豆の育種のマメな話

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伊豆の古道、米山薬師路から稲梓駅へ

2022-03-31 18:27:28 | 伊豆だより<里山を歩く>

拙ブログ宛てにメールを頂いた

・・・鵜島城の検索をしているうちに、貴サイトを拝見しました。私も25年ほど前から下田市の古道を歩き始め、今は南伊豆町へも足を伸ばしています。先日、坂戸の伝「土屋氏の墓」を訪ねたところ、宝篋印塔は藪の中で無残に崩れていました。4月までに坂戸から落合と箕作に下りる古道を歩いてみたいと思います・・・とある。

拙ブログには「伊豆の下田の歴史びと」「伊豆下田里山を歩く」など歴史や古道の記事を載せ、「古道を歩く旅」を提唱していたのでご覧になったのだろう。便りの文面を辿るにつれ懐かしさと伊豆の景色が鮮明に蘇ってきた。そして、感傷は何故か或る一つの事象、故郷から北海道へ出立する朝に米山薬師路から稲梓駅へ歩いた古道の記憶に集約されて行った。

今でも、この古道を辿ることが出来るだろうか?

◆米山薬師の山道

昭和37年(1962)4月4日。北海道の大学へ進学することになり、住み慣れた伊豆の里から新天地への旅立つ日のことである。午前4時30起床、風が強く寒いと日記にある。家族や知人の見送りを受けて(当時の餞別500~1,000円)、バス停「坂戸口」から東海バス(平成30年からコミュニテイバス)に乗車。祖母と妹、叔父が伊豆急行の駅まで見送ると言う。伊豆急行電鉄が開通したのは数か月前(昭和36年12月)だったので、妹たちは電車見たさがあったのかも知れない。

バス停「米山薬師」で下車した私たちは、小高い場所にある米山薬師本堂を目指して上り、本堂を回り込むようにして伊豆急行稲梓駅近くに下った。一つ先のバス停「落合」で下車するより近道らしい。祖母がこの山道を知っていたのか、叔父が知っていたのか、初めて通る古道はかなり急峻で、旅の前途を予感させるかのようだった。

現在の下田街道は稲生沢川に沿って走っている。米山薬師と落合間は切り立つ崖が川に落ち込むような川縁に道路が造られている。掘削した地形から推察すると、自動車道開通以前は山越えしていたに違いない。旅立ちの日に通ったこの道が、箕作から落合に抜ける古道であったのだろうか。

この古道を通ったのは後にも先にも、この時の一回だけだった。時代を経た今、この道を歩く人は誰も居ないだろう。

稲梓から札幌へ

さて、さて、その後、稲梓駅8時07分発に乗車(無人駅となってから久しいが、当時は駅員がいた)。東京までは2時間半、バスに比べて便利になったものだと思いながら上野駅に着く。上野で札幌までの乗車券を購入。特急券が手に入らず、15時10分発の急行に乗る。今なら新幹線か特急でと言うことになり切符の手配も容易だが、田舎住まいだった若者にとっては、切符手配の仕組みも分からず準備する余裕も無かった。ただ、ただ、夜行列車に揺られて目的地を目指すだけ、初の北海道行は苦行の旅となった。

青森に到着する。乗客は何故か桟橋に向け一斉に駆け出す。それは連絡船で寛げる場所を確保するためだと後になって理解する。畳敷きの広間に隙間を見つけて横になる。函館に到着すると、また汽車の座席を確保するためにホームを走る。座席を確保できず、立ったまま札幌行き国鉄車両の客となった。脚の疲れも限界に近く、通路に腰を下ろす。森駅を過ぎ長万部の辺りだったろうか、ぼんやりと車窓に眼をやれば雪が舞う殺伐とした景色。温暖な奥伊豆育ちの若者は「遥々遠くに来たものだ」の感を強くした。上野~札幌間を約25時間かけて4月5日16時06分に到着。今から60年前の道中の顛末である。

米山薬師について

下田市箕作の米山薬師(砥石山米山寺、伊豆八十八霊場四十六番札所)については、以下のような言い伝えがある。

・・・日本三薬師(伊豆、越後、伊豫)の一つとして世に知られる。本尊の薬師如来は釈道牛の「由来記」(文安四年)によると、天平五年五月十五日に僧行基がこの地に来られた折のもので、これを作るのに行基は茶粉と苦芋(ところ芋)を合わせたものを用い、斎戒沐浴、精魂を傾けて、漸く四十八日目に完成、入仏占眼したのは同年十月二十日であったという。この時行基は六十五歳。霊験あらたな薬師如来さまである・・・(下田市教育委員会「下田市の民話と伝説第1集」、参照土屋俊輔「伊豆の伝説」)

なお同書によれば、米山薬師のある「箕作」という部落の名のおこりは以下の通り。

・・・この箕作に箕作八幡の社があるが、これは「礪杵道作(ときのみちつくり)」の霊を祀ったものである。持統天皇の御宇、大津の皇子の謀叛に連座した礪杵道作は、この箕作に流されたが、これが伊豆の国へ流罪を受けた最初の人であった。「箕作」という地名もこの「ときのみちつくり」から出たものと言われている・・・

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エメラルド婚式

2022-03-19 13:43:07 | さすらい考

結婚55周年を迎えた

夫「今年は、結婚してから55年目だね」

妻「結婚記念日だって? これまで何も無かったのに」

言われるまでもなく、これまで、結婚記念日だからと言って大袈裟に構えることはしなかった。偶に外食や祝い膳を囲む事はあったが、贈り物を交換するような習慣を持ち合わせなかった。我武者羅な生き様で余裕がなかったとも言えるが無頓着で、一方では結婚記念日は敢えて特別視するものなのかと天邪鬼な意識もあった。だからと言って、記念日に拘る考えを否定する訳ではなく、記念日を大事にする夫婦を見ればむしろ羨ましくさえ思う。人生それぞれ、生き様は多様であって良い。

結婚式は55年前の4月29日に北海道神宮の神前で執り行い、夫の父親(伊豆の田舎から出てきた)と妻の両親姉妹が参列した。そして、連休明けの5月6日に職場(十勝芽室町)の会議室で祝賀会をしてもらった(就職してから2年目の春のことで、思い出のアルバムが残っている)。

その後の人生で結婚記念日を何処で迎えていたのか? 結婚記念日の名称は? 気になった。調べた結果は別表のとおりである。毎年の記念日に名前がついていること、歳を追うごとに高価な名前がついていることを知った。

ある夫婦の場合は、「木婚式」「錫婚式」は芽室町、「水晶婚式」はアルゼンチン、「磁器婚式」「銀婚式」は芽室町、「真珠婚式」は大野町(北斗市)、「珊瑚婚式」「ルビー婚式」はパラグアイ、「サファイア婚式」「金婚式」「エメラルド婚式」は恵庭市で迎えたことになる。まさに人生は旅、さすらい人生の足跡とでも言えようか。

さて、この夫婦は5年後「ダイヤモンド婚式」、10年後「ブルースターサファイア婚式」、15年後「プラチナ婚式」の記念日を何処で迎えるのか、何処を彷徨っているのだろうかと感傷に浸っていたら、現実論者の相棒は「あと5年生きる保証はないよ」と言う。・・・確かにそうだ、先はそんなに長くあるまい。

さてさて、今年の「エメラルド婚」はコロナ禍を避け何処かの温泉で二人「湯ったり」するか。

◆結婚記念日

結婚式を祝う風習は17~18世紀にドイツ(イギリス発祥ともある)で始まり、その後ヨーロッパ全体に広まったと言われている。日本では明治天皇と昭憲皇太后が1894年(明治27)大婚25年祝典を行なったのが最初とされ、それ以来、銀婚式、金婚式の習慣が一般にも広まった。宝石業界の販売戦略もあり様々な記念年が生れているが、日本においては25周年目の銀婚式と、50周年目の金婚式以外はあまり一般的ではない(参照Wikipedia)。

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恵庭の碑-25, 茂漁川(恵庭市)「モニュメント翠光」の作者は、誰?

2022-03-05 10:44:14 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「モニュメント翠光」作者を知りませんか?

恵庭の茂漁川河川緑地に「モニュメント翠光」がある。モニュメントは、石を重ねた石柱の上に「川の流れと小鳥の造形」。市の鳥「カワセミ」をモチーフにした作品である。このモニュメントの作者は誰なのか、ずっと気になっていた。そこで、銘板に記された寄贈元(財団法人リバーフロント整備センター)なら作者を把握しているのではないかとお尋ねした。その結果、制作設置会社まで辿りついたが作者名を知るまでには至っていない。どなたか情報をお持ちでしたらご教示ください。

◆問い合わせ概要(2022年2月2日)

公益財団法人リバーフロント研究所 様 

・・・北海道恵庭市の一級河川「茂漁川」の河川緑地に、同封した写真のような記念碑「モニュメント翠光」が建っています。説明板には、貴研究所(リバーフロント整備センター)からの寄贈と記されています。

御案内のように、茂漁川は1990年(平成2)に「ふるさとの川モデル事業」の認定を受け、素顔の水辺づくりをテーマに整備が進められ1997年(平成9)に完成した事業(平成19年度土木学会デザイン賞2006優秀賞)ですが、標記のモニュメントは事業の完成に合わせ貴研究所から恵庭市に寄贈されたものと存じます。

現在、小生は恵庭市内の記念碑や彫像を調査し資料として取りまとめていますが、本モニュメントの制作者が分からず調査中です。市役所に問い合わせましたが記録がないとのことでした。古い話で恐縮ですが、貴センターが制作を依頼されているのではないかと考え、お尋ねする次第です。「モニュメント翠光」の制作者が分かりましたらご教示頂けると幸甚です・・・

 ◆公財リバーフロント研究所からの回答(2022年2月9日)

リバーフロント研究所からは懇切丁寧な回答を頂いた。お忙しい中でのご対応に感謝申し上げる。

・・・恵庭市市内の記念碑等の調査、資料活動をされておられること、すばらしいこととして敬服しております。その活動に、(公財)リバーフロント研究所としても、お力になるべく、茂漁川の「モニュメント翠光」の問い合わせにつきまして過去さかのぼって調べてきましたが、残念ながら資料が残されておらず、当時担当された方も詳細な記憶はないとのことでした。モニュメントの制作設置会社の記録はありましたので、そちらにも問い合わせをいたしましたが、現在存続はしていないのか連絡が取れない状況でした。

丁寧な手紙までいただいたところで誠に申し訳ないですが、現状をご報告させていただきます。継続的に把握には努めたいと思いますので、なにか新しいことがわかればご連絡させていただきます・・・

◆制作設置会社に関する情報(2022年2月10日)

北海道内会社の制作なのかと思い、重ねて制作設置会社についてお尋ねしたところ次のような情報を頂いた。

・・・制作設置会社は「前田屋外美術(株)」ですが、倒産しています。「前田環境美術(株)」に社名変更したようですが、昨日電話をしたところ現在使われていないようなので・・・

発注先の制作設置会社は東京都渋谷区に本社を置き、設計・製作・施工までの事業を全国展開していた会社。倒産、社名変更などの事情があった模様で連絡が取れていない。現時点では社内の技術者が設計施工したものか、外部彫刻家へ依頼した作品なのかも判断できない。制作者探索の旅をもう少し続けて見よう。

◆恵庭の記念碑-20、茂漁川河川緑地の「モニュメント翠光」

(拙ブログ2018.11.6抜粋)

・・・恵庭市西方の大地(自衛隊北海道大演習場、えこりん村)に源を発し、恵庭市街を東に向かって流れ、漁川(石狩川水系千歳川支流)に注ぐ一級河川の「茂漁川」。この茂漁川が旧道(元札幌新道)と交差する河川緑地(柏木町4丁目、新茂漁橋のたもと)に「モニュメント翠光(すいこう)」がある。

モニュメントは、石を重ねた石柱の上に「川の流れと小鳥の造形」。石柱にはめ込まれた説明板には「樹木の翠(みどり)と茂漁川のせせらぎが美しいこの水辺で翡翠(カワセミ)が舞う姿を表現したものです」とある。見上げると4羽のカワセミが置かれ、餌を狙う姿、小魚を嘴にくわえた姿が目に付く。右端の2羽はオスがメスに獲物をプレゼントする求愛給餌の姿なのだろうか。

台座には、「この茂漁川水辺空間の新しいシンボル“モニュメント翠光”は宝くじの普及宣伝事業として整備されたものです 平成9年3月 恵庭市 寄贈財団法人リバーフロント整備センター(注、現公益財団法人リバーフロント研究所) 協賛財団法人日本宝くじ協会」と書かれたプレートがはめ込まれている。

茂漁川は漁川と共に恵庭市民のいのちと暮らしを育んできた「母なる川」、市民に愛される河川である。古来より鮭が遡上する清らかな河川として知られていたが、戦後の河川工事で自然が破壊されたことから、1990年に「ふるさとの川モデル事業」で川底に自然の土や石を戻し、水際に柳を植えるなど緑化護岸を行い、茂漁川は緑豊かな河川に生まれ変わっている。両岸には遊歩道が整備され、今では市民の散策コースの一つとなり、バイカモの群生地、カワセミの観察できる環境として高い評価を得ている。

このモニュメントは、整備事業の完成後に水、水辺、生態系を守り、自然と調和した防災まちづくりを目指すリバーフロント整備センターが市に寄贈したもの。モチーフは恵庭市の「市の鳥」であるカワセミである・・・

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