豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

北海道における大豆の歴史(1)道南から「豆の国十勝」へ,代表品種「大谷地2号」

2011-08-31 18:37:35 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道の原野に開拓の鍬が下ろされてから,140年余が経過した。この間,先人達の弛まぬ努力により厳しい気象や劣悪な土壌条件が克服され,北海道農業は今や,地域経済を支える重要な産業として発展し,生産性の高い専業的な経営を実現するまでに至った。大豆生産もまた,度重なる冷害や病虫害と闘い,環境や社会情勢の変化により大きく変動しながら,収量を開拓当初の2倍に高めるなど技術水準の向上を続け,現在に至っている。

北海道における大豆栽培は,主産地が形成された1907年頃から約50年間68haの作付面積で推移したが,1961年の輸入自由化後急激に減少し,その後水田転作で一時増加したものの,1994年には最低の6,700haまで減少した。なお,近年生産振興が図られ約24,000ha栽培されているが,実需者の需要を満たすに十分な生産量が確保されているとは言い難い。

1. 北海道大豆生産の概括

1)栽培の歴史と時代の特徴

課題を把握するために,まず北海道における栽培の歴史を振り返ってみよう。時代は大きく①導入試作期(1870-1890),②生産拡大・主産地形成期(1891-1945),③戦後回復期(1946-1960),④国際競争対応・生産奨励期(1961-)に区分されよう。それぞれの時代には,当時の技術水準や社会情勢を反映したそれぞれの課題があった。

道南地方で始まった大豆栽培

北海道における大豆栽培の記録は,永禄5年(1562)に渡島国亀田郡亀田村で栽培された五穀の中に大豆が含まれていたであろうとするのが最も古い。その後日高地方で寛政12年(1800),札幌で安政4年(1857),十勝で明治4年(1871)に試作されたという記録があるが,一般農家による大豆の栽培は明治初期の1870年頃から道南で始まっている。1886年の統計資料によれば,栽培面積は全道で2,200haであり,この50%を道南の渡島および桧山で占めていた。その後本道内陸の開拓進行とともに,栽培面積は急激に増加を続け,1900年に29,000ha1910年には77,000haに達した。栽培の中心は道南から道央を経て,道東の十勝地方へと移行し,1910年には十勝が全道の栽培面積の26%を占めた。以降,全道の大豆栽培は1961年の輸入自由化に至るまで約50年間,68haの大きな面積を維持するとともに十勝が生産の中心として大きな役割を果たすことになる(なお,その後1971年に米の生産調整が開始されると,空知,上川の生産量が増加して主産地も移動するが,後で触れる)。

開拓の時代に大豆生産が増加した理由はいくつか考えられるが,日本豆類基金協会発行の「北海道における豆類の品種」の中で斎藤正隆氏はつぎの理由を上げている。①本道の気候風土,特に内陸的な気候にあう,②大面積経営の粗放栽培に適する,③土壌を選ばず施肥量および地力消耗が少ない,④雑草を抑制する,⑤貯蔵性と運搬性をもち商品として優れる。これらの技術的背景に加えて,大豆が味噌,醤油,豆腐,煮豆など私達の食生活や食文化に密接に結びついている点も見逃すことは出来ない。

一方,大豆に関する試験は,七重開墾場(渡島)で1933年に試作を行ったのを初めとして,1939年に創立された札幌農学校でも外国や府県からの導入作物の適否試験を行っている。1895年,十勝農事試作場が設置されるとともに,上川農事試作場と連携して品種比較試験を開始したが,この試験を北海道における本格的な大豆育種の始まりと見ることができよう。1900年には北海道農事試験場が設置され,1907年以降北見,渡島支場,および各地の試作場や分場でも品種比較試験に取り組み,品種比較試験が開始された1895年から1928年までの34年間に18の優良品種が普及に移されている。

主産地の形成,豆の国十勝

大豆の栽培面積が増加し,主産地が形成されるにつれ,優良品種開発への強い期待が示されるようになる。十勝支場では,1914年から純系分離育種を,1926年から交配育種を開始した。純系分離育種で選抜された品種の中で,代表品種は「大谷地2号」であろう。「大谷地2号」は,中生の中粒,渇目種で,耐冷性が強く,味噌,醤油,納豆など加工適性が高く,また味の良いことから枝豆にも使われ,1945年頃まで基幹品種の地位を占めた。また,交配母本としても多く使われ,その遺伝形質は後の「北見白」,「キタムスメ」などに受け継がれている。ちなみに,在来種の「大谷地」は,1892年渡島国南尻別村字大谷地(現蘭越町)の苫米地金次郎が移住の際携帯した秋田大豆から選出したもので,秋田大豆銘柄の基礎となった品種である。

一方,大豆の作付けが増加するにつれ,マメシンクイガの被害が大きな問題となった。「中生裸」「早生裸」など被害の少ない無毛茸の品種が,他品種と比べ収量が劣っているにもかかわらず全道に栽培され,マメシンクイガ被害の重要性を物語っている。また,十勝支場は1926年に交配育種を開始しているが,最初の5年間の24組合せ中18組合せの片親が無毛茸品種であり,マメシンクイガ虫食率を低下させるための耐虫性が大きな育種目標であり,被害の解決が当時の大豆生産の大きな課題であったことを示している。

参照:土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報 10,9-21に加筆

 

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チョルーラに昔の栄華を偲ぶ(メキシコの旅)

2011-08-30 18:55:47 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

プエブラから10km西方にあるチョルーラ(Cholula)を訪れた。プエブラの町を出る頃,正面にメキシコ富士と称されるポポカテベルトル山(5,425m)が美しく眺められる。

チョルーラの町は,アステカ時代にトラチウアルテペトル(Tlachihualtepetl)神殿を中心とする人口10万の大都市であった。エルナン・コルテス率いるスペイン軍が1519年この地を征服し,廃墟と化した町の上に新たな町を造った。神殿は1辺439m,高さ59mを誇った大神殿で,5-8世紀頃建設され,テオテイワカンの太陽神殿をしのぐ偉容を誇っていたという。現在,神殿遺跡の上には,破壊した礎石をつかってレメデイオス教会が建てられている。

このように,過去に栄えた文明が,征服の過程で壊され,新たな文明に塗り替えられる事例は至る所にある。例えば,中米から南米アンデスに栄えた文化はスペイン軍に征服され,太陽や月など自然の神を抱いていた民はキリスト教に同化された。ヨーロッパでは,キリスト教国家とイスラム教国家が時により勢力図を塗り替えた。宗教に係わる建物は意図的に壊され,新しい象徴が建造される。文化財保護の認識をいつの世の征服者も持ち得ない。ただこれに反して,神社が壊され寺院が作られたというような事例を,浅学にして知らない。肉食の歴史に築かれた文化と稲作農耕の文化の違いなのか。こんな事象に」,外国の政治家の強さと我が国の政治家の人の好さとを重ねてしまうのだが,考えすぎだろうか。

バスを遺跡の下の広場に停めて,遺跡の階段と教会に通じる坂道を上る。坂道では,結婚を祝う親族と友人達の祝列が,花びらを撒きながら進んでいる。小径の脇には,老婆が豆や香辛料を売っている。教会の頂上からは,チョルーラの市街や遠く山並みが見渡せる。平原の中に田舎町然とした建物が見える。昔の栄華を偲ぶには,チョルーラは余りにも静かな田舎町である。

チョルーラには教会が多い。古く質素なものから,富を集約し美術の贅を集めた華麗なもの,美しいタイルで装飾された教会など,ガイドの説明を聞きながら巡る。礼拝堂に入れば,異教徒でも自然と厳かな気持ちになる。

旅の同行者は,休憩のため立ち寄った土産物屋で,「冷たい水が飲みたいから」と素焼きの大きな水瓶を物色している。

 

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陶器「タラベラ焼き」とグルメの町,プエブラ(メキシコ)

2011-08-27 14:06:32 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

コーヒーが入りました」と,妻が声をかける。休日の朝の10時。

グアテマラの香りが漂う。白地に青と赤や黄色の華やかな模様で繊細に彩られたカップは,肉厚で温かみを感じさせる素朴なもので,手にとると想像に反して軽い。何年か前,旅の記念に手に入れたメキシコの「タラベラ焼き」である。

 

この陶器が作られたプエブラ市(Pueblaは,首都メキシコシテイから南東120kmの所にある。メキシコ湾のベラクルス市と首都を結ぶ交通の拠点として古くから栄えた町で,現在はタイル張りの建物が美しく,郷土料理が味わえる(モーレ・ポブラーノなどの発祥の地)観光都市である。

 

キシコシテイの東バスターミナルから数社のバスが出ている。市内のソナ・ロッサにあるホテルに滞在していた私たちは,タクシーで東バスターミナルに向かった。

 

気さくな運転手カルロスは,「都市のスモッグが日本の協力で改善されたこと」「メキシコ工場で生産される日本車ニッサンのこと」「交通渋滞が大変なこと」「プエブラも良いが,クエルナバカへ行ったか」と,ふるさと自慢まで話し続ける。タクシーを降りるとき,「ターミナルに続くこの地下道はスリが多いいから気をつけろ」と,ご丁寧に注意してくれる。

 

タラベラ焼き」は,スペインの伝統的な陶器の町タラベラ・デ・ラ・レイナから,ドミンコ会の修道士たちによりメキシコにもたらされ,このプエブラの町に最初の工房が作られ,地元の伝統的な陶芸技術と融合し,さらには中国陶器の影響を受けるなどして,400年の歴史を経て完成されたという。この町の教会や修道院など歴史的建造物で,また家庭の台所の壁や天井,食器類,美術品,庭に置かれた草花の鉢など,生活のあらゆる場面で「タラベラ焼き」を見ることができる。

 

プエブラでは,荘厳な雰囲気のカテドラル,バロック様式で華麗に装飾されたサントドミンゴ教会のロサリオ礼拝堂,修道院跡にあるサンタモニカ宗教美術館,総タイル張りの砂糖菓子の家など見所が多い。中央広場ソカロから東に下れば民芸品の店が並ぶエルバリアン市場に着く。タラベラ焼きが山積みされた店を品定めして歩けば,しばし時を忘れることだろう。私たちは,品揃えの多い店で一対のコーヒーカップを買った。

 

夕方ともなれば,アルマス広場周辺に人々が集まってくる。私たちも広場に面したレストランでビールを飲み,モーレ・ポブラーノを注文した。鶏肉にチョコレート色のソースがかかっている。ソースの原料は,唐辛子,パシャ,アーモンド,チョコレート,玉ねぎ,にんにく,香辛料,塩など,トロミづけにパン粉だという。モーレはソースを意味するそうだが,ドロッとして濃厚である。原料を聞けば,それも納得。旅では,土地の食べ物が印象に残る。

 

君は,プエブラでモーレ・ポブラーノを食べたかい?

 

 

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コロニア様式の町「タスコ」に遊ぶ(メキシコの旅)

2011-08-20 17:30:05 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

メキシコシテイの喧騒や遺跡見学に疲れたら,タスコ(Taxco)を訪れるがよい。

タスコは,メキシコシテイから南西の方向170km,アカプルコに通じる国道から少し入った所にある。いわゆるメキシコ中央高原地帯で,標高が約1,800m。山間の傾斜地に,赤い屋根白い壁の建造物,石畳の狭い坂道,コロニアル調の古い街並みが美しく郷愁を誘う。

 

この町は,16世紀に銀鉱脈が発見されてから鉱山技師たちが集まりだし,1743年フランス人のボルダが大鉱脈を発見したのを機会に,シルバー・ラッシュが起こって町が大きくなったという。また,アメリカ人のスプラットリングが銀細工の技術を伝え,銀製品が多く作られていた。

 

銀鉱脈が尽きると,他の産業が興ることもなく次第に町は寂れて行くが,当時の風情がそのまま残っている。山間の静かなコロニア様式の町として評判になり,今では外国人の観光客も多い。

 

ソカロ(中央広場)はPlaza Borda(ボルダ広場)と呼ばれ,サンタプリスカ教区教会が高さ40mの二つの塔を青空に映している。この豪華な教会は鉱山王ボルダが寄贈したもので,中にはスペインの宗教画家ミゲル・カブレラ壁画がある。

 

銀細工に興味ある方は,洗練された銀製品の品定めに時を忘れるだろう。銀に興味がなくても,街並みや人の行きかう様をのんびりと眺めていれば,心落ち着く時を持てる。このような小さな町はスペインにもあるが,タスコは昔の趣がまだ残っている。

 

 

 

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殉教壁画に「太閤さま・・・」,クエルナバカ大聖堂(メキシコの旅)

2011-08-17 18:49:39 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

クエルナバカ大聖堂

メキシコシテイから南へ,タスコやアカプルコに繋がる国道を75kmほど走ると,クエルナバカの町につく。コルテス将軍が,スペイン国王から所領として貰い受け,晩年を過ごした町で,気候温暖な「常春の町」として知られる。今では,富裕層が首都の喧騒を避けて住まいを構え,あるいは週末を過ごす,穏やかな人口33万の小都市である。

この町の中心はアルマス広場(ソカロ)で,コロニア様式の省庁舎が広場に面して建っている。その反対側には,コルテス宮殿(現在,博物館)がある。コルテス宮殿は,コルテスがアステカの神殿を破壊し,その石材で居住のための宮殿を建てたもの。

アルマス広場から西方向に2丁ほど下ったところに,カテドラルとボルダ庭園がある。カテドラルは,1529年コルテスの命を受け建造されたもので,アメリカ大陸最古の教会の一つと言われる。この教会は塀が高く要塞を思わせる外観である。ツアーの老ガイドは,「スペインからの移住者が原住民の反乱に立ち向かうため,このような高い塀が作られたのです」と説明する。

中心聖堂の内壁に色彩も褪せた壁画がある。壁画の上部に,「Emperador Taycosama Mando Martizar Por ---」の文字が読み取れる。「~のために,皇帝太閤さまが殉教を命じ」と解せる。この壁画は,豊臣秀吉によって処刑された宣教師と日本人カトリック教徒(26聖人)を題材にした殉教壁画であるが,何故この教会の壁に描かれたのだろうか。おそらく,殉教者の中にメキシコ人の宣教師(フエリッペ・デ・フェスス)がいたことに関係するのだろう。

この壁画は,実は1959年に幾重にも塗り重ねられた石灰を取り除いて発見された。何故石灰で覆われていたのか。ガイドブックには,当時疫病が流行るたびに公の建造物を石灰で塗りつぶしていた(消毒)ので,この壁画が石灰に埋もれていたのだとあるが,真偽はわからない。

メキシコシテイの喧騒とスモッグを逃れて暮らすに適した,すこぶる穏やかな町である。

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テオテイワカン遺跡のピラミッド(メキシコの旅)

2011-08-16 17:31:59 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

メキシコシテイから北方向に50km,テオテイワカン(Teotihuacán)がある。この遺跡は,巨大ピラミッドを生み出したラテンアメリカ最大の都市遺跡として知られている。紀元前2世紀ころに建設が始まり,47世紀の最盛期には人口20万人以上を擁していた,メキシコ高原最初の中央集権国家である(ちなみに,ヨーロッパはローマ帝国,日本は大和王朝,古墳・埴輪の時代である)。

 

この国家は,8世紀ころ姿を消した。その後トウーラ,14世紀ころにはアステカが勢力を拡大するが,アステカ人たちはこの地のピラミッドに遭遇し,その荘厳さに「神々が建てた都市」に違いないと信じたという(蛇足になるが,権勢を誇ったアステカ帝国も,16世紀にスペイン軍コルテス将軍の侵略で滅亡する)。最も大きい「太陽のピラミッド」は,高さ65m,一辺が225m,エジプトのピラミッドに勝るとも劣らない(事実,高さは劣るが,容積はこちらが大きい)。祭祀の場所である神殿「月のピラミッド」は高さ42m,底辺が150m×130m

 

テオテイワカンへは,北方面バスターミナルから約1時間で行けるが,私たちは日帰りツアーで行くことにした。日本語ガイド付きツアーもあるが,スペイン語と英語の混載ツアーにした。料金は30ドル(日本語ガイド付きの半額から1/3程度),色々な国の旅行者の振る舞いが面白い。

 

太陽のピラミッドの階段を上る。石積みの急な階段は248段,当時最上階には木造の神殿があったとされる。平坦な頂上に立ち周辺を眺めると,草原一帯に遺跡の建造物が広がる。腰を下ろし風に吹かれる人,横になり点を仰いでいる若者,カメラを構える旅行者。「森の中にある遺跡と思っていたけど,違うのね」妻がつぶやいた。汗ばんだ顔に,吹き抜ける風が心地よい。

 

階段を下りて,太陽の広場からピラミッドを振り返る。巨大な容積に圧倒される。階段を上る人々が蟻の群れのように見える。このミラミッドの地下に洞窟が発見され,宗教色の強い器物が数多く発見されている。このピラミッドが建造される前から,神を祀る場所だったのではないかと言われる。

 

この遺跡を南北につなぐ広い通り(死者の道)がある。北の正面にあるのが「月のピラミッド」。太陽の広場から600mの通りを北に向かう。両側には祭壇などいくつかの建造物。土産物を売る行商人が近づいてきて執拗にまとわりついてくる。無視しながら避けるように歩くが,次々と現れる。「あーあ,いやだ。遺跡も台無しね」。

 

「月の広場の左手前にある高貴な神官の住居跡「ケツアルパパロトルの宮殿」「ジャガーの宮殿」に立ち寄る。色彩の壁画やレリーフが完全に近い形で修復されている。

 

「月のピラミッド」は宗教儀礼がおこなわれた重要な神殿であったと推定されている。月のピラミッドの階段はより急であるが,頂上からの眺望は良い。テオテイワカンの全景が一望できる。

 

テオテイワカンは神官を頂点とした社会であった。祀られるのは,雨や水の神「トラロック」,豊穣と人間の生命をつかさどる「ケツアルコアトル」,水の女神「チヤルチウトリクエ」。ケツアルコアトルは「羽毛のある蛇」と具象化されている。

 

 

   

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親愛なる皆様,いかがお過ごしですか(パラグアイからの便り2007.3)

2011-08-14 13:20:34 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

今年(*2007年産)のパラグアイは降雨に恵まれ,大豆は4年ぶりの豊作が予想されています(新聞予測は240万ヘクタール,620万トンを超える)。大豆の豊凶はこの国の経済に大きく影響するため,世の中少しは元気が出てくることでしょう。収穫はこれからですが,今のところ価格も良いので生産者はニコニコ顔です。私の大家さん(日系)は1,000haの大豆栽培とさらに畜産経営ですが,隣のブラジル人親子は2万ヘクタールの大豆栽培だとか,こうなると私の頭では収益を計算できませんね。

さて,こちらに来て1年が経過しました。オヤオヤと思う事も,なるほどと思うことも数多くありました。

 

(其の15万グアラニー新札の廃棄

銀行や商店の窓口に,5万グアラニー新札の拡大写真が張り出されました。よく見れば,発券番号のC記号に赤丸が付けられ,「この札は取り扱いません」とあります。パラグアイ中央銀行は,紙幣の印刷を依頼していたフランスからの新5万グアラニー札を検収していた時,25万枚が不足しているのを発見し,シリアルC記号の新札を急遽無効にしたとのこと(国境都市付近で一部流通したとの噂がある)。時は昨年の1020日,統一地方選挙の運動激しい頃でした。犯人はもちろん見つかっていません(そう言えば,選挙期間中の銀行強盗がうやむやになったケースが,昔ありましたね)。

 

(其の2)デング熱大発生

ネッタイシマ蚊等により伝播されるウイルス性疾患で,39-40度の高熱が続き,激しい頭痛や全身の発疹が現れ,時には出血性デング熱へ移行し死にいたる場合もあるとか。首都アスンシオンの下町周辺を中心に大発生し,その後あちこちへ拡散しています。126日新聞報道によれば確認患者1,047名,疑わしい者890名,隔離患者50名,死亡者3名。日本外務省も注意喚起を出しましたね。129日には全国の公務員を休暇にして,さらに軍隊を動員して蚊の駆除大作戦を実施しました(大統領令ですぐやれるのです)が,なかなか下火になっていません。まだまだ要注意です。蚊に刺されないことが唯一の防除法,特効薬はなく対処療法のみだそうです。

 

(其の3)アニータを知っているか(チリにて)

チリ北部へ旅行し,ペルー国境の町アリカからアンデスのラウカ国立公園へのツアーで一緒になった若い女の子らが,昼食後の雑談中で突如「アニータを知っているか」ときた。「・・・・・・(しばし沈黙,何を聞かれているか検討つかず),・・・・(高度4,000メートル,高山病症状の頭の中で)あっそうか・・・・あーあの(テレビを騒がした彼女はチリ人だったと思い出す)」。その後の会話がどうなったか記憶にないが,日本人と知って連想した彼女たちのワイドショウ的な話題,どこの国も同じですね。

 

(其の4)偽札でもないのに(チリにて)

銀行や両替商(Casa de cambio)で換金のとき,手の触感で紙質を探り,透かして眺め,蛍光を当てて執拗に確かめるのはどこの国でもやることですが,換金を断られた話。これもチリの国境の町アリカ。窓口にて,「ペソへの換金を・・・」。紙幣をみて「これは,この記号の札は両替できない」と壁の張り紙を指し示す。何だと,この100ドル紙幣は信頼できるわが国のH銀行から持ってきた新札ではないか。確かに頭の記号CBは同じだが・・・。

 

後で知ったことだが,この記号は悪名高き彼の北の国の精巧きわまる偽造紙幣と同じだという。多分この地域で問題になった経緯があるのだろう。

 

(其の5)高山病にはレモン

ボリビアのラパス,ペルーのチチカカ湖,アルゼンチン北部のアンデスでも4,000メートルを越えるような高地では,軽い頭痛や動悸が激しくなり,フラフラとして動きが緩慢となり吐き気を覚える,いわゆる高山病症状が出る。旅行案内書にもコカ茶など対処法はいろいろ書かれているが,今回チリでの添乗員のお勧めはレモンと98%純正アルコール。アルコールを脱脂綿に付けて,これを嗅げという。いわゆる気付け薬か。少しは効果がある感じ。しかし,そんなことをしても,1台のバスに12人は酸素吸引のお世話になる者が出てくるのです。

 

このような荒涼とした高地にもインカ文明は栄えたし,今もリャマを追う人々の生活があります。雨の降らないところでアンデスの雪解け水を灌漑し,野菜や果物を生産する生活があるのです。

 

(其の6)公務員の人員削減

公務員の数が多いとパラグアイでは政治課題となっています。巷では幽霊公務員が多いのだと言います。仕事には出てこないで,給与だけはしっかり手にする幽霊公務員がどの位いるか分からないと言います。そんな理由で,大統領は公務員の採用書にサインしないのです。

 

その結果,どうなるかと言えば,3ヶ月位の期限契約で対処することになります。私が勤務している試験場の例を挙げれば,農牧省が各種のプロジェクト予算から人件費を捻出して研究員を臨時雇用。契約は3ヶ月から1年といろいろですが,給与の支払いはやりくりのため3ヶ月に1度とか支払いは遅れ遅れ。しかも,正式採用でないため,いつ止めさせられるかも分からない。これでは能力ある技術者が民間企業に引き抜かれるのも至極当然。そんな中で,試験場では高卒の補助研究員が頑張っていて,育種事業は何とか持ち堪えているのです。

 

(其の7)出稼ぎでドルが溢れる

パラグアイの経済不振,雇用需要の不足は出稼ぎを増やし(スペイン等が多い),彼らからの仕送りの総額は大豆や牛肉の輸出額を超えたと分析されています。日系人も例外ではなく,日本やメキシコへの出稼ぎが増えています。日系人と偽ってビザを申請に来るパラグアイ人がいたり,日本での働き口を斡旋する業者が現れたり,これも時代でしょうか。2年間日本で頑張れば家が建ったというのは一昔前の話ですが,就職口がないから日本へ,商売がコケタから日本へと,日系人にとって日本は最後の拠りどころなのでしょう。出稼ぎ者が残された家族にドルを送ってくるため,ドルはダブつきドル安傾向だとか(1年前1ドル=6,100Gsであったものが,現在5,200Gs)。

 

(其の8)生活を楽しむ

ラテンの国では,夏のバケーションのために働くと言われます。夏休みは勿論ですが,週末には田舎でのんびり1日を過ごす,家族が集まりアサード(焼肉)をする,サッカーやバレーボールに興じ,釣りをし,水浴し,木陰で昼寝や読書をするなど,誰もが生活を楽しんでいます。1年中絶えることなく何かの花が咲き,緑が濃く,空は青く,赤い土に太陽が反射し,大河はゆったりと流れ,時折亜熱帯独特のスコールが通り過ぎるパラグアイ。多くの国民が政治不信を口にしながら,暴動も革命も起きない国民性。日本とどちらが豊かなの・・・,南米での実感ですね

 

また,お便りします。お元気にお過ごし下さい。パラグアイにて・・・。

 

 

 

 

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親愛なる皆様へ,遠い国パラグアイからの便り(2006.3)

2011-08-13 16:37:55 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

出発に際し,皆様には多大なご高配を賜り誠に有難うございました。雪の北海道から,連日35度を越える真夏のパラグアイへ安着したことを,まずは報告申し上げます

住宅の確保,電話の設置,インターネットの開設,車の取得,保険の契約など,パラグアイ時計のため大幅に遅れましたが,ようやくそれらも整い生活が軌道に乗りましたので,ご挨拶を兼ね最初のお便りをします。

1. パラグアイは,やはり日本から遠い国です

先ずは,成田出発からエンカルナシオン到着までを時系列で示してみましょう。

2151855分,成田発(JL048便)。およそ12時間のフライトの後,同日1745分(以下現地時刻)ニューヨーク着。空港ではトランジット客も両手人差し指の指紋登録と顔写真撮影の入国審査を行い,時間がかかりました。ニューヨーク空港は数日前に降った大雪の影響でフライト時刻が変更になり,ラウンジで6時間待機後2340分ニューヨークを出発しました。

216:さらに11時間半のフライト後,1215分サンパウロ着。ニューヨーク空港での遅れがなければ接続するはずのアスンシオン便は既に出発し,空港ホテルに1泊となりました。

217:サンパウロ空港を850分に飛び立ち,2時間のフライト後950分アスンシオン着。荷物をホテルに運んだ後,1430分からパラグアイ国企画総局庁へ表敬挨拶,JICAパラグアイ事務所に着任挨拶と担当者によるブリーフィング及び着任手続。

218:休日(土曜),2月19:休日(日曜)

2208時農牧省農業研究所を表敬し,農牧省研究局担当者及びJIRCAS佐野研究員等とシスト線虫プロジェクトの推進について協議。1130分パラグアイ国農牧省で副大臣及び研究局長に着任挨拶。15時在パラグアイ日本国大使館表敬。

221:車で朝8時アスンシオン発,14時エンカルナシオン着(目的地にようやく着きました。遠い国です)。

222:農牧省地域研究センター(CRIA)パニアグア場長,ウイルフリード大豆研究コーデイネーターに着任挨拶。その後,研究室で若い研究員及び旧知の技術者らと打合せ。ともかく,CRIAでの仕事がスタートしたのでした。

2. 休むまもなく

こちらの3月は早生大豆の収穫期ですので,到着後,行事や出張が重なり,慌しい日々をすごしました。

223224:大豆国際セミナ出席(オエナウ)。イタプア県農学士会と農牧省主催。ブラジル大豆研究センター(EMBRAPA),アルゼンチン農牧研究所(INTA),パラグアイ国内の研究機関,種苗会社の技師等が発表。生産者も多数参加。ブラジルからJIRCASの加藤さん(病理)も来られて,さび病の発生分布や生態に関する研究成果を発表。

227228:イグアス出張(走行距離約520km)。パラグアイ農業総合研究所(CETAPAR,イグアス市)訪問。有賀場長に着任挨拶後,研究連携について協議。夜はホテル・カサブランカで,北海道出身で在住の古明地通孝さん,ブラジルからパラグアイへ来ていた佐藤久泰さんご夫妻と会食。

3637:東北部のカニンデジュ県,アルトパラナ県,カアグアス県出張(走行距離約1,100km)。シスト線虫発生圃場の実態調査と育成系統の評価。この地方は,ブラジルに隣接するためブラジル系の生産者が多く,大規模な経営が行われています。シスト線虫も同国から入ったものと推察され,検定圃に予定しているイホヴィ圃場(レース3)は線虫密度が高く,感受性品種のシスト着生数は個体あたり100から300を数えました。

38日:カアグアス県のDia de Campoに参加。CRIAEMBRAPA,民間種子会社等が育成品種を展示し,また農薬会社は実証試験結果を展示し,農家にPRするのが目的の行事で,種苗会社等が各地で開催します。カアグアス県は最近大豆面積が増加している新興地域であり,農家の反応を知るために参加。集まった生産者には,品種や農薬の説明資料が入った袋(鞄のこともある)と社名入りの帽子(定番です),ペットボトルの水を配り,グループごとに引率者が説明しながら回ります。参加受付け登録時には,氏名と住所のほか,大豆の作付面積を聞き,アンケート用紙には展示栽培されている品種のどれを何ヘクタール作りたいか記入させるなど,商売に直結する仕組みです。

CRIAは国立の研究機関ですが,これまでに6品種を発表しているのでこれらを展示し,研究者が説明要員として出席して生産者からの質問に答えます。各地でDia de Campoが開催されるので,研究者にとってはなかなか大変ですが,有意義な情報収集の場でもあります。昼過ぎには全ての説明が終わり,近くの農家の倉庫でアサード(焼肉)とパン,サラダ,ガス入り飲料水がサービスされます。このような場合は人数が多いので,皿,ホーク,ナイフなどもなく,パンに牛肉やサラダをはさみ,立ったまま或いは適当なところに腰を下ろしてワイワイと食べ,勝手に帰るという方式です。生産者は新品種を直接観察することが出来ますし,種子会社は種子の需要が品種ごとに把握できますし,また売り込みも図れるなど,結構うまく回転しているなと感じます。

3. 懐かしい風景とアミーゴたち

首都アスンシオンに向け機首を下ろした飛行機の窓からは,亜熱帯多雨林の面影を残す木々の緑,赤い土壌が目に飛び込んできます。アスンシオンは緑に覆われた都市と言った印象です。しかし,空港を一歩出れば,ムッとする熱気と貧困の臭いが溢れます。

街中を車で走れば,日本では見たことのないような広大を庭をもつ豪邸があちこちにあり,これがパラグアイかと疑うような通りがあるかと思えば,バラック建てで生活する人々がたむろする地域が混在し,冷房を効かした新車のベンツの横をドアの閉まらないバスが走り,信号で車が止まれば物売りとフロントガラスを洗う裸足の少年が駆け寄るなど,アスンシオンはアンバランスの象徴です。

そして,アスンシオンから東部の穀倉地帯に向け車を走らせれば,草を食む牛の群れ,見渡す限り一面の大豆畑,庭先の木陰でマテ茶を回しながら寛ぐ人々がいて,長閑な田舎が広がります。パラグアイを南米の田舎と称することがありますが,忙しく動き回る我々にとっては気持ちの安らぐ風景です。もう少し経てば,私もアスタ・マニヤーナ(明日があるさ)の生活にどっぷり浸かることになるでしょう。

パラグアイ国エンカルナシオンにて。

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信仰の町カアクペ,パラグアイ巡礼の道

2011-08-08 18:41:11 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

巡礼というか,徒歩でお礼参りや願掛けに聖地霊場に詣でる風習は世界の至る所にある。聖ヤコブが眠るスペイン北西部のSantiago de Compostelaに向けフランスからピレーネ山脈を越えてたどる道は,巡礼の道としてよく知られている。また,他の宗教でも,メッカやエルサレムへの巡礼,四国お遍路のように。

パラグアイでは,アスンシオンから国道2号線を東へ54km離れたカアクペ市に,聖母マリアが祭られる教会がある。同国では,128日が聖母マリアの日の休日で,教会では9日前からミサが始まり,128日にグランミサで終了する。この日に向けて,多くの人々が徒歩で教会に向かい,カテドラル前の広場は巡礼者で埋め尽くされる。

 

カアクペに通じる国道脇には帽子や水を売る出店が並び,広場の周辺では参拝の記念品を売っている。巡礼では聖地への礼拝だけでなく,巡礼旅の過程も重要視される。聖地への旅の過程で神との繋がりを再確認し,信仰を強めるのだという。教会周辺のホテルは満杯で,多くの人々が広場で夜を明かす。85%がカトリックといわれるパラグアイでは,このカアクペ市は信仰の町として成り立っている。

 

ミサに参加するのは徒歩に限らない。同国南部の町エンカルナシオンからも,信徒がバスを連ねてミサに向かうのを見た。余談だが,アルマス広場にバスが集まるのは,この巡礼の日と選挙の投票日であった。

 

ある日の夕方,聖堂前の広場で多くの信者とともにミサに出た。スペイン語が理解できるわけでもなく,ましてや信心深い人間でもないが,広場を埋め尽くした信者に混じって司教が執り行うミサを眺めていた。テレビはただ延々と中継を続けている。ミサの最後に,集まった人々は周りの人々と抱擁を交わし,お互いの幸せを祈った。

 

この町を訪ねる時,いつも「信仰とはなんだろう」と考える。

 

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北海道のマメ類研究50年(2)

2011-08-05 09:21:44 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道談話会報1号から5019572009年)に登載されたマメ類の研究成果について,生産環境と関連させて概説する。

2-2研究の概要と成果(病害虫抵抗性)

 

ダイズシストセンチュウ1950年代,マメ類の比率が高い十勝の畑作地帯では,ダイズシストセンチュウ(Heterodera glycinesSCNと略す)の被害が大きかった。1960年代には線虫密度と前後作の関係が検討され,輪作の重要性が確認された。一方,十勝農試では東北地方から導入した「下田不知1号」等が抵抗性であることを認め(砂田),これらを母本に抵抗性育種を進めた結果,1966年に白目大粒の「トヨスズ」を育成した。その後「下田不知」系の抵抗性を有する「トヨムスメ」「トヨコマチ」「ユキホマレ」等が育成され,これら白目中大粒品種は北海道の基幹品種として普及した。酒井らは抵抗性の地域間差を検討し,「下田不知」系の抵抗性は広範囲に分布するレース3に有効であるが,レース1には対応できないことを認めた。レース1に対応する強度抵抗性については,中国から導入した「Peking」系の抵抗性を導入した「十系421号」を育成した(砂田ら)。1980年に本系統は,納豆用小粒品種「スズヒメ」として普及に移された。

 

育種に併せて,抵抗性の検定法や遺伝様式(酒井,番場ら,白井ら)が検討され,1990年代後半から2000年代にかけては抵抗性のQTL解析が進み(木村ら,紙谷ら,鈴木ら),抵抗性遺伝子Rhg4rhg1rhg2に関するDNAマーカーが開発された。また,アズキのSCN抵抗性スクリーニングが行われ,抵抗性品種が見出されたことは興味深い(田澤ら)。

 

ダイズわい化病:ダイズわい化病(Soybean dwarf virusSDVと略す)は,1960年代に北海道南部から道央部に広がり,196869年に北海道全域で発生が確認された。中央農試では1966年から1995年までに約4,000品種を探索し,「黄宝珠」「Adams」など約40の圃場抵抗性品種を見出したが,真性抵抗性品種は見つからなかった(諏訪ら,高宮ら)。「黄宝珠」の交雑後代からは,抵抗性強の「ツルコガネ」,やや強の「ツルムスメ」,「いわいくろ」が育成されている。植物遺伝資源センターは,遺伝資源の中からより高度な抵抗性をもつ「WILIS」(インドネシア)を見出し,中間母本「植系32号」を育成した(三好ら)。

 

神野ら・荒木らは,抵抗性品種「Adams」の生体上でジャガイモヒゲナガアブラムシの生育が阻害されることを認め,この性質を「アブラムシ抵抗性」と名付けた。アブラムシ抵抗性は「黄宝珠」には認められないことから,抵抗性にはアブラムシ繁殖抑制と感染ウイルスの増殖抑制の2要因が関与すると示唆された。両抑制因子を集積することで抵抗性の強化を図る試みが行われている。

 

なお,抵抗性検定に関しては幾多の試行があり(松川ら,谷村ら),現在は多発圃場による自然感染法と保毒アブラムシを用いた人工接種法が用いられている。近年DNAマーカーの探索が試みられ,「WILIS」由来の抵抗性遺伝子(Rsdv1),アブラムシ抵抗性遺伝子(Raso1)に関するDNAマーカーが開発されている(紙谷ら,萩原ら)。

 

これまで見出されたSDV抵抗性は圃場抵抗性であるため,栽培ではアブラムシ防除薬剤が併用されている。栽培法により被害軽減を目指した試験は少ないが,辻らはリビングマルチ栽培によるSDVの減少を確認している。また,SDV黄化系統はインゲンマメにも被害をもたらすが,江部らは実用的な抵抗性を示す16品種を探索した。

 

イズ土壌伝染性病害:ダイズ茎疫病(Phytophthora soje)は,米生産調整でダイズ作が増加するにともない,上川,空知,石狩等転作地帯に急激に拡大した。上川農試では生態と防除法を検討し,道内に分布する茎疫病菌を10レースに分類した。松川ら,足立らは,北海道の主要レースに抵抗性の26品種を探索し,「はや銀1」「KLS733-1」が道内10レースに全て抵抗性であることを示した。また,田澤ら,山下らは,高精度で効率的な検定法を確立し,育種素材の開発を進めている。黒根病(Thilaviopsis basicola)は,1978年本別町で初めて見つかり,その後冨田らは「トヨホマレ」が抵抗性であることを確認した。

 

アズキ土壌伝染性病害:北海道のアズキ栽培では,土壌伝染性病害である落葉病(Cephalosporium gregatum),茎疫病(Phytophthora vignae f.sp. adukicola),萎凋病(Fusarium oxysporum f.sp. adzukicola)が深刻な問題となっている。

 

落葉病は1970年に十勝地方で激発し,その後は各地でも多発するようになった。千葉らは,抵抗性品種の探索を行うとともに抵抗性品種の育成を開始した。十勝農試では,約1,000品種の検定から「赤マメ」「円葉(刈63号)」「黒小マメ(岡山)」等抵抗性強の67品種が見出され,これらを母本にして「ハツネショウズ」「きたのおとめ」「しゅまり」「きたろまん」を育成した。近年,落葉病のレース分化が報告されている。

 

茎疫病は1970年代から,萎凋病は1980年代から道央部の転換畑で発生が多くみられ,上川農試と中央農試が抵抗性検定に協力している。茎疫病についてもこれまで約 1,000品種の検定を行い,「能登小マメ」「浦佐(島根)等20品種が抵抗性と判定された(田引ほか)。これらを母本として「アケノワセ」「しゅまり」等が育成された。萎凋病抵抗性は落葉病抵抗性の系統が殆ど抵抗性を有することから,「しゅまり」「きたろまん」等3病害全てに抵抗性を有する複合抵抗性品種が開発され普及に移されている。なお,茎疫病のレースには地理的分布が異なり(藤田ら),新たなレースの出現が報告されている。

 

インゲン炭そ病Collectorichum lindemuthianum):抵抗性の品種間差,検定法,遺伝様式について検討され(飯田ら,佐藤ら),抵抗性品種「雪手亡」「絹手亡」が開発された。

 

2-3研究の概要と成果(品質,加工適性)

1960年代から1970年代には,ダイズの成分分析法の改良,脂肪酸組成の地域性,豆腐の加工適性などが検討された(高城ら)。その後,近赤外線分析計が導入され,育種事業で活用が図られるようになった。

 

マメ類の加工には外観品質が重要視されるため,1980年代から1990年代にかけて多くの報告がある。アズキの品質については,由田らのグループが栽培環境との関連について研究を進め,粒大変異,栽培法と粒揃い,開花時期と品質,莢実生長と種皮色,収穫乾燥条件や脱穀貯蔵条件と吸水性,種皮構造と物理性について解析した。その他にも,アズキの外観品質に及ぼす登熟条件や収穫乾燥法の影響について多くの研究がある(浅間ら,佐藤ら,藤田ら,島田ら,長岡ら)。また,アズキの登熟とアン粒子の形成,収穫期とにえむらについても解析が進んだ(沢田ら)。インゲンマメについては,十勝農試のグループが,粒大変異の遺伝,色流れについて報告した(品田ら,佐藤ら)。

 

2-4研究の概要と成果(省力生産,機械化適性

マメ類は外観品質が重要視されるため,収穫作業の機械化は他の畑作物に比べ遅れていた。1960年代後半にビーンハーベスタが開発されたが,刈取り時の衝撃による裂莢ロスや,乾燥脱穀の大きな労力が問題となっていた。機械収穫のためには,耐倒伏性,難裂莢性,着莢位置,成熟の均一性が重要であるが,裂莢性の改善が緊急の課題であった。土屋らはダイズの裂莢性について,熱風乾燥処理による検定法を開発し,品種間差や遺伝様式を検討するとともに,タイの「SJ-2」や米国の「Clark Dt2」など難難裂莢性品種を母本として育種を進め,「カリユタカ」「ハヤヒカリ」「ユキホマレ」を育成した。また,着莢位置,収穫時期の茎水分,草型についても解析が進み(土屋ら,田中ら),ダイズのコンバイン収穫は1990年代以降普及した。主茎型品種の収量向上を目指して,長花梗形質の導入も試みられている(山口ら)。なお近年,難裂莢性遺伝子座に関するDNAマーカーが開発された(船附ら)。一方,機械収穫に対応する条播密植栽培に関する検討は古くから行われている。2000年代後半には,リビングマルチによる雑草抑制など新たな省力栽培に向けた試みがなされている(辻ら,石川ら)。アズキの機械栽培に関する品種特性の報告は少ないが,島田は胚軸長の遺伝解析を試み選抜の可能性を示唆した。

 

2-5研究の概要と成果(育種基礎,その他)

三分一は,1976年日高地方でツルマメの自生を確認した。その後,島本・阿部らのグループは,北海道,韓国,中国,ロシアにおけるツルマメの分布と変異,在来種の変異,およびそれらの特性を解析し,ダイズ栽培種の進化および遺伝資源としての利用について研究を進めた。また,育種場所では遺伝資源の導入,アイソザイムによる品種分類,ツルマメからの高タンパク特性の導入が試みられた。一方,1800年代には培養技術,1900年代には PCRによる遺伝子型判定が検討され(紙谷),2000年代にはDNAマーカーの開発が進展している。その他,諸形質の遺伝解析など基礎的な研究から,品種の普及(佐藤ら)に至るまでの幅広い研究成果が蓄積されている。

 

3 談話会の意義と展望

談話会報の特徴は,生産現場のニーズに対応した研究が多いことであろう。度重なる冷害,新たに発生した土壌病虫害,米生産調整施策,省力化への対応,良質安全を求める実需者への対応など,研究テーマは時代とともに変遷してきた。談話会報に発表された課題をみると変遷への対応がよく反映され,基礎成果をふまえて新品種開発につながり,結果として単収が向上している(ダイズ228%,アズキ224%,インゲンマメ191%)。ここではダイズの例を示したが,耐冷性品種やSCN抵抗性品種普及の効果が読み取れる。しかし,近年収量水準の上昇は停滞している。

 

これらのマメ類研究を支えたのは,農水省による育種指定試験地強化,輸入割当制度・関税割当制度下でのマメ類基金協会による研究支援,民間も含めた機関相互の連携,他分野との密な協力の結果である。今後,研究機関の独立行政法人化にともない,産官学が得意分野で補完し合う研究推進が加速するだろう。しかし同時に,長期的展望をもって技術革新を探求する姿勢が求められる。また,マメ類研究では,近年停滞気味な収量性の向上,実需者と連携強化,研究が進んでいる機能性成分等への対応,事業の効率化などの推進が求められよう。

 

談話会は,若い研究者が気軽に発表できる場所でもあった。研究アイデアを語り,実用化に向けた議論を尽くし,顔の見える研究者が増えるよう今後一層の発展を期待したい

 

参照:土屋武彦2009「談話会報にみるマメ類研究の50年」北海道談話会会報第50146-153(抜粋)

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