豆の育種のマメな話

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◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

世界の果て国立公園,テイエラ・デル・フエゴ

2012-07-31 11:09:05 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

国立公園は世界に約7,000あるという。国が自然を保護するために制定した管理地で,最初の国立公園は1872年アメリカ合衆国の第18代大統領によって指定されたイエローストーン国立公園である。ヨーロッパでも1909年に最初の国立公園が指定され,20世紀に入ると国立公園制定の動きは世界中に広まった。

南米アルゼンチンには29の国立公園があるが,その中の一つ1960年指定のテイエラ・デル・フエゴ国立公園(Parque Nacional Tierra del Fuegoは,フエゴ島のチリ国境,ウスアイアの西方18kmの所にある。アルゼンチンの中では唯一海岸部の国立公園で,高緯度(南緯5354度)にあることから植生に特徴がある。北西から南東に走る山脈は,アンデス山脈の南端にあたり,標高は10001,500mとそれほど高くはないが険しい自然の姿(森林,湖沼,海岸,氷河)をみせている。いわば,世界最南端に位置する「世界の果て国立公園」である。

 

20××年1229日,ウスアイアから少人数のツアーに参加した。

 

国立公園をトレッキングする前に,蒸気機関車に牽かれた玩具のような観光列車(世界の果て号,Tren del Fin del Mundo)に乗る。スペイン語と英語の説明を聞きながら列車の外を眺める。二十世紀の初め,囚人たちが木材を伐採した後の切り株が残る草原を列車はゆっくり進む(この鉄道自体も1910年,囚人達により建設されたものだと説明が続く)。

 

途中,マカレナで列車は一休み,観光客は列車から降りて写真を撮り,周辺をしばし散策。再び列車は終点まで行き,帰りは真っ直ぐ駅まで戻る。

 

国立公園の詰所からレンジャーが案内につく

「国立公園です。草花,木の葉一枚とて採ることはできません。罰せられます」

手振りよろしく,笑いを誘いながら説明する。

森を抜け,草原を渡り,山を越えて進む。

「パタゴニアは乾燥の土地だが,この島は雨が多く冷たい雨林帯を形成している」

「この木がレンガ(Lenga,ナンキョクブナ,この木が最も多い),風が強いからこのように背が低く,一方になびいた形になるのです。この小さな葉がニイレ(Ñire),ギンド(Guindo)・・・,ビーバーを見ることもありますよ」

「これがカラファテ(メギ科,Calafate, Berberis buxifolia),この実を食べた人はもう一度パタゴニアに戻ってくると言う伝説があるのです。皆さんは食べましたか?」

 

パタゴニアで最も有名な話を,このガイドも語った。棘のある小灌木で黄色の花をつけ,実は熟すると濃い青色でジャムなどに加工される。

 

草原を歩き,小高いブナ林の山を越えると,ロカ湖に出た。波静かなラパタイア湾,ロカ湖は標高ゼロにもかかわらず高原の湖のよう佇まいをみせている。

 

最果ての郵便局で絵ハガキを投函する。国道3号線の終点を示す標識の前で記念撮影。アラスカまで17,848kmの文字が旅の感傷を誘う。ここは国道3号線の終点であると同時に,「パンアメリカンハイウエイ」(Pan-American Highway, Carrentera Panamericana)の終点でもあるのだ。この道路を歩いていけば,いつかアラスカにたどり着くのだ,空想を掻き立てる。

 

ちなみに,パンアメリカンハイウエイの整備構想が最初に提唱されたのは,1923年の米州国際会議であったという。構想を受けてパンアメリカンハイウエイ会議が設置され,道路整備とネットワーク化が進められた。アメリカ大陸を縦断する幹線道路構想である。

アラスカ州のフェアバンクスを起点に,北米大陸西岸から中西部を通りメキシコから中米に抜け,南米大陸の西海岸を南下しサンチアゴからアンデス山脈を横断してブエノスアイレス,さらにそこから南下して大陸南端のテイエラ・デル・フエゴに至る(実際には,単一の路線ではなく道路網)。ハイウエイの全長は約48,000kmとの記載もあるが(WikipediaBuritannica1977),両都市間を緯度と経度で計算したところ約15,000kmであった。

このハイウエイはナスカの地上絵を横切っている(地上絵が破壊されている),熱帯雨林や原住民保護の上で支障を来たしたとの意見もある。開発と自然保護のバランスはどうあるべきか,人類は常に問われている。

 

30分ほどの軽いトレッキングであったが,心地よい疲労感を覚えた。世界の果てで自然に遊ぶ体験が,長い人生の中で一度はあっても良いだろう。思い出に残る旅だ。

 

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世界最南端の町,ウスアイア(Ushuaia),哀愁を感じる町だ

2012-07-28 12:20:11 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

地球儀を廻して南アメリカ大陸を南端まで辿ると,マゼラン海峡(Estrecho de Magallanes),ビーグル水道(Canal Beagle),大西洋に囲まれたフエゴ島(Tierra de fuego)が目に入る。

フエゴ島は,マゼランが1520年の航海中に断崖の暗闇に揺れる火をみて(先住民の松明だった),火の大地(Tierra de fuego)と呼んだことに由来する名前の島で,広さは約48,000km2あり,四国と同じくらいの大きさである(東半分がアルゼンチン,西半分がチリ領)。

ウスアイア市は,このフエゴ島アルゼンチン領(テイエラ・デ・フエゴ洲)の州都で,ビーグル水道に面し後背地の山が海に迫る地形に張り付くようにある。南緯5448分,一年を通じ冷涼で風が強く,年平均気温が5.0℃,夏でも最高気温が15℃に達しない気候である。ブエノス・アイレス(BsAs)から3,250km離れており,南極点から1,000kmとむしろ南極に近い。

 

20××1228日,この町を訪れた。

 

ブエノス・アイレスのホルヘ・ニューベリー空港を1220分に発ち,トレレウ(Trelew)に立ち寄り,ウスアイアには17時に到着。眼下に広がる乾燥したパタゴニア曠野と一直線に延びる道路だけの風景が途切れ,フエゴ島に近づくと霧をまとった森林が見えてくる。ホッとした気持ちになる森林限界の風景だ。

 

だが,空港に降り立つと気温は4℃,雲は低く,夏だというのに雪がうっすらと残っている。最果ての地に降り立った高揚感はあるものの,自然は容赦ない荒々しさで迎えてくれた。

タクシーで山の上のホテル・デル・グラシアルに入る。良いホテルだ。エントランスホールに暖炉が置かれている。

 

ウスアイアと言う名前は,イギリスからの入植者が付けた名前であると言うが,ヨーロッパ人が入植する以前は先住民が住んでいた。モンゴロイド(黄色人種)である。20万年前アフリカに誕生した人類ホモ・サピエンスが,アジアからベーリング海峡を越え,アラスカからアメリカ大陸を南下し(5万キロの旅,グレイト・ジャーニー),南米の最南端に到達するのは15千年前のことであった。

最南端の地に立つと,時を越えた人類のロマンを否が応でも感じざるを得ない。「何故,こんな処まで・・・」。風の大地をもう一度眺めた。

 

その昔,イギリスがオーストラリアを流刑地にしたように,アルゼンチン政府はBsAsから遠く離れたこの島に凶悪犯を収容する刑務所を作った。囚人たちは,山から木を伐りだし,道路を作り,線路を敷き,街を造るのに駆り出されたのである。そして,ウスアイアが出来上がった。このような囚人による開拓は決して珍しいことではない。ローマ時代にも,シベリアでも,八丈島でも,北海道開拓の歴史にも記録されているではないか。

 

一方,この島から北東450500kmの大西洋上にはフォークランド諸島(マルビナス諸島)がある。とても近いことに気付く。1982年イギリスとアルゼンチンは島の領有権を巡って争った。いわゆるフォークランド紛争(マルビナス戦争)である。アルゼンチン軍の攻撃によりイギリスは多数の艦船と乗組員を失ったが,イギリス軍は最終的に揚陸作戦で勝利を収めた。この紛争は3か月ほどで終わったが,イギリスではサッチャー首相の人気が上昇し,アルゼンチンでは政権の混乱と民主化の流れを産んだ。

 

日本は,アメリカやEC諸国からの要請にもかかわらず最後まで禁輸措置を取らなかったが(ちょうどこの時,筆者はJICAのプロジェクトでアルゼンチンに派遣されていた),一方国連の場ではアルゼンチンの撤退勧告に賛成票を投ずるなど,アルゼンチン側を非難した立場をとっていた。

その後1990年になってから,両国は外交関係を回復しているが,イギリスの地図にはFalkland Islands,アルゼンチンの地図にはIslas Malvinasと表記されているように,現在も自国の領有権主張を取り下げてはいない。領土とはそういうものだ。

 

さて,夕食をとるため坂道を下り街に出てみよう。海岸沿いにマイプー通りが走り,その一本山側のサン・マルテイン通りがこの市のメイン・ストリートになっている。商店やレストランなど主要な建物はこの通りを中心にある。

人口は6万人。訪れたこの時期は夏のシーズンで,海外からの観光客で賑わっていた。ビーグル水道に面するウスアイア湾観光桟橋から南極クルーズも出ている。

 

「明日は,テイエラ・デ・フエゴ国立公園に行こうか,ビーグル水道クルーズに参加しようか?」

旅行会社のオフイスを訪れた。

「午前に国立公園ツアー,午後にビーグル水道クルーズはいかが?」

OK,そのコースにしよう」

「ホテルでお待ちください。明朝7時にピックアップします」

「グラシアス,・・・アスタ・マニヤーナ!」

 

午後8時を過ぎても太陽は沈まず,11時頃まで空は白々としていた。

外は明るいけど,明日は早いからもう寝ようBuenas noches, Hasta mañana!

 

 

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追想,一枚の写真

2012-07-20 11:26:16 | 伊豆だより<里山を歩く>

一枚の写真が手元にあ3.5×5.0cmと小さなサイズで,色褪せ,しかも折れ曲がった跡が付いていて,大事に保管されたものとは到底思えない状態である。写真には,犬と一緒に1~2歳くらいの子が写っている。

季節は冬だろうか,帽子をかぶり,綿入れの着物に前掛けを掛け,フエルトの靴を履いているようだ。陽だまりに座って,大きな目を眩しげにしている。座っているのは土間に敷いた筵の上で,後方に家の板壁が写っている。横たわる犬の腰に寄り添うように子供の左手と膝が乗っている。

これは,唯一残っている幼い頃の写真である。何回か引っ越ししている間に,古い写真は殆ど散逸してしまった。この写真を眺めていると,撮影したのが昨日のような錯覚に捉われるが,1~2歳とすれば記憶に留まっている筈もない。場所は,山奥の生家(小学校時代まで暮らした)の玄関脇で,ポチ(?)を抱いて(抱かれて)日向ぼっこをしている構図である。しかし,写真機が何処の家にもあるような時代ではなかったので,誰が写したのか分からない。被写体は,撮影が何を意味するか理解できない不安な眼差しで,カメラのレンズを凝視している。

 

時代は1942年(昭和17),太平洋戦争が始まった翌年のことで,男達は戦線や開拓へと次々に駆り出されてはいたが,まだ食べるに窮するほどではなく,山奥の農家には戦線のひっ迫感も伝わって来なかった。この山奥に伊豆大島や下田市街地から疎開家族がやってくるのは,年が遷り終戦が近づいてからである。

 

脳裏に残る幼年期の映像といえば,農作業に明け暮れる祖父母と母の姿である。畑の隅で籠に入れられ眠っていたこと,漆の葉を集めて遊び「カブレたらどうする」と祖母と母が慌てたこと,夜なべ仕事に炭俵を編む祖母,藁草履を作る祖父,牛の搾乳や給餌する母,蚕の桑の葉を食む音,寝しなに祖父が話してくれるお伽噺,祖母に手を引かれて神社に武運長久を願って歩いた畦道・・・。

 

だが,平穏な暮らしの中にも,45歳になるころには迫りくる敗戦の足跡が聞こえていた。鉄や銅製品の供出に「これは出す,出せない」と揉めていた祖父母の声(後になって,小学校校門の表札が削ぎ取られているのを見て,ああこれもそうだったのかと子供心に悲しくなったこと),松脂をとる話,空襲警報が発せられ,電燈に覆いをし,防空壕に潜んだこと,疎開家族の色白の美少女を遠くから眺めたこと,頭に荷物を載せて運ぶ大島女性の風習を新鮮に感じたこと・・・など。一度だけだったが,頭上から大平山を越えて下田方面に急降下する敵機の姿に,畑の中に慌てて伏せたことが映像となって残っている。

 

このような時代であったから,小学校入学以前の父の記憶は少ない。両親に甘えた記憶もない。両親は働きずくめ,物心つくころには父が出征したので,親子の触れ合いは少なかった。どちらかと言えば,長男として祖母の庇護下にあって,家の中の立ち居振る舞いと心構えを仕付けられていたような気がする。

 

終戦後,父がガダルカナルから帰還し静岡日赤病院で療養中との一報が入り,祖母に手を引かれ会いに行った時のことが,父との記憶では最も古い。父は白衣を着て痩せ細った姿で笑っていたが,寄りつけず祖母の背に隠れていた。

 

後年,老いた母は「母ちゃんと呼ばれたことが一度もない」と語ったと伝え聞いた。父の思いはどうだったろうか? とふと思う。両親とも既にこの世にいない。

2012.7.20

 

Takehiko01cc

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坂戸から谷津へ,河津三郎の里を歩く

2012-07-16 18:02:47 | 伊豆だより<里山を歩く>

先に述べた集落(坂戸)の古道を上ると,尾根に近い所で山道は二つに分かれる。分岐点には道祖神が祀られ道標石が置かれ,右手に進めば「落合」「宇土金」の集落に下る小径,左手に進めば河津町の「谷津」「縄地」に下りることが出来た。左手の道は茅が生い茂る山の尾根をとおり,伊豆大島,利島,新島,敷根島,神津島が眺望できる。ここ茅の採草地は部落共有のもので,年に一回火入れをし,茅葺屋根や炭俵の材料,牛餌採草用に管理されていた(春先には蕨がよく採れた)。

 

尾根から小道を転がるように下れば,そこは直ぐ河津町「谷津」の集落で,河津の浜は目の前にある。今でも,この谷間の集落には古い寺(南禅寺)があり,谷津温泉がある(当時,温泉熱を活用した製塩工場があった)。河津川に突き当たる道路を右に折れると河津八幡神社があり,この境内には河津三郎が力試しに使ったと言われる手玉石がある(河津三郎力石の像には双葉山書の題字が刻まれている。ちなみに,相撲の決まり手の一つ「河津掛け」は河津三郎が使った決まり手に由来するという)

 

祖母に連れられ河津浜に貝拾いに来たときは,いつもこの神社に立ち寄り,力持ち河津三郎の話を聞かされた。「お前も,力持ちになれ・・・」と言うことだったのだろう。

 

さて,河津三郎祐泰とは何者か? 日本三大仇討物語の一つとして知られる「曽我物語」の主人公曽我兄弟(五郎時政,十郎祐成)の父である。バスガイドは赤沢に近づくと必ず曽我兄弟仇討の一節を語るが,ここでは詳細はやめよう。今回触れたいのは,この「谷津」は平安時代の末頃に河津氏の館があった(谷津館の内)場所と言うことである。館は河津三郎の父伊東祐親が建てたもので,北条政子の母や曽我兄弟がこの館で生まれている。

 

河津は昔から温泉場として知られる。谷津温泉のほかにも,河津川の少し上流には峰温泉(大噴湯が見られる),更に上流には湯ケ野温泉(伊豆の踊子で知られる),大滝温泉・七滝温泉(河津七滝「かわづななだる」で知られる。水が垂れるから転じて滝をダルと呼ぶ)がある。

 子供の頃の話に戻れば,河津浜や今井浜で遊んだ帰りは峰温泉から細い小路を上って,下田街道の「峰隧道」近くに出て,「逆川」集落を経て「坂戸」に戻るというコースをとることが多かった。バスが来たら途中まで乗って,来なければ歩く。

山を抜ける「古道」が懐かしいが,いま山道は「竹の侵食」に遭い,道筋をたどるのも難しい。「山の荒廃が洪水の原因にもなっている」と痛切に感じさせる状況にある。

ところで近年,河津は早咲きの「河津桜」で有名である。1月下旬から2月にかけてピンクから濃い紅色の花をつける。伊豆急「河津駅」すぐ近くの河津川両岸に桜並木が3km続いていて,多くの観光客が訪れる。河津町役場のホームページによれば,この桜は1955年河津町田中の飯田勝美氏(小峰)が原木を偶然発見したことが始まりで,その後の学術調査で新種と認め1974年に「カワヅサクラ」と命名されたという。オオシマザクラとカンヒザクラの自然交雑種と推定されている。原木を見つけ,苗を増やし,桜並木を育てた,多くの先人の努力とロマンは,河津花物語として将来きっと語り継がれることだろう。

さらに花と言えば,河津はカーネーション栽培が盛んな里でもある。

花を愛で,温泉に浸かり,海の幸山の幸を味わい,自然と歴史を探訪する,これこそ伊豆の歩き方古道の整備が望まれる・・・。

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須原小学校,昭和27年度卒業生が60年ぶりに通学路を歩く

2012-07-13 14:53:49 | 伊豆だより<里山を歩く>

須原小学校(稲梓村立,下田町立。同名の学校は新潟県魚沼と長野県大桑にもある)は昭和46年に下田市立稲梓小学校に統合され,跡地には現在「あずさ山の家」が建っている。卒業後初めて立ち寄ってみたが,校舎の面影は全くない。文字が朽ち果てた石造りの校門,校庭の銀杏の老樹が往時を偲ばせるだけである。卒業写真に残る校庭の桜は今も満開になるのだろうか,ふと感傷に浸った。

この小学校に入学したのは昭和224月のことであった。太平洋戦争が終わって1年半が過ぎたばかりの頃で,物資はまだ不足していた。ランドセルではなく軍隊が使っていた背嚢を再加工した鞄を背にして通学した。風呂敷包みの子もいたし,藁草履が通常の履物であった。

 

同級生は34名(男児18,女児16),1学年1クラスの山村に位置する小学校である。運動場は50mの直線走路を取ることが出来ないほどの狭さで,前年は運動場のフィールド部分にサツマイモが植えられていた。全員が農家の子供であったが,弁当を持参できない者や幼い弟を背負って来る子も珍しくなかった時代である。

 

平成247月,60年ぶりに通学路を歩いてみようと思った。家(現在は屋敷跡がやっと確認できる雑木林になっている)から出発するか,学校から出発するか考えたが,利用できる交通機関はないので,いずれにせよ往復歩かなければならない。それなら,復路を下り坂にした方が楽だろうと学校跡地(現,あずさ山の家)を出発した。

 

校庭から東の通用門を出て左に進む。当時,「西峰橋」を渡った所に水力精米所が営業しており,いつも精米機の音が響いていた。精米所の裏には翌檜(あすなろ)の老樹が一本天を衝いていた。

 

この木の名前を知ったのは,賀茂郡下の小中学生の作品を集めた文集の名前が「あすなろ*」で(北海道十勝の「サイロ」のような文集),「あすなろって何だ?」と聞いたら,「明日は檜になろう,明日こそは・・・と頑張ることだ。精米所の裏に翌檜の樹があるから見てごらん。天まで伸びている」そんな話を聞かされたことだった。子供ながらに良い話だと思った記憶があるが,「枕草子」や松尾芭蕉「筏日記」,井上靖「あすなろ物語」によれば,「檜になりたくても決してなれない」と哀れな樹として扱われているではないか。まあ,どちらでも良いか・・・(この文集は今も発刊されているだろうか)。

 

更に30mほど進むと,下田街道(国道414号線)のバス停「茅原野口」がある。昔は茅(かや)が生える原野であったのだろう。当時は棚田が広がっていたが,今は休耕田が多い。右手にはかって酒や日用雑貨を商う店があった。その反対側の川縁には桜の並木があったと思うが,川は改修されて桜は残っていない。

 

しばらく歩き,次のバス停が「坂戸口」で,ここから右に入る細い山道を通学していた。「坂戸口」から最初に坂を上った所に,「武田家滅亡後この地に落ちてきた土屋氏の墓がある」と言われていた。なお,坂戸集落に入らず国道をそのまま7km進めば,伊豆の踊子で知られる「湯ケ野」を経て天城峠に通じる。また,水田の中道を左へ行き「根岸橋」が架かる川は子供らの水遊び場であった。学校にプールがあるような時代ではなかったので,学校帰りや夏休みにはこの川でよく泳いだ。

 

さて,集落名の「坂戸」は,「坂の入口」に由来するのだろう。確かに,沢に沿って山奥まで続く集落は坂ばかりである。当時は24~25戸が点在し,田畑を耕し,牛を飼い,養蚕を行い,蜜柑を売り,炭を焼き,竹を切り出し,生計を立てていた。今では10戸余が残るだけで,高齢化が進んでいる。

 

道路は小型車がやっと通れるだけの道幅である。右側に墓地が見えて来る。墓地の脇を山側に上がれば臨済宗建長寺派「三玄寺」がある。さらに,細道を進むと村の集会所や家が佇む場所に出る。田畑は耕作放棄地が多い。ただ,花が咲き,せせらぎと鶯の声が聞こえる里は平穏である。分岐路では山が迫っている右手の道を進む。坂はひときわ急になってくる。子供の頃もこの辺は蝉の声が騒がしかったが,この賑やかさは今も変わっていない。

 

木立に覆われているが,苔むした細く急な石段が右手の山肌に残っている。この上には,弘法大師を祀った大師堂があり,「お大師さん」と呼んでいた。夏休みには子供会で集まり,ラジオ体操や宿題をし,秋祭りの寸劇の練習もした。もちろん木登りや缶けりの遊びの場でもあった。

 

更に小道を進み坂を上がると狭い台地となり,夏ミカンの畑が目に入る。この近くには8戸が集まり,同級生のKも住んでいた。道が分かれる所に旧集会所があったが,ある時期までこの辺りは村の中心であった。集会場は婦人会の料理講習会,青年団の集会,子供会などに使われ,一時期精米機が備えられていたこともある。2本の桜の樹があり,実のなる頃は摘み食いし口を真っ青にしていた。

 

分岐路を右に進めば急坂な道,左に進めばやや緩やかな細い迂回路となっている(現在,左側を車で上れる)。左手の下には不動の滝があり,不動神が祀られている。そして,左右双方の道は100200mで村の神社の入り口で合体する。

 

この神社がある狭い台地の一角に生家があり,近くには5戸が暮らしていた。どの家にも子供がいて,毎日のように群れていた。メンコやベイゴマが流行していたが,むしろ椿に集まる「メジロ」のさえずりを聞き,「鳥もち」で捕獲し,蝉やカブトムシを追い,椎の実を拾い,野イチゴや桑の実を摘み,ニッキの根を齧るといった遊びに暮れていた。そして子供らは,何時も夢をみていた。

ここは,大平山の頂上に近く,標高250m(小学校との標高差160m),小学校から2km余の距離にある。

 

ちなみに,この山奥は今でこそ不便であるが,当時の古道を辿れば容易に,山を越え「谷津」に下り「河津」に出ることが出来た。駿河湾を一望できる尾根で分かれて,「落合」や「宇土金」に下り「下田」へ出ることも可能だった。古道は,昭和30年頃まで生活道路と言えたが,今は木や竹が繁り草に埋もれて通ることが出来ない。古道を復活させれば,伊豆を訪れる楽しみが増えるだろ。「古道復活,自然再発見プロジェクト」があっても良い。

 

 

 

2024.5.3追記

稲梓小学校2023年度卒業生のMさんからコメントを頂いた。有難う。

*文集「あすなろ」が現在も発刊されていると言う。大変嬉しく思います。

また、文集誌名は「あすなろ」でなく「あすなろう」だとのご指摘。筆者の記憶が不確かなので、当時も「あすなろう」だったのでしょう。

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アルゼンチン心の詩集「ガウチョ,マルテイン・フィエロ」

2012-07-03 16:33:24 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

マルテイン・フィエロ」(Martín Fierro)を知ったのは,アルゼンチンで暮らすようになった1978年,今から34年前のことである。

小学校で朗読を課している詩集がある,マルテイン・フィエロ,アルゼンチンの聖書とも言われます」,その街で日本語が話せる唯一の人であったスーテル牧師が教えてくれた。「この国では,演説の中でも会話でも,何かと言えばマルテイン・フィエロの一節が引用されるのですよ」と。

 

その後,誰それとなく「マルテイン・フィエロ」について尋ねると,誰もが一節を諳んじていて朗々と聞かせてくれる。そして同時に「日本人のお前が,よくマルテイン・フィエロを知ってくれた」と親近感を示すのだった。こんな書物がわが国にあるだろうか?

 

近頃,我が家の書棚を整理していたら三冊の「マルテイン・フィエロ」が出てきた。一冊は,197811月ブエノス・アイレスのアチエッテ書房(Librería Hachette)発刊のペーパーバックである。裏表紙には,「Para Katu y Hide un amigo que tantos los quiere, al que ustedes de dicen: Chocolate, Guiye」と息子(当時小学生)の友達の名前が書き止められている。二冊目は19765月ブエノス・アイレスのヒオルデイア社刊の毛皮装丁本で,Kyoko Adachiさんからの手紙が添えられている。

そして三冊目は,1981年11月たまいらぼ刊(大林文彦・玉井禮一郎訳)の「パンパスの吟遊ガウチョ,マルテイン・フィエロ」である。

 

この詩集は,パンパスの夕暮れ,村の居酒屋には村人達が一日の仕事を終えて集まって来て,汗やほこりを払いながら一杯のアルコールに明日の天気や仕事のことを話しているところへ,一人のガウチョの吟遊詩人がやってきて,ギターを抱えて即興で弾き語る数奇な半生の物語・・・で構成されている。語り終えると男は,僅かばかりの食料と謝礼を手に帰って行く。当時パンパ平原にはこのような吟遊詩人が数多く逍遥していたと言われる。

 

文明に虐げられ,法に追われ,大自然の中で孤独に生き,当てもなくさすらうガウチョの悲嘆の詩であるが,自然と対峙する人間の底知れぬ孤独を表現しているが故に,現代人の共感をそそって止まないのだろう。

 

何しろこの詩集は長編である(4,894行から成っている)。第Ⅰ部は1872年,第Ⅱ部は1879年に出版されたが,その後も出版を重ね,アルゼンチンでは聖書に次ぐ超ロングセラーと言われる。

 

ちなみに,著者ホセ・エルナンデスJosé Hernanndez 18341886)は,ブエノス・アイレス近郊の牧場で育ち,牧場主でありジャーナリストであり政治家であり詩人であった。彼が生きた時代は,アルゼンチンに新しい波が押し寄せ,土地の収奪や囲い込み,開発,中央集権化の過程にあり,ガウチョたちが強制的に徴兵され悲惨な取り扱いを受けていた時代である。「マルテイン・フィエロ」は,抗議の詩でもあるのだ。

 

訳者の大林文彦氏は「広大な自然に恵まれているアルゼンチンの人々の胸の底には,理想化された独立人としてのガウチョに代表される,自由な生活に寄せる限りない郷愁が流れているのであろう。そして現実と人間の醜さに倦んだ人が手に取り,深い共感を抱き,美しい章句に救いを見出すのではあるまいか・・・」と述べている。

 

アルゼンチン人が演説上手なのは,詩を朗読する習慣があるからだろうか? 残念ながら,これまで大声で詩を朗読するような経験をしてこなかった

 

参照:ホセ・エルナンデス作,大林文彦・玉井禮一郎訳「マルテイン・フィエロ,パンパスの吟遊ガウチョ」たまいらぼ刊

 

 

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