豆の育種のマメな話

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ペリー艦隊が下田で手に入れた二つの「大豆」

2012-12-25 09:15:10 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

アメリカ農学会(American Society of Agronomy)が1973年に出版した専門書シリーズ16巻「大豆」の中に,次のような一文がある。

… Brone (1854) wrote that two varieties of Soja bean, one “white”- and the other “red”-seeded, were procured by the Japan Expedition (Perry Expedition, 1853-1854), and both were used by the Japanese for making soy. …」(A.H. Probst and R.W. Judo “Origin, U.S. history and development, and world distribution”, Soybeans, American Society Agronomy, 1973 

 

大豆のアメリカ合衆国への導入を説明した項目の中の一部で,ペリー艦隊日本遠征隊が2種の大豆を手に入れたとの論文の紹介である(原著は未確認)。

この記述には子実の種皮が「白」と「赤」の2品種を手に入れたとあるが,「赤」については大豆でなく小豆(アズキ)だった疑いもある。

 

 

大豆の種皮色は,黄白,黄,黄緑,緑,淡褐,褐,暗褐,黒に分類され(調査基準),品種群は黄大豆,あお豆,黒豆,茶豆に大別されるが,赤豆というのは存在しない。黒大豆を片親に交配した場合,極めて稀に赤味を帯びた種皮色(赤茶色)が発現するが,茶豆の類に入るものである。種皮色「赤」の大豆が栽培されていたとは考えにくい。

この時代の食生活を考えれば,赤飯・餡などに使う小豆(アズキ)が農家の庭先で栽培されていたことを疑う余地はなく,混同された可能性が高い。

 

この論文を裏付ける断片は,ペリー艦隊日本遠征記の中にある。同書第二巻の「日本の農業に関する報告」を引用しよう。

「・・・日本の豆は数種あり,白い豆や黒い豆,匍匐枝(地面に沿って伸びる種類)を出すものや攀縁性(上に向かって伸びる種類)のもの,ツルナシインゲン,サヤ豆,ササゲ,一般にジャパン・ピーと呼ばれ,茎からのびた枝にできる莢に毛の生えた独特の豆,そしてレンズマメより大きくないごく小さな豆である。この中の一種から,様々な料理に用いられる有名な発酵調味料であるソヤ(醤油)が作られる・・・」(引用:ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」,ペリー艦隊日本遠征記,オフィス宮崎 1997

この記述からは,江戸末期の主に下田周辺で栽培されていた豆の情報を知ることが出来る。ここでジャパン・ピーJapan pea)と表現されている豆が,大豆のことだろう。醤油の材料になると説明されている。

 

ペリー艦隊日本遠征隊が下田を訪れたのは嘉永6年(1853)~安政元年(1854)。アメリカ合衆国で「大豆」が知られ始めた時期で,研究者が栽培の可能性について情報を提供し始めていた。この頃,ジャパン・ピー(Japan pea),ジャパン・ビーン(Japan bean),ジャパニーズ・フォダー・プランツ(Japanese fodder plant)なる言葉が農業文献に登場し(Ernst1853, Danforth1854, Victor1854, Pratt1854, Haywood1854, T.V.P.1855, Joynes1857),生産の可能性,作物としての有用性が論じられている。ペリー艦隊日本遠征記に出てくるジャパン・ピーは,大豆(Soybean, Soya)であると考えて間違いなさそうだ。ちなみに,醤油(ソヤ)から大豆(醤油豆,Soya Soybean)の英語名が生まれている。

 

それから百数十年,合衆国の大豆生産量は世界一となった(9,000万トン,世界の35%)。合衆国大豆生産の黎明期に,下田で手に入れた大豆があったことは面白い。

 

去る12月の或る日下田市立図書館を訪れ,係の方から図書閲覧の便宜と情報提供を賜った。御礼申し上げる。

 

追補2013.9.8

農林水産省の「大豆調査基準」や「種苗審査基準特性表」に種皮色「赤」の分類はない。また,伊豆地方で「赤大豆」と呼ばれた大豆が栽培された記録は見当たらない。しかし,種皮色が濃い茶色で「やや赤み」を帯びている在来種(「茶豆」に分類される)を,島根県や高知県で「赤大豆」,山形県では「紅大豆」と称して販売している事例がある。とすれば,伊豆下田にも「赤」と呼ばれる大豆が存在したのだろうか? 残された課題である。

 

 

(写真左上:「北海道におけるマメ類の品種」豆類基金協会刊、写真右上:アメリカ農学会専門書シリーズ16巻「大豆」)

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「茅場争い」入会地をめぐる紛争,伊豆下田の歴史

2012-12-24 10:11:27 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田史年表(下田市史編纂委員会「図説下田市史」2004)から,入会地をめぐる紛争の記録を拾ってみよう。

 ○延宝5年(1677):「梅ノ木坂」の刈敷場をめぐって箕作村と落合村が争う。

 ○貞享3年(1686):秣場のことで,椎原・宇土金・北湯ケ野の3村が争う。

 ○元禄14年(1701):須郷「深山入会地」をめぐり11か村の争論となる。この入会地はその後も紛争が繰り返され,明治10年代には大大審院へ上告されるほどであった。

 ○天明4年(1784):大沢「やき山入会地」をめぐり,立野・大沢・蓮台寺3か村が争う。「やき山入会地」は宝暦9年(1759),宝暦10年(1760),享和2年(1802)にも争いが起きている。

 

奥伊豆の下田に限った狭い範囲でこれだけの数になるのだから,この種の争いは相当多かったのだろう。

 

ここで「茅場」「刈敷場」「秣場」「入会地」と言うのは,牛馬の飼料(秣,まぐさ)用,敷料や堆肥づくり用,屋根をふく茅の採草場として,或いは燃料用の薪を切るための場所として,古来の慣習や村落間の協定によって認められていた共有地のことで,入会権(いりあいけん)と呼ばれていた。

何れも沢の奥深い山にあったが,江戸時代に入り領主による直轄林が設定され,さらに開墾が進むにつれ,茅場は圧迫され,境界争いや茅場出入りの紛争が起こるようになった。訴訟を持ち込まれた役所では,両者の言い分を聞いたうえで,村役人などに調停を委ねるのが一般的で,大方は示談となり済口証文として処理されるが,解決できない争論も多かったという。

 

二十一世紀の今も,茅場は村の共有地として登記され固定資産税も払われているが,村人が茅場を利用することは殆どない。どの家でも若者たちは都会に出てしまい,農耕や搾乳のために牛馬を飼育することもなくなった。いつの間にか茅葺屋根は消え,瓦か新建材になっている。茅場が活用されたのはいつ頃までだったろうか? 

 

記憶を辿ってみると,第二次世界大戦の戦後間もない頃までだったように思う。

生家の向山に茅場があって,冬には各戸の男衆が火入れするのを眺めた。子供は危ないから近づくなと言われ,作業に参加できたのは中学生になったころだったろうか。前日までに境界に防火線をひき(数メートル幅で枯草を刈り取り),村の長が天候を勘案して山の裾から火を入れる。放たれた火は山を駈け上り,山肌は黒変するのであった。村人は総出で鍬や鎌,樹の枝等を持って延焼しないように努めるのだが,稀に延焼して大騒ぎすることもあった。春が訪れ,茅が繁る前には,茅場は山菜(蕨や独活)を採る楽しみの場所になった。

 

茅が牛の餌になり,敷料として牛糞と一緒に踏み込まれた厩肥は堆肥となり作物を育てた。有機農業が営まれていた時代である。茅葺の屋根は何年かに一度,村人総出で葺き替えが行われ,暑さ寒さを調節する住まいを形成していた。また,夜なべや冬の仕事として,茅を刈ってきては炭俵を織っていた。ここには,争ってまで茅場を守り,自然と共生する生活があったのだ。「茅場」は極めて重要な場所であった。

 

下田から天城に向かって下田街道を進むと,須原地区に「茅原野」「やき山」の地名が残っている。その名の通り茅(カヤ)が繁茂していたのだろう。

 

茅(カヤ)の記述は,幕末の黒船「ペリー艦隊日本遠征記」にも出てくる。その第二巻,ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」の中に,

「・・・斜面で木の生えていないところのほとんどには背が高く,ありふれた頑丈な草(カヤ)が育ち,冬の間に刈られて注意深く束にされる。この草を食べようという動物はいないようだが,屋根葺きの材料として非常に価値がある。これを用いて町の屋根葺きを行う職人はとても多い。瓦葺きの家も多いが(瓦もまた美しい),それよりはるかに多くの家が茅葺きである。実に綺麗に葺いてあり,これ以上の材料を探すのは困難であろう・・・」(参照:ペリー艦隊日本遠征記,オフィス宮崎 1997),とある。

 

今,耕作放棄地となった田畑に茅が勢力を広げている。バイオマス生産の発想があっても良い

 

Img_3873web 

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伊豆下田の「打ちこわし騒動」

2012-12-23 10:36:48 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

去る1219日付のブログに伊豆下田の歴史年表を添付したが,その中に「打ちこわし騒動」や「入会地をめぐる争い」が幾度となく出てくる。温暖で長閑なこの地で歴史に残るような騒動があったと,旅人は感じることもあるまい。

黒船,幕末外交の舞台,唐人お吉などについては誰もが知るところであるが,その裏には民間人の騒動や紛争事件が数多くあったのだ(その他に,鎌倉室町時代の武士や小豪族たちの争いはあるが,ここでは含まない)。これも歴史の一コマである。

 

図説下田市史(下田市史編纂委員会「図説下田市史」2004)には,打ちこわし騒動として「天保のうちこわし」と「明治の打ちこわし事件」が記載されている。その中から一部を引用しよう。

「天保のうちこわしは,天保7年(1836718日夜,一団の若者が4軒の米小売商を次々と打ちこわした。天保4年から続いた慢性的飢餓のため米穀流通が逼迫し,米価が異常な高騰を繰り返し・・・。韮山代官江川英龍から厳しく警戒を命令されていた町役人は狼狽し,韮山御役所に注進の使者を送ったが,中途にして町頭や周辺村々名主の反対にあって穏便な解決を要請され,事件はうやむやに終わるに見えた。ところが,・・・突如手代根本又一,長沢与四郎が出張し厳重な取り調べが行われ,芋づる式に若者が捕えられた。・・・14名が韮山へ送られ入牢となった。・・・主謀者と目された3名は,1人が重追放,2人が所払いに処せられ,他は過料銭で・・・」とある。

 

また,明治の打ちこわし事件は,「明治28月,岡方村の名主(両替屋でもあった)平七が,1両の金札を銀435分にしか通用しない,という廻し文を出した。これが引き金となり,怒った稲梓・稲生沢の農民たちが大挙して下田に押し寄せる騒ぎとなった。85日夜,河内の河原に集合した700人の農民は篝火をたいて一夜を過ごし,翌6日の明け方行動を開始・・・,役人や町頭全員が出て応対に努めなだめようとしたが農民たちは収まらず,岡方村名主宅を叩き壊してしまった。・・・この騒動は翌明治35月に落着し,徒罪(懲役刑)4人,押込め(他出禁止)・過料数十人と言う結果になった」とある。

 

前者の「天保のうちこわし」は,享保・天明に続く江戸三大飢饉のひとつ「天保の大飢饉」に連なるものである。全国で多数の餓死者を出し,江戸での救済者は70万人,大阪では毎日100150人の餓死者が出たとも伝えられている。この大飢饉の影響は,奥伊豆の下田まで襲いかかっていた。ちなみに,甲斐の国百姓一揆,大阪で起こった大塩平八郎の乱も,天保の大飢饉が誘因であった。

 

後者は,幕末から明治新政府への変動期の経済混乱に起因している。稲梓・稲生沢の農民たちが主役であったのは,農耕と山仕事を生業とするこの地域がより貧しかった故かも知れない。

 

いずれにせよ,両騒動に共通する時代背景は,奉行所廃止にともない下田の経済が凋落する時期であったということだ。苦悩する下田の一面である。その後,幕府依存から脱却した下田は,住民の力で再び歩みを始めることになる

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風待ち船で賑わった「下田港」,伊豆下田の歴史

2012-12-19 16:44:28 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

風待ち湊・下田

日本列島を寒気がすっぽり覆った12月の或る日,伊豆下田の須崎にいた。下田港の東方向に位置し,須崎御用邸や水仙の群生地爪木崎で知られる小さな半島にある漁港である。

その日は,立っているのも大変なほどの強く冷たい風が吹き,海には白い波が鱗のように光っていた。車のドアを開けるのも危険な突風で,家の窓は撓み声を上げている。当然,磯船は漁を休んでいる。

風待ち湊・下田か・・・

強い風にコートの襟を抑えながら,江戸時代に風待ち船で賑わった歴史に思いを馳せた。

 

400余年前,江戸幕府が開かれ政治・経済・軍事の中心が江戸に移行するにつれ,上方と江戸を結ぶ海上交通が盛んになり,その要所として下田港は注目されることになる。下田港は風待ち船にとって天然の良港だったのだ。

船の出入りが増え,幕府は海の関所を下田に置くことになった。元和元年(1615)今村伝四郎正長が警備を命ぜられたのにはじまり,翌2年(1616)には正長の父彦兵衛正勝が下田奉行に任じられ,この須崎に遠見番所を置いている。今この須崎の岬に立ってみると,確かに下田港へ出入りする船を監視することが出来る(その後元和9年に,遠見番所は大浦に移転)。

 

江戸奉行がおかれ,廻船問屋が幅を利かしたこの時代は,下田が最も賑わった時代と言えるだろう。町制が整備され,浪破堤が普請され,山村の薪炭や浜の天草・干鮑,伊豆石が積み出された。

「伊豆の下田に長居はおよし,縞の財布が軽くなる・・・」

と唄われる下田節からも,街の賑わいが偲ばれる。

そして幕末には,この下田が,ペリー艦隊の入港,開国,外国船の来航,アメリカ駐日領事館の設置,日米・日露の和親条約,通商条約締結など外交の表舞台として,再び歴史上の脚光を浴びることになる。

 

しかし,一時の賑わい,季節の嵐を除けば,奥伊豆は総じて静かな佇まいの中にあったと言えるだろう。そもそも奥伊豆の歴史は,発掘された遺跡からみて縄文時代(この須崎岬の海岸段丘にある爪木崎遺跡,上野原遺跡もその一つである)から始まるが,山が多く急峻なため稲生沢川,青野川,河津川,那賀川沿いに広大な農耕地を拓くことも出来ず,農と山での生業か近海の漁で暮らす時代が長く続いた。

 

昭和36年伊豆急電鉄が開通し,第二の黒船と呼ばれた頃,ホテルや民宿が建ち賑わいを見せたが,その騒ぎが一段落してみれば,やはり長閑な田舎に戻っている。今も伊豆の旅で眺められる景色は,山肌の蜜柑に南の太陽が照り,白いビーチに碧い海,磯に返す波,小さな漁港,温泉の湯けむりで,鄙びた田舎の風情が感じられる。

人々はゆっくり歩き,お人好しで,だからと言ってお節介でなく・・・,都会で疲れた旅人の心を癒してくれるだろう。

 

須崎の岬から眺めると,朝日は伊豆七島の一つ「利島」の脇から登る。そして,西の海に落ちる。遮るものは無い。眺望が開けている。海の難所と呼ばれただけあって,灯台は多い。爪木崎灯台,下田港灯台,犬走島灯台・・・。恵比寿島の遥か海上には,日本最古の神子元島灯台が眺望できる。

 

縄文から現代までの「伊豆下田歴史年表」を添付した(別添:歴史年表)。

 

旅人よ,奥伊豆の長閑な里に,昔を振り返ってみませんか? 

 

 

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新札はどこへ消えた(南米の暮らし)

2012-12-04 11:14:21 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

先日,「造幣局がアジアL国の硬貨製造を受注した」旨の発表があった。地球上には,貨幣を自国で製造せず(できず),外国に発注している国が多々ある。このニュースは,わが国製造技術の優秀さと信用が認められた結果で,喜ばしいことだ。貨幣製造や切手印刷など海外からの受注拡大を期待したい。

このニュースを聞いたとき,南米での暮らしの一コマを思い出した

「ヨーロッパのB国に製造依頼していた紙幣が,港に着き,銀行の金庫に搬入される前に何億ドル相当が行方不明になっている」と,テレビや新聞が報じた。時はまさに,国を二分する国政選挙の最中である。

「○党が横領したのだろう,警察が頑張っても解決しない,うやむやになるさ・・・」と,怒りと羨望,諦めが交差して,巷が姦しい。

そして数日後,

「紙幣のデザインを変え再度製造する」と,大統領が発表した。

さて,その結末はどうなったんだっけ・・・? 話題にする人もいない。

 

これも選挙中の話である。

「昨日,銀行に強盗が入り,ガードマンが死亡した」

「聞いたよ,大きな被害があったそうだ」

「あの銀行は時々利用するので知っている。日中なのに恐ろしいね」

「多額の金が銀行に運び込まれた直後のことだそうだ。強盗は情報を得ていたのだろう。奪われた金は選挙資金に流れるとの噂があるよ」,真偽は分からない。

それ以降,警備員が自動小銃を抱えて巡回する姿が目立つようになった。選挙中は銀行へ近づくのを止めよう・・・。

 

ある額の紙幣(例えば千円札)が,時に不足することがある。

「どうしたのだろう?」と頭を傾けたら,解説してくれる人がいた。

「大豆の収穫期に入ったからだ。臨時の労働者に支払うために,農場主が集めた」

「いやいや,選挙の投票日が近いからね」

 

本当らしく聞こえるのも,南米だからなのだろうか

 

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