南米は日本からみて地球の反対側,最も遠い地域である。季節は逆で,時差は12時間,昼と夜が反対だし,陽射しは南でなく北側から入る。「この大陸へ,最初に渡った日本人は誰だろう?」,24時間を超える長いフライトでは,よく考えた。
最も古い記録は,アルゼンチン共和国コルドバ州の歴史古文書館に保存されている1596年(慶応元)7月16日の公正証書ではなかろうか。それには,「奴隷商人デイエゴ・ロペス・デ・リスボカがミゲル・ヘロニモ・デ・ポルラス神父に日本人フランシスコ・ハポンという奴隷を800ペソで売却した・・・」と,あるという(井沢実「大航海時代夜話」岩波書店,熊田忠雄「そこに日本人がいた」新潮文庫)。奴隷といっても,いわゆる使用人として働いていたわけで,当人は一職種と考えていたのかも知れない。また,洗礼を受けていたとも推察される。
さて,そのコルドバ市はブエノス・アイレス(BsAs)から北東に700km,アルゼンチン第二の都市。ペルー,ボリビアから南下してきた人々により1573年に建設された古い都である。アルゼンチン最古の大学(1613年開校)もあり,反政府運動もここから起こると言われる。BsAsでタクシーに乗ったとき,「お前は,コルドベスか?」と訊かれたが,コルドバ住民のアクセントには独自な響きがあるようだ。
コルドバは,BsAsから飛行機で1時間15分,パンパ平原をバスで向えば9~12時間を要する。パンパには,大豆やとうもろこし,冬であれば小麦,或いは草をはむ牛の群れが延々と続くことだろう。そして,コルドバに近づく頃やっと山なみが見えてくる。標高440m,年間を通して気候快適,保養地として知られている(写真)。喘息持ちだったチエ・ゲバラも幼少の頃この地で暮らした。
アルゼンチンに移住した最初の日本人は,1886年(明治19)入国した牧野金蔵とされるが,その30年も前に日本人フランシスコは暮らしていたことになる。さらに,大航海時代には,ヨーロッパ船に乗り込み南米大陸の港々に足跡を残した日本人がいたとしても不思議ではない。
日本人の足跡として,1613年(慶長18)ペルーのリマに日本人20人が暮らしていたとの人口調査記録が残っているという(前述,熊田)。その後江戸時代後半になってから(日本は鎖国の時代であったにもかかわらず),メキシコやペルーに日本人の記録が出てくる。1813年(文化10)督乗丸,1841年(天保12)播磨の商船栄寿丸の難破漂流,1844年(弘化元)ペルーの捕鯨船アナ号が難破船を発見し,カヤオに連れ戻り,後にリマに住むようになった4人(伊助,勇蔵,長吉,亀吉)がいた(吉田忠雄「南米日系移民の軌跡」人間の科学社),等々・・・。このように,自由渡航が許可され,移民政策がとられる以前にも,船が難破漂流したため奴隷となり,或いは夢を抱いて,中南米に住むことになった人々がいたことは間違いあるまい。彼らはどんな気持ちを抱いて,この大陸で暮らしたのだろう? 望郷の念に涙したのか,或いは住みやすい場所だと幸せな家庭を築いたのか。いずれにせよ当時の状況を考えれば,彼らの多くは日本に帰れず大陸の土と化したことだろう。
時代が移り,鎖国が解かれ(1854年開国,安政元)明治の世に入ると,人々の目は海外を向くようになる。ハワイやアメリカ合衆国でのサトウキビ畑への「出稼ぎ移民」が,急増したのも1880年代(明治10~20年代)のことであった。
さらに,日本から南米への移民が始まるのは,1899年(明治32)ペルーが最初である。ボリビアには1910年(明治43)沖縄出身者30人のサンタクルスへの移住,ブラジルには1908年(明治41)移民第一陣791人が笠戸丸で上陸した。当時南米では,ゴム農園やコーヒー農園での労働力が求められており,日本からはこれら農場の労働者としての契約移民(出稼ぎ移民)が主体であった。背景には,奴隷制度廃止(1888年)による労働力不足を穴埋めしようとした意図があったといわれる。
一方,日本側では殖産興業の旗が振られ,家族を挙げての移住が進められた。送り出す側と受入側の行き違いは,その後,移住者に多くの苦難を強いることになる。ブラジル政府は移住者の増加に対し,「移民二分制限法」を施行(1934)して移民を制限した。これを受け,日本政府は1936年(昭和11)新たな受け入れ国パラグアイへの移住を開始している。また,アルゼンチン,チリ,ウルグアイでは呼び寄せ移住が多く行われた。
移住の歴史は苦難の道程であったが,日系移住者の多くは誠実な仕事ぶりで信頼を獲得し,今や南米各地で誇り高く生きている。移民数は総計で70万人(戦前65万人)を越える(JICA海外移住統計)。
日系コロニアを訪れる度に感じるのは,「現代の日本人が忘れてしまった,良き日本が南米にはある」,ということだった。若者よ,是非この地を訪れてみるがいい。貧しくとも幸せがあることを知るだろう。写真はパラグアイの敬老会で(写真)。