豆の育種のマメな話

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◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

南米大陸へ最初に渡った日本人,フランシスコ・ハポン

2012-04-27 18:21:20 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米は日本からみて地球の反対側,最も遠い地域である。季節は逆で,時差は12時間,昼と夜が反対だし,陽射しは南でなく北側から入る。「この大陸へ,最初に渡った日本人は誰だろう?」,24時間を超える長いフライトでは,よく考えた。

最も古い記録は,アルゼンチン共和国コルドバ州の歴史古文書館に保存されている1596年(慶応元)716日の公正証書ではなかろうか。それには,「奴隷商人デイエゴ・ロペス・デ・リスボカがミゲル・ヘロニモ・デ・ポルラス神父に日本人フランシスコ・ハポンという奴隷を800ペソで売却した・・・」と,あるという(井沢実「大航海時代夜話」岩波書店,熊田忠雄「そこに日本人がいた」新潮文庫)。奴隷といっても,いわゆる使用人として働いていたわけで,当人は一職種と考えていたのかも知れない。また,洗礼を受けていたとも推察される。

さて,そのコルドバ市はブエノス・アイレス(BsAs)から北東に700km,アルゼンチン第二の都市。ペルー,ボリビアから南下してきた人々により1573年に建設された古い都である。アルゼンチン最古の大学(1613年開校)もあり,反政府運動もここから起こると言われる。BsAsでタクシーに乗ったとき,「お前は,コルドベスか?」と訊かれたが,コルドバ住民のアクセントには独自な響きがあるようだ。

 

コルドバは,BsAsから飛行機で1時間15分,パンパ平原をバスで向えば912時間を要する。パンパには,大豆やとうもろこし,冬であれば小麦,或いは草をはむ牛の群れが延々と続くことだろう。そして,コルドバに近づく頃やっと山なみが見えてくる。標高440m,年間を通して気候快適,保養地として知られている(写真)。喘息持ちだったチエ・ゲバラも幼少の頃この地で暮らした。

 

アルゼンチンに移住した最初の日本人は,1886年(明治19)入国した牧野金蔵とされるが,その30年も前に日本人フランシスコは暮らしていたことになる。さらに,大航海時代には,ヨーロッパ船に乗り込み南米大陸の港々に足跡を残した日本人がいたとしても不思議ではない。

 

日本人の足跡として,1613年(慶長18)ペルーのリマに日本人20人が暮らしていたとの人口調査記録が残っているという(前述,熊田)。その後江戸時代後半になってから(日本は鎖国の時代であったにもかかわらず),メキシコやペルーに日本人の記録が出てくる。1813年(文化10)督乗丸,1841年(天保12)播磨の商船栄寿丸の難破漂流,1844年(弘化元)ペルーの捕鯨船アナ号が難破船を発見し,カヤオに連れ戻り,後にリマに住むようになった4人(伊助,勇蔵,長吉,亀吉)がいた(吉田忠雄「南米日系移民の軌跡」人間の科学社),等々・・・。このように,自由渡航が許可され,移民政策がとられる以前にも,船が難破漂流したため奴隷となり,或いは夢を抱いて,中南米に住むことになった人々がいたことは間違いあるまい。彼らはどんな気持ちを抱いて,この大陸で暮らしたのだろう? 望郷の念に涙したのか,或いは住みやすい場所だと幸せな家庭を築いたのか。いずれにせよ当時の状況を考えれば,彼らの多くは日本に帰れず大陸の土と化したことだろう。

 

時代が移り,鎖国が解かれ(1854年開国,安政元)明治の世に入ると,人々の目は海外を向くようになる。ハワイやアメリカ合衆国でのサトウキビ畑への「出稼ぎ移民」が,急増したのも1880年代(明治1020年代)のことであった。

 

さらに,日本から南米への移民が始まるのは,1899年(明治32)ペルーが最初である。ボリビアには1910年(明治43)沖縄出身者30人のサンタクルスへの移住,ブラジルには1908年(明治41)移民第一陣791人が笠戸丸で上陸した。当時南米では,ゴム農園やコーヒー農園での労働力が求められており,日本からはこれら農場の労働者としての契約移民(出稼ぎ移民)が主体であった。背景には,奴隷制度廃止(1888年)による労働力不足を穴埋めしようとした意図があったといわれる。

 

一方,日本側では殖産興業の旗が振られ,家族を挙げての移住が進められた。送り出す側と受入側の行き違いは,その後,移住者に多くの苦難を強いることになる。ブラジル政府は移住者の増加に対し,「移民二分制限法」を施行(1934)して移民を制限した。これを受け,日本政府は1936年(昭和11)新たな受け入れ国パラグアイへの移住を開始している。また,アルゼンチン,チリ,ウルグアイでは呼び寄せ移住が多く行われた。

 

移住の歴史は苦難の道程であったが,日系移住者の多くは誠実な仕事ぶりで信頼を獲得し,今や南米各地で誇り高く生きている。移民数は総計で70万人(戦前65万人)を越える(JICA海外移住統計)。

 

日系コロニアを訪れる度に感じるのは,「現代の日本人が忘れてしまった,良き日本が南米にはある」,ということだった。若者よ,是非この地を訪れてみるがいい。貧しくとも幸せがあることを知るだろう。写真はパラグアイの敬老会で(写真)。

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「上原近代美術館」,伊豆の田舎の陽だまり美術館

2012-04-24 18:33:49 | 伊豆だより<里山を歩く>

上原近代美術館

伊豆の下田は,開国の歴史「黒船」や川端康成作品「伊豆の踊子」などで知られ,各地に温泉も湧出することから,多くの観光客が訪れる。しかし,下田には温泉場の喧噪はなく,山と海に囲まれた田舎の風情と温暖な気候に包まれて,人々は至極ゆったり暮らしている。長閑という表現が似合う。

さて,下田から天城路に通じる国道414号線を9km程進むと,山に囲まれた田園地帯がある。小さな中学校や農協支所があるだけの村落,村人の姿は少ない。国道からみて向かいの丘(宇土金地区)に「上原近代美術館」はある。2000年春に開館した私設美術館である。2012年420日,この美術館を訪れた。

 

河津桜は既に葉桜となっていたが,遅咲きの八重桜が残っていた。この辺りは,段々畑の石垣,小さな畑が重なり,昔の農村風景がそのまま残っている。道路は舗装されたが,この国道はかって中学校に通った頃の通学路である。時折は,いま美術館の建っている向かいの丘(宇土金地区)の小径を回り道して帰ったこともあったなあ・・・,想い出が蘇る。

 

駐車場から狭い石段を上がる。その脇には上原家(故上原正吉,小枝)の菩提寺(向陽寺)につながる坂道があり,古い地蔵がいくつか苔むし,土手にはシャガが群生して咲いている。石段を登り切ると,美術館の脇にイギリス人彫刻家リン・チャドウイックの「三人の衛士」が迎えてくれる。美術館の建物は洒落た造りで,エントランスには大きな木造扉が配置されている。展示室は日本画,西洋画(日本人画家),西洋画(外国人画家)の作品毎に仕切られ,小さくまとまり落着いた雰囲気がある。

 

この日,他に入場者はなく,自分のペースで鑑賞することが出来た。展示物は,セザンヌ,ルノワール,モネ,梅原龍三郎,安井曾太郎,須田国太郎等々の小品で,味わい深い作品が多い。伊豆の片田舎で予想しなかった名作に触れ,「え,どうしてこの絵が此処に? この田舎の美術館に?」と感激するのも一興。美術館を訪ねる楽しみの一つでもある。

 

画家の名前や作品の知名度を頼りに収集したような大きな美術館と異なり,この美術館の作品群には収集者の好みが生きている。収集者が欲しくなる絵だけを集めた作品群といえようか,いわば鑑賞者にも「欲しくなる」と感じさせる作品が揃っている。規模が小さい個人美術館の良いところだ。多くの人が収集に関わったと思わせる雑然さがない。現在は公益財団法人となっているが,元もとは上原昭二氏のコレクションである。当人との面識はないが,作品群を鑑賞しているとコレクターの人柄が感じられる。赤瀬川原平も「個人美術館の愉しみ」(光文社)の中で,『この美術館は欲しいという気持ちから発展したのだということを実感した』と述べている。

 

飲み物のセルフサービスが備えられたラウンジがあった。庭を眺めながら,静かに芸術の余韻に浸ることが出来る。何故,このような田舎に美術館があるのか,不思議に感じる人がいるかも知れないが,ここに座っていると建設の意図がよく理解できる。ここには,ルーブルやプラドの騒々しさが全くない。美術鑑賞の本来の環境が,この小さな美術館には備わっている。さらに言えば,観光地の集客用に作られた美術館もどきとも全く違う。何しろ,作品の中身(価値)が本物だ。

 

隣には「上原仏教美術館」1983年開館)がある。昭二氏の両親寄贈によるものであるが,こちらも必見である。仏像は,本来信仰の対象として崇められるものであろうが,それも芸術性が備わってのことだろう。歴史的な仏像を見慣れた我々にとって,此処に集められた作品群はまだ新しく(現近代作品),樹の香りが漂う感じさえする。檜の一木造りの仏像百三十体程が展示されている。その大きさ,緻密さに圧倒される。特設会場では,「画家の描いた仏」特別展が開催されていた。作家によって,かくも仏のとらえ方が異なるのか・・・。

 

これら美術館の建設に関わる詳細について,ここでは触れない。誰が美術品を集め,何故ここに美術館を建てたか,等より,作品を純粋に鑑賞して欲しいから。

 

立ち寄れば,貴方も,伊豆の新たな魅力を心に留めることが出来るだろう。貴重なスポットだ。


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稲梓中学校,昭和30年度卒業生の記録,一冊の本

2012-04-15 13:18:48 | 伊豆だより<里山を歩く>

「昭和30年度稲梓中学校同窓会」の案内状が届いた。今年が平成24年であるから,この同窓会は,56年前の卒業生の集まりということになる。半世紀以上も昔の話だ。地元の下田北高等学校を卒業してから北海道に渡り,忙しくしていたので同窓会にはこれまで一度も出席していないが,案内状を手にした瞬間に昔の記憶が蘇った。年齢のせいかもしれない。

当時,稲梓中学校は現在の診療所がある場所(下田から湯ケ野に抜ける国道の脇)にあった。木造の二階建てで,建物を補強するために,建物両側に支えの壁が斜めに張り出ている不格好な形をしていた。昭和30年度が第9回卒業とあるので,戦後間もないころの建造物ということになる。大勢の腕白がどたどたと廊下を歩くたびに軋むような音がして,子供心にも「地震が来たら大丈夫かいな」と感じたことを思い出す。また,周囲は水田で,グランドとの境は金網が張られていた。インターネットをみると,・・・田園地帯にある中学校。児童数が少なく,廃校,合併が議論されている・・・とある。確かに昔も今も,この辺りは田園ののどかさを覚える場所だ。最寄りのバス停は,当時「箕作郵便局前」であったが,今は「稲梓中学校前」になっている。

 

この中学校の学区は,いわゆる稲梓村(後に下田市に統合される)で,3小学校(稲梓,須原,加増野)の卒業生が通うことになっていた。卒業時の記念写真には,男子72名,女子57名,教師15名の計144名が8段(列)に収まっている(添付写真)。グランドに長椅子を積み上げたような構造の台に全員が並んだ写真である。自分の顔を探すと上段の隅の方にある。背が小さかったので上段に上げられたのだろうが,「崩れないかな」と思ったその時記憶がよみがえる。今見ても,「こんな危険な撮影をよくやったものだ」と思う。

 

僅か31名の須原小学校からの入学だったので,1学年3クラスある129名の集団は結構刺激的であった。山奥育ちで,シャイで,晩生で,泣き虫な少年も,子犬のようにじゃれ合う友達が出来て,楽しい時を過ごすことが出来た。

 

ところで,中学生活に馴染んだ最初のきっかけは何だったろう? 入学して間もなく,地域か全校の算数統一テストが実施され,「今年入学のアイツが計算問題でトップだった」と聞こえてきて自信を持てたことが端緒だったかもしれない。或いは,二人の叔父が他小学校の学区に住んでいて,その繋がりから「どこそこと親戚なんや」と話が広がったことだったろうか。

 

中学時代にスポーツクラブに入った記憶はないが,片道5kmを歩いて通ったので足腰はだいぶ鍛えられた。ズックの肩掛け鞄に教科書と弁当を詰めるとかない重い。片方にばかり掛けると背骨が曲がるのではないかと,今日は「右」,今日は「左」と換え,競歩のように意識して早足したこともあった。夏場には途中の川で水浴することもしばしば,通学途上の中ほどにウグイを鑓で突く名人少年がいて彼を真似て試みたが全くダメだったこと,教室の黒板に「でんでん太鼓に笙の笛」なる落書きを残し教師に咎められたこと,県大会に出場するコーラス部から外れた少人数で行った寂しい遠足,校庭で行われた出初式で戦争帰りの叔父が消防団長として発した号令の声,窓際の前から三番目の席で姿勢悪く座っていたこと,教室で映画「路傍の石」「ひろしま」をみたこと,廊下に張り出された模擬試験の成績順位,渡り廊下でつながった別棟のトイレ,退職音楽教師が生徒を集めて演奏したピアノ,僧侶だった美術の教師,3年クラス担任の佐藤先生の顔など・・・断片が浮かぶ。

 

当時の中学生活は受験準備に追われるようなこともなく,田舎でのんびり過ごせた。自然を見つめ,農作業に四季を感じて暮らせた。幸せな時代であったということだろう。その後の日本は,経済成長やグローバル化と言われる波に翻弄され,この中学校の在校生は当時の1/10近くに減少している。子供の遊ぶ姿も見なくなった。ということは,この地域が(日本中の何処の田舎も同じだが)荒廃しつつあるということになりはしないか。

 

当時,一生懸命勉強した記憶はないが,それなりの成績で居られたのは読書の習慣があったからだろう。負けず嫌いだったから,悔し涙はよく流したし,それなりの努力はしていたことになるのだろうか。

 

振り返って見ると,中学時代の一冊の本が,職業選択にまで影響していたような気がしないでもない。中学校の二階の西端にあった図書室で,ニコライ・ヴァヴィロフの伝記を読み,強い印象を受けたことが脳裏に残る。当時は,作物改良という人類に役立つ仕事があるのだという知識を得ただけであったが・・・,その後,北大農学部を出て農業試験場で研究生活を送るようになったのは,この一冊の印象が潜在していたからかもしれない。もちろん,貧農の家に生まれた出自はあるのだけれど。

 

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井上壽著,加藤公夫編「依田勉三と晩成社」に思う

2012-04-12 15:00:53 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

井上壽著,加藤公夫編「依田勉三と晩成社」(北海道出版企画センター,20123月)が発刊された。井上さんは,この本の発刊を待たずに逝去されたと伺った。

著者とは,十勝農業試験場で働いていたころ宿舎が近くにあったこともあり,勉三の話しを折りにつれ伺うことがあった。

 

晩成社は開拓に成功したと言えないのではないか

 

帯広で十勝開拓の祖,拓聖と祭り上げられた「依田勉三」に違和感を覚えているような口振りであった。当時,井上さんはまだ現役の専門技術員(病害虫)で,郷土史家と呼ばれるようになる前のことであった。退職後の井上さんは,多くの資料を集め,独自の史観を折に触れ発表してきた。

 

本書の「はじめに」で,著者は次のように述べている。

「・・・狭い面積の山間部で,貧困にあえぐ農民や士族を大量に移住させ,農畜産物の生産を上げ,晩成社に投資した人たちに,利益を配当しようとした理想的なものであった。・・・ところが結果的には,晩成社に応募した小作人が逃げだしたり,いろいろな事業が順調にいかず,ほとんどの計画は失敗に終わってしまった。人の意見を受け入れることが少なかった依田勉三の資質によるものといわれる。結局,故郷で投資した人々に配当することもできず,借金だけが残ってしまった。このような依田勉三を,十勝では,何故か「十勝開拓の祖」「農聖」「拓聖」などと,後世,尊敬されることになった。・・・事実の粉飾や美化した記述で埋め尽くすというのではなく,事実は事実として依田勉三の本当の姿を探り,残しておきたいというのがねらいである・・・」と。

 

本書では,晩成社の歩みを時系列で追い,検証を進めるとともに,依田勉三と晩成社に対する様々な評価について論じている。正直なところ,いろいろな見方があるものだと思う反面,まだまだ研究課題が残されていると感じた次第。

 

井上さんは,幾つかの箇所を指して,きっとこう言うだろう。

伊豆出身のお前がみて,この内容をどう理解する?

例えば,

 

1.事業失敗を補うための北海道開拓?

「遠山房吉(芽室村,衆議院議員)によると,・・・依田勉三の兄,依田佐二平が,信州人,小松徹の勧めによって数々の事業を経営し失敗したにもかかわらず,その失敗を補うため,小松徹発案による北海道開発に依田勉三がのってしまった・・・とあるが」

 

「十勝開拓目的の側面を知る由もないが,依田家の当主が多くの事業を試みたのは事実。養蚕,イグサ,造船など。失敗もあり,成功したものもある。僻村にあって豪農とされる依田家の当主が,地域の振興を図る努力をするのは至極当然のことだろう」

 

2.晩成社移住社員の資質?

「依田勉三,渡辺勝,鈴木銃太郎など幹部には,高い理想があったが,参加した社員は南伊豆の生活に窮した小農であった。開拓などと言う高い理想はなかった」

 

「当然のことだろう。遠い北海道に渡って苦労しようとするのは,南伊豆の地で食って行けない貧農か,一攫千金の夢を抱いた人々であったのは想像に難くない。海外への開拓移民の例をみても,大陸から引き揚げて生活困窮家族であったり,閉山炭鉱の労働者であったり,多くは一攫千金の夢は持ってはいたが富裕な農民ではなかった。農業移民との制約はあったが農業経験のなかった者まで含まれ,病気になり開墾を断念せざるを得ない人々も出ている。日本政府の支援が長く続いた南米でさえ,定着率は3050%。晩成社の場合も,社員に土地を与え,自立させるべきだったのではないか」

 

3.少年が含まれ戸主となっているが?

12歳の山田喜平が戸主として,参加している」

 

「当時の戸籍では,両親が死亡した場合,幼少であっても長男あるいは長女が戸籍筆頭者(戸主)になるのは普通のことであった。筆者の祖母も9才にして戸主となり,18才で婚姻したとき,はじめて祖父が戸籍筆頭者になっている。幼少にして労働力に数えられた時代である。山田喜平を社員の頭数を増やすために加えたとの解釈は,単純すぎないか」

 

4.勉三は伊豆で決して良く言われていない?

1980年,松崎町から教育委員会職員と教員の一行が,視察調査にやってきた。若い先生が・・・地元では,依田勉三さんは,決して良くは言われておりません。帯広でこのように尊敬されていることは意外・・・と語っていた」

 

「依田勉三の名前を知る人は,伊豆では少ないのではないか。私も高校時代まで伊豆に暮らしていたが,教育に熱心な依田佐二平翁が豆陽学校を創立し,大沢に依田家があるという程度の知識に過ぎなかった。今でこそ,松崎町が三聖人として,土屋三余,依田佐二平,依田勉三を称え,旅行者もこの地を訪れるが,住民の意識は低い。下田から来た引率教諭が・・・勉三の評判は伊豆では良くない・・・と言ったというが,本当にそう述べたのだろうか。私の感覚で敢えて言えば,帯広ほど勉三の知名度はない,と語ったに過ぎないのではないか」

 

5.南伊豆町教育委員会から返事がない

「勉三に同行した農家は南伊豆町出身者であるが,12年して帰国している。事情を知りたいので,郷土史を研究している先生を紹介してほしいと依頼したが,返事がない(1980)。この町では,勉三の評価は良くないのではないか」

 

「当時,北海道開拓に疲れ果て戻った姿をみれば,晩成社の事業を良く思わなかったこともあり得よう。しかし,問い合わせをした1980年と言えば当時から数えて100年。知る人も,語る人もいないというのが本当のところではないか」

 

往々にして,歴史認識は偏りやすい。井上壽の「晩成社」研究は,十勝農業の発展過程における依田勉三の役割を,客観的に検証し,正しく評価しようとした点が特徴である。一石が投じられた

 

Img_3902web(写真は松崎町「花の三聖苑」にて)

 

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南米チリに渡った最初の日本人(旅の記録-バルパライソ)

2012-04-07 10:54:40 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

チリの首都サンチアゴ・ターミナルから,68号線に沿って山並みを眺めながらバスに揺られること約2時間,バルパライソに着く。この町はサンチアゴに次ぐ第二の都市であるが,ターミナルやその周辺の店舗は南米独特の雑然さが漂よい,旅行者も自然と溶け込める雰囲気がある。

案内書によれば,バルパライソは歴史ある都で,サンチアゴの海の玄関としての役割を果たしてきた。現在も漁業と貿易が盛んである。1991年には国会議事堂がこの地に移され,2003年には街全体がユネスコ世界遺産に登録された。港周辺とセントロだけが平地で,それらを取り囲むように丘が迫っている。その中腹にも家々が張り付いている。絵になる街だ。

ターミナル前の公衆トイレで用を済ませ,同行者と相談する。

「何処へ行こうか?」

「何も計画していなかったの?」

「いや,そう言うわけでもない。じゃあ,近くの国会議事堂を見て,港までブラブラ歩こう。途中で,アセソールを使い丘に登って,「青空美術館」を見よう。港に着く頃,ちょっと遅い昼食だ」

「歩ける距離なの?」

3km位とガイドブックにある。疲れたらタクシーを拾えばいいさ」

チリ国会議事堂をオイギンス広場から眺めて,ペドロ・モン通りを進み,バルパライソ教会のあるビクトリア広場で休憩する。公園の木陰ではチエスを楽しむ老人たち,子供用のレンタル自転車屋が見える。

近くのアセソールで丘に上る。小さな年代物のゴンドラが,ガタゴトとゆっくり上がって行く。ちょうど老婦人と子供が乗り合わせた。

高台から街を見下ろす。トタンを張った屋根や壁は色とりどりに彩色されている。モルタルの壁にはペンキ画が描かれている。チリを代表する作家の習作もあるという。良い眺めだ。写真に収める。旅人を対象にした小物を売る店がいくつかあり,覗いてみる。

「帰りは,歩いて下りよう」

九十九折の石段を下り始める。小さな家々が小径に面している。決して裕福とは言えない町並みで,崖の中腹に張り付くように建っている。窓辺に鉢植えの植物が飾られ,洗濯物が干してある。婦人たちの話し声が聞こえる。

「スプレーの落書きが多い。何を考えているのだろう」

「何処の国の落書きも,よく似ている感じだね。同じ人が書いたわけでもないのに」

「おやおや,犬の糞が多い。気をつけて」

「ブエノス・アイレスのエビータが眠るレコレータ墓地の周りと同じだね。野良犬が多いのか,飼い主のモラルの問題か,日本は大分良くなったけど」

セントロに下りて港を目指す。コンデル通りから,エストレラーダ通り,プラト通りを進む。壁は黒ずんでいるが,彫刻で装飾された建物が歴史を感じさせる。

「排気ガスがすごいね」

「古い車が多いし,ビルの谷間だからね」

「まだ着かないの?」

「ちょっと聞いてみよう。ペルミッソ・セニョール,ドンデ・エスタ・・・パラ・イル・ア・・・」

「グラシアス・セニョール,ムイ・アマブレ・・・その先を右折した所だって・・・」

ソトマジョール広場からプラト埠頭に出て,港が眺められるレストランに入る。かなり混雑していたが席を確保できた。魚のムニエルとセルベッサを注文する。港では荷物の積み下ろし中の貨物船,観光遊覧船が停泊している。遠くに軍艦が数隻。ここは軍港でもあるのだ。

 

チリに上陸した最初の日本人を知っているかい?」

ジョン万次郎がバルパライソに立ち寄ったと聞いたことがあるわ。この港なのね」

「それは,1850年(嘉永34月のことだ。ただ,子孫の中浜博は万次郎が寄港したのはバルパライソでなく,南部のタルカウアノ港であったと訂正しているがね。これより8年前の1842年(天保13)頃,メキシコからチリへ渡った3人の漂流民がいたらしいと,熊田忠雄は書いているよ」

「どんな話なの?」

「播磨の商船栄寿丸が1841年(天保12)房総沖で難破し,100日以上漂流していたところをスペインの密貿易船エンサヨ号に救助され,船中で働かされていたが,カリフォルニア半島先端のサン・ルーカス岬に着いたのちに逃亡を図り,カリフォルニア湾に面するマサトラン(9人)とグアイマス(4人)で暮らしていたということだ。この内グアイアスにいた3人(南部出身の善蔵,明石の岩松,能登の勘次郎)が,いつのまにか姿を消したという。暫くしてからメキシコの仲間へ手紙が届き,メキシコから海路50日ほど南の「ハチバラエ」で家庭を持って暮らしていると書いてあったそうだ」

「それがバルパライソなの?」

「その後メキシコから帰国した乗組員が幕府役人の取り調べに「ワキバライン」「ワギパライソ」と答えている。多分バルパライソのことだろう・・・と書いている」(熊田忠雄「そこに日本人がいた」新潮文庫

「江戸時代のことなのね」

さらにその後日談があって,チリ政府の1875年(明治8)国勢調査に,サンチアゴ北方の町ユキンボに一人,サンチアゴ南方の町タルカに一人の日本人が住んでいるとの記録が初めて出てくる。名前も年齢も記録にないが,先のバルパライソに落ち着いたうちの二人かも知れないという」

「鎖国時代だから,祖国に帰ることも出来ず,この地で暮らすことにしたのね」

「バルパライソ(天国のような谷)というだけあって,住みやすそうな町だね」

難破→漂流→奴隷(労働者)としてメキシコにたどり着き,その後チリやペルーに移動し,南米に暮らすことになった日本人が存在しただろうことは想像に難くない。170年前,人知れずこの地バルパライソに暮らしていた日本人は何を考えていたのだろうか。太平洋に沈む赤い夕陽に望郷の思いが募ったに違いない。

その後,日本がチリと国交を樹立するのは1987年(明治30)。硝石ブームに沸くチリへ一攫千金を夢見て渡った人も多かったと思われる。ブラジル,ペルー,パラグアイなど農業移民を積極的に受け入れた国と違って,チリは個人の意思に基づく自由移民であった。そんな中で,太田長三(東洋汽船),仙田平助(千田紹介)らはチリ在住邦人の先駆けとして名前が知られている。

     

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