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宮田裕章「デジタルトランスフォーメーション(DX)の先にある新しい社会とヘルスケア」(北海道文教大学特別公開講座)

2023-06-29 15:00:34 | 講演会、学成り難し・・・

北海道文教大学特別公開講座

2023年6月25日、北海道文教大学の特別公開講座を聴講した。講師は宮田裕章氏、演題は「デジタルトランスフォーメーション(DX)の先にある新しい社会とヘルスケア」。

演題を見たとき、「デジタルトランスフォーメーション・・・?」、DXとは何だと言葉に躓いた。講師はテレビでコメンテーターとしても活躍されているので、データサイエンス専門家であることは知っていたが、昨今飛び交うこの種の横文字には追い付けない。「これは聴講する前に予備知識が必要だ」とネットを覗く。

◆「DX」という言葉自体の意味

DX は「Digital Transformation」の略語で、2004 年にスウェーデンのウメオ大学教授エリック・ストルターマン氏が提唱した概念。「進化し続けるテクノロジーが人々の生活を豊かにしていく」ことを意味する。英語圏では「Trans」を「X」と略すことがある。

◆日本における DX の定義

経済産業省「DX 推進ガイドライン」には、「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に製品やサービス、ビジネス モデルを変革するとともに、業務そのものや組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること」とあるそうだ。つまり、企業がデジタル技術を活用しビジネスモデルや企業そのものを変革していくことを意味する。英語の「Digital Transformation」を直訳すると「デジタル変換」だが、単なる“変換”ではなく“変革”という意味合いを持つと定義されている。

何となく解ったような気になる。情報社会の中で、ID化だけでは不十分、 DX化することが必要だと言うことか。DX化のメリットは ①新たなビジネスの創造、②リスク回避に役立つことになると言う。

(写真は公開講座案内ポスターから)

講師は、世界の流れ(歴史)を「農業革命」→「産業革命」→「情報革命」→「創造革命」と涅槃することから話を始め、日本は自動車産業など産業革命で大成功をおさめ、その成功体験から情報革命の流れに乗り遅れた。経済を核とした社会から新たな社会へと変化が起こっていることを認識しなければならない。格差のリスクを認識し、持続可能性、一人一人の豊かさを求める社会、最大多数から最大多様の最大幸福を追求する社会のためにDXが必要であり、DX化が有効と説く。そして、高齢化が進む中で、ヘルスケア分野の改革にDXが役立つことを示唆された。

確かに、COVID-19パンデミックで、私たちはデータやデジタル技術を活用することの重要性を理解したし、IDの進歩で世の中が飛躍的に便利になった。しかし同時に、進歩の過程で人間性を忘れることがあってはなるまい。

講師が共創する社会ビジョンの一つは、「いのちを響き合わせて多様な社会を創り、その世界を共に体験する中で一人ひとりが輝く社会」と述べている。氏は、研究・実践行動の中で常に人間を中心に捉えていると主張しているのだろう。そうあって欲しい。

市民公開講座としては、やや難解。

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恵庭の歴史びと-2 「山田文右衛門」

2023-06-10 10:29:13 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

場所請負人「山田文右衛門」

恵庭の歴史に名を留める「恵庭の歴史びと」を取り上げる。

今回は「山田文右衛門」。天明年間に能登国から蝦夷地に進出した商人(留萌・勇払場所支配人、後に勇払・沙流・厚岸場所請負人)。代々「文右衛門」を襲名。特に10代文右衛門清富は昆布養殖の創始者として名高い。

恵庭との関りで言えば、山田文右衛門は文政4年(1821)に勇払場所の請負人になってから、幕末・明治までユウフツ場所惣支配人・請負人、石狩本陣取扱いを務め、イザリ・シママップは山田家と深い関係にあった。8代文右衛門有智がイザリブト~チトセ間の千歳越え道路を開削し荷馬車の運行を初めて行ったこと、10代文右衛門清富が札幌越え新道計画のイザリブト~シママップ間工事を請負い、島松駅逓の初代取扱人(名義人)であったことなど道路整備に貢献したことでも名を留める。

なお、恵庭墓苑に墓碑「山田屋金兵衛墓」(施主山田仁右衛門、文久元年5月23日)があるが、金兵衛は山田家の分家筋にあたる榊富右衛門(4代目仁右衛門)がユウフツ惣支配人だった頃の支配人と言われるが確証はない。ただ、文化10年(1813)勇払神社鰐口にユウフツ会所内支配人見習金兵衛の名があること、「山田文右衛門履歴」に勇払漁場支配人山田屋金兵衛の記載があることを考え合わせると、イザリ・シママップに所縁があった人物と言えるだろう。

(1)山田文右衛門の出自

山田家はもともと能登国羽咋郡神代村(石川県羽咋郡志賀町神代)で船主船頭を営んでいたと言われる。4代文右衛門(1655-1718)の時松前に永住(松前での親元は松前藩譜代家臣酒井伊左衛門)。その後6代喜右衛門(1712-80)の代まで松前で商業を営み、次第に有力商人へ成長したとされる。

(2)7代 山田文右衛門(1736-1797)

神代(かくみ)村の漁師又一の次男として生まれ、阿部屋村(志賀町)の村山甚右衛門が親元となる。天明年間(1781-1789)に松前藩福山(松前町福山)へ渡る。

天明7年(1787) 栖原角兵衛が請負人となっていたマシケ(増毛)場所の支配人を任せられる。

(3) 8代 山田文右衛門 有智(後に喜右衛門1763-1830

7代目の嫡子。栖原屋のもとで留萌・勇払場所の支配人を務めた。

文化2年(1805) 漁太に漁場を設け、運上屋を建て布施喜平を支配人とし、翌年番人2人を置く。

文化5年(1808) アイヌを雇って留萌からオシラリカ(雨竜越開削、留萌からニセバルマ、エタイベツを経て樺戸郡と雨竜郡の境界オシラリカへ至る)に出る約25里(98.2km)の道を整備。

文化8年(1811) イザリブト(漁太)~カマカ(釜加)~オサツ(長都)~チトセ(千歳)間の道路開削を開始、2年後に完成。千歳~ビビ間の道路を改修し、イザリブト~ビビ間に荷馬車を走らせサケ・マス加工品を運ぶ。なお、文化9年(1812)に東エゾ地の幕府直轄が廃され請負人制度が復活、ユウフツ場所請負人は文政3年まで阿部屋伝次郎であった。

文政4年(1821) 松前藩が復領。蝦夷地の場所請負制が再開されると栖原屋の保証を得て独立し、ユウフツ(勇払)場所の請負人となる。次いで文政5年(1822)にはサル(沙流)場所、文政11年(1828)にはアッケシ(厚岸)・子モロ(根室)場所を請け負う。家督を九代目に譲った後は喜右衛門を名乗り、江戸深川で隠居。文政13年(1830)、病のため箱館にて死亡。

(4)9代 山田文右衛門 喜長(1799-1842)

8代文右衛門有智と川内字蠣崎布施家の娘沢との子供。もっぱら江戸で活動し蝦夷地の土を踏むことはなかった。一方、「山田文右衛門履歴」では、8代文右衛門の弟市郎右衛門を9代目としている

5)10代 山田文右衛門 清富(1820-1883)

8代目の弟、市郎右衛門の次男。9代目の長男が夭折したため、9代目の養子となり家督を継ぐ。

弘化元年(1844) 勇払に会所、千歳に出会所が置かれ、文右衛門が代役となり会所事務を兼務する。

嘉永2年(1849) 植田甚蔵が文右衛門に雇われ、イザリブト番屋の番人となる。

安政3年(1856) 千歳に米300俵を備蓄し非常用に供した功績により、当時蝦夷地を直轄領としていた幕府から苗字帯刀を許される。

安政4年(1857) 箱館奉行の依頼による銭函~千歳間の道路開削を他の商人らとともに引き受け、島松~千歳美々間を担当。因みに、銭函~星置間は小樽請負人恵比寿屋半兵衛、星置~島松間は石狩場所請負人阿部屋伝次郎。

安政5年(1858)樺太漁場の開発に名乗りを上げて差配人並に任じられ、私費を投じて東海岸栄浜に数か所の漁場を開く。しかし開発の中心役だった松川弁之助らの撤退に伴い、元治元年(1864)の漁を終えると、後任の伊達林右衛門・栖原半七に漁場を譲る。

万延元年(1860) 昆布が育たない沙流の海での昆布養殖を検討開始。文久3年(1863)には、箱館から呼び寄せた石工12人それぞれに雇ったアイヌ3人ずつを組ませ、沙流太川河口近くの山から2万7000個の石を切り出し沙流沖に沈め、本格的な養殖試験を開始。このときの石は多くが海底の砂に埋もれてしまったが、埋没を免れた石には良質の昆布が育っていた。そこで次は石が埋もれないように投入箇所を絞り、慶応2年(1866)までの3年間に毎年5万個の石を沈めたと言う。

養殖技術の実用化に成功すると、昆布事業を三男の文治に任せ、請負場所は分家筋の榊富右衛門(支配人、4代目仁右衛門)に託して、自らは隠棲。

明治2年(1869) 場所請負人制度が廃され、山田文右衛門は石狩本陣の取扱いを命ぜられる。なお、勇払・千歳・漁太本陣は榊富右衛門(四代目仁右衛門、文右衛門清富の娘婿)。

明治6年(1873) 漁場持山田文右衛門の代理人3名島松駅逓所の設置を札幌本庁に陳情。初代駅逓取扱人は山田文右衛門、実務は植田礼助(甚蔵の息子)。

明治8年(1875) 文右衛門は負債を抱え、漁場持と駅逓取扱人を辞す。島松駅逓二代目は山口安五郎。

明治14年(1881) 明治天皇の函館巡幸の折、昆布養殖の功績を称えて賞状が与えられる。明治16年(1883)勇払村にて死去。常行山能量寺(石狩市)に眠る。

(6)11代 山田文右衛門 文治(1849-1898)

父の跡を継いで、昆布養殖事業をさらに拡大。

山田家は文右衛門の他に仁右衛門、市郎右衛門、壽兵衛など多くの親族が蝦夷地で活躍し、松前、箱館、苫小牧勇払史跡公園、石狩などに山田家関係者の墓があると言う。

参照1) ロバート G・フラーシェム, ヨシコ N・フラーシェム「蝦夷地場所請負人 山田文右衛門家の活躍とその歴史的背景」北海道出版企画センター1994、2) 山田文右衛門(清富)「山田文右衛門履歴、日本北辺関係旧記目録」小樽市山田家蔵(北海道大学北方資料データベース)、3) 恵庭市史編集委員会「新恵庭市史」2022、4)林嘉男「ふたつの駅逓」2006

その他、伊藤孝博「北海道 海 の人国記」無明舎出版2008、「山田氏系譜」北海道立図書館蔵、大井条雄一「場所請負制度の一考察、山田文右衛門の事績を中心に」、亀畑義彦「我が祖山田文右衛門」北海道教育大学旭川分校1980など

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