豆の育種のマメな話

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80年前の「北農」創刊号,技術改善の重要性を語る創始者

2012-05-30 18:16:41 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

北海道にある公益財団法人北農会が,農業技術普及誌「北農」を発刊している。内容は,研究論文など新しい研究成果情報に加えて,農業に関する論説提言,研究情報,資料解説など多岐にわたる。学会誌でなく,かと言って商業誌でもない,特徴ある技術情報誌で,他に代えがたい。わが国でも貴重な存在であろう。

その「北農」誌の創刊は1934年(昭和9)であった。創刊から数えて,来年が80年目になる。この間,農業を取り巻く環境は大きく変化し,農業自体も幾度となく困難な場面に遭遇したが,生産者や農業関係者の尽力のお蔭で北海道農業は大きな発展を遂げた。この発展の支えたのは,技術開発の成果であったことは衆目の認めるところであろう。「北農」の歴史も,北海道農業の歴史に重なっている。

 

80年前「北農」創刊に当たって,北海道農事試験場長安孫子孝次氏は,技術改善の重要性を説いている。創刊号巻頭言の一部を以下に引用する。

 

・・・農村非常時に直面し農業合理化を叫ばれて居る今日,その合理化の基礎ともなるべき農業技術の改善は,一日も忽せにすべからざることを痛感せらるるのであります。(中略)今回北海道農事試験場北農会が組織せられ,その機関雑誌として月刊「北農」を発行し,農事試験場の試験成績を広く且敏速に普及せしめ,併せて会員相互の親睦と知識の交換とを図られるに至ったことは洵に機宜の企てであって,(中略)衷心から欣ぶ支第であります。それ故に当場においてはこの計画の遂行に対しあらゆる援助を吝まぬものであります。

 

凡そ健全なる農家,農村を建設せんとするには農業を経済的に経営するにあります。農業の経済的経営は各種の科学を取り入れ,優秀なる技術により合理的に応用するにあるのであります。(中略)農を営む人,農事の指導に任ずる人は勿論のこと,苟くも農を政し農を談ずる人の心掛くべきことと信ずるのであります。幸ひ雑誌「北農」の理想が這般の実情に徹し,よく農事関係諸氏の伴侶となり,農業の改善発達に資することが出来ますれば,この上なき喜びと存じ,茲に大方の振るって本誌刊行の趣旨に賛成せられんことを望むと共に本誌の発展を祈る次第であります・・・。

 

北海道では今年も,1月に開催された北海道農業試験会議(成績会議)での検討を経て,多くの新技術が普及に移された(普及奨励事項12課題,普及推進事項13課題,指導参考事項237課題,研究参考事項10課題)。これらの成果は,多くの媒体を経て生産現場に届けられるが,北海道農業発展の糧になることは間違いない。「北農」も技術情報誌として,微力ながら北海道農業発展の一翼を担う努力を続けている。

 

北農編集子のつぶやき:先人の詞は,今の時代にも褪せることがない

 

参照:土屋武彦2012「編集後記」北農第79巻第2号,公益財団法人北農会

 

 

 

Hokunou_aa

 

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パパイア,甘さが強く独特の癖がある

2012-05-27 13:20:45 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米パラグアイのスーパーマーケットに並ぶ果物の代表は,オレンジとバナナであろう。いずれも国内で生産されるが,ブラジルやアルゼンチンからの輸入が多い。リンゴやブドウもあるが,品質はあまりよくない。時期になればスイカがごろごろ,道路脇でもよく販売しているが,これは美味しい。暑い国柄のせいかもしれない。

そんな中で,地味な果物がパパイアであろうか。甘さが強く独特の癖がある。形は球から卵型,紡錘状など変異があり,0.23.0kgにもなる。果皮はなめらかで熟すにつれ黄色や橙黄色になる。やや軟化したころが食べごろで,果肉は多汁で甘い。

 

我が家でもよく食べた。

「果肉にパパインが含まれているそうよ」

「何だい,それは?」

「酵素の一種で消化を助けるの。肉と一緒に煮ると肉が軟らかくなるって」

「ああ,聞いたことがある。未熟果を傷つけて白い汁を集め,精製して食肉軟化剤や消化剤にするという話があった」

 

パパイアCarica papaya L, Papaya),常緑性の小高木で熱帯アメリカが原産だと聞いた。パラグアイでも庭先に自生していて,高さ78mになる。幹はふつう直立し,葉柄の離脱部に大きな痕跡を残している。葉は長い葉柄をもち,切れ込みが深い大きな単葉を互生して密に着ける。雌雄異株とされるが,間性株もあるという。幹の上部,葉の下側に実が密生する。

 

FOAの統計によれば,2009年の生産量は一位がインドで3,911,600t,二位ブラジル1,792,590t,三位インドネシア772,844t,ナイジェリア763,619t,メキシコ707,347tと続く。

 

このように今では世界中の熱帯,亜熱帯で広く栽培されている。タネをまいてから早いものでは一年で実を着け始めるという。市場では年中その姿を見かけた。現地の人は、青パパイアを料理に使うそうだ。

 

近頃,日本のスーパーマーケットにも並ぶ熱帯果物の一つである。

 

 

   

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ツリスドリの群がるのをみた,南米の鳥類-2

2012-05-26 13:02:43 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイ北部カニンデジュ県のイホヴイという田舎にある実験農場で,ダイズシストセンチュウ抵抗性の選抜試験を実施していたため,この農場はエンカルナシオンから約1,000kmの道程であったが,車を駆って何回も通った。

いつも仕事を終えると,農場の中庭でマテ茶を廻しながら火照った身体を冷やすのが習いとなっていた。そして,夜はアサードにしようかと言うことになるのだが,その日は頭上がいやに賑やかであった。

 

見上げれば,樹の枝に鳥の巣がぶら下がり(写真),夕刻が近づいているため鳥たちが群れを成して巣に戻っている最中である。季節は春(200611月),巣立ちを迎えた時期だったのだろう。

 

カメラを向けると,隣のインヘニエロ(技師)が薀蓄を語る。

「あれは,ツリスドリ(Icterus icterusTroupialだ。スズメ目,ムクドリモドキ科,ムクドリモドキ属,ムクドリモドキ(ツリスドリ)・・・,ベネズエラの国鳥だ。別の鳥がこの巣に卵を産み孵化させることもある」

 

当地の技師の中には博識な連中が多い。

「ああ,托卵のことだね。日本でも,郭公が他の巣に卵を託すことがある」

僅かばかりの知識で答える。

 

だが,実際の会話はこれほどスムーズではない。何しろ,「托卵」なんて言うスペイン語は知らない。あれやこれやと話して互いに納得し,

「じゃあ,肉を買いに行くか」と言うことになるのだ。

 

ツリスドリを最初に見たのは(実は巣だけ),30年ほど前のイグアスだった。アルゼンチン側のシェラトン・インターナショナルに宿泊し,滝に向かって下った所で子供が地面に落ちた鳥の巣を見つけた(写真)。見上げると椰子の葉に巣が多数ぶら下がっている。

 

「鳥の巣だろうね」

そう言ったものの,見るのは初めてだった。精巧なものだと感じた。鳥の姿は見えず,どの巣も空(から)のようだった。

 

 吊り巣に群がる黒い鳥を,イホヴイ農場で初めて観察したことになる。

 


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南米の鳥と聞いて君は何を思い出す? コンドル,オニオオハシ,ハチドリ

2012-05-12 10:04:48 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

「南米大陸に住む鳥」,貴方は何を思い出しますか?

◆音楽好きの君は言うだろう。

コンドルだね。アンデスのフォルクローレ El Cóndor Pasa (コンドルは飛んで行く)を思い出すよ。Simon & Garfunkelの歌声でね

この曲は1913年,ペルー人作曲家 Daniel Alomía Robles が伝承曲をもとに作曲したもので,アメリカのSimon & Garfunkel がカバーして世界中に広く知られるようになった。今でも,ボリビアやアルゼンチンのフォルクローレグループの定番になっている。

 

レストランのショータイムに,「ご希望曲は?」と聞かれたら,「El Cóndor Pasa, Por favor」と応じるがいい。他の客席からも拍手が起こるし,嬉々と演奏してくれるだろう。

 

南米コンドルVultur gryphus)は,南アメリカ大陸のアンデス山脈に生息する。体長1.2m,両翼を広げると3mに達し,10kg以上にもなる。この体型は上昇気流に乗って空高く舞い上がるのに適している。

 

アンデスの標高3,0005,000mの場所に巣をつくり,雛を育てる。氷河ツアーをしたとき,ガイドが山の頂を指して,「あの辺りで,コンドルがしばしば観察されます」と説明していたのを,思い出す。その時は見つけることが出来なかったが,コンドルは巣やねぐらの周囲に広い行動圏を持ち,死肉を探して日に250kmも移動する事がしばしばだという。

 

コンドルの頭や首に毛が生えていないのは,動物の死体に頭を突っ込んで餌をとる際に,腐敗浸出液などが羽毛に染み込んで不衛生になるのを避けるためであると,その時に聞いた。羽毛がなければ皮膚に付着した液の乾燥は容易で,さらには高地の強い紫外線で殺菌されるのだという。

 

コンドルは,ボリビア,チリ,コロンビア,エクアドルの国鳥となっている。インカ帝国最後の皇帝トウパック・アマルーが死後,コンドルに生まれ変わったとの伝説も残っている。南米アンデスを象徴する鳥であるのは間違いない。

 

◆ブラジル熱帯雨林を旅した君は言うだろう。

オニオオハシ(Ramphastos tocoToco Toucanだよ。明るい黄色やオレンジ,赤い色で彩られた大きな嘴をもつこの鳥は,アマゾンの宝石とも呼ばれている。ブラジルの国鳥にもなっているのだ」

 

ギアナからブラジル北部及び東部の熱帯樹林帯の樹の上の方に生息するこの鳥は,確かに印象的な姿だ。その嘴の色が豪華である。体長は60cmを超え,そのうち嘴の長さが三分の一もある。この嘴の構造はスポンジ状になっていて,見かけほど重くはなく,体温調節の役割も果たすらしい。

 

果実,卵,ヒナ,昆虫など何でも食べ,好奇心旺盛で声が大きく,「森の道化者」と呼ばれることもある。

「そういえば,原住民のトーテム像に,この鳥が彫られているね。部族の祖先を象徴するものだという」

これも南米を代表する鳥だ。

 

◆或いは君は,オウム科のオキナインコMyiopsitta monachusMonk Parakeet),ダチョウよりも小太りのアメリカ・レアRhea AmericanaGreater Rhea),アンデスの塩湖に群れるアンデスフラミンゴPhoenicoparrus andinus),最近放映されたイグアス滝のテレビ映像からオオムジアマツバメStreptoprocne phelpsi)を上げるかも知れない。

 

だが,私が思い出すのは,子供の頃に絵本でみた「ハチドリ」である。

「遠い国には,蜂のように小さな鳥がいるって,本当なのか?」と,不思議に感じたものだった。何しろ,伊豆の山奥で見慣れている小鳥と言ったら,庭に来るスズメ,椿の花に集まるメジロ,春のウグイスの鳴き声,水田の空を飛び交うツバメくらいのものであった。蜂のような鳥と言われても想像できなかった。

 

ハチドリTrochilidae)は,アメリカ合衆国の南西部からアルゼンチン北部にかけて生息する。全300種以上あるが,長7cm以下のものが多く,最小種は約5cm。確かに,鳥類の中で最も体が小さいグループである。羽の色は金属光沢がある緑色など多彩である。

 

毎秒約55回,最高で約80回の高速ではばたき,空中で静止しホバリングしながら花の蜜を吸う。「ブンブン」 と蜂と同様の羽音を立てるため,ハチドリ(蜂鳥)と名付けられたという。英語ではハミングバード Hummingbird で,こちらも同様にハチの羽音(英語における擬音語が hum)から来ている。

 

最初の出会いは,アルゼンチンのマルコスフアレスだったと思うが,詳細は記憶にない。二度目は,パラグアイのエンカルナシオンにある農業試験場(CRIA)だった。庁舎から試験圃場に通じる道路の脇に並木があり,赤い花が咲くと訪れるハチドリが待ち遠しかった。

 

三度目は,シウダ・デル・エステ市近くのホテル Casa Blanca Hotel Spa & Golfに宿泊したとき,食堂のベランダに砂糖水を入れた小瓶(フィーダー)が吊るしてあり,訪れるハチドリをコーヒー片手に眺めた(写真)。子供の頃の夢が叶ったような至福の時であった。

この日は,ブラジルから来た佐藤ご夫妻,イグアス在住の古明地ご夫妻との暫くぶりの邂逅の時だった。記憶が重なって甦る。

 

後になって,ある種のハチドリは特定の植物と密接な関係があると知った。ハチドリにとっては他の種と食料獲得の競合を避け,植物にとっては自分専用の花粉媒介者がいることで効率受粉を可能にする,いわゆる共進化がみられるという。



 

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異国での講演会

2012-05-03 18:07:59 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

海外に渡った移住者たちは,日夜の開拓に苦労を重ねながらも,子供たちの教育に心を砕いてきた。

パラグアイは既に移住70周年を経過したので,日系の子供たちは地元の子供等と同じ小学校に通ってスペイン語の授業を受けるが,同時に「日本語学校」(日本人会など運営)で日本の文化や日本語を学んでいる。日本人としての心を大事にしようとの気持である。

この日本語学校は,首都アスンシオンやエンカルナシオンのほか,各地の日系コロニアにあり,日本からも教師(シニア海外ボランテイア,青年海外協力隊など)が派遣され教育支援が行われている。

 

大豆育種研究協力でパラグアイのエンカルナシオンに住んでいた頃,「日本語学校」全国連絡協議会(?)の研修会が当地で開催され,同伴の妻が講師として駆り出されたことがある。2007312日のことであった。

 

「何を話した?」 帰ってきた同伴者に尋ねた。

「爺じのこと」

「何だい,それは」

「爺じは,私の先生なの」

いつものことながら,私たちの会話は中途半端に終わってしまう。後日,講演要旨を記念誌に載せるから原稿を出せと言われて,文章にしたのを見せられた(別添)。

 

「まあまあ,良いんじゃないかい」「体験談は説得力があるわい」

率直な感想だった。

 

 

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アメリカ大陸は「移民の歴史」

2012-05-01 18:29:20 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米では移民の歴史を知らずして文化を理解することはできない,とつくづく思った。アメリカ大陸移民史の詳細な研究については専門家に譲るが,ここでは,簡潔に「アメリカ大陸移住年表」(添付)として整理しておく。

紀元前~14世紀 -モンゴロイドの移動,アンデス文明時代

15,000年前,アジアからベーリング海峡を渡ったモンゴロイドは,その後アメリカ大陸全体に拡散し,1万2,000年前には南米パタゴニアに達した。同大陸には多くの先住民族インデイオが生まれ,その末裔はアステカ帝国やインカ帝国を築いた。

 

1516世紀(室町時代)-スペイン・ポルトガルの進出,大航海時代

1492年,コロンブスの「アメリカ大陸発見」(大航海時代の幕開け)とともに,スペインは先住民族・先住文明を滅ぼし,植民地化し,強大なカトリック世界を構築。16世紀には,ポルトガルとともに奴隷貿易を通じてアフリカから大量の黒人奴隷を移入し,世界の覇権を握り,富を独占した。

 

17世紀~19世紀前半(江戸時代-ヨーロッパからの移住,移民の世紀

17世紀初頭の日本では,東南アジア進出があり(江戸初期には約1万人),各地に日本人町が出来た(アユタヤ朝の山田長政は有名)。1635年江戸幕府は海外渡航を禁じ,鎖国した(220年間)。

一方大陸では,1776年北米における英仏の激しい植民地争奪戦の中でイギリスが勝利し,アメリカ合衆国が建国された。1830年代に入ると,ヨーロッパからアメリカ大陸へ爆発的な移住が始まり(合衆国の西部フロンテイア開発,アルゼンチン・チリ・ウルグアイの欧化政策によりヨーロッパ人を積極受入),移民の世紀といわれるようになった(1830年から100年間で6,000万人)。

 

19世紀後半~20世紀前半(明治・大正・昭和-日本人ハワイ北米から南米へ,満州へ

日本人移民の公的記録が残るのは,江戸末期以降のことである。1853年に黒船来港,1854年の開国を受けて,19世紀後半にはハワイのサトウキビ農園労働者やアメリカ合衆国へ「出稼ぎ移民」が海を渡った。これは,1840年代アフリカからの黒人奴隷が人権問題で禁止になった後,下層労働者としてアジア系(中国やインド)の移民を多く受け入れたが,合衆国内に黄禍論が起こったため中国移民が禁止され,それに代わる労働力として登場したのが日本からの移民であった。

 

しかし,19世紀末から20世紀初頭にかけて移住人口が増加すると,出稼ぎ移民禁止・日本人排斥運動が起こり,移住対象地は中南米のメキシコ,ペルー,ブラジルへと移って行く。ゴム農園,コーヒー農園の労働者(いわゆる「出稼ぎ移民」)で,あわよくば一攫千金をと野望を抱いた渡航であった。

 

一方この頃アジアでは,1929年の世界大恐慌を経て,1932年には満州国建設,満州移民が送り込まれた。世は殖産興業,海外雄飛が謳われた時代であり,世界の歴史は第二次世界大戦への道を進むことになる。

 

その後ブラジルでは,アジアからの移住者が増加すると,1934年「移民二分制限法」を制定して移民制限に乗り出した。これを受け日本政府は,ブラジル移住希望者の受け皿としてパラグアイ国と移住協定を終結し,パラグアイへの移住を進めることになる。

 

20世紀後半~21世紀(昭和・平成-新しい時代

第二次世界大戦で途絶えた南米への移民は,戦後再開された。パラグアイでは農業移民政策が採られ,開拓が進んだ。戦後の移住史の中ではドミニカ移住者が集団帰国するなど大きな問題も発生している。しかし,多くは開拓の苦難はあったものの努力が稔り,南米の大地に確固たる基盤を築き上げた。この背景には,1974年海外移住事業団から国際協力事業団に改編し,移住者に向けての新たな支援がなされたことも大きい(1994年移住者送出業務は終了)。

 

その後,東京オリンピック,大阪万国博覧会開催など日本の経済成長が進むと,雇用が少ない南米から日本へ日系二世等の出稼ぎが増大する現象が起こった(この時期ラテンアメリカからも合衆国やヨーロッパへの出稼ぎが増加)。

 

国策移住から,個人意志に基づく移民へと時代は変わった。現在,日本人の移住を受け入れているのは,カナダ,アメリカ合衆国,オーストラリア,ブラジル,アルゼンチン,パラグアイ,ボリビアの7か国である。

参照:パラグアイ日本人移住70年誌(2007)

 

 

 

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