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タウンゼンド・ハリス,教育と外交にかけた生涯

2015-11-20 15:10:46 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆下田歴史人の章

タウンゼンド・ハリス(Townsend Harris,1859-1862),私たちは彼のことを「日米修好通商条約の締結に尽力した初の駐日総領事」として記憶している。いわゆる外交官としての顔である。言い逃れや先延ばしを画策する幕府役人に対しては米国の国益を背負ったタフな交渉人であり,孤独の地で病を得ながらも日本を理解することに努め,時が経つにつれ幕府の信頼を勝ち得た一人の外交官としての姿である。

更に,下田の人々はハリスの名前から領事館が置かれた玉泉寺や柿崎の浜(ハリスの小径)を思い出すかもしれない。或いはまた,「唐人お吉物語」からハリスの姿を思い描く人もいるだろう。いずれにしても,黒船で揺れた江戸末期に門戸開放を目指して活躍した外交官としてのハリスである。

しかし,ハリスには別の顔があった。教育者としての顔である。

先日,横浜馬車道にある「県立歴史博物館」を訪れた際,一冊の本(新書版)に出会った。中西道子著「タウンゼンド・ハリス,教育と外交にかけた生涯」(有隣堂273p,1993)である。早速購入して,帰りの飛行機で読み始めたがなかなか面白い。

表紙の中扉には「タウンゼンド・ハリスは,初の駐日総領事として来日する以前に,一陶器商でありながらニューヨーク市教育委員会委員長となり,貧困層の子弟のための無月謝高等学校(フリー・アカデミー)の設立に心血を注いだ。広く門戸を開いたこの学校は,発展してニューヨーク市立大学(シテイ・カレッジ)となり,多くの人材を輩出してきた。本書は,アメリカの資料をもとに,教育にかけたハリスの活動の軌跡を初めて詳細に跡づけ,併せて日米修好通商条約の締結という第二の門戸開放に全力を傾けたハリスの孤独な闘いの経緯をたどり,一ニューヨーク市民としてのハリスの人間像を描き出そうとしたものである」とある。

著者の中西道子は,横浜生まれの比較文化史研究家で教鞭も執られているようだが,海外資料を読み込んだ豊富な記述によって,ハリスの人間性を髣髴と描き出している。この書は,浅学にして知らなかったハリスの一面を教えてくれた。ハリスの生涯を辿る旅に導いてくれた。詳細については本書に委ねることにして,以下にタウンゼンド・ハリスの年譜を整理しておこう。

タウンゼンド・ハリスの生涯

(1)人格形成期

1804年(0歳):タウンゼンド・ハリスは,10月4日ニューヨーク州北部のサンデイ・ヒル(現,ハドソン・フォールズ町)において,父ジョナサン,母エリノア・ワトソンの五男として生まれた。父は独立軍士官であり,帽子屋を生業としながら村長を務めた人物である。先祖はウエールズ出身。

1818年(14歳):家が貧しかったため,中学校卒業後ニューヨークに出て繊維業店に徒弟として住み込む。

1820年(16歳):兄ジョーンが開いた陶器輸入店を,長兄フレイジャーと二人で任されて商う。

1835年(31歳):12月ニューヨーク大火があり,一家はオスウエゴに引っ越す。兄ジョーンと合流しハリス兄弟商会を立ち上げ,兄は輸入,タウンゼンドは販売を分担する。父親亡きあと一家の長として母エリノアと暮らし(母が85歳で亡くなるまで),姪たちを養育する。商売のかたわら独学でスペイン語,フランス語,イタリア語を習得。ベンジャミン・フランクリンやトーマス・ジェファーソンに憧れ影響を受ける。貧困家庭子女の教育・医療・消防など社会活動に熱心で,進歩的な民主党員,敬虔なキリスト教者(聖公会)となる。

(2)教育委員会委員長時代<フリー・アカデミー創設にかけた生涯>

1842年(38歳):ニューヨーク市教育委員会発足,九区の代表を務める。

1846年(42歳):ニューヨーク市教育委員会委員長となる。「高等教育アカデミーまたはカレッジ設置のための特別検討委員会」を立ち上げ,無月謝の高等教育機関(フリー・アカデミー)設置に向けた論陣を張る。移民貧困層にも教育の場を与える必要性を説く。

1847年(43歳):2月10日ニューヨーク市教育委員会総会において,フリー・アカデミー創立案可決される。6月7日ニューヨーク市民投票により,フリー・アカデミー創立案承認される。6月の教育委員会総会で委員長留任,フリー・アカデミー建設特別委員会委員長に選任される(後に,シテイ・アカデミー創立者と称される)。11月4日母エリノア逝去。

1848年(44歳):1月26日ニューヨーク市教育委員会委員長及びフリー・アカデミー建設特別委員会委員長を辞任。母エリノアの逝去で悲嘆に暮れ,飲酒に浸る。

1849年(45歳):1月29日フリー・アカデミー落成式兼第一期生入学式挙行(現,ニューヨーク市立大学シテイ・カレッジ,CCNY,アメリカでもっとも古い公立大学のひとつ。ノーベル賞受賞者9名ほか多彩な人材を輩出)。この年,ハリスは兄ジョージと別れ陶器の商いから身を引く。帆船を借り切り,船主として中国貿易に乗り出す。居留民地域で多くの知己を得るが,商売は成功とは言えなかった。

(3)外交官時代<日本の門戸開放にかけた生涯>

1852年(48歳):東洋貿易を諦め,官職を得ようと運動を始める。上海でペリー提督に面会を求め日本への同行を願い出るが,民間人のため拒否される。

1854年(50歳):8月2日寧波領事に任命。

1855年(51歳):8月4日日本総領事に任命(上院の承認を経た正式任命は1856年6月30日)。

1856年(52歳):4月シャムと修好通商条約締結。8月12日サン・ハシントン号で香港出発。8月21日下田入港。9月3日玉泉寺を総領事館とし移り住む。9月4日星条旗を掲げる。

1857年(53歳):11月23日江戸に向け下田を出発。11月30日江戸へ到着。12月7日江戸城にて将軍家定に謁見。12月12日老中首座堀田正睦公邸で,日米修好通商条約締結が如何に緊急を要するかと4時間にわたり熱弁をふるう。

1858年(54歳):3月6日江戸より観光丸にて下田に戻る。4月18日観光丸で江戸に出立。6月18日帰村。7月27日ポーハッタン号で江戸に向かう。7月29日日米修好通商条約十四ヶ条締結。その後,英・仏・露・オランダ(安政の五か国条約),箱館・神奈川・長崎・兵庫・新潟開港,居住地を置く。7月30日ポーハッタン号で下田に帰村。

1859年(55歳):1月19日公使に昇任。4月7日ミシシッピー号で長崎・香港に旅行する。6月2日,玉泉寺総領事館を閉鎖。7月4日横浜開港(条約では7月1日,ハリスは米国の独立日を開港日とした)。7月7日麻布の善福寺を公使館とする。神奈川の本覚寺に領事館を置く。国際的金銀偏差の是正提言。プロテスタント宣教師の着任に対する配慮(ヘボン,ウイリアムス,ブラウン,シモンズら)。英語教育への貢献。

1860年(56歳):2月9日日米修好通商条約批准書交換のため遣米使節をワシントンに送る。

1861年(57歳):1月15日ヒュースケン暗殺される。外交団代表として幕府の信頼を集め相談役を務めた。

1862年(58歳):5月8日帰国の途に就く(5年9か月の滞在)。英国から王室アジア協会中国支部会員に推挙され,フランスから国立動物学会の名誉会員の称号を贈られる。

(4)引退後の「老大君」と呼ばれた日々

1865年(61歳):11月15日将軍家茂から贈られた「名誉の剣(日本刀)」をグラント将軍に贈る。

1866~1877年(62-73歳)業績を表彰され,議会は生活補助金の支給を可決したが自己資金で慎ましく暮す。公職には就かず,ユニオン・クラブで時を過ごす。ニューヨーク商工会議所名誉会員,史学会,地理学会招請会員。動物愛護協会発起人,アメリカ自然史博物館建設発起人となる。

1878年(74歳):2月25日ニューヨークにて死去。ブルックリンのグリーンウッド墓地に埋葬(享年74歳)。生涯独身であった。墓碑のもとには功績を讃える二つの黒御影石の碑(シテイ・カレッジの創立者として,日本の良き友人として)が建っている。

伊豆下田を訪れ,玉泉寺,宝福寺,了仙寺,下田開国博物館などで「タウンゼンド・ハリス」の名前を耳にする機会があったら,彼には「外交官の他にもう一つ教育者の顔があった」と思い出して欲しい。アメリカでハリスは,初代駐日総領事として活躍した外交官というより,シテイ・カレッジの創立者として知られているのだと言う。両面の軌跡を辿ればハリスの人間性が浮かび上がり,歴史の真実に触れることが出来るだろう。

特に,①貧しくとも教育を受ける権利があると体感したこと(フリー・アカデミー創設の動機にもなる),②商売の中で習得した社交性(外交官時代にも人間関係を利用している),③人好き議論好きで,しかも一徹な性格(フリー・アカデミー創設,外交交渉場面で発揮される),④教育熱心な母から受けた愛情と強い結びつき(生涯独身であった),⑤母との離別や外交交渉の難事に寂しさを紛らす飲酒,⑥敬虔な聖公会教徒でありながら偏見を持たない柔軟性,⑦富に対する執着心の低さ(金儲け主義を軽蔑する性向)等々が,ハリスの人間味を彩っている。

創作上の虚構に満ちた「唐人お吉とハリスの関係」も,新たな側面で捉えることが出来るかもしれない。

参照:中西道子1993「タウンゼンド・ハリス,教育と外交にかけた生涯」(有隣堂)ほか

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恵み野中央公園の「キノコ」たち、恵庭の花-11

2015-11-14 16:58:19 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

11月も中旬,北海道は初冬の季節となった。昨日までの小春日和は嘘のように,今日はどんよりとして冷たい風が頬を刺す。庭木の冬囲いを終え,落ち葉を片付け,暖房用の灯油を満タンにし,雪かき用の道具は玄関フードに準備した。「さあ,いつでも雪よ来るがいい」と,空を見上げた。

雪が降る前に,やり残したことは無かったか? と思いを巡らす。「ああそうだ,キノコの写真を撮ったままだった」と気づいた。

以下は,恵み野中央公園の「キノコ」たちである。僅か1年の観察ゆえに不十分だが,色々な種類が見られ絵になると思った次第。名前を付すのは,次年度以降の写真を追加してからにしよう。取敢えず,秋の名残りに。

◆9月15日,前々日まで続いた雨も上がり,その日は清々しい秋晴れの朝だった。恵み野中央公園を歩いていると,野球グラウンド外野の土手に大きなキノコが生えているのに気付いた。土手の芝生は短く刈り込まれていたので,遊歩道から眺めると,三本のキノコは青空に背伸びしているように見えた。笠が反り返った個体には朝露が溜まっていた。

 

秋の訪れに思いを馳せながら遊歩道を進むと,恵み野中学校近くの椴松の下に朱色のキノコを見つけた。芝草の間に群生し,柄やひだは白いが笠は華やかな朱色に染まっている。

 

◆恵み野中央公園にどのような種類が自生するのか。散歩がてら注意して観察すると,9月~10月にかけて以下の写真のような種類を認めた。いずれも,地面に生える種類である。

 

 

 

◆また,漁川の河川敷には塊に生えるキノコの群生を確認した。更に,苔の絨毯に頭を出す小さな笠のキノコも健気で,絵になる。

 

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「マンリョウ(万両)」が北海道で咲いた、恵庭の花-10

2015-11-10 11:47:37 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

鉢植えの「マンリョウ」

昨年鉢植えしたばかりの「マンリョウ」が,北海道恵庭にある拙宅ベランダで花をつけた。注意しないと見落としそうな可憐な姿である。この植物は,昨年伊豆下田の庭に実生していた苗を持参したものである。

マンリョウの分布地は本州(関東地方以西)~沖縄,中国,台湾,東南アジア,インドなど温暖な地方とされる(鈴木康夫「樹木図鑑」日本文芸社2005など)。北国での越冬は難しいと考え室内で育てたが,冬を越して夏が過ぎた10月末に1本だけが開花した。暖地では,7~8月頃に開花,10~11月頃に赤く熟し,翌年2月頃まで実を残す習性があると言う。が,10~11月の開花は低温下の北海道で生育が遅延したためだろう。結実に至るか否かはまだわからない。写真をご覧頂くと分かるが,昨年の赤い実がまだ残っている。

 

「マンリョウ」(万両,Ardisia crenata)は,サクラソウ科ヤブコウジ属の常緑小低木(樹高は0.3~1m)である。葉は縁が波打ち鋸歯状で互生,花は白,花冠は5つに深く裂け,裂片は反り返る。小枝の先に散形花序をなし,果実は液果で赤い実を着ける(黄色や白色の園芸種もある)。茎は年月を経ても太くならず,根元から新しい幹を出し株立ちとなる特性があると言う。

  

冬に熟する赤い実は濃緑の葉に映えて美しい。和名「万両」は名前の縁起が良いことから,「センリョウ(千両)Chloranthus glabra」とともに縁起物として正月の飾りに使われる。花のない正月にこれらの植物を使う習慣は,クリスマスにヒイラギを使う習慣にも似ている。

今回開花をみた個体(写真)の花色は白にピンクがかかっている。書物やネット情報によれば花色は白となっているので,この個体の花色は明らかに異なる。この個体は,山の暮らしをしていた亡父が伊豆の持ち山から庭に移植した「万両」に由来する実生と考えられる。「万両」は古典園芸植物のひとつで江戸時代に多くの変異種が作出されていることから,伊豆産の自生種由来の園芸品種があったとしても不思議ではない。

また,葉の波打つ形状も大きいように思われるが,品種の違いなのか。ウイルス感染の縮葉ではないかと調べていたら,「万両」の葉が波状に膨れている部分には共生細菌が詰まった部屋があるのだと言う。そうなると,この変異は何とも言えない。

もう一つ,次のような情報もある。「マンリョウ」がフロリダ州で外来有害植物(Exotic Pest Plants)に指定されていると言う。異なった地域に移動した動植物が,原産地とは全く異なった条件で爆発的に繁殖する事例は数多く報告されている事ではあるが,日本における園芸植物「万両」からは想像できない姿である。

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飛騨高山・白川郷・能登半島の旅

2015-11-01 10:33:32 | さすらい考

10月下旬,郡上八幡,飛騨高山,白川郷,金沢,輪島,能登,東尋坊,永平寺を巡る旅に出た。古い街並みを散策し歴史と文化に触れ,温泉に泊まっては身体を癒し土地の食事を楽しもうと言う魂胆である。

幸いなことに全行程とも天候に恵まれ,満足度の高い旅となった。旅は人が多すぎると興ざめ,閑散としていたら寂しいものだが,まあ適度な賑やかさだったと言えようか。

飛騨高山・白川郷・金沢など外国からの旅人も多い。彼らを含め旅人は時代を遡ってゆったりと動いている。古い街並みと風情が旅人を飲み込んでくれるからだろう。これが旅と言うものか。

郡上八幡と飛騨高山

 

 

白川郷にて

 

 

金沢兼六園から能登へ

   

福井にて

   

   

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