豆の育種のマメな話

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恵み野「花暦 9月」、恵庭の花-9

2015-09-29 08:54:15 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

9月はコスモス

恵み野では,8月下旬に咲き始めたコスモスが9月に盛りとなる。マリーゴールドや木槿もなお花を残している。ダリアや菊の季節となり,下旬には秋咲きコルチカム(イヌサフラン,Colchicum,ヨーロッパ・北アフリカ原産)が突然地表に現れる。

この花(コルチカム)は不思議なことに,根も葉もない状態で花を咲かせる。開花後に根や葉が伸長し球根に養分を蓄える習性の植物で,北海道では春~夏にみられた葉が枯れ暫くしてから開花する。よく知られているのは,球根や種子にコルヒチンを含み,この成分は細胞分裂を抑え染色体を倍加させる効果がある。

 

 

 

 

 

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旭岳の紅葉をみる(2015年9月下旬)

2015-09-28 08:21:03 | さすらい考

9月下旬のある日,旭岳の「神々が遊ぶ庭(カムイミンタラ)」にいた。登山でなく紅葉鑑賞が目的だったので,ロープウエイで登り,およそ1時間冷気の中を「姿見の池」まで歩いた。生憎の天候で山頂を眺望できなかったが,「チングルマ」の葉は赤い絨毯として広がり,綿毛が風に揺らいでいた。コケモモの実にカメラを向けた。明日にでも雪の訪れがありそうな時節だった(2日後のニュースによれば,この登山道も雪に覆われたという)。

細かい説明は省こう。映像に勝る言葉はない。

 

 

 

 

そして同日,美瑛の白金温泉近くにある「青い池」を訪れた。十勝岳泥流防災のために築いた砂防堤に水が溜まり青い池が生まれ,青く神秘に輝く様が人々を誘っている。この色合いは季節と天候により微妙な変化を見せることだろう。

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恵庭の碑-13,廃校の跡地に残る「松園校跡地記念碑」

2015-09-27 11:47:00 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「碑文」の章

これまでに恵庭で廃校になった学校は,松園小学校,松鶴小学校,盤尻小中学校であろうか。各校の沿革は概略次のとおりであるが,記念碑が残されているのは松園小学校のみである。当時,まちの中心であった学校跡地も忘れ去られる運命にあるのだろうか。少子化,児童数の減少を考えると,学校の統廃合は必然の課題となっている。歴史に名前を留める試みがあってもよい

松園小学校は明治22年(1889)私立松園尋常小学校として西二線南二十二号に開校,明治30年(1897)公立恵庭小学校松園分校として現在地南島松の恵庭開拓記念公園のところに移転,明治32年(1899)分校から独立し公立松園小学校と改称,昭和46年(1971)松鶴小学校と統合し新たに松恵小学校(恵庭市中央)としてスタートするために廃校。跡地には恵庭開拓記念公園が造られ,門柱が残されている。

松鶴小学校は明治34年(1901)私立松鶴尋常小学校として漁太に開校,大正11年(1922)校舎移転(後の林田会館),昭和46年(1971)に廃校し松園小学校と統合,新たに松恵小学校としてスタートした。跡地にはグラウンドが当時の面影を残しているが校舎はなく,恵庭市公民館松鶴分館が建っている。また,跡地の片隅に「林清太郎表徳碑」がある。

盤尻小中学校は明治41年(1908)恵庭尋常小学校盤尻分教場として創設,昭和5年(1930)盤尻尋常小学校,昭和17年(1942)高等科を併置,昭和22年(1947)盤尻小学校,恵庭中学校盤尻分校と改称,昭和39年(1964)盤尻中学校を閉校し恵庭中学校へ統合,昭和40年(1965)盤尻小学校を閉校し柏小学校へ統合した。製材,発電,鉱山などで賑わった当時の面影は歴史に埋もれ,学校跡地はいま市民の森づくり事業「梅の森」(平成12年)として整備され,「盤尻小中学校跡地」の説明板が建っている。

此処では,松園校跡地記念碑を紹介しよう。

 

1.松園校跡地記念碑

恵庭開拓記念公園(恵庭市南島松)は,今はなき松園小学校の跡地を公園化したものである。公園には松園小学校の門柱と二宮金次郎幼年時の像(復元)が残され,その脇に「松園校跡地記念碑」が建立されている。碑文は以下のとおりで,松園小学校沿革と金次郎像復元の由来が記されている。

 

「松園校跡地記念碑 松園小学校の沿革

明治十九年山口県岩国地方の団体移民六十五戸 ついで同二十年同県長門の萩藩士四十五戸が 漁川沿岸地帯に集団入植し 原始の森を伐りひらき よし原を開墾し 部落草創の基礎固まり開拓緒につく。

しかれども子弟教育機関なくその必要性を痛感し 福本幸次郎氏 田中梅太郎氏 村上勝太郎氏らの尽力実り この地南島松に三十一坪の校舎を建て 萩藩士廻神美成氏を校長として 明治二十二年十二月十八日付を以て設置許可となり 私立尋常小学校を開設するに至る。

校名「松園」は萩のいだいな教育者吉田松陰先生の名前にあやかって名付けたという。

明治三十九年九月公立校となり同四十年四月村内唯一の高等科併置校となり 役場所在地の学校として 教育文化の中心的機能を持ち 名実ともに中心校として 人材の養成に当った。

時は移り世は流れ 八十二年にわたる 輝かしい歴史と共に 五千五百有余の有為な卒業生を社会に輩出し 昭和四十六年二月二十日学校統合のやむなきに至る。

復元の由来

元松園小学校の跡地が開拓記念公園となるにあたり 恵庭の開拓と共に八十有余年の歴史ある母校をしのび当時の遺跡を後世に伝えんと同窓生有志相寄り期成会を組織し復元す。

二宮尊徳先生幼児の像は 二箇年にわたり同窓生数百名の労資奉仕により 昭和十三年建設し同十七年国策にそい金属回収に応じ 代替品の硬化石像を建立したるも 風化甚だしくこれを青銅の原形に復元 併せて基礎を築造し台座は花崗岩にて再建す。

昭和五十四年八月 元松園校遺跡保存事業期成会」

なお,碑の裏面には元松園校遺跡保存事業資金寄進者氏名が卒業年次(明治35年~昭和49年)ごとに815名,更に協賛御芳名として43名の名前が刻まれた鋼板が填め込まれている。

  

  

 

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恵庭の碑-12,恵庭小「開校百年の碑」と恵庭北高「拓学の碑」

2015-09-25 09:22:47 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「碑文」の章

恵庭開拓以降の歴史を振り返ってみると,既に統合廃校になった学校がいくつかあり,市街地(団地)造成で新しく開校した学校も勿論ある。恵庭には現在,小学校数が8校(恵庭,島松,柏,和光,松恵,若草,恵み野,恵み野旭),中学校が5校(恵庭,恵北,恵明,柏陽,恵み野),高校が2校(恵庭南,恵庭北)ある。

「学校には記念碑や彫像があった」記憶が脳裏を横切るが,一方,恵庭の学校はどうなのだろうと考えると首を傾けざるを得ない。あまり目にしないのだ。開拓から数えて130年に過ぎない歴史だからなのか。

今回紹介するのは,恵庭小学校「開校百年の碑」,恵庭北高等学校「拓学の碑」である。

 

1.恵庭小学校「開校百年の碑」

 

恵庭小学校は,明治20年(1887)「苫小牧曹洞宗中央説教所(現在の大安寺)」に置かれた「私立洞門小学校」を前身とする。山口県から入植した人々が,開拓の苦労の中でも先ずは子供の教育を優先せねばと開いた寺小屋が開基で,恵庭で最も古い歴史を有する。恵庭市福住町2丁目に所在し,近くには恵庭市役所,恵庭市民会館等がある。

正門を入り,校舎に向かって右側隅に櫟や櫻に囲まれて「開校百年の碑」が建っている(写真は2015.9.24撮影)。御影石に刻まれているのは,「開校百年」の文字(恵庭市長 浜垣実 書)。この碑は開校100年記念事業の一環として協賛会により建立されたもので,建立年は昭和61年(1986)のことである。

碑の裏面に刻まれた碑文を紹介しよう。

「碑文 明治二十年 本村地域総代である塩谷栄作 中山久蔵 鈴木善吉氏等により 開拓の生活 困窮といえども 村の発展は子弟の教育にありと山森丹宮氏等十四戸の寄付で 現在の大安寺境内に九坪の校舎を建設し松樹良光氏を嘱託としてその任に当らせた。これ即ち私立洞門小学校であり 恵庭小学校の創設でもある。 爾来 星霜百年 幾多の変遷を経て 町の発展と共に児童は増加の一途を辿り 不撓不屈の校風を身につけた卒業生一万百余名 市内はもとより全国各地で飛躍し活躍している。 本年 創立百年に当たり 同窓会PTA 地域住民が一体となり 先人先輩の功績を讃え 輝かしい二世紀へはばたく母校の隆盛発展を願って この記念碑を建立するものである。 昭和六十一年九月十四日 恵庭小学校開校百年記念協賛会」

恵庭小学校の沿革について詳細は省くが,恵庭市街地中央に位置する学校ゆえに,当校の歩みは市の発展と密接な関わりをもっている。即ち,明治から大正時代には,松園小学校を分場化,盤尻分教場の設置など市の中心校としての位置づけにあり,また第二次世界大戦後の昭和時代には生徒数の増加から校舎の増築が行われ,柏小学校や和光小学校の分離開校などに寄与してきた。そして平成の時代,ソフト面での充実が図られ熱意ある教育実践が進められていように思う。

当校のHPによれば,教育目標は「おもいやりのある子ども(情),がんばりぬく子ども(意),すすんでまなぶ子ども(知),たくましい子ども(体)だと言う。写真撮影に訪れた日にも,赤い運動帽の子供らは元気な声でグラウンドを走り回っていた。

この碑を建設してから既に30年が過ぎようとしている。この碑の存在を知る市民はいるだろうか,職員や同窓生はこの碑を教育にどう活かそうとしているのだろうか,子供等は恵庭の歴史をどう学んでいるのだろうか,と思った。碑傍の生け垣には,通行人の誰が投げ込んだのかゴミが捨てられていた。

数えれば,平成28年(2016)が開校130周年。来年のことである。

 

2. 北海道恵庭北高等学校「拓学の碑」

 

北海道恵庭北高等学校は,恵庭市南島松にある道立高校(全日制普通科)である。校舎は外装が白,屋根が赤の4階建て,学校の周辺には畑が広がっている。

校門を入った左側前庭に,樹木に囲まれて「拓学の碑」が建っている(写真は2015.9.21撮影)。御影石に力強い筆致で「拓学」の文字が刻まれ,植村富士雄書(校歌の作詞者でもある)とある。台座に「北海道恵庭北高等学校同窓会」とあるので,同窓会が建立したのだろう。建設年は昭和52年(1977)とあり,更に平成23年(2011)には創立60周年記念事業として改修が行われている。

碑裏面には次の文章が刻まれている。

「農村青年の活動の中に澎湃として湧き上がった高校設立への熱望は炎となって展開し

昭和二十六年六月二十八日 恵北中学校々舎の一隅に恵庭高等学校を開設させ定時制農業科が発足し働きながら志学する青少年に希望の火となった

昭和三十年三月 独立校舎が建設され生徒父母教師と村民は地域ぐるみで学校づくりを続けた

昭和三十六年四月 漁分校が恵庭南高校として独立するや恵庭北高校と改称し衆望に応えて昭和四十七年四月から普通科が新設された 昭和四十九年四月道立移管と共に農業科は募集停止となり

昭和五十一年三月 風雪に耐えて綴った二十六年の歴史を閉じた

開校への悲願とここに育った卒業生の心はこの碑を会して自覚を新たにすると共に後続の生徒の中に絶えず蘇り続けることを

昭和五十二年三月十日」 

この碑文からも分かるように,農村青年の強い拓学の精神から生まれた「恵庭高等学校」が歴史を積み重ね,昭和51年度を以て「定時制農業科」が閉じられるに当り,同窓会が「拓学の碑」を建立したものと推察される。卒業生には,この学校に対する強い思いがあったのだろう。

この「拓学」の言葉は,平成6年(1994)制定の校訓に引き継がれた。即ち,校訓は「拓学~心豊かに,真理を求めて~」とあり,先人が,雄々しく,力強く,豊かに郷土を拓いた,その不屈の精神で,一人一人が久遠の理想,真理を求め,学ぶという意味が込められていると説く。即ち,北海道漁原野開拓の苦難を偲び,太平洋戦争敗戦後の食糧難時代に働きながら志学の希望に燃えた若者の精神を「拓学」の言葉に込めている。

「拓学」の精神は,平成の世にどのように活かされているだろうか。登校する生徒諸君はこの碑の存在をどう思っているのだろう。「拓学」の精神を今に活かしているだろうか。

平成28年(2016),恵庭北高校は創立65周年を迎える。

(注)石碑は学校敷地内にあるので,来訪者は管理者の承諾を得られたい。

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恵庭の古地図-2,「オサツトー(長都沼)」と「マオイトー(馬追沼)」

2015-09-18 11:29:36 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「古地図」の章

国土地理院が公開している恵庭地方最古の地図は,明治29年(1896)製版の北海道庁胆振国千歳郡「長都」(五万分の一)であろうか。

地図を広げて眺める。北西に向けて,千歳村,長都村,漁村,島松村,月寒村,そして北には長沼村が位置している。道路では,「自札幌至函館道」が現在の国道36号線に重なるように斜めに走っているのが目につく。これは,明治6年(1873)に開発された函館・札幌間新道で,「札幌本道」(明治11年太政官布告第364号)と呼ばれた道路である。北端に至札幌,南端に至苫小牧とある。その他に,千歳から岩見沢に至る里道が,大きな沼と湿地帯を避けるように馬追丘陵の裾野を回り込んで描かれている。更に,札幌本道から江別に抜ける里道が,島松村境から月寒村に少し入った山(似井別あたり)から音江別と中之澤を抜けて走っている。この里道も湿地帯を避け山裾を辿っている。その後の地図で出てくる号線道路は未だない。

目を引くのは,「オサツトー」「マオイトー」と表記される二つの大きな沼である。「オサツトー(長都沼)」は支笏から流れる河川がネシコシ原野・長都原野に滞留して出来た沼で,シュクバイ川やイヨマイ川・ヲサツ川も注いでいる。更に,「オサツトー」からはフシュコユーバロとして流れ,漁川と合流したのち千歳川となる。一方「マオイトー(馬追沼)」にはマオイ川,ケヌッチ川が注ぎ込む。両沼の周辺から漁太に至る川の両側,更には千歳川の周辺一帯は広大な湿地帯になっている。現在は豊かな農耕地になっているが,当時は未だ大方が湿原であり,低灌木の地帯であった。前述した里道は形成されつつあるものの,千歳川や漁川が当時の交通手段として重要であったことは地勢図からも理解できる。

例えば,当時の漁村及び島松村周辺の小径は,札幌本道の漁と長都沼下流のカマカを結ぶ線と,札幌本道の茂漁と漁川(南十八号付近)を結ぶものしかない。後者は札幌本道から茂漁川と漁川に沿って北側を走る,いわゆる「松園通り」とでもいえようか。いずれも,川と住居を結ぶ生活上の自然発生的な小径だったのだろう。因みに,その他の小径として確認できるのは,後に孵化場道路と呼ばれる小径のみである。

地図上に示される建造物(住居)は,漁川両岸に40数戸,札幌本道両脇に(漁村地区と島松沢)30~40戸を数えるに過ぎない。恵庭は開拓が始まったばかりの時代である。恵庭市史によれば,明治19年(1886)に山口県和木地方から40戸が漁川の沿岸に入植,明治20年(1887)には萩藩士49戸,明治26年(1893)には加越能開耕社移民100戸余が漁川沿いに入植したとあるが,本地図には未だそれほど多くの戸数を確認できない。測量と図版制作に全戸数が示されなかったのか,入植したが定着しなかったのか。

この地図に示された学校記号はただ一つ,漁川に寄り添うようにある。明治22年(1889)に開設された私立松園尋常小学校である(西2線南22号,明治30年に現在の恵庭開拓記念公園に移る)。その他に,私立洞門尋常小学校が明治20年(1887)大安寺境内に開設され,私立島松尋常小学校(寺小屋)が明治26年(1893)開設されているが,この地図には示されていない。

また,神社記号は現在の「豊栄神社」のみで,仏閣の記号も示されていない。更に,明治26年(1893)には千歳原野植民地の区画割が出来て号線も設定されたとされるが,明治29(1896)年製版の本地図には未だ表記されていない。

この地図は,恵庭開拓創始期の状況を垣間見ることが出来るものと言えよう。

 

一週間前の9月10日(平成27)鬼怒川の堤防が決壊して大きな被害をもたらした。未曾有の大雨は堤防を越え,洪水は家を流し,多くの建物に浸水し,田畑を覆った。多くの人々が懸命な作業をしても,今なお滞水した水は抜けない。報道画面を見ながら,このような災害は何処でも起こり得るのではないかと思った。

恵庭の古図を眺めると,恵庭平地の水位は高く,湿原が広がっていた歴然とした事実がある。このことを忘れる訳にはいくまい。昭和の時代まで長都沼が水を湛え,湿地帯が最近まで残っていたことを覚えているだろうか。漁川,茂漁川など近隣の河川がつい最近も氾濫したことを覚えているだろうか。

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健康づくり講演会,新たな国民病とも言われる「慢性腎臓病(CKD)」

2015-09-17 17:30:07 | 講演会、学成り難し・・・

恵庭散歩-「講演会」の章

9月某日,恵庭市保健センター主催の「平成27年度第1回健康づくり講演会」を聴講した。テーマは「日常生活の工夫で腎臓を守ろう,知って防ごう慢性腎臓病」(CKD)について」,講師は医療法人渓仁会札幌円山病院長 浦 信行氏である。

午前中は快晴の秋日和であったが,講演会が始まる頃には急に雨が降り出し,雷雲と共に激しい雨が駆け抜けた。その様な天候にもかかわらず約70名が出席していた。高齢者ご夫妻の参加が多いのは,健康講座の特徴なのかもしれない。高血圧や糖尿病などポピュラーな病気でなく腎臓病に関する講演会なので参加者がどのくらい集まるか,主催者は危惧したようだが,まあ成功だったのだろう。

講演は,腎臓の構造と働き,慢性腎臓病(CKD)とは何か? から説き始め,原因と治療,生活習慣病との関係についてデータを示しながら説明し,腎臓を守るためにはどうしたら良いか? で,講演を締めくくった。話の内容は単純明快だったが,使用したスライド図は読み解くのに時間を要する(難解な)ものも含まれていたので,聴講者の評価はどうだったのだろう。

それはさておき,腎臓病について理解が深まったのは間違いない。

慢性腎臓病(CKD)とは,慢性に経過する腎臓病の総称であるが,具体的には尿たんぱく(+)や糸球体濾過重(eGFR)の低下などの腎臓機能低下が3か月以上続いている状態を言う。日本のCKD患者数は1,330万人,8人に1人が慢性腎臓病だと考えられており,このうち透析患者数(CKD:5D)は31.4万人,全国民の400人に1人の割合になると言う。しかも,透析患者数は年々増加しており,実は深刻な疾患の一つである。

慢性腎臓病は,高血圧,糖尿病,メタボリックシンドロームとの関連が深いことが明らかになり,喫煙がリスクを高める事もデータで示された。また,初期段階で自覚が無いことも病気を進行させる要因であると言う。そして,慢性腎臓病には人工透析が必要になり,糖尿病性腎症や慢性糸球体腎炎では予後の生存率も大きく減少する。更に,慢性腎臓病は心臓病や脳卒中などのリスクを高める事も明らかになってきた。

では,どのようにして自分の腎臓の状態を知ることが出来るのか? 腎臓を守るために出来ることは何か? 状態把握には健診が欠かせないこと,予防には肥満解消,禁煙,高血圧や糖尿病の治療などリスク要因を軽減することに尽きる,との解説があった。

常に感じることだが,高齢の聴講者の何と真面目なことか。メモを取りながら熱心に耳を傾けている。己の意志で参加したからか,高度成長期を乗り越えてきた世代がなせるのか,老いてなお知識欲が旺盛な聴講者を眺めていると,エネルギーが沸々と滾るのを感じる。

講演会で聴講後にいつも思うのは,知っているつもりでも知識は生半可(講演会では講師が専門知識を体系づけて解説する)と自己反省し,今日も一つ新しい知恵を得たと少しの満足感を覚えること,更に言えば,1時間半も集中し続けることが出来たという小さな悦びであろうか。

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近畿大学バイオコークス研究所公開講座「エネルギーを考える」

2015-09-14 17:38:25 | 講演会、学成り難し・・・

恵庭散歩-「講演会」の章

9月某日,「近畿大学公開講座2015in恵庭」を聴講した。

メインテーマは「環境・エネルギーを活かして・・・」と設定され,二つの講演が行われた。近畿大学理工学部機械工学科講師岡田志麻「心身のエネルギー回復,睡眠について考える」と,近畿大学バイオコークス研究所副所長・生物理工学部人間工学科教授澤井徹「暮らしの中のエネルギー」である。定員100名の聴講者で会場は埋まった。

岡田講師は,「睡眠」を「心身のエネルギー回復」と考え,心身の健康を保つためには睡眠が必要不可欠であること,睡眠とは何か,睡眠の測り方と評価の仕方,十分な睡眠のとり方について語った。

澤井教授は,地球環境問題に対応するために我々が出来ることは日々の暮らしの中にあるので,衣食住のライフスタイル見直しで省エネを実践すること,環境に配慮した製品やエネルギーを選択することなど,具体的事例を示しながら解説した。環境との共生のために(持続可能社会のために)は,「視野は地球規模,行動は足元から」の視点が重要であると強調した。

即ち,

1.ライフサイクルアセスメント(LCA):製品が環境に与える影響は全過程(原材料採取,製造,流通,使用,廃棄)を通して定量的に評価する手法が大事である。「カーボンフットプリント」の取り組みが進んでいるが,更に幅を広げ「環境フットプリント」の検討が必要であること

2.国内の温室効果ガス排出の状況:二酸化炭素排出量は,産業部門(33%),業務部門(21%),運輸部門(18%),家庭部門(16%)の割合にある。近年,産業部門における抑制努力は見られるが,業務部門と家庭部門では増加していること

3.家庭生活の省エネ対策:例えば食品選びでは旬産旬消・地産地消が望まれるが,フードマイレージとLCAを評価しなければならないこと,例えば住生活においてもエネルギー消費の地域差を考慮すること,ウッドマイレージの考え方が必要なこと

4.地域のバイオマスを生活空間で利用:バイオマスエネルギーは炭酸ガス循環が可能なことから間伐材ペレットの実用化が進んでいること,更に森林を元気にする活動(植林活動,木材活用,木育)を通じ森林保全・国土保全が大事であること

などが提示された。

昨今の地球温暖化,異常気象を考える時,省エネに対する私たち個々人の意識(知識)と行動が大事であることは間違いない。海洋温度の上昇,暴風雨の襲来,大雨被害など今年も変動の大きい天候だった。昨今,「大雨だ,旱魃だ」と地球規模の気象が緊迫な状況になりつつあることを感じざるをえない。さあ,どうする? 

しかし,人間は愚かな一面を併せ持ち,経済行為の中では理屈を忘れやすい。車を売るために食糧を買えばよい。北欧や東南アジア・南米から木材を輸入し,日本の山は荒廃しても構わない。更にスーパーマーケットでも考える,北海道で採れる鮭は香港・中国へ行き,北海道にはノルウエーとチリの鮭が並ぶ。何故だ?

 

因みに,本年6月13日にも近畿大学の公開講座があった。その時のメインテーマは「生活を明るくする力」,近畿大学理工学部長補佐・理学科化学コース教授山口仁宏「光る有機化合物」及び近畿大学医学部長・医学部医学科教授伊木雅之「骨折予防で健やか長寿」の2講演であった。この時も定員100名一杯の聴講者があった。

近畿大学バイオコークス研究所が主催する公開講座である。同研究所では近年,地域社会貢献を意識した取り組みを積極的に進めている。

同研究所は恵庭市南島松にある。拙宅をこの地に建築した頃(25年前),家の裏には広大な空き地があり近畿大学農学部の用地であると聞いていたが,そのうちに農学部移転は取りやめになり一部は住宅地に,一部は実験農場(資源再生研究所)になっていた。近畿大学では平成20年(2008)に次世代バイオ固形燃料の開発を目指すバイオコークス量産実証実験センターを開設し,平成24年(2012)には農学部所管の資源再生研究所と理工学部所管のバイオコークス量産実証実験センターを統合して,バイオコークス研究所を開設した。同研究所の基礎研究基盤は近畿大学東大阪キャンパスにおかれ,恵庭では農業用バイオコークスボイラーによる熱利用に関する実証研究(応用研究基盤,田中尚道教授)が主体になっているようだ。

空き地には,いつの間にかソーラーパネルが列を連ねている。

拙宅を建築したときの思い,此処に大学が来るのだという夢(環境)は幻となったが,持続・再生可能な固形燃料実用化研究の拠点になると言う。地域企業団体との連携を深め,研究成果が飛躍せんことを切に期待したい。

(写真は「近畿大学バイオコークス研究所」しおり表紙を複写)

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北海道文教大学「平成27年度公開講座」を聴講して

2015-09-13 18:02:30 | 講演会、学成り難し・・・

恵庭散歩-「講演会」の章

北海道文教大学の公開講座を聴講する機会があり,8月下旬~9月上旬に5回ほど恵庭市黄金中央にあるキャンパスへ通った。学生気分で講義を聞くのは何年ぶりのことだろうか。

この大学は,拙宅から徒歩で約40分の距離にある。前身は「北海道栄養短期大学」で,さらに遡れば第二次世界大戦中の昭和17年(1942)創設の「北海道女子栄養学校」であると言う。この大学について多くの知見はないが,かつて恩師高橋万右衛門先生が定年後にこの学校の学長だったので,名前を聞いたことはある。先生は,「これから日本の企業も国際化する。優秀な秘書を育てる秘書学科を置きたいだよ」と語っていたのを思い出す。

現在は,外国語学部(国際言語学科,英米語コミュニケーション学科)と人間科学部(健康栄養学科,理学療法学科,作業療法学科,看護学科,こども発達学科)からなり,大学院としてグローバルコミュニケーション研究科と健康栄養科学研究科(共に修士)を設置している。

平成27年度公開講座は,一般社会人を対象とした生涯学習を支援する目的で,「ことばと心と身体の豊かさとは」を講座の共通テーマにしたと謳っている。具体的には,「特別学術講演」「小説と漢詩の旅」「長い人生を健康に過ごすために」「親子の絆をより豊かに」の4講座からなり,「小説と漢詩の旅」では4講義,「長い人生を健康に過ごすために」では10講義,「親子の絆をより豊かに」では3講義が計画されていた。何れも同大学の特徴を活かしたプログラムである(同校の教授陣が講義を担当)。

聴講した講義は,

黒澤秀樹「骨粗鬆症・ロコモテイブシンドローム・廃用症候群」

草野真暢「喫煙を考える」

池田仁「老化と寿命を科学する」

大山徹「ノロウイルス~食中毒と感染について」

続佳代「薬と上手につきあう」

何れも,最近の情報を得ることが出来,有意義な講義であった。その他,佐藤登代子「健康法としての太極拳」,小塚美由紀・山田美智子「やさしい薬膳カレー(調理実習)」等も人気があったと聞いた。なお,国際言語学科の公開講座(佐藤進「江戸時代の木版本で漢詩を読む」,中村至「宇江佐真理・時代小説の名作発見」,神谷忠孝「三浦綾子文学について」,黒坂満輝「漢詩から探る中国人の情感」)も興味があったが,残念ながら日程調整がつかず出席していない。

因みに,昨年度も公開講座があり以下の講義を聴講している。

榊原千佐子「認知症の予防と介護」

木村一志「脳はどのようにして出来上がるか」

池田官司「認知症を起こす病気」

渡辺明日香「心と体をリラックス」

聴講者(各講座100名定員)は近隣市町村の市民,中でも多くは地元の恵庭市民だったのだろう。多くは60~70代の高齢者であったが,全員が講師の話に身を乗り出すがごとく聞き入っている。「老いてなお学ばん」とする姿勢は尊敬に値する。新しい情報に「自身の体験を重ね合わせるように聞いているのだな」と感じた次第。この年齢の人々は真面目な世代なのだ。

さて,地域社会と共生する大学(地域に開かれ,地域に貢献し,地域に理解される)であろうとする取り組みは,住民にとっては非常に有難い。是非,地域住民(社会人)を受け入れる多くの機会を設定して頂きたい。その形態は多様だろうが,大学の特徴を活かした社会人参加型のセミナ等が企画されると面白い。

ところで,地域に開かれた組織で在ろうとする試みはいつ頃発生したのだろう? 

記憶を辿れば,例えば農業試験場では平成4~6年(1992-94)頃に議論され,公開デーを開始したのは凡そ20年前の平成7~8年(1995-96)であった(中央農試・道南農試:平成7年,上川農試:平成8年など)。その後,各地域で新技術発表会が行われ,地域連絡協議会等の組織化が進んだ。それを受けて,産学官連携の動きが活性化した経緯がある。

大学における取組は比較的新しいと思われるが,各大学で多様な催しが企画実行されていることは喜ばしい。

来年も聴講したいものだと思いながら,漁川の堤防を歩いて帰途についた。

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パラグアイからの情報「大豆の天候相場」

2015-09-07 09:57:53 | 南米の大豆<豆の育種のマメな話>

2015年9月某日,札幌にあるシュラスケリア(ブラジル風焼肉店)で会食があった。北海道パラグアイ協会(会長堀内一男)が主催する「田岡功氏来札幌歓迎夕食会」である。田岡氏は前パラグアイ国駐日大使(現大統領顧問)で,日系農業協同組合中央会会長理事でもある。同国のFECOPROD(生産協同組合連合会)会長,ECOP(貿易生産企業)副社長ら3名が同行していた。

ここで,FECOPRODはわが国の「全国農業協同組合中央会」のような存在,ECOPはパラグアイ生産部門へ燃料及び肥料の供給(サービスステーション),農産物の輸出をサポートする企業体である。訪日の目的は,農業生産組織の視察と関係構築にあったのだろう。

夕食会はごく非公式なものだったため,親睦的な意味合いが強かった。時折に田岡氏が通訳されたが,隣席者との会話は殆どがスペイン語,日本語が混淆し和気あいあいの雰囲気であった。北海道パラグアイ協会の出席者は6名,何れもパラグアイ生活体験者であるが,「スペイン語が出て来ないねえ」と錆びついた頭を叩きながらの会話であった。そんなわけで,話題は食事のこと,パラグアイ生活のことなど簡単な会話の範疇に止まった。

帰宅してから,「大豆価格が低下している」と語ったECOPロナルド氏の言葉が気になって,シカゴ相場をトレースしてみると,大豆価格は2014年10月頃からトン当たり350~380 USドルに下落している。ここ数年(2011~2014)が450~550ドルであったことに比べれば,20~30%減で話題になるのも分らぬことはない。が,それ以前の1980~2010年は200~250ドルであった。

CBOT(シカゴ商品取引所)の情報は多数の機関が逐次発信しているので,誰でもその変動を把握することが出来る。近年の穀物価格の高騰は多様な要因があるが,次の点が指摘されるだろう。

2003年:米国の高温・乾燥,中国輸入急増

2011年,2012年:米国の高温・乾燥(旱魃)

暫く高騰基調が続いたが,2013年,2014年の豊作で低減した。即ち,2014年5月以降,米国大豆の順調な生育と南米の豊作見込みが報じられたことによる影響だろう。需要が伸びていることもあり大豆価格は高値状態が続くだろうが,天候と作物の豊凶予測で大きく変動するに違いない。

かつて,パラグアイのラパス農協の専務が語った言葉を思い出す。

「私の仕事は,シカゴ相場を見て,大豆をいつ売るか決めることだ・・・」と。

昔を思い起こさせる夕食会であった。

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