豆の育種のマメな話

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北海道のアズキ品種,来歴と特性

2014-04-27 08:45:21 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道産のアズキを使っています」,多くのお菓子や餡製品が謳っている。これは,北海道で生産されるアズキが味や安全面で一級品であることを,製造者も消費者も認識しているからに他ならない。

さて,それでは,北海道でどのようなアズキが作られているのか? 歴史を振り返りながら,北海道で栽培された(栽培されている)品種の来歴と特性を整理しておこう。


添付1:北海道で栽培されたアズキ品種の来歴

添付2:北海道で栽培されたアズキ品種の特性

北海道開拓と共に

北海道におけるアズキ栽培は,和人が渡道の折りに携えてきたのが始まりと言えるだろう。彼らは,故郷において祝い事に欠かせなく,かつ日常の健康食材でもあったアズキを,新天地でも生産しようと試みた。持参した種子を開墾地に播き,北海道の気象条件でも栽培可能な種類を選び出し,それらが人伝に広まったと考えられる。


明治に入り,道南から道央・十勝へ開拓が進むにつれアズキ栽培も広まり,十勝でアズキが栽培されたのは明治中期の頃である。当初は自家消費のために生産されていたが,焼畑の開墾地で生産が上がり,出荷作業も容易だったことから生産量は増加し,1890年(明治23)頃には商業作物として取引されるようになっている。


農事試験場が道内各地からアズキを収集して品種比較試験を開始したのは,1895年(明治28)上川試作場,1896年(明治29)十勝試作場が最初で,それらの中から1905年(明治38)に「円葉」「剣先」を優良品種に認定した。さらに農事試験場は品種比較試験を進め,1914年(大正3)に「茶殻早生」「早生円葉」「早生大粒」「早生大納言」を優良品種にし,これらの品種が多く栽培された。

北海道における作付面積は,1890年(明治23)の3,660haから1910(明治43)には52,100haまで増加している。


◆「豆成金」の時代

第一次世界大戦(1914-18)(大正3-7)は,十勝平野に「豆成金」と言われる景気をもたらし,その後20年間は豆業者の全盛時代であった。当時,十勝における豆類の作付面積はダイズ3万~4万ha,アズキ5万~6万ha,インゲンマメ5万~6万ha,エンドウ1万~2万haを記録,一時はヨーロッパへの輸出もあり,「豆の国十勝」「豆の街帯広」の名を世に轟かせた。この時代,十勝の農民は生活が豊かになった反面,価格の乱高に踊り「投機」の風習が身に付き,略奪農業に走る傾向が生まれたと言われる。また,豆作偏重の栽培体系は後に禍根を残すことになる。

この頃(大正12-昭和12),農事試験場は「白莢赤」「高橋早生」「早生大粒1号」「円葉1号」「新大納言」を優良品種に認定。これら優良品種を中心に,多数の在来種が栽培されていた。なお,「高橋早生」は人工交配により育成された初めての品種,他は品種比較や純系分離によって選抜育成された品種である。


冷害への対応

第二次世界大戦で農業生産力は著しく低下し,北海道のアズキ栽培は1945年(昭和20)僅か8,720haにまで落ち込んだ。しかも,低温年が頻発し(1941,45,54,56,64,66年),冷害に弱いアズキは壊滅的な被害を受け,価格の高乱下からアズキは「赤いダイヤ」とも称された。

戦後のアズキ生産においては,多収性・安定生産が緊急の課題であった。品種開発にあっても,良質,多収,耐冷性が目標となった。また,銘柄統一の動きもあり,1959年(昭和34)に「宝小豆」が優良品種に認定された。この品種は,十勝農試の保存品種の中から豆の流通業者らが注目(淡赤色)した系統(W45)に由来すると,後木利三氏が裏話を紹介しているが,一時代を画した。

さらに,「光小豆」(1964昭和39),「寿小豆」(1971昭和46),「栄小豆」(1973昭和48),「ハヤテショウズ」(1976昭和51),「エリモショウズ」(1981昭和56),「サホロショウズ」(1989平成1)「暁大納言」(1970昭和45)など,良質・多収で耐冷性の品種や早生品種が優良品種として普及に移された。中でも,「エリモショウズ」は良質,安定多収品種として評価が高く,長年にわたり基幹品種として栽培された大品種である。


なお,十勝農試創立百周年記念事業協賛会は「エリモショウズ」の公園を称え,十勝農試前庭に「エリモショウズ記念碑」を建立した。碑文には「・・・本品種は,多収で耐冷性が強く品質も優れていたことから生産者,実需者に広く受け入れられ,急速に普及した。普及三年目で作付面積が全道一位となり,現在は全道の八十%以上,十勝では九十五%以上を占めている・・・平成七年八月」と記され,育成者8名の名前が刻まれている。

この時代,農業団体による「豆1合運動」(生産者が10a当り1合拠出)によりファイトトロン,温室,日長処理,研修寮などが寄付され,またその後も日本豆類基金協会から低温育種実験室や病理実験室建設や備品整備など多くの支援があった。事業主体である北海道や農水省だけでなく,農民個々人や団体からの多くの期待と支援があったからこそ,「豆王国十勝」の今があることを忘れることは出来ない。


土壌病害への対応

1970年(昭和45)代に入ると,十勝畑作地帯で「立ち枯れ症状」が目立ち始め,また稲作転換畑においても「立ち枯れ被害」が発生し,その被害は急速に拡大し甚大となった。病理研究者の努力によって,これらは「落葉病」「茎疫病」「萎凋病」と同定,防除が困難な土壌伝染性病害であることが解明された。十勝農試では病理部門と連携しながら,抵抗性品種の育種をスタートさせたのである。


育種家たちの努力は実を結び,落葉病抵抗性の「ハツネショウズ」(1985昭和60)を初め,上川農試の現地選抜圃を活用した「アケノワセ」(1992平成4)に始まり,最近はこれら3病害に複合抵抗性を有する品種が育成され普及に移された。「きたのおとめ」(1994平成6),「しゅまり」(2000平成12),「きたろまん」(2005平成17),「きたあすか」(2010平成22),などである。

極大粒種の開発も進み,「アカネダイナゴン」(1974昭和49),「ほくと大納言」(1996平成8)が育成され,さらに耐病性を付与した「とよみ大納言」(2001平成13),「ほまれ大納言」(2008平成20)が普及に移されている。

これ等の成果が認められ,2001年(平成11)に十勝農試アズキ育種グループは,「エリモショウズおよび大粒・耐病性アズキ品種群の育成」で日本育種学会賞を受賞している。


グローバルな競争の中で

終戦後,農業の生産基盤が整備されるにつれ,北海道のアズキ栽培面積は5万~6万ha (1955昭和30年-1975昭和50年頃)に経過したが,近年は3万ha前後で推移している。これには,畑作地帯で輪作体系が確立し健全な割合になったこと,農家戸数の減少,消費量の減少などが影響しているのだろう。

なお依然として,北海道のアズキ生産は全国の80-90%のシェアを占め,今なお道産アズキの評価は健在である。平成24年の統計で作付け上位品種は,「エリモショウズ」38%,「きたろまん」23%,「きたのおとめ」21%,「とよみ大納言」7%等である。

わが国のアズキ需要量は年間11万~13万トンであるが,国産の出回り量は5万~6万トン,中国・アメリカ・カナダから2万~3万トンを輸入している。実需サイドは原料の安定供給を求めて,その他海外での生産も模索しているが,現状では気象条件や栽培条件から必ずしも満足できる品質のものを手に入れていない。が,海外からアズキを買えとの圧力が増すだろうし,海外における品質向上も不可能ではないと考えるべきだ。


温暖化,異常気象,農家の労働力不足など環境のマイナス要因は今後予想されるが,良品の安定生産こそ命綱であることを生産者は肝に銘じたい。また,育種家も多様な実需者ニーズの真の意味を聞き分ける耳を持ちたい。


アズキの機能性成分などが解明され健康食品としての評価が高まり,食材としての注目度が高まっている。消費の減少については,これを追い風にしたいものだ。


参照:日本豆類基金協会「北海道における豆類の品種(増補版)」(1991),「北海道アズキ物語」(2005),北海道「平成25年度麦類・豆類・雑穀便覧」(2013),道総研「農業試験場集報」(1975-2009),農水省「品種登録データベース」

 

 

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「新渡戸稲造」と「唐人お吉」,新渡戸稲造は何故「お吉地蔵」を建立したのだろうか?

2014-04-23 18:36:36 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

お吉が淵の「お吉地蔵」

下田から下田街道(国道414号)を稲生沢川に沿って進むと,「河内」という地区に出る。伊豆急行の蓮台寺駅を過ぎて,信号を一つ越えた辺りだ(蓮台寺駅から徒歩5分)。右側の堤防に桜並木と小さな祠が目に入る。ここが「お吉が淵」,唐人お吉が明治24327日豪雨の夜に身を投げた場所である。

現在は堤防と遊歩道が整備され,鯉が泳ぐ池やオキチザクラも見事な大木になっているが,川の流量は少なく長閑な佇まいの場所である。327日には「お吉まつり」があって,下田の芸妓衆がこの祠にお参りするそうだが,普段は犬を連れた老人が散歩している風情が似合いそうな場所。この辺りの国道は道幅が狭く駐車場所もないので,観光バスもスピードを落としてガイドが瞬時の説明をするくらいかも知れない。

この一角に,祠とは別の地蔵尊が川を背にして立っている。新渡戸稲造博士がお吉を慰霊するために建立した「お吉地蔵」である。観光協会が建てた小さな説明板がなければ誰も気づかないだろうし,地蔵尊の存在自体を知る人も少ないに違いない。

 

「新渡戸稲造」と「唐人お吉」,どう考えても接点がない。あまりにも異質な存在だ。新渡戸稲造は何故お吉地蔵を建立しようとしたのだろうか?

 

 

先ず,両人の略歴を見ておこう。

新渡戸稲造1862-1933)(文久2-昭和8

東京英語学校から札幌農学校(二期生,入学翌年に洗礼を受ける)に学び,アメリカ・ドイツ留学。後に,札幌農学校教授(この頃,僚友夜学校を設立),台湾総督府技師,第一高等学校長,東京帝国大学教授,東京女子大学初代学長などを歴任し教育者として尽力。晩年は,国際連盟事務局次長として活躍する傍ら,「太平洋の架け橋」ならんと国際間の使徒として平和のために人生を捧げる。著作には,名著「武士道(Bushido-the soul of Japan)」など。旧五千円札の肖像画でも知られる。


一方,唐人お吉(斉藤きち,1841 -1890)(天保12-明治24

船大工市兵衛の次女として生まれ,7歳のとき河津城主向井将監の愛妾村山せんの養女となり,14歳にして離縁され芸妓。鶴松と将来を誓う仲であったが,17歳のとき下田支配組頭伊佐新次郎に口説かれ,侍妾としてアメリカ総領事ハリスのもとへ。玉泉寺(柿崎)に通ったのは僅か3夜であったとも言われるが,その後きちは“唐人”と罵られ,流浪の末,酒に溺れ乞食の群れに入るまでになり,稲生沢川門栗の淵(お吉が淵)に身を投げる。享年51歳,亡骸もしばらく引き取り手がなかったとされる(竹岡大乗師が宝福寺に弔う,当寺に墓石あり)。数多く小説や映画化され,幕末開港に伴う悲話として語られる。

 

この二人が出会った史実は無い。それでは何故,新渡戸は「から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし,君が心は大和撫子」と詠んだのか? お吉が淵を散策しながら,想いを馳せた。


◆新渡戸稲造,晩年の苦悩 

第一次世界大戦が終結して1920年国際連盟が結成されると,新渡戸は事務局次長としてジュネーブに滞在し,知的協力委員会(後のユネスコ)発足などに尽力する。1926年辞任後も,講演活動の傍ら太平洋問題調査会の理事長など国際人として活躍の場を広げる。

しかし,1931年に満州事変が勃発,日本への非難が高まる中「太平洋の架け橋」ならんと奔走するが,歴史の波に揉まれ,日米両国で多くの友を失い,日米関係改善の目的も達成することが出来ないまま19333月帰国。その直後に日本は国際連盟を脱退し,軍部の台頭著しく,第二次世界大戦への道を転がり始める。

この様な時代を背負って,新渡戸は旧知の人々を訪ね,祖父の墓参りをし,1933(昭8)年716日にはお吉ゆかりの地を訪ねて,お吉が入水した淵に慰霊のための「お吉地蔵」を建立することを頼んでいる。そして8月には,平和への最後の望みを託し,第五回太平洋会議(カナダのバンフ)に出席。代表演説を成功させるが病に倒れ,カナダのビクトリアで71歳の生涯を閉じた(1015日)。お吉地蔵の完成を見ることもなく。

「太平洋の架け橋」ならんとするも時代に翻弄された体験から,新渡戸は開国の歴史の中で両国の狭間で泣いたお吉の心情を(己に重ね)慮ったのではあるまいか。 


◆お吉の侍妾問題
 

領事館の書記兼通訳ヒュースケンは,体調を崩した領事ハリスの世話をする看護師を斡旋するよう申し出る(単にメイドの斡旋依頼だったかもしれない)。幕府は,妾の斡旋依頼と誤解し,交渉事を円滑にするためにも情報を得るためにもこれ幸いと,多額の支度金と給金を与え因果を含め,お吉を駕籠でハリスのもとへ赴かせた。病に倒れたハリスが,健気なお吉に心を開いたことは想像に難くない。

しかし一方,ハリスは下田に着任したとき既に53歳と高齢だったこと,道徳規律の厳しい清教徒であったことなどから侍妾論を否定する説がある。また,戦時中には国辱ものだとして,戦後は宗教上や教育上の視点からお吉抹殺論まで論じられた。

敬虔なクリスチャンである新渡戸稲造も,当初はお吉を創作的人物と受け止めていたようだが,下田に来て菩提寺の過去帳や古老の話を聞いて実在の人物であると認識することになる(竹岡範男「唐人お吉物語」)。そこで,新渡戸は自らの間違いを潔く認め,陰ながら日米間の融和に貢献した一人の女,国策に翻弄された悲劇の人物として,お吉を供養したいと考えたのではあるまいか。

4月中旬この地を訪れたとき,オキチザクラ(大島早生)は既に葉桜だったが,フリージアが地蔵尊の周りに咲いていた。百日紅の木陰に立つ「お吉地蔵」は,今の世に何を思うや?


参照:竹内範男(1983)「唐人お吉物語」,肥田喜左衛門(1985)「下田の歴史と史跡」,十和田市立新渡戸記念館HP2014),村上文樹(2008)「開国史跡玉泉寺」

 

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「竹一筋に・・・」,奥伊豆の友-1

2014-04-21 17:06:01 | 伊豆だより<里山を歩く>

下田北高第11回卒業生同期会の便りが届いた。同級生の顔を思い浮かべながら近況報告を辿っていると竹のみにかかわって長い年月が流れました。充実した毎日ですとの一文に目が留まった。南伊豆町の○○剛君である。


拙ブログ(伊豆の里山-1「竹,今昔物語」2013.2.26)で,次のように述べたばかりだったので,これは是非とも話を聞かねばなるまいと思い立った。

・・・近年「竹害」なる言葉が語られるようになった。集落から若者が消え,管理放棄した竹林は他植生を侵犯し,里山にまで拡がり,山一面が孟宗竹に覆われる現象が見られる。「これでは駄目だ」と,NPOや行政,森林組合などが主導する「里山の自然回復運動」がようやく緒に就いた。鑑賞に堪えうる竹林に戻し,他の植生と共生出来る環境を整備するためには,パンダの餌も結構だが,アクチブな竹の利用促進が重要である。竹材,竹工芸品,竹炭,竹酢液など可能性は大きいが,問題なのは対応できるマンパワーと企画調整力(組織力)だろう。バイオマスとしての活用を研究してみるのも面白い。伊豆の資源はここにも眠っている。どなたか動きませんか? ・・・


卒業以来の不義理を詫び,「竹の話を聞きたい」と連絡したら,「ゆっくり話の出来る機会があればと思っています」と返事が届いた。その葉書には,「昨年の10月に全国竹の大会で功労賞,11月に農林水産大臣賞を頂いた」とあった。

不勉強で,竹産業に係る全国組織があることも知らなかったが,受賞の情報は剛君の「竹一筋」の言葉とリンクして嬉しくなった。彼の里山を訪ねようと思った。


2014
4月の或る日,下賀茂温泉郷から一条川に沿って山里を遡り(静岡県道119号線,下田市街に通じる)数分進むと,山間の集落「一條」は春の陽だまりにあった。静かな山村の風情である。

一条竹の子村」で落ち合うことにして駐車場に車を入れると間もなく,剛君は愛犬を伴い軽トラックでやって来た。作業中であったのだろう(竹の子シーズンの真最中である),オレンジ色のキャップと防寒着を身に着けている。

お互いに,「やあ,やあ・・・」と手を挙げて歩み寄った。卒業以来の久々の再会である。歳月はそれぞれに歴史を刻みお互い年相応の風貌になったが,昔の面影が消えたわけではない。


挨拶もそっちのけで,「其処で話そうか」と竹の子村に併設されている食事処へ入って行き,「お茶をくれや」と彼は調理場に声を掛けた。

番茶を啜りながら,会話は堰を切ったように続いた。

・竹林の整備,中国原産「四方竹」導入と資源化

・竹炭,竹酢液,竹細工などの生産販売

・猪,鹿,放棄地問題と対応

・竹の子狩り,椎茸狩り,みかん狩り,栗拾いなど観光化

・竹の子料理,猪,鹿料理などの提供

・里山の回復と村おこし,人的資源と人材育成,観光など他産業との連携

等々,「竹一筋」の体験から湧き出る言葉に重みがある。


彼は生粋の真面目人間なのだ(一途に,頑なに,これも伊豆人気質ではあるのだが)。そして,年をとっても夢を語る元気がある

「高齢者の新規定着が見られるのでハーブはどうだろう?」と彼は言う。

「カワヅザクラも良いが,次の手を考えよう。ハカランダの里はどうだ?」と応える。

「オリーブの里構想が動き出そうとしている」と近況を語る。そして,

「小さな自治体では,人材も金も限界がある」と嘆く。

「せめて,南伊豆,下田,東伊豆,松崎は一体化すべきだ」と応じる。


だが待てよ,国や自治体の事業を当てにせず ,谷間,谷間の小さな取り組みで良いのではないか? グローバル化は良い事ばかりではないと我々は学んだのではなかったのか? とも考える。


「お土産に竹の子を持って行けよ」と言われ,彼の作業場へ立ち寄る。

「竹の子も皮を剥いて,茹でるまでしないと出荷できない」と,流通の今を語る。

別れ際に,南伊豆一條竹の子村の駐車場で写真を撮った。「竹の子狩り」から戻った一群の家族が傍らを通り過ぎ,子供等の笑い声が弾けた。直売場の軒先から,顔をかすめてツバメが飛翔する。


元気な友に出会えるのは楽しい。きっと,奥伊豆温泉宿の夕食に「金目鯛の傍らには,竹の子」の時代がやって来るよ。そっと呟いた。

 

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