豆の育種のマメな話

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恵庭の彫像-10,恵庭市民会館前庭の「平和の像」

2014-10-17 14:04:57 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市民会館の前庭に,幼児二人の石像がある。おそらく兄と妹だと思うが,男の子は鳩を右手に抱えて立ち,女の子は兄の脚に右手を添え座している。ふくよかな顔で微笑みを湛えている。瞳の先には,平和な未来が広がっていると確信しているようだ。

台座の正面には,恵庭市長槌本貞一の書で「平和の像」とある。さらに,「この像は恵庭市の子供達が健やかに育ち平和に,そして恵庭市がますます住みよく発展する事を強く願いここに建立いたします」とメッセージが記されている。

この像は,恵庭三四会(恵庭若手経営者の会)が寄贈したものである。「平和の像」は,昭和52年(1977)会の設立に合わせて建立したものであるが,平成17年(2005)三十周年記念事業として古くなったモルタル製の台座を御影石に取り換えたと言う。「寄贈恵庭三四会,三十周年記念事業,平成17年11月26日」と刻まれている。同日,除幕,記念式典が挙行された。

高さ6m,幅4.6mの大きさは,彫像に比べ「不釣り合いなほどに高く大きな台座」と思わぬでもないが,幼児の表情に救われる。また,恵庭三四会は彫像の清掃作業を毎年行っていると言う。彫像の管理もさることながら,作業を通じて平和を願う気持ちを確認しているのだろ。会の活動に敬意を表したい。

 

彫像の作者については,現在確認中。

市役所に問い合わせたところ,Sさんから「作者名は記載されていない。三四会に聞いてみたが,代が替わっていて分からない」,さらにTさんから「著名な作家の作品ではなく,札幌の○○石材店の制作」とご教示頂いた。寄贈目録に彫像作者名が記載されていないこと,具体的な石材店名が示されたことから勘考すると,石材店の石工(匠)作というのが本当の所かも知れない。

確認のため○○石材店に電話で伺ったところ,現社長から「三代目の幸天市社長の時代と思われるが,記録が見つからない。ただ,この時代だと灯篭や狛犬を彫る石工(匠)はいたが,彫像を制作できる石工(匠)は北海道にいないはずだ。道外での制作かも知れない」とのご意見を頂いた。

言うまでもないが,名もなき一石工(匠)の作品であろうと,この作品の芸術性や価値を損なうものではない。むしろ,将来の平和と安寧を信じて疑わない子供らの表情を,かくも素直に具現した作家の力量に感嘆する。作者はどんな方だったのだろうか,気に掛かる。

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恵庭の彫像-9,恵庭駅前の少女像 (山本正道「すずらんに寄せて」)

2014-10-14 10:19:04 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

JR恵庭駅前(東口)にブロンズの少女像がある。駅前とは言え,えにわ病院の駐車場を背にした路傍にあるので,あまり目立たない。恵庭駅東口の利用者は,札幌への通勤客や北海道文教大学の学生が多いと思われるが,この像を意識することがあるのだろうか。行き交う人々は足早に通り過ぎる。そして昼の時間帯,少女は一人ぽつねんと腰を下ろしている。建立されたのは4年前と比較的新しい。

     

◆山本正道作品「すずらんに寄せて」

彫像の作者は山本正道。横浜山下公園にある彫像「赤い靴はいてた女の子」がよく知られる。その他にも,「想い出」「切り株と少女」「少女」「みちくさ」「春の詩」「風と少女」「乙女像」「帰り道」「森と少女」など,少女をモチーフにした山本作品が全国各地に置かれている。その特徴は,「形を単純化し,細部を省略した丸みをおびた造形。おおらかさ,温かさを覚える作品」とでも言えようか。いずれの少女も俯き加減の表情,この像では「両手で捧げ持つ鈴蘭を愛しむように」注視している。

作者の言葉を借りよう。「朝露に光るすずらんの小さな花束を捧げ,少女は路傍の石に腰をおろし吹き抜けて行く風の音にじっと耳を澄ます。北国の高く澄みきった空の下に広がるすずらんの野,そして少女。私はこの自然と人との優しい共生の姿を彫刻に表してみた。山本正道(説明板から引用)」

なお,JR北広島駅構内の「森と少女(誕生・成就)」,北大構内の「新渡戸稲造顕彰碑」も山本正道の作品。少女像のジャンルと異なる「風景彫刻」には,先に紹介した恵庭ユカンボシ川河畔公園の「時をみつめて」,札幌芸術の森野外美術館の「こだま」,洞爺湖ぐるっと彫刻公園の「風の音‘92」等がある。対比してみるのも面白い。

作者の「山本正道」は,昭和16年(1941)京都府生まれ,東京芸術大学美術部彫刻科卒業(大学院修了),イタリア政府給費留学生としてローマ美術学校で学ぶ。新制作協会会員,フルブライト交換研究員。東京芸術大学教授。平櫛田中賞,中原悌二郎優秀賞,京都国立近代美術館賞,神奈川県近代美術館賞,倉吉緑の彫刻賞,紫綬褒章など受賞。

 

建立主旨について,「平成7年,恵庭駅東口地区の生活環境整備と新市街地形成を目途に,地権者618名による組合が設立され事業に着手された。その規模は,恵庭駅自由通路を含め面積120.7ha,計画戸数2,500戸,計画人口7,500人,事業費113億円におよび,期間15年を要して完成した。ここに組合の事業完了と解散にともない,子供たちの健やかな成長と,温かく安らぎのある街となることを願い,「すずらんに寄せて」の像を建立する。平成22年10月,恵庭市黄金土地区画整理組合(説明板から)」とある。

この地区は今,整備が進み,新しい息吹が感じられる。少女像「すずらんに寄せて」はこの町の発展を見続けることだろう。同時に,「鈴蘭の咲く原野であったことも忘れてはならない」と語りかけているように思える。

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恵庭の彫像-8,恵庭市総合体育館の壁画彫刻 (竹中敏洋「躍動と天然の美」)

2014-10-13 13:00:51 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市総合体育館(恵庭市黄金中央5丁目)のロビーに巨大な壁画彫刻がある。この壁画彫刻は,昭和60年(1985)体育館の建設に合わせて制作されたもので,縦3m,横12mほどはあろうか(測定値ではない)。作者は,恵庭市盤尻で創作活動を続けた竹中敏洋である。

 

◆竹中敏洋作品「躍動と天然の美」

サイズが大きいので,少し離れて全体を眺める。灰色とモスグリーンの画面の中に,中央から四隅に伸びる赤い線が印象的だ。よく見れば,四人の若者がボールを抱えて競い合いながら走っている図柄である。ラグビーなのかアメリカンフットボールなのか,若者の肉体が躍っている。手足は長く躍動しながら伸び,草原を流れる川のようにも見える。空間(草原)には鹿を追う原始の人々が小さく描きこまれている。ラグビーで疾走する姿に見えた四人の若者は,実は原野で鹿を追っているのかも知れない。狩猟がスポーツのルーツであることを意識しながら,作者はこの壁画彫刻を創作したのだろう。

「躍動と天然の美」と題されたプレートには,「スポーツのルーツである狩猟時代と現代の球技を原野を流れる河によって描き,躍動と神秘の景観が見る角度で変化する立体表現となっていて,この一枚のキャンバスに原始に息づく数万年の歴史が秘められています。1985年4月,創作者竹中敏洋,漁川上流に住む作者が,氷のフアンタジーの研究から創造した液体硬化による新しい造形です」とある。体育館にふさわしい壁画である。

この壁画の躍動感はどこから来るのか。近寄って詳細に観察してみよう。躍動感の印象は,図柄もさることながら,液体硬化と呼ばれる技法(樹脂の化学変化を活かした造形)が醸し出す立体感にあるのではないだろうか。画面細部の造形は,火山の噴火口のようにも見えるが,不規則で複雑な形と色彩が織りなすファンタジーの世界だ。見る人に衝撃を与える。赤い狩人たちがメルヘンの世界へ誘う。これが,竹中敏弘芸術の世界と言うものだろう。

恵庭に数ある芸術作品の中でも圧巻の一つだ。

 

作者「竹中敏洋」の経歴については,本ブログ(恵庭の彫像-4,恵庭開拓公園にある竹中敏洋「拓望の像」)で紹介したので詳細は省くが,北海道を中心に活躍した彫刻家,造形作家である。芸術の神髄を一途に追い求め続け,さらには造形樹氷による氷と光の芸術,液体硬化による新鮮な造形技法などに取り組むなど,あくなき探究心を途絶えさせることは無かった。恵庭開拓公園にある「拓望の像」とこの壁画彫刻を比べてみれば,その差異に驚かれるだろう。

平成14年(2002)盤尻の自宅で逝去したが,テレビドラマ「ダンプかあちゃん」の逸話は心に残り,彼が発案し制作に関わった氷瀑(氷濤)まつりは今なお盛大に続いている。そして,シャクシャインの像(静内町真歌公園),永遠の像(月寒公園),THE SKY(札幌アステイ45外壁),青年の像躍進(大雪青少年交流の家),北辺開拓の礎(静内御殿山),市民の像(千歳),拓魂碑(深川)など多数の作品は,今も見る人の心を揺さぶって止まない。

 

◆鈴木吾郎作品「こぶし」「もみじ」

恵庭市総合体育館を訪れたとき,壁画彫刻の両脇に2体の塑像が置かれていることに気づいた。どこかで見た感じがする。彫像の台には,「こぶし」「もみじ」,作・寄贈鈴木吾郎」とある。恵庭大橋の季節の広場を飾る鈴木吾郎の作品「こぶし」「もみじ」の原型であろうか。

この場所に,鈴木吾郎作の塑像があることを知らなかった。一見の価値がある。

 

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恵庭の彫像-7,ユカンボシ川河畔公園彫刻広場 (山本正道,丸山隆,山谷圭司の作品)

2014-10-11 13:43:42 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

前回の佐藤忠良,渡辺行夫,植松奎二作品に引き続き,ユカンボシ川河畔公園彫刻広場の3作品を紹介する。

4.山本正道作品「時をみつめて」

佐藤忠良の作品の奥,散策路の左手にコップを伏せたような,或いはコンポスト容器のようなオブジェが置かれている。枯枝が載っていたので,そっと取り除いて写真を撮った。作者によれば,「メサ」(スペイン語で台地)をイメージしているとのこと。台地と言えば,ケープタウンのテーブル・マウンテンやギアナ高地を思い出すが,この作品もよく見れば台地と思えてくる。

作者は,「森の奥から湧き出た水は,やがて小さな支流となって池となる。そこに架けられた“小さな石橋”と,小径でむすばれた“台地を模したブロンズのかたち”により,公園の自然をさらに豊かな姿に見せるよう努めた(案内板から)」と,制作意図を語っている。

そうか,あの石橋と一体構成の作品なのだ。アングル位置を探して写真に収めた。メサはブロンズ製で高さ126cm,石橋は茨城県花崗岩。山本正道の作品は「風景彫刻」と呼ばれるが,ユカンボシ河畔の自然の中にあって日本画の風情だ。具象彫刻を進化させた新しい表現空間の世界でもある。

 

作者「山本正道」は,昭和16年(1941)京都府生まれ,東京芸術大学美術部彫刻科卒業(大学院修了),イタリア政府給費留学生としてローマ美術学校で学ぶ。新制作協会会員,フルブライト交換研究員。イタリアやアメリカでの生活体験が,彼の作品に影響を与えているのかも知れない。東京芸術大学教授。平櫛田中賞,中原悌二郎優秀賞,京都国立近代美術館賞,神奈川県近代美術館賞,倉吉緑の彫刻賞,紫綬褒章など受賞。「赤い靴の像」(横浜山下公園),「風の音」(仙台市野草園)など多数。

5.丸山隆作品「Cube」

彫刻広場を奥に進むと水辺の小さな空間に,花崗岩を磨き,或いはビシャン仕上げの椅子やテーブルが,木漏れ日の中にあった。丸山隆の「Cube」という作品である。高さ145cm,全体の幅343cm×241cm。

作者の言によれば,「宇宙の摂理だとか,人間の認識の事だのを悶々と考えてCUBEという作品を造りました。でも,私がそう思って造ったからといって,そう見なければならない理由はもちろん一切ありません。ユカンボシの恵まれた空間の中で,私の彫刻をくぐったり,座ったり,お弁当を食べて欲しいと思っています。そしてふと振り返った瞬間に,空間の不思議さに思いを馳せてもらえたらこんな嬉しいことは在りません(案内板から)」とある。

この作品は,複数の椅子が無造作に,無秩序に置いてある。子供がおもちゃ箱をひっくり返したようでもある。この無秩序,形の歪みが発する緊張感が丸山隆の特徴なのだろう。この緊張感は目には見えない何かを感じさせる源泉である。

 

作者「丸山隆」は,昭和29年(1954)長野県生まれ,東京芸術大学美術学部彫刻科卒業(同大学院修了),昭和60年(1985)北海道教育大学札幌校に赴任し,活躍した。丸山の来札を機に北海道の彫刻が大きく変わったと指摘する識者もいる。北海道美術協会賞,北海道新聞社賞など。「残留応力」(洞爺湖ぐるっと彫刻公園),「原風景」(山鼻サンタウン広場)。「石山緑地基本設計・制作」,「循環する形」(恵庭市)など道内に31作品があると言う。道展会員。平成14年(2002)腎臓ガンにより47歳の若さで世を去った。

6.山谷圭司作品「にぎやかな遡行」

この作品が何処にあるか,最初は分からなかった。彫刻公園の一番奥,民家と渓流の間の狭い坂道に置かれた一群のオブジェが,山谷圭司の作品だと気付くのにしばしの時間が必要だった。それは,民家の庭から渓流に下りてくる小路のように見えた。まさに,「散策路の階段部分の造形」である。素材は上富良野産の安山岩であると言う。

作者は,「ユカンボシをはじめて訪れた時,私に提示された場所に立ち,ここでは単体の作品はそぐわないだろうという思いを持った。渓流と民家の間の狭いな坂道に彫刻を置くというより,そのまま彫刻化してしまおうという構想になったが,結局,これはかなり大変な作業をともなうことになった。この坂を登り下りする来訪者たちが「作品」に踏み入ったことも気づかず,何故かその歩みを味わい,楽しめる仕掛けであってくれればと思っている(案内板から)」と述べている。

「来訪者と一体化して,ふと気づく」山谷圭司が意図するところだ。それは,私たちが日本庭園を散策するときに感じる気持ちと同じものでないのか。

 

 

作者「山谷圭司」は,1955旭川生れ,武蔵野美術大学彫刻科卒業,ミュンヘン美術大学卒業。岩石等を組み合わせた独創的な作風が特徴である。上富良野にアトリエをもち,旭川,札幌を中心に多方面の活動を続けている。「賽の石組」(旭川忠別公園),「3つの柱,2つの門,1つの場」(旭川),「星の舟-先ずは今ここに来たりて」(米子市立図書館),「三本足の石塔」(富良野),「終わらない螺旋階段」(東神楽)など多数。「石山緑地基本設計・製作」に関わる。

 

ユカンボシ川河畔公園彫刻広場は,基本設計に基づき6作品が配置されたと考えられ,これ以上新たに作品を加える余裕はない。いわば,完結した彫刻広場である。一人渓流を散策しながら作品に触れる,或いはベンチに座る一人の女性姿が似合うような広場だ。静寂の中での鑑賞こそがユカンボシ彫刻広場の目指すところだろう。この広場に,多くの人が訪れる雑踏は要らない。

また,「手つかずの自然を尊重しよう」とのコンセプトが各作者のコメントにも表れているが,木々が繁茂したとき作品は自然に埋もれないのか,管理はどうするのかと気にかかる。

いずれにせよ,作品が四季折々にどんな顔を見せるか,この先も見届けたい彫刻広場である。

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恵庭の彫像-6,ユカンボシ川河畔公園彫刻広場 (佐藤忠良,渡辺行夫,植松奎二の作品)

2014-10-10 16:53:24 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市の南部に位置する恵庭公園の奥深く湧き出した水(源泉)は,ユカンボシ川(ユカンボシとはアイヌ語で「鹿の住んでいたところ」)となって,恵庭を抜け千歳川に流れ込む。このユカンボシ川の河畔は,人の手が入らず原始の自然が保たれている。四季折々の木々と清らかなせせらぎが静寂の空間を織りなしている。

平成12年(2000)恵庭市は,ユカンボシ川の豊かな自然を守り伝えて行くため,公園整備をスタートさせた(市制30周年記念事業)。ユカンボシ川河畔野外美術製作委員会(委員長酒井忠廣,神奈川県立近代美術館長)を立ち上げ,道内外6人の彫刻家に現地を観てもらい,自然に調和する作品制作を依頼した。そして現在,彫刻広場には個性豊かな6作品が置かれている。

10月の或る日,ユカンボシ河畔の彫刻広場を訪れた。JR恵庭駅から徒歩で向い,彫刻広場から渓流沿いの散策路を進み恵庭公園に抜け,帰りは恵庭市エコバス(駒場町4丁目)を利用すると言う,気ままな行程だった。

広場は予想より小さい。たぶん意識的なのだろう,民家との境を曖昧にして,公園と庭は一体化しているように見えた。彫像は無造作に配置され(熟考された配置かも知れないが,そう見えた),オブジェの上には枯葉が乗っていた。獣道のような散策路も際立つことなく,総じて「自然のままに」というコンセプトが感じられる公園だ。

正面ゲートには,看板と案内板が設置されている。看板の図案は,山形生まれのグラフィックデザイナー矢萩喜従郎による「シンボルマーク・ロゴタイプデザイン意匠」が描かれている。

   

1.佐藤忠良作品「えぞ鹿」

正面ゲートを入って右手正面に,佐藤忠良の作品「えぞ鹿」が目に入る。南米産花崗岩の高い台座の上で,ブロンズ製のエゾシカは跳躍している。作品高115cm,台座を含めると235cm。

作者は,「六歳の時から北海道の自然の中で育てられた私に,恵庭市からの要請で彫刻設置の課題を与えられ,作品構想のためユカンボシ川河畔のせせらぎの現地に立ったとき私は,迷うことなく植物たちが放つ四季清澄な空気漂う中に「えぞ鹿」を,活き活きと跳ね上がらせ,此処を訪れる人々と共に北の国の忘れえぬ空間が共存でき得ればの願いを籠めながらの制作であった(案内板から)」と制作意図を語っている。

   

作者の「佐藤忠良」は,大正元年(1912)宮城県生まれ。6歳のとき夕張に移り多感な少年期を過ごす。札幌第二中学(札幌西高)から東京美術学校彫刻科卒業。新制作派協会彫刻部創設に参加。戦後シベリア抑留生活を経験。東京造形大学教授(名誉教授),新制作協会会員。高村光太郎賞,毎日芸術賞,文部大臣賞,中原悌二郎賞,朝日賞,河北文化賞など多数の受賞歴がある。ただ,日本芸術院会員,文化功労章,文化勲章の候補に推薦されたが,「職人に勲章はいらない」と国家の賞については全て辞退したという話が残る。フランスのロダン美術館,ニューヨーク,ロンドン等で個展を開くなど海外でも活躍。宮城県美術館には佐藤忠良記念館,佐藤忠良個人美術館として佐川美術館がある。北海道の野外彫刻も50点を超える人気彫刻家。平成23年(2011)3月逝去,享年98歳であった。

2.渡辺行夫作品「ドン・コロ」

正面ゲートを入った左手斜面には,花崗岩の塊が置かれている。表面はビシャン仕上げ(ハンマーで叩いて凸凹にする)され,頂部は磨かれている。高さ,直径がそれぞれ150cm。これは何だ? と先ず思う。ともあれ,存在感がある。

作者は,「そこは下方に池がある斜面だった。見上げれば,視界の隅に木の枝が入り込んで来るほどの空間であった。ここにどんな物を置くと自分にとって心地よいのか。やがて,子供の頃の記憶がよみがえってきた。それは,父と一緒にスケートリンクを作るため,池堀をしたことである。その泥の中から出てくる,しつこいしつこい泥だらけの「ドン・コロ」は昔の大木の切株だ。地中深く,長く伸びた数十本の根を一本一本切り取って,だるま状にしてから,やっとのことで引っ張り出し,池の端に押し上げる。一つの「ドン・コロ」にまる一日,二日と格闘を続ける。何個も出てくる。大きければ大きい程,子供心に池の主のように思えた。あの「ドン・コロ」をまた置きたいなと思った(案内板から)」と制作の背景を語っている。

そうか,掘り起こした木の根っこなのか。メルヘンの国のキノコのように,或いは着陸した宇宙船のように見えなくもないけれど・・・。広場の中で最も安定感のある作品だ。

その一つは,恵庭の小中学生によって書かれた「20年後の手紙」を収めたタイムカプセルになっている。恵庭市制30周年記念のプロジェクトで,2020年に開かれる。

 

作者の「渡辺行夫」は,昭和25年(1950)紋別市生まれ,小樽在住の彫刻家。金沢市立美術工芸大学彫刻科卒業。全道展北海道新聞社賞,彫刻の森美術館賞,本郷新賞など受賞。「風待ち」(洞爺湖),「円の拘束着」(平塚市図書館),「移動願望」(札幌芸術の森美術館),「行往座臥」(札幌信広寺),「四角い波」(紋別流氷公園),「石器’98」(下川万里の頂上公園),「風の庵」(旭川北海道療育園),「風紋の標」(中山峠)など多数の作品を残している。

3.植松奎二作品「樹とともに-赤いかたち」

正面ゲートを入って左側,低地のせせらぎに赤い物体が目に入る。近づいてみると,周辺を水草で覆われた小さな池の中央に,赤い円錐体と枯れ木のオブジェがある。素材はステンレスステイールで,樹木の高さ590cm,円錐体は高さ365cm,直径が180cm,植松奎二の作品である。

訪れたのが秋だったからなのか,スチール製の枯れ木は存在感が薄い。赤い色だけが,強く水面に映えている。自然の中で何か異質な感じを受けたが,雪景色の中で見ればまた違った印象を受けるかも知れない。

作者は,「はじめて,ユカンボシ河畔の地を訪れたとき,街の中の一角に,水と緑の自然が遠い昔から残っている風景と出会い,彫刻のイメージを強く喚起された。雪のまだ深い河畔を歩きながら,池に映る四季を想い,風景の中の記憶,かたち,風景の中の色という言葉がこころに浮かんだ。ここでは,自然と共生する彫刻,あるいは,以前からそこにあったように自然な形で息づき,呼吸するような彫刻をつくりたいと思った(案内文から)」と語っている。確かにそうだ。池を一回りして,二度目にオブジェを眺めたとき,それは自然の中に同化していた。

  

作者の「植松奎二」は,昭和22年(1947)兵庫県生まれ,神戸大学教育学部美術学科卒業,大阪及びドイツのデユッセルドルフに住み,国際的な活躍を続ける美術家である。神戸市文化奨励賞,須磨離宮公園現代彫刻展大賞,長野市野外彫刻賞,中原悌二郎優秀賞など受賞。作品は,素材を多彩に配置し,人間の知覚を超えた空間に宿る普遍的なエネルギーを表現しようとしているのか。北海道では,旭川市彫刻美術館,北海道療育園彫刻の森等に作品がある。

次回は,ユカンボシ川河畔公園彫刻広場の山本正道,丸山隆,山谷圭司作品を紹介する。

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恵庭の彫像-5,恵庭開拓公園にある「二宮尊徳幼時の像(復元)」

2014-10-09 09:29:24 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

前回は恵庭開拓公園にある竹中敏弘作品「拓望の像」を紹介した。

この公園は,昭和46年(1971)廃校になった松園小学校の跡地を開拓記念公園として整備したものであるが,松園小学校の同窓生たちが思いを込めて復元した「二宮尊徳幼時の像」を紹介しよう。

     

 

◆二口大然作品「二宮尊徳幼時の像(復元)」

恵庭開拓記念公園の松園小学校門柱と並ぶように,二宮尊徳幼時の像がある。草鞋を売り歩く二宮金次郎の像である(幼名は金治郎)。幼少の頃,草鞋を編んで金を稼ぎ,暮らしの足しにしたとの逸話に基づくものだろう。また、この姿は「金次郎が12歳の頃、病気の父に代わって酒匂川の土手普請に出たが、一人前の仕事が出来ないので申し訳ないと、夜なべに草履を作って使ってもらった(推譲の像)」との故事に因んだとも言われている。我々が見慣れているのは,「薪を背負い,読書しながら歩いている」金次郎であるから,この姿は珍しい。

薪を背負った二宮金治郎のルーツは,尊徳の弟子富田高慶が著した「報徳記」の記述「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中読みながら之を誦し少しも怠らず」を元に書かれた幸田露伴「二宮尊徳翁」の挿絵だと言われる。そして,明治43年(1910)彫金家「岡崎雪聲」によって最初の二宮金次郎像が作られ,これが金次郎像の原型になったと考えられている。そして驚くことに,日本各地の金次郎像はどれもこれも原型(薪を背負い,読書しながら歩いている)そっくりである。昭和の時代どこの小学校前庭にもあった姿である。子供たちは,貧しくて勉強できなかった時代の話,勤勉,努力の大切さを,この像から学んだ。

台座には,施主:元松園校遺跡保存事業期成会,銅像企画施行:株式会社エコー商事,原型作家:二口大然,制作:金次銅器株式会社,礎石:恵庭石材工業,昭和54年(1979)8月竣工とある。

また,「松園校記念碑」に記された復元の由来及び「恵庭史」によれば,昭和11年松園小学校同窓会総会において尊徳像の建立を決し,札幌市円山小学校にあった「草鞋を捧げ持つ幼児の二宮金次郎像を見学後,同像の制作者である小樽出身(筆者注:小樽在住)の彫塑家中野五一に依頼,同窓生の労資奉仕もあって昭和13年ブロンズ製の金次郎像を建立したのが最初である。昭和17年国策の金属回収に応じ解体して代替え品の硬化石像を建立したが風化甚だしく,昭和54年青銅の原型に復元したとある。

 

何故,この像は草鞋なのだろう? 円山小学校の金次郎像がモデルであることは間違いなさそうだが,その先は確かめようがない。

昨今,「戦時教育の名残,教育方針に合わない」「子供が働くことを勧めることは出来ない」「歩きながら本を読むのは危険」などの偏狭な理屈で,金次郎像が撤去されるということが各地であったと聞く。

「歩きながら本を読む」のは危険だから草鞋売りにしたのか。昭和13年(1938)の金次郎像にそんな理屈はないはずだ。今は,腰を下ろして本を読む金次郎像が実在する時代になったが・・・何か変だ。

復元像の作者は「二口大然」であるが,経歴等は確認中。

 

平成26年(2014)10月22日追記:恵庭市役所Tさんのご尽力で,二口大然の略歴を知ることが出来た(北日本新聞社平成4年刊「富山県芸術文化人名簿」の当該箇所コピーを提供いただいた)。同書及びウエブサイト情報から二口大然像が浮かび上がってきた。

二口大然は本名が二口金一,昭和3年(1928)2月19日富山県大門町出身(現・射水市,他の文献で大島町生まれとする記述がある)の彫刻家。東京美術学校専科美術研究科卒業,佐藤忠良に学ぶ。日展,新制作協会展,北陸美術展などで活躍。富山県高岡市,富山市,山口県宇部市など各地で個展開催。神戸具象彫刻大賞展優秀賞,神戸開港120年記念賞,箱根彫刻の森美術館賞,富山県教育委員会芸術文化功労者表彰など受賞。富山県工芸試験場工芸課に籍を置く。富山県美術展審査委員,高岡市芸術祭実行委員,高岡市美術作家連盟副委員長,富山県美術連合会常任理事など歴任。

野外彫刻作品として,「メッセージ」(宇部市平和通り),「北の母子」(長野市辰巳公園,上田市美ヶ原高原美術館),「北の人」(神戸市メリケンパーク),「北の詩」(上田市),「雪国の母子」(新潟県十日町),「北へ・・・」(小田原市),「対話」(富山市),「旅立ち像」(横浜鶴見図書館)など多数。マント(雪蓑)と人体を一体化させた彫像「北の人シリーズ」は,北国の厳しい自然の中で生きる人間を抽象的に表現している。その他にも,「手長像」「足長像」のようなデフォルメ作品,「牛」「猿」などブロンズ小品も手掛けている。なお,釧路公園に3m大の「親子馬」があるそうだが,見ていない。

因みに,二口大然が復元する前の「二宮金次郎像」を制作したのは中野五一であるが,彼も富山県高岡生まれ(明治30年)。富山繋がりである。中野五一は,「クロフオードの像」(小樽市手宮),「奏楽女人像」(北見市緑ヶ丘霊園),「伊谷半次郎像」(北見市屯田公園),「松浦武四郎蝦夷地探検隊」(釧路市幣舞公園)などを残している。

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恵庭の彫像-4,恵庭開拓公園にある竹中敏洋「拓望の像」

2014-10-08 16:34:01 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵み野市街の北東(住所表記は恵庭市南島松)に「恵庭開拓記念公園」がある。この公園は,昭和46年(1971)廃校になった松園小学校の跡地を開拓記念公園として整備したもので,松園小学校門柱が残され,松園校跡地記念碑,復元した二宮尊徳像,天野先生之碑,富山県人開拓の碑,恵庭開拓記念像「拓望」などがある。また,「恵庭市郷土資料館」が公園に隣接している。

     

◆竹中敏洋作品「拓望」

恵庭に初めて開拓の鍬が入ったのは,明治19年(1886)山口県岩国地方からの集団入植者であった。その前年(明治18),入植地の現地調査に入った島田勘助と田中梅太郎の二人は,馬追山に連なる高台から恵庭平野を眺望しこの地を入植地に定めたとされる。この記念像は,その時の姿をモチーフにして製作された。衣装や持ち物に綿密な時代考証がなされ,開拓に入らんとする男の逞しさと気概が伝わってくる。

建立時の碑には,恵庭市長浜垣実の筆で,郷土の先達の労苦を称える言葉が刻まれている。そして今,立像が見つめる先には人口6万9千人の豊かな恵庭市街が広がっているのだ。昭和54年(1979)8月建立。作者は彫刻家,造形作家として名高い竹中敏洋である。

なお,この像のミニチュアが姉妹都市の山口県和木町に贈られた。

  

作者「竹中敏洋」は,昭和6年(1931)大分県生まれ。3歳の時父に伴われて満州へ渡り,少年期を満州蒙古で過ごす。大陸で過ごした少年期の体験が竹中芸術の原風景と言われる。昭和18年(1943)大分に戻った竹中少年は,昭和20年(1945)の爆撃で焼きだされ,苦学しながら大分大学教育学部を卒業。昭和29年(1949)大陸での夢を北海道に託すべく来道して,鷹栖中学,千歳中学で美術教師を勤める。しかし,情熱を燃焼させる場所を其処に見だせず3年で教師を辞める。その後,廃品回収や道路工夫で糧を得ながら自分の芸術を追い求め続けた。この青春の武者修行時代に出会ったのが,夫人となる幸子であった。製材所の店員であった彼女が台座の丸太を届けた折に,食うや食わずの生活をしながら創作に打ち込む竹中の生きざまに感激したことによると言う。

妻・幸子さんがトラック運転手をするなどして創作活動を支えた逸話が,テレビドラマ「ダンプかあちゃん」(北海道放送製作TBS系列放送,昭和44年(1969)から2年間4回シリーズ,第一作は緒形拳,長山藍子ら)として放映されたので,ご覧になった方も居られるだろう。

昭和49年(1974)恵庭市盤尻にアトリエを建て制作活動を続けた。さらに,恵庭に移り住んでからは漁川で造形樹氷の実験を重ね,竹中ファンタジーの世界を作り上げた。この氷と光の芸術は,層雲峡氷瀑まつり,支笏湖氷濤まつり等に発展し,国内(日光,富士山麓,田沢湖,北軽井沢など)及び海外(ニューヨーク,アラスカ)でも公開し,国際的な広がりを見せている。また,後年は液体硬化(樹脂の化学変化を活かした造形)による新鮮な造形技法を創作し,造形作家としても名を残した。

シャクシャインの像(静内町真歌公園),永遠の像(月寒公園),THE SKY(札幌アステイ45外壁),希望の像(札幌第一高校),青年の像躍進(大雪青少年交流の家),希み(簾舞中学校),北辺開拓の礎(静内御殿山),あけぼの(江別小学校),市民の像(千歳),拓魂碑(深川)など多数の作品を残した。平成14年(2002)盤尻の自宅で逝去。(参照:国府田稔「竹中芸術の世界」百年100話,恵庭昭和史研究会ほか)

なお,恵庭にあるもう一つの竹中作品(恵庭市総合体育館壁画彫刻)については,別項で紹介する。

また,恵庭開拓公園に二口大然作品「二宮金次郎像(復元)」があるが,次回に紹介しよう。

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恵庭の彫像-3,恵庭市立図書館にある山名常人「進取の像」と「中村矢一」彫金2点

2014-10-07 08:52:21 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

前回に引き続き,恵庭市立図書館(恵み野西5丁目)にある彫刻を紹介する。山名常人の「進取の像」と中村矢一の彫金2点(「望」「はるかぜ」)である。恵庭図書館は平成4年(1992)に完成し,それを機に設置されたモニュメントである。

◆山名常人作品「進取の像」

恵庭市立図書館のエントランス左手に,少年少女の像が見える。兄妹なのか,仲良しの友達なのか,少女が指さす彼方を二人で見上げている。「進取の像」と題されているので,自ら進んで取り組む姿勢,少年少女の探究心を表現しているのだろう。指さす先が図書館であるのも,本の街を標榜する恵庭市の図書館に置くにふさわしい彫像だ。若手経営者らの団体「恵庭三四会」(昭和52年結成)が寄贈したもので,平成4年(1992)7月建立とある。高さ1m20cmほどのブロンズ。

作者は誰なのか? 台座に刻まれた文字はT.Yamanaと読み取れるが・・・。同図書館のTさんに尋ねたら,「山名常人」だとご教示頂いた。山名常人と言えば,肖像彫刻を主体に具象,抽象,仏像彫刻など多数の作品を世に残した著名な彫刻家ではないか。

作者「山名常人」は,明治43年(1910)長野県飯田市滝江に生まれる。東京高等工芸学部彫刻部卒業,同年構造社展に初出品で入選。新構造社結成に参加し,多数の肖像彫刻に励む。ニコンに勤務しステレオ写真彫像を研究。戦後は美術教師を勤めた後,洗足商事株式会社に入社。彫刻家及び経営者として活躍。池田隼人首相夫妻,佐藤栄作首相夫妻,福田赳夫首相の胸像製作。大石内蔵助立像(赤穂御崎),福沢諭吉像(慶大日吉キャンパス),雪舟禅師立像(雪舟記念館),柿本人麻呂像(柿本神社),樋口一葉像(樋口一葉記念館)など多数の作品を残した。平成5年(2005)逝去。(参照:作者経歴は洗足商事株式会社HPを参考にした)

 

◆中村矢一作品「望」

恵庭市立図書館の庭はローンが広がり,燦々とした陽射しが眩しい。その一角に,鉄製のモニュメントがある。L字型の柱は,相互に角を中心に向けて,それぞれの高さで天を突く剣先のよう伸びている。それは,あたかも燃え上がる炎のように,青空を背景に聳える山頂のように,希望溢れる若者の強い意志を象徴するように見えなくもない。高さは3m50cm程あろうか。金工彫刻家,中村矢一の作品である。制作は,平成4年(1992)7月9日とある。

 

◆中村矢一作品「はるかぜ」

恵庭市立図書館に入ると,エントランスの壁にレリーフが飾られている。こちらも,金工彫刻家中村矢一の作品。説明板には「昭和49年(1974)第60回光風会展出品,寄贈」とある。作者特有の曲線が醸し出す造形は美しい。

作者「中村矢一」は,昭和6年(1931)3月9日生れ。北海道学芸大学で畠山三代喜に学び,光風会北海道支部の幹事・審査員等。月寒高校など教職の傍ら,光風会・道展会員の金工作家として活躍した。平成20年(2008)逝去。流れるような曲線表現の彫金の評価が高い。「牧歌」(豊平市民会館),「北の旅(拓く)」など多数の作品がある。

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恵庭の彫像-2,恵庭市立図書館にある「鈴木吾郎」4作品

2014-10-06 10:41:20 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵み野で最も身近な散歩コースは,恵み野中央公園であろう。総面積が11万m2を超える総合公園で,市街の中央部を帯状に横切っている。公園の中央部に位置する池と水路が特徴で,新緑や紅葉の季節には水辺や遊歩道沿いに拡がる木々の美しさが際立つ。日本庭園,野外音楽堂,冒険公園から成るが,野球場,多目的グラウンド,テニスコート等も配置され,南緑地帯・北緑地帯とも繋がっている。

    

いつも,「水路が効果的に配置されているな」と感心しながら遊歩道を散策するが,他の公園によくあるようなモニュメントを目にしない。そこで,「さてさて・・・」と探してみたら,ありました。日本庭園の池を背に図書館方向を向いて,「ふえ」と題された少女像が立っている。さらに,恵庭市立図書館には,鈴木吾郎,山名常人,中村矢一の芸術性高い作品が置かれている。散歩の途中に鑑賞されると良いだろう。今回は鈴木吾郎作品を紹介する(山名常人,中村矢一については次回)。

◆鈴木吾郎作品「ふえ」

笛を吹く少女の像。縦笛を吹く少女の顔はあどけなく,少女の懸命さが感じられる作品である。高さ1m40cmほどのブロンズ。恵庭ニュータウン「恵み野」開発事業完成記念として,平成2年(1990)11月に建立された(株式会社恵庭新都市開発公社寄贈)。日本庭園を背にして図書館方向を向き立っているので,注意しないと見つけにくいかもしれない。像を囲むようにある生垣があり,それら木々との調和が美しい作品なので,植樹管理に細心の注意を払いたい。

  

◆鈴木吾郎作品「YUKA 17」

自然体の姿勢で立つ由佳像。恵庭市立図書館の庭に,後ろ手にした等身大の若い女性像(YUKA)が,降り注ぐ陽光を全身に浴びている。左足を少し前にした寛ぎの肉体が眩しい。鈴木吾郎の作品「YUKA 17」ブロンズ製である。平成4年(1992)8月製作。恵庭市が図書館の完成に合わせて同年10月建立した。

  

◆鈴木吾郎作品「YUKA」

緊張した趣の由佳像。恵庭市立図書館エントランスの左側柱(駐車場側)に寄り添い,訪れる人々を迎えるように,若い女性像(YUKA)が置かれている。両手を後ろ手に組んだ姿は庭のYUKA像と同じであるが,こちらは脚を揃えて立ち,やや前傾した姿勢に緊張感が伝わる。鈴木吾郎の作品「YUKA」である。平成4年(1992)9月5日製作,約1m大のブロンズ。台座に刻まれた署名から,YUKAとは由佳であることが分かる。

 

◆鈴木吾郎作品「女・風髪」

風になびく黒髪を気にする女性像。エントランスホールの右奥,公衆電話の横に,風になびく黒髪を気にする女性像がある。鈴木五郎作品の「女・風髪」である。平成4年(1992)1月製作,約60cm大のブロンズ。

 

なお,作者の鈴木吾郎は昭和14年(1939)芦別生まれ,北海道学芸大学で藤川叢三に師事,教職に携わる傍ら,昭和35年(1960)から道展を主舞台に活躍。佐藤忠良に繋がる,健康的で柔和な表情の女性像の作品が多い。日本人の心を追及しているのだろうか,女性の何気ないしぐさに情感が漂う。全道に50点を超えるモニュメントがある。新境地を拓いたと言われる「素焼き作品」も近年評価が高まっている。北海道を代表する作家の一人と言えよう。野外彫刻の数は,本郷新、佐藤忠良、安田侃に次いで多い。

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恵庭の彫像-1,恵庭大橋に季節の乙女像(作者は鈴木吾郎・本間武男)

2014-10-05 16:28:53 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭大橋「季節の乙女像」

恵庭市に存在する野外彫刻は必ずしも多くない。が,多くの人が目にするのは「恵庭大橋」の4基の乙女像であろう。いつもは車窓から「欄干に彫像があるな」とチラッと眺めるだけで,交通量が多い国道だけに車を止めて鑑賞することもしない。そこで,初秋のある日,散歩がてら漁川の堤防を20分ほど歩いて行ってきた。

4基の像が置かれているのは,橋脚部に設置された4か所のバルコニー「恵庭大橋季節の広場」と称される場所であった。北側橋脚に2基,南側に2基のブロンズ像が設置されている。4箇所に説明板があり,季節の広場設置の目的と各彫像の製作意図が記されている。

恵庭大橋季節の広場の解説板には,「恵庭大橋季節の広場は,国道36号線の漁川に架かる恵庭大橋を渡る人々に潤いと安らぎを与えるために橋台に設置された広場です。4箇所の広場は,それぞれ「春」「夏」「秋」「冬」というテーマによって構成されており恵庭市の四季の移ろいを表現しています。また,広場と橋の一体化に努め,照明・親柱・高欄等には橋を渡る人々がふれあいと親しみを感じるデザインが施され,橋脚部に設置されたバルコニーは,それぞれに広場と同じテーマによって製作された乙女の像を配置しています。当広場は市民の憩いと橋とのふれあいを願う春(夏・秋・冬)の広場です」とある。 

各広場には,作者の署名と制作意図が記された説明板があるので紹介しよう。

◆春の広場,鈴木吾郎作品「こぶし」

説明文「コブシは春早くに咲きます。山の木々がまだ若葉の準備をしている頃ホロホロと白い花を咲かせます。甘い香りと眩しいほどの白さは北海道の春のシンボルと言えます。薄紫の春の山に点景のように散咲するコブシは私たちに暖かい喜びを与えてくれます。作品はそうした明るい喜びとのびやかな情感を表現しました」

北海道人にとって,待ち遠しかった春の訪れは,まさに喜びを感じる季節である。両手を開いた仕種,ふくよかな肉体から春の訪れを喜ぶ様子が伝わって来る。

◆夏の広場,本間武男作品「夏の日」

説明文「透明な空気をさいて光が躍動する,風とせせらぎの音のながれ出る恵庭の街,さわやかな北の大地の匂いがある」

夏は,身体いっぱいに爽やかな風を感じたい。恵庭の街,漁川を吹き抜ける風は爽やかな緑の匂い。きっと誰もが深呼吸したくなるだろう。

  

◆秋の広場,鈴木吾郎作品「もみじ」

説明文「北海道の秋は短く一気に冬を迎えます。しかし短い秋はそれだけ華やかに野山を彩り私たちに美しいパノラマを見せてくれます。木々の中でもモミジはひときわ鮮やかで冬へ向かう私達に美しいひとときを与えてくれます。作品はそうした豊かな秋と厳しい冬へ向かう緊張感を表現しました」

北海道の秋と言えば,豊穣の稔を早々に片付け,さあ冬支度をと考える季節。短い秋の緊張感は,北国に暮らす人でなければ分からないだろう。

◆冬の広場,本間武男作品「雪の朝」

説明文「降りつづく白一色の雪の重みから,流れるすべを持たない恵庭岳,耳をかたむけると,北海道にいきる人々の優しい愛,不屈の魂が静かに伝わってくる」

吹雪の中でも北海道の女性は逞しい。恵庭岳からの風雪に顔をゆがめ,コートの裾をなびかせながらも活発に行動する。冬の厳しさを楽しむように。

  

作者「鈴木吾郎」は,昭和14年(1939)芦別生まれ,北海道学芸大学で藤川叢三に師事,教職に携わる傍ら,昭和35年(1960)から道展を主舞台に活躍する彫刻家である(野外彫刻の数は本郷新,佐藤忠良,安田侃に次ぐ)。佐藤忠良に繋がる,健康的で柔和な表情の女性像の作品が多い。日本人の心を追及しているのだろうか,女性の何気ないしぐさに情感が漂う。全道に50点を超えるモニュメントがある。新境地を拓いたと言われる「素焼き作品」も評価が高まっている。北海道を代表する作家の一人。

作者「本間武男」は,昭和4年(1929)余市町生まれの版画家,イラストレーターとして知られる。日本水彩画会宮崎信吉に師事し,水彩画を髣髴とさせるシルクスクリーン版画に独自の境地を拓いた人気の版画家である。1960年(昭35)代から全国各地で版画展を開催。北海道を題材とした作品シリーズは高い評価を得ている。郵便切手や年賀ハガキの原画制作,青函トンネル吉岡海底駅の版画作品(陶板)制作など作品多数。スペインやフランスの展覧会入選,広く世界に活躍の場を広げた。ネパールやバングラデイシュの福祉施設・病院建設支援などにも積極的な取り組みを行った。昭和49年(1974)から苫小牧を拠点に活躍,平成18年(2006)逝去。

「本間武男は彫刻もしたのか?」と疑問に思っていたら,「本間武男がデザインし,制作したのは別人らしい」と伝聞した。作者の創作原型(原画,デッサン)を受けて,関係者が具象化することはよくある話だ。制作過程の詳細を確認していないが,本間武男のオリジナルであることに間違いない。 

因みに,恵庭大橋は国道36号線恵庭バイパスの漁川に架かる橋で,近くに「道の駅花ロードえにわ」「天融寺」などがある。恵み野駅から1.2km。漁川堤防には遊歩道があり,多目的広場やウオーターガーデン,中島公園と一体化している。

道の駅に立ち寄ったら,或いは堤防や公園遊歩道を散歩される折にでも,恵庭大橋の4作品を鑑賞してみては如何ですか。漁川の流れと遠方の街並みを背景に,行き交う車の群れが音響効果となって,恵庭大橋の4作品が心を癒してくれる。美術館で鑑賞するのとは全く違った印象に驚かれることだろう。

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