アメリカ農学会(American Society of Agronomy)が1973年に出版した専門書シリーズ16巻「大豆」の中に,次のような一文がある。
「… Brone (1854) wrote that two varieties of Soja bean, one “white”- and the other “red”-seeded, were procured by the Japan Expedition (Perry Expedition, 1853-1854), and both were used by the Japanese for making soy. …」(A.H. Probst and R.W. Judo “Origin, U.S. history and development, and world distribution”, Soybeans, American Society Agronomy, 1973 )
大豆のアメリカ合衆国への導入を説明した項目の中の一部で,ペリー艦隊日本遠征隊が2種の大豆を手に入れたとの論文の紹介である(原著は未確認)。
この記述には子実の種皮が「白」と「赤」の2品種を手に入れたとあるが,「赤」については大豆でなく小豆(アズキ)だった疑いもある。
大豆の種皮色は,黄白,黄,黄緑,緑,淡褐,褐,暗褐,黒に分類され(調査基準),品種群は黄大豆,あお豆,黒豆,茶豆に大別されるが,赤豆というのは存在しない。黒大豆を片親に交配した場合,極めて稀に赤味を帯びた種皮色(赤茶色)が発現するが,茶豆の類に入るものである。種皮色「赤」の大豆が栽培されていたとは考えにくい。
この時代の食生活を考えれば,赤飯・餡などに使う小豆(アズキ)が農家の庭先で栽培されていたことを疑う余地はなく,混同された可能性が高い。
この論文を裏付ける断片は,ペリー艦隊日本遠征記の中にある。同書第二巻の「日本の農業に関する報告」を引用しよう。
「・・・日本の豆は数種あり,白い豆や黒い豆,匍匐枝(地面に沿って伸びる種類)を出すものや攀縁性(上に向かって伸びる種類)のもの,ツルナシインゲン,サヤ豆,ササゲ,一般にジャパン・ピーと呼ばれ,茎からのびた枝にできる莢に毛の生えた独特の豆,そしてレンズマメより大きくないごく小さな豆である。この中の一種から,様々な料理に用いられる有名な発酵調味料であるソヤ(醤油)が作られる・・・」(引用:ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」,ペリー艦隊日本遠征記,オフィス宮崎 1997)
この記述からは,江戸末期の主に下田周辺で栽培されていた豆の情報を知ることが出来る。ここでジャパン・ピー(Japan pea)と表現されている豆が,大豆のことだろう。醤油の材料になると説明されている。
ペリー艦隊日本遠征隊が下田を訪れたのは嘉永6年(1853)~安政元年(1854)。アメリカ合衆国で「大豆」が知られ始めた時期で,研究者が栽培の可能性について情報を提供し始めていた。この頃,ジャパン・ピー(Japan pea),ジャパン・ビーン(Japan bean),ジャパニーズ・フォダー・プランツ(Japanese fodder plant)なる言葉が農業文献に登場し(Ernst1853, Danforth1854, Victor1854, Pratt1854, Haywood1854, T.V.P.1855, Joynes1857ら),生産の可能性,作物としての有用性が論じられている。ペリー艦隊日本遠征記に出てくるジャパン・ピーは,大豆(Soybean, Soya)であると考えて間違いなさそうだ。ちなみに,醤油(ソヤ)から大豆(醤油豆,Soya, Soybean)の英語名が生まれている。
それから百数十年,合衆国の大豆生産量は世界一となった(9,000万トン,世界の35%)。合衆国大豆生産の黎明期に,下田で手に入れた大豆があったことは面白い。
去る12月の或る日下田市立図書館を訪れ,係の方から図書閲覧の便宜と情報提供を賜った。御礼申し上げる。
追補(2013.9.8)
農林水産省の「大豆調査基準」や「種苗審査基準特性表」に種皮色「赤」の分類はない。また,伊豆地方で「赤大豆」と呼ばれた大豆が栽培された記録は見当たらない。しかし,種皮色が濃い茶色で「やや赤み」を帯びている在来種(「茶豆」に分類される)を,島根県や高知県で「赤大豆」,山形県では「紅大豆」と称して販売している事例がある。とすれば,伊豆下田にも「赤」と呼ばれる大豆が存在したのだろうか? 残された課題である。
(写真左上:「北海道におけるマメ類の品種」豆類基金協会刊、写真右上:アメリカ農学会専門書シリーズ16巻「大豆」)