 特性概要

1)形態的特性

伸育型は有限,胚軸色は緑,小葉の形は円葉,花色は白,毛茸色は褐色,莢色は褐色,種皮色は黄色で,臍色は暗褐色を呈します。

2)生態的特性

試験6場所における3年間の成績によると,開花まで日数は54日で比較品種CD206(COODETEC)と同じ,生育日数は130日でCD206の129日より1日長い中生の早種に属します。主茎長は80cmでCD206と同等,最下着莢位置は17cmでCD206と同等かやや低い。百粒重は13.3gでCD206と同等かやや大きい。収量は3か年平均2,832kg/haで,CD206より5%高い値を示しました。線虫発生が確認されている北部及び東部の4か所平均では3,204kg/haで,CD206より11%多く,収量性は高いと判断されます。

倒伏抵抗性は強,裂莢性は難。子実の外観品質は良好で,蛋白及び脂肪含有率はそれぞれ42.0%,19.7%で,蛋白含有率が高い特性を有します。

(3)病虫害抵抗性

病害虫抵抗性については,カンクロ病抵抗性は強。圃場観察では,炭腐れ病,炭そ病,うどん粉病の被害は少なく,さび病,葉焼病には感受性です。ダイズシストセンチュウのレース3に対して抵抗性を示します。

(4)播種適期

Itapúa県における播種期試験の結果,早播(9月下旬から10月中旬)でも比較的高い収量を示しました。一方,12月中旬以降の晩播では,他の品種と同様に低収となりました。

3. 試験成績(具体的数値は省略)

(1)Cap. Miranda(Itapúa県):2004/05年及び2005/06年は旱魃の影響を受け,収量水準は低くなりました。3年間の平均では,生育期間及び収量はCD206と同等で,OCEPAR14やCD202より多収を示しました。(2)Tomas Romero Pereira(Itapúa県):3ヵ年とも比較品種に比べ低収てした。

(3)Colonia Yguazú(Alto Paraná県):CD206に比較し,生育期間がほぼ等しく,収量は35%多収を示しました。(4)Colonia Yjhovy(Canindeyú県):CD206に比較し,生育日数がほぼ等しく,収量は8%高い値を示しました。(5)Chore(San Pedro県):CD206に比較し,生育日数が2日短く,収量は25%多収でした。(6)J.E. Estigarribia(Caaguazu県):収量水準は高い値を示しました。1年の成績ですが,生育日数及び子実重はCD206とほぼ同等でした。

4. 考察

「中生の早」に属する草型良好な多収品種で,ダイズシストセンチュウのレース3に対して抵抗性を示します。

5. 栽培上の留意点

(1)「中生の早」である。適期播種のほか早播にも適する。(2)ダイズシストセンチュウに汚染された圃場でより能力を発揮する。(3)播種適期は10月20日から11月15日である。(4)アルトパラナ県,カニンデジュ県,カアグス県,サンペドロ県が適応地域である。(5)栽植密度は畦幅45cm,1m当たり10から13個体になるよう播種する。

6. 育成者

Ing.Agr.Eduardo Rodrigues, Ing.Agr.Carlos Chavez, Ing.agr.David Bigler, Bta.Anibal Morel Yurenga, Bta.Antonio Altamirano, Bta.Casiano Altamirano, Bta.Ruben Morel, Bta.Oscar Diaz, Ing.Agr.Michitaka Komeichi y Ing.Agr.Dr.Takehiko Tsuchiya

参照:土屋武彦2008「ダイズシストセンチュウ抵抗性大豆新品種候補LCM 167, LCM 168」専門家技術情報第6号,MAG-JICA

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戦後初の計画移民の地(パラグアイ国チャベス移住地),安穏でない60年の歴史

2011-07-19 19:05:25 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイ日系移住地の話をしよう(2

1人の老人の写真がある。白髪交じりの髪を短く刈り込んだ顔に深い皺が刻まれ,痩躯に精悍さが残っている。知遇を得て,昔話を聞きに通った。持参した文庫本司馬遼太郎「菜の花の沖」を差し上げたら,読書好きな老人は朝まで呼んでいたと,奥さんが後に語ってくれた。「おまえも読んでおけ」と言われたと,これもまた息子さんから聞いた。

 

老人は,日本に帰ることなく2005年に旅立った。その翌年の4月,チャベスの地を訪れ,老人の仏前にお参りしたとき,菜畑の中に立つ老人の写真があった。筆者が撮影したものである。菜の花が一面に大地を覆い,老人が微笑んでいる。「この写真がとても気に入っていました・・・」奥さんがつぶやいた。

 

◇「パラグアイ日本人移住70年誌」から移住地の変遷をみる

1952年,カピタンミランダ隣接の大地主の土地が自作農促進のため解放され,時の大統領の名を付けたチャベス移住地。この移住地には,パラグアイ,ドイツ,ロシア,フランス,ウクライナ,ベルギー等多くの国の移住者からなる。日系人は,1953年コルメナからエンカルナシオンに移住してきた6家族が,この地に入ったのが始まりで,1954年には神戸出航の第1次船9家族59名が入植している(戦後初のパラグアイ計画移民)。

 

その後,第2次船,第3次船と続いたが,現地との連絡が不十分で,初期の移住者は原生林に野営する状況であったという。第4次船の5家族,第5次船の6家族が到着した頃には,チャベスは飽和状態で適地がなく,フラム(フジ地区)に入植する状況であった。

 

1960年の第47次船をもって入植は終わっているが,入植者は総計で日本からは116家族646名,パラグアイ国内移住地からを含めると200家族約1,000名を数える。

 

原生林を開墾し,焼き畑で作物の試作が行われ,1957-58年頃には食糧自給が出来るようになったが,道路事情が悪く生産物の販売に苦労するなど見通しも暗い状況であった。1960年代は経済がデフレ基調にあり,農産物価格も悪く,多くの移住者が農業を捨ててエンカルナシオンやアスンシオンなど都会へ転出し始めた。1970年には,移住地の日系人は71家族426名になったと記されている。

 

1973年,日本では石油危機が経済を襲った年であるが,パラグアイでは大豆価格が高騰し,いわゆる大豆ブーム起こった。これを契機に大豆栽培が拡大する。大型機械を導入した機械化農業が進み富裕な農家が出現する一方,皮肉なことに大型機械化農業は離農者を増加させることになる。高額な大型機械の購入は経営を圧迫し,土地を手放して都会に出る転住者が多数に及んだ。1985年チャベスの日系は32家族194名。その後,出稼ぎなどで2005年には28家族141名となっている。

 

200家族が入植し,現在28家族。これを見ても,移住地60年の歴史が安穏としたものでないことは理解できよう。今でこそ,パークゴルフを楽しむ余裕が生まれ(パラグアイにパークゴルフを導入した井沢さん家のゴルフ場がある),日系2世がカピタンミランダ市議会議員など地域リーダーとして活躍し日系人への尊敬を集めているが,これも多くの先人の苦労があってのことである。他国の移住者と共存し、また共に競いながら,道路を拓き,学校を建て,組合を作り協働した誇り高い日本人の歴史が,ここでは語り継がれている。

 

◇老人は語る

「牧師が来て日曜日は教会に来いという。食べるために働くのが何故悪い。安息日の議論をしながら日曜日も働いた。若い頃は,酒を飲んでは喧嘩もしたが,身寄りもなかったので頑張るしかなかった」

「森を拓いてテント張った。次に,掘立小屋を建てた」

「来る日も来る日も,大木を切り倒し,火をつけ,作物の種子をまいた。幹線(現在の国道6号線)からの道路もなく,雨が降ると歩けなかった」

「靴を手に持って,ぬかるみの道を学校に通い,着いたら足を洗って靴を履いた。原生林の中で帰りの道が分からなくなり樹の上で一夜を明かしたこともある。怖かった」と,娘さんが言葉を添えた。

 

今,この移住地の周辺は,日系のほかにドイツ移民のコロニア,ウクライナやポーランド系のコロニアなど,それぞれの特徴を見せながら発展している。羽振りの良いのは,大豆ブームに乗って大面積を所有する農家の方々。老人の家も現在では大規模な畑作経営に特化している。

 

一方では,現地人と結婚し,日本人であることを隠すように暮らす1世の移住者がいる現実も忘れることは出来ない。田舎の小さな店先で,現地人の風貌をした1人の老婆が店番をしていた。言葉は,スペイン語とガラニー語である。レシーボの7という数字の書き方を見て,「おや?」と思う。日本の書き方である。良く観察すれば日本人と言えなくもない。だが,日本語で声をかけるのも躊躇され,「有り難う,さよなら」とだけスペイン語で挨拶して店を出た。詮索はよそう,日本からの旅人にすぎないのだから。

 

参照:パラグアイ日本人移住70年誌(2007),パラグアイ日本人移住50年史(1987

 

 

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パラグアイの大豆,多収な新品種CRIA-5(Marangatú),グアラニー語で神聖な・気高い

2011-07-16 15:02:31 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

パラグアイで日本人が開発にかかわった,大豆品種の話をしよう(その5

パラグアイの大豆生産は近年増加を続け,2005年には栽培面積190万ヘクタール,生産量は350万トンに達した。同国経済にとって大豆は今や最も重要な農作物である。栽培地域は,主産地のアルトパラナ県,イタプア県,カニンデジュ県に加え,カアサパ県,カアグアス県,ミシオネス県等主産地とは環境の異なる地域でも新たに栽培が増加したことから,それぞれの地域に適応する能力の高い品種の開発が求められている。

 

地域農業研究センター(CRIA)では,これまでUniala及びAurora1997CRIA-2Don Rufo及びCRIA-3Pua-é)(2001を開発し,普及してきたが,このたび新たにCRIA-4Guaraní及びCRIA-5Marangatú2品種を育成した。これら新品種はカンクロ病Diaporthe Phaseolorum f.sp. meridionalis抵抗性を有する早生多収品種として,生産者の期待に沿うものと考える。本稿ではCRIA-5 (Marangatú)の育成経過と特性の概要について紹介する。

 

なお,CRIA-5Marangatúは,パラグアイと日本の技術協力プロジェクト(大豆生産技術強化計画1997-2002)で選抜が行われ,プロジェクト終了後の2004414日農牧省に対し種苗登録申請を行い,200573日商業品種として登録された。ちなみに、Marangatúとはガラニー語で、神聖な・気高い・誠実な・良好な・・・の意味を表す。

 

1. 来歴及び育成経過

大豆品種CRIA-5Marangatúは,CRIAの育成系統であるLCM114を母,ブラジルから導入したFT-Cometaを父として1994年に人工交配し,以降選抜固定を図ったもので,2003/04年にはF11代にあたる。なお,LCM114は,Paraná Bossierの交配後代から選抜した系統で,草型が良く良質・多収であったが,カンクロ病抵抗性がなかった。

 

F5代までSSD法により世代を進め,1997/98年にF5集団から草型良好な個体を選抜し,冬季にカンクロ病抵抗性に関する検定を実施し,翌1998/99年には32系統を系統選抜に供試した。なお,この間 1997年には冬季温室で2世代(F3-F4)の世代促進栽培を実施した。

 

1998/99年(F6),1999/00年(F7)及び2000/01年(F8)に系統選抜を続け, 2000/01年に実施した生産力検定予備試験の結果を参考にして,有望系統CM9412-10-4-2-1LCM151の系統番号を付した。2001/02年から2002/03年にかけて,LCM151の系統名で生産力検定試験及び地域連絡試験を実施するとともに,特性検定試験を実施した。カンクロ病抵抗性検定は、1998/99年及び2001/02年の冬期に実施した。

 

2. 特性概要

1)形態的特性

伸育型は有限,胚軸色は緑,小葉の形は円葉,花色は白,毛茸色は褐色,莢色は褐色,頂部花梗の莢つき良好。種皮色は黄色で,臍色は暗褐色を呈し,概観品質はよい。

 

2)生態的特性

3か所2か年の成績によると,開花まで日数は60日でBR16よりも3日短く,生育日数は133日でBR16131日より2日長い早生種に属する。主茎長は90cmBR16より長く,最下着莢位置は16cmBR16と同等。百粒重は13.3gBR16より小さい。収量は3,187kg/haで,BR16より2%高い値を示した。倒伏抵抗性は強,裂莢性は難。子実の外観品質は良好で,蛋白及び脂肪含有率はそれぞれ40.8%, 21.9%である。

 

3)病虫害抵抗性

病害虫抵抗性については,カンクロ病抵抗性は強,斑点病,うどん粉病の被害は少ない。さび病には感受性である。

 

4)収量性

試験を実施した4か所のうち,旱魃の被害が著しかった1か所を除く3か所平均収量は3,187kg/haで,BR16と同等の多収であった。

 

3. 試験成績(具体的数値は省略)

1CRIA, Cap. MirandaItapúa県):2001/02年は旱魃の影響を受け収量水準は低かったが,BR16よりやや多収であった。2か年平均では,生育期間はBR16より2日短く収量はBR16並であった。2San Juan BatistaMisiones):1年のみの試験であるが,旱魃の影響で極めて低収であった。3CETAPAR, YguazúAlto Paraná):生育期間はBR16より5日長く,収量はBR16並の多収であった。草丈がBR16より約30cm長い。(4YjhovyCanindeyú県):生育期間はBR16に比較し2日長いが,収量はBR16より9%高かった。

 

4.考察

分枝及び莢数が多く,草型良好な早生種である。また,子実の概観品質も優れる多収品種である。早播から晩播まで播種期の適応幅が広く,収量は安定している。

 

5. 栽培上の留意点

1)早生種である。適期播種のほか早播や晩播にも適応する。

2)栽植密度は畦幅40cmから45cm1m当たり10から13個体になるよう播種する。

 

6. 育成者など

Ing.Antonio Schapovaloff, Dr.Eduardo Rodrigues, Ing.Carlos Chavez, Ing.Dario Pino, Ing.David Bigler, Agr.Anibal Morel, Ing.Michitaka Komeichi, Ing.Hide Sawahata y Dr.Takehiko Tsuchiya.

Ayudantes Campo: Bta.Antonio Altamirano, Bta.Casiano Altamirano y Bta.Oscar Diaz.

Institucion Vinculada: Ing.Yoshio Seki y Ing.Manuel Mayeregaer.

 

参照:土屋武彦2006「大豆新品種CRIA-4GuaraníCRIA-5Marangatúの育成」専門家技術情報 第1MAG-JICA

 

 

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パラグアイの大豆,4粒莢の多い早生品種CRIA-4(Guaraní)

2011-07-16 10:47:37 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

パラグアイで日本人が開発にかかわった,大豆品種の話をしよう(その3

パラグアイの大豆生産は近年増加を続け,2005年には栽培面積190万ヘクタール,生産量は350万トンに達した。同国経済にとって,大豆は今や最も重要な農作物である。栽培地域は,主産地のアルトパラナ県,イタプア県,カニンデジュ県に加え,カアサパ県,カアグアス県,ミシオネス県等主産地とは環境の異なる地域でも新たに栽培が増加したことから,それぞれの地域に適応する能力の高い品種の開発が求められている。

地域農業研究センター(CRIA)では,これまでUniala及びAurora1997),CRIA-2Don Rufo)及びCRIA-3Pua-é)(2001)を開発し,普及してきたが,このたび新たにCRIA-4Guaraní)及びCRIA-5Marangatú)の2品種を育成した。これら新品種はカンクロ病Diaporthe Phaseolorum f.sp. meridionalis抵抗性を有する早生多収品種として,生産者の期待に沿うものである。本稿では CRIA-4Guaraníの育成経過と特性の概要について紹介する。

なお,CRIA-4Guaraní)は,パラグアイと日本の技術協力プロジェクト(大豆生産技術強化計画1997-2002)で選抜が行われ,プロジェクト終了後の2004414日農牧省に対し種苗登録申請を行い,200573日商業品種として登録された。

1. 来歴及び育成経過

大豆品種CRIA-4Guaraní)は,地域農業研究センター(CRIA)において,アメリカ合衆国から導入したSRF300を母,ブラジルから導入したBR38を父として1992/93年に人工交配し,以降選抜固定を図ったもので,2003/04年にはF12代にあたる。

F4代までSSD法により世代を進め,1995/96年にF4集団の2,300個体から草型良好な104個体を選抜した。なお,この間 1994/95年(F3代)には冬季温室での世代促進栽培を実施した。1995/96年(F4代)には冬季温室でカンクロ病抵抗性検定試験を実施した。

1996/97年(F5),1997/98年(F6)及び1998/99年(F7)に系統選抜を続け, 1998/99年に実施した生産力検定予備試験の結果を参考にして,早生,長葉,倒伏抵抗性の有望系統CM9201-9-4-5LCM142の系統番号を付した。

1999/00年から2002/03年までの4年間は,LCM142の系統名で生産力検定試験及び地域連絡試験を実施するとともに,特性検定試験を実施した。1999/00年冬期にはカンクロ病抵抗性を確認した。

2. 特性概要

1)形態的特性

伸育型は有限,胚軸色は緑,小葉の形は長葉,花色は白,毛茸色は褐色,莢色は暗褐色,種皮色は黄色で光沢があり,臍色は黒色を呈する。

2)生態的特性

育成場所(CRIA)における4年間の成績によると,開花まで日数は55日でPua-éよりも6日短く,生育日数は125日でPua-é134日より9日短い早生種に属する。主茎長は71cmPua-éと同等かやや短く,最下着莢位置は17cmPua-éと同等。百粒重は16.1gPua-éと同等。4粒莢が多い。収量は4か年平均3,250kg/haで,Pua-éより9%高い値を示した。倒伏抵抗性は強,裂莢性は難。子実の外観品質は良好で,蛋白及び脂肪含有率はそれぞれ41.9%, 21.5%で,蛋白含有率が高い。

地域連絡試験を行った3か所平均では,生育期間が116日でPua-éより7日早い早生種,収量は3,393kg/haPua-éと同等であった。

3)病虫害抵抗性

病害虫抵抗性については,カンクロ病抵抗性は強,炭そ病,斑点病,うどん粉病の被害は少ない。さび病,葉焼病には感受性である。

4)収量性(具体的数値は省略)

試験を実施した4か所のうち,適応地域と考えられる3か所平均収量は3,393kg/haの収量で,Pua-

と同等であった。生育期間が3か所平均で116日であり,Pua-éより7日短い早生種であることを考慮すると,収量性は高いと判断される。

3. 試験成績(具体的数値は省略)

1CRIA, Cap. MirandaItapúa県):2001/02年及び2002/03年は旱魃の影響を受け,草丈が短く,特に2001/02年は低収となった。4年間の平均では生育期間がPua-éに比較し9日短いが,収量は9%高かった。

2San IgnacioMisiones県):旱魃の影響で2001/02年は極めて低収量であった。Pua-éに比較し,生育期間は2日短く,収量は同程度であった。

3CETAPAR, YguazúAlto Paraná県):3年間とも収量水準は高かった。Pua-éに比較し,生育期間が8日短いが,収量は同等かやや多収を示した。

4YjhovyCanindeyú県):生育期間は短いが,概して収量水準は高かった。Pua-éに比較し,生育期間が4日短く,収量は2年が同等で2年が低かった。

4. 考察

早生で草丈が低く,倒伏抵抗性の長葉品種であることから,密植栽培で能力を発揮する。また,肥沃度の低い土壌より高い土壌での栽培に適している。

5. 栽培上の留意点

1)早生種である。後作トウモロコシとの輪作用に有効である。(2)土壌肥沃度が中から高い土壌で能力を発揮する。(3)播種適期は1020日から1115日である。(4)イタプア県北部,アルトパラナ県,カニンデジュ県,アマンバイ県が適応地域である。(5)栽植密度は畦幅25cmから30cm1m当たり12から15個体になるよう播種する。

6. 育成者など

Ing.Antonio Schapovaloff, Dr..Eduardo Rodrigues, Ing.Carlos Chavez, Ing.Dario Pino, Ing.David Bigler, Agr.Anibal Morel, Ing.Michitaka Komeichi, IngHide Sawahata y Dr.Takehiko Tsuchiya.

Ayudantes Campo: Bata.Antonio Altamirano, Bta.Casiano Altamirano y BtaOscar Diaz.

Institucion Vinculada: Ing.Yoshio Seki y Ing.Manuel Mayeregaer.

参照:土屋武彦2006「大豆新品種CRIA-4Guaraní)とCRIA-5Marangatú)の育成」専門家技術情報 第1号,MAG-JICA

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パラグアイの大豆,交配による最初の育成品種「CRIA-2,Don Rufo」「CRIA-3,Puaé」

2011-07-15 09:49:37 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

パラグアイで日本人が開発にかかわった,大豆品種の話をしよう(その2

 

1980年代後半から1990年代初めにかけて,パラグアイでは新病害のカンクロ病Diaporthe phaseolorum var. caulivora)が大発生し,猛威を振るった。当時の主要栽培品種であったParaná及びBraggはこの病害に対し感受性であるため次第に姿を消し,最近は抵抗性を有するBR16BR4Embrapa48CD201Aurora等が栽培されている。

 

しかし,これらの品種は,熟期が「中生の早」に属し,収穫時期が重なるため,収穫作業に支障をきたしている。収穫期の幅を広げ生産を安定させるために,カンクロ病抵抗性の早生品種開発が強く望まれている。今回開発されたDon Rufo及びPuaé,前述の要望に応えるものである。2000823日農牧庁に対し種苗登録申請を行い,2001226日新品種として登録認可され,227日には一般公開(ランサミエント)された。

 

なお,本品種の開発は,JICAがパラグアイ国で実施した2つのプロジェクトによって推進された。すなわち,「主要穀物生産強化計画」で交配・選抜を進め「大豆生産技術研究計画」で選抜・評価を行った。また本品種は,収集した遺伝資源の中から交配親を選定して,人工交配技術により遺伝変異を作出し雑種集団の中から有望個体を選抜,更に遺伝的固定を図り農業特性を評価するという,組織化された高度な育種体制の中で開発された。両品種はパラグイ国における最初の交配育成品種として,同国の大豆育種研究史上にその名を留めるだろう。

 

1. 来歴及び育成経過

(1)Don Rufo

Don Rufoは,1991/1992CRIAにおいて,ブラジルから導入したカクロ病抵抗性のPrimaveraを母,アメリカ合衆国から導入したHood75を父として人工交配し,以降選抜固定を図ったもので,2000/2001年には F13代にあたる。

1994/1995年にF3集団から優良個体を選抜し,冬期にカンクロ病抵抗性を検定した。

1995/1996年(F4及び1996/1997年(F5)に系統選抜を実施し,有望な系統(CM9101-66-5)について冬期間2回の世代促進栽培を実施した。

1997/1998年に生産力検定予備試験を実施するとともに,LCM140の系統名で生産力検定試験及び地域連絡試験に供試した。1997/1998年冬期間には,試験用種子の増殖をかねて2回の世代促進栽培を行った。1998/1999及び1999/2000年は,生産力検定試験及び地域連絡試験を継続するとともに,特性検定試験を実施した。

 

(2)Puaé

Puaéは,1992/1993年CRIAにおいて,アメリカ合衆国から導入したSRF300を母,ブラジルEMBRAPAが育成したBR38を父として人工交配し,以降選抜固定を図ったもので,2000/2001年には F13代にあたる。

1994/1995年の冬期温室にF3集団を播種し世代促進を図り,1995/1996年にF4集団から草姿の優れた個体を選抜した。さらに同年,冬期温室においてカンクロ病抵抗性で選抜を加えた。1996/1997年にはF5代系統選抜を実施し,有望な系統(CM9201-103)について冬期間2回の世代促進栽培を実施した。

1997/1998年に生産力検定予備試験を実施するとともに,LCM141の系統名で生産力検定試験及び地域連絡試験に供試した。1997/1998年冬期間には,試験用種子の増殖をかねて2回の世代促進栽培を行った。1998/1999年及び1999/2000年は,生産力検定試験及び地域連絡試験を継続するとともに,特性検定試験を実施した。

 

2. 特性概要

(1)形態的特性

Don Rufo:伸育型は有限,胚軸色は紫,小葉の形は円葉,花色は紫,毛茸色は灰白,莢色は淡褐,種皮色は黄で光沢が有り,臍色は淡褐を呈する。Puaé:伸育型は有限,胚軸色は緑,小葉の形は円葉,花色は白,毛茸色は褐,莢色は暗褐,種皮色は黄白,臍色は褐を呈する。両品種は,花色,毛茸色,臍色などで区別できる。

 

(2)生態的特性(具体的数値は省略)

Don Rufo:育成場所(CRIA)の成績によると,開花まで日数は60日で,Paranáと同等でBR16より5日短い。生育日数は130日で,Paranáと同等でBR16より11日短い早生種に属する。主茎長は79cmでParanáと同等かやや短い。最下着莢位置は21cmでParanáと同等である。百粒重は17gでParanáよりやや大きい。収量性は,3か年平均3,755kg/haでParanáより6%高く,BR16より4%低い。耐倒伏性は強,裂莢性は難である。子実の外観品質は良好で,脂肪及び蛋白含有率はそれぞれ23.3%,40.0%である。

カンクロ病抵抗性は,Paraná,Braggの弱に対して強である。その他,葉焼病,斑点細菌病,ベト病,褐紋病,紫斑病,輪紋病,白絹病に対する抵抗性は中程度である。カメムシ等害虫に対する抗性はない。

Puaé:育成場所(CRIA)の成績によると,開花まで日数は60日でParanáと同等でBR16より5日短い。生育日数は128日でParanáより2日短く,BR16に比べると13日短い早生種に属する。主茎長は85cmでParanáと同等かやや長い。最下着莢位置は20cmでParanáと同等である。百粒は15gでParanáとほぼ同じである。収量性は,CRIAにおける3か年平均が3543kg/haで,Paranáと同等である。 耐倒伏性は強,耐裂莢性は強である。子実の外観品質は良好で,脂肪及び蛋白含有率それぞれ22.5%,40.3%である。

カンクロ病抵抗性は,Paraná,Braggの弱に対して強である。その他,葉焼病,斑点細菌病,ベト病,褐紋病,紫斑病,輪紋病に対して中程度の抵抗性を示す。カメムシなど害虫に対する抵抗性はない。

 

(3)収量性

試験を実施した4地域の平均では,Don Rufo及びPuaéの収量は3,223kh/ha,3,340kg/haで,同熟期のParanáに比べ勝り,中生種のBR16に比べても同等の多収性を示した。 

 

3. 栽培上の留意事項

(1)イタプア県における播種適期は11月中旬,アルトパラナ県では11月初めである。早播きや晩播は,草丈が短くなり収量が低下するので,避けること。(2)Don Rufoの播種量は,65-75kg/haが望ましい。35万~40万本/haの栽植密度になるよう管理する。Puaéは茎長がやや長いので,播種量を65-70kg/ha,栽植密度が33万~37万本/haになるよう管理する。(3)良好な出芽,株立て本数を確保するために,正しい方法で貯蔵された発芽率80%以上の良質種子を使用すること。(4)生育初期の病害発生を防ぐために,殺菌剤による種子予措が望ましい。(5)肥料の種類と施肥量を決めるために,土壌分析を実施すること。(6)播種に当たっては,発芽障害を起こさないよう,種子が肥料に接するのを避けること。

 

4. 育成従事者一覧

Ing.Agr. Antonio Schapovaloff,Ing.Agr. Eduardo Rodriguez,Ing.Agr. Carlos Chavez,Ing.Agr. Dario Pino, Bach.Agr. Anibal Morel,古明地通孝,沢畑秀,土屋武彦。他にAgr.Antonio Altamirano, Agr.Casiano Altamirano, Agr.Mario Diazらが育種事業を支えた。

 

5. Don Rufo,Puaé育成に係わる考察 

Don Rufo及びPuaéの開発は,当時パラグアイで大問題となっていたカンクロ病害に対処するため,緊急かつ重点テーマとして育種プログラムで取り上げられた。すなわち,Don Rufoの場合は,抵抗性品種Primaveraをブラジルから導入し,良質多収品種Hood 75と人工交配するとから始まった。また,Puaéの場合は,アメリカ合衆国から導入した抵抗性品種SRF300とEMBRAPA育成の中程度の抵抗性を有するBR38を人工交配した。

これらの交雑後代は,冬期温室を利用して,幼苗接種検定によりF3またはF4世代の抵抗性個体を選抜した。さらに,カンクロ病抵抗性については,その後もF8,F11,F12世代で接種検定を繰り返し,抵抗性を確認した。爪楊枝接種よる効率的なこの検定方法は,JICA派遣の病理専門家による指導,病理研究分野の協力があってなし得たものである。

 

さらにDon Rufo及びPuaé育成の特徴的な点は,中~後期世代の4世代に及ぶ世代促進(ビールハウスを利用した冬期栽培)である。新品種を求める生産者の声に少しでも早く応えようと,育種効率化を積極的に進めた結果,通常の育種年限より3~4年早く新品種誕生をみるに至った。また,地域適応性評価の段階では,CETAPAR等関係機関の協力を得た。

 

両品種の誕生は,前プロジェクトから現在のプロジェクトへと,育種材料と育技術が順調に受け継がれた成果である。そして,生産現場の期待に応えようと,炎天下で調査に没頭しパラグアイ国研究者及びJICA派遣専門家達の汗の結晶である。ランサミエントの挨拶で農牧大臣が言及したように,多くの分野の連携協力によって成果はもたらされた。

 

[品種名の由来] 

Don Rufo:CRIAの前身である実験農場時代から大豆の試験研究に携わり,現在の大豆育種研究室創以降も加えると計41年間大豆の試験研究に従事した,故Don Rufino Morel Farina(1928-1996)の偉業を称え品種名とした。CRIAにおける大豆試験研究創始期の技術者Rufinoの名前は,パラグアイ国で最初に誕生した交配育成品種の名前として,まさに相応しい。

Puaéスペイン語の precoz(早生)またはrapido(速い)と同意義のガラニー語。この品種の早生(育日数128日)の特性に因んで名付けた。Puaéの名称を付し,パラグアイ国における早生の実用品種としての普及を期待している。

 

参照:土屋武彦2001「大豆新品種の解説CRIA-2(Don Rufo)及びCRIA-3(Pua-e)」,専門家技術情報第2号,MAG-JICA

 

 

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パラグアイの大豆,最初の登録品種AuroraとUniala,日系人が生産する祖国日本の豆腐用大豆

2011-07-14 14:39:37 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

パラグアイで日本人が開発にかかわった,大豆品種の話をしよう(その1

パラグアイで植物品種保護制度に係る基本法が制定されたのが1994年。その登録第1になったのがAurora」(登録番号001)「Uniala」(登録番号002)である。両品種は,19961223日に申請がなされ,1997130日に登録された。登録者は,農牧庁研究局地方農業研究センター(CRIA)である。日本からの技術協力「パラグアイ主要穀物生産強化計画」の成果品でもある。

 

◇来歴

イタプア地方で栽培されていたALA60の変異性に着目し,多収,茎かいよう病(カンクロ病)抵抗性を目標に選抜したものである。

1991/92ALA60の約16,000個体の中から,草姿の良い172個体を選抜。1992/93年に172系統を養成し,草姿が良く,系統内の変異が少ない63系統を圃場で選抜し,冬季に幼苗接種検定で茎かいよう病抵抗性の17系統を選抜。1923/24年には17系統を生産力検定予備試験に供試し,収量性と抵抗性で6系統を選抜。1994/95年,1995/96年に地域適応性試験を行い,ALA-1-40及びALA-2-89が優良であることを認め,それぞれUniala及びAuroraと命名した。

 

Unialaの特性(具体的数値は省略)

長所は,草丈,熟期等が均一なこと。伸育型は有限,花色は紫,毛色は白,葉形は円葉,主茎長はALA60並み,種皮色は黄白で光沢があり,臍色は淡褐,百粒重は18g,外観品質は良い。早中生種に属し,開花期及び成熟期はALA60とほぼ同じ,収量性はALA60並みで高い。茎かいよう病圃場抵抗性は強,脂肪含有率23.0%,蛋白含有率39.6%(全窒素×6.25)である。適応地帯はイタプア地方。

品種名は,形質の均一性,Uniformeを強調して名づけた。

 

Auroraの特性(具体的数値は省略)

長所は,異形個体の混じりがなく,イグアス地方(アルトパラナ北部)で多収であること。

伸育型は有限,花色は紫,毛色は白,葉形は円葉,主茎長はALA60よりやや高い,種皮色は黄白で,臍色は淡褐,百粒重は18gでイグアスではALA60よりやや大きい。中生種に属し,開花期及び成熟期はALA60より4日遅い。茎かいよう病圃場抵抗性は強,脂肪含有率22.9%,蛋白含有率39.6%(全窒素×6.25)である。収量はCRIAではALA60よりやや劣る(3,456kg/ha97%)が,CETAPARでは多収(4252kg/ha108%)であった。適応地帯はアルトパラナ北部。

品種名は,パラグアイで育成した初めての登録品種の意味を込めて「燭光,あけぼの」と命名した。

 

◇品種育成の要因

短期間で育成できた要因を次のように述べている。

 

1.母材のALA60はすでに普及している品種で,優れた個体を含んでいた。

2.選抜の規模を大きくし,良い系統を選抜できた。

3.茎かいよう病による幼苗検定を実施し,生産力予備試験が実施できた。

4.干ばつ年に灌水を行い,多収条件での選抜ができた。

5.AuroraにつてはCETAPARでの試験で高い評価が得られた。

 

Auroraの名前を高めたイグアス農協

Auroraの豆腐加工適性が認められ,イグアス農協はG社と協力して日本への輸出を進めた。この間,ロットの確保や輸送中の品質劣化問題,周辺がGMO大豆に変わる中での非組換え品種Auroraの生産など多くの苦労があったと推察するが,日本では「パラグアイ大豆=オーロラ」と言われるほどに認知度が高まっている。

 

そして今,イグアスではAuroraの生産安定性を高めるための育種が続けられている。

 

育成従事者にはAntonio Schapovaloff, Eduardo Rodoriguez, Antonio Altamirano, Anibal Morel Casiano Altamirano, 古明地通孝,沢畑秀,協力者に関節朗の名前が記されている。

参照:土屋武彦2002「大豆育種専門家技術情報」パラグアイ大豆生産技術研究計画,JICA-MAG

  

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