豆の育種のマメな話

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ワシントン記念塔の「伊豆石」,ペリー艦隊が持ち帰る

2012-10-29 15:51:46 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆の山村に住んでいた頃(昭和10年代であるが),農耕に使用する鎌や鉈を磨く砥石は落合の沢から切り出されたものだった。いわゆる,伊豆石の一つである。祖父は,砥石を調達してくると言っては,石切り場へ出かけていた。

伊豆石は今でも建材として人気があり,伊豆青石と呼ばれる凝灰岩(軟質)は浴室などに使われているので,ご覧になることもあるだろう。表面がザラザラして滑らず,色が青緑で水に濡れると青味を増して綺麗な発色を呈する特徴が好まれている。

 

ところで,伊豆石は大きく2種類に大別されるという。一つは安山岩系(硬質)で,真鶴石,小松石,根府川石などと呼ばれ,耐火性に優れ風化しにくい特徴がある。もう一つの凝灰岩系(軟質)は伊豆御影石,伊豆青石などと呼ばれ(白石,青石と分類して呼ばれることもある),軟らかいため加工しやすく比較的軽い特徴がある。したがって,前者は石垣(江戸城や駿府城)などに,後者は建材,塀,蔵,石段,かまど,石仏,墓石などに使われてきた。

 

伊豆半島及びその周辺(相模湾沿岸から伊豆にかけて)は,良質な石の産地として古くから知られていた。中でも「伊豆石」を有名にしたのは,江戸城改修時の築城石として大量に使用されたことだろう。幕府は江戸城普請として諸大名に石材調達を求め,各藩は相模から伊豆一帯に石切り場を設け,船で江戸まで運んだ。幕末に作られた品川御台場にも伊豆石が多く使われているという。

江戸城石垣の大半は伊豆石だというから,皇居を訪れる機会があったら,石垣を眺め「400年の昔,伊豆の山から切り出され,海を越え運ばれてきたのか・・・」と感慨にふけるのも良いだろう。

 

また,伊豆地方には石丁場の跡がいくつか確認されているので,旅の道すがらマニアックに訪ねるのも一興だろう。例えば,真鶴,熱海(初島,網代),伊東(宇佐美,松原),下田(須崎,吉佐美),東伊豆,松崎(雲見)・・・の石丁場跡が知られている。石丁場を訪れたあなたには,次の言葉を添えよう。連想がさらに広がるだろうから。

 

ところで,「ワシントン記念塔に,ペリーが下田から持ち帰った伊豆石がはめ込まれているのを知っていますか?」

 

嘉永7年(1854)ペリー艦隊は,函館,下田,沖縄からワシントン記念塔(Washington Monument,オベリスク様式169m)のためにと贈られた石材を持ち帰った。このうち実際にはめ込まれたのは下田の石(伊豆石)のみで,この石は約90cm四方,記念塔の西面,下から65mの位置にあり「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国下田より出す」と刻まれ,今でも見られるという。

 

一方,函館から持ち帰った花崗岩石材は残念ながら行方が分からない。琉球から贈られた石はスミソニアン博物館に展示されて記念塔にはめ込まれなかったため,百年後の1989年に琉球トラバーチンの石が献呈され,記念塔にはめ込まれたとの情報がある(在NY日本国総領事館HP)。

 

石の建造物は世界中にある。インカの城壁,ピラミッド,モアイなど歴史遺産になっているものも多い。日本では城の石垣が技術の頂点だろうか。一方,庶民の世界でも,石材は耐火性を必要とする建造物など(蔵,竈,風呂場)に使われてきた。

しかし昨今,石造りの建造物は鉄筋コンクリートに替わり,どんどん少なくなっている。伊豆石建造物も例外でなく,今や保存運動の対象になっている。下田駅に降り立ち街中を散策すれば,古風豊かな「なまこ壁」「伊豆石」の建物が比較的直ぐに目に飛び込んでくるが,例えば「旧南豆製氷所」などがそうだ。

 

札幌でも「札幌軟石」という石材が知られている。凝灰岩で,明治初期から昭和の初めにかけて札幌や小樽を中心に使用され,例えば,小樽運河倉庫群,北大農学部のサイロ,小林酒造の酒蔵などが残っている。

札幌のある会合で,臨席のN先輩が

「札幌軟石を知っているか? 退職後の愉しみに,市内軟石建造物の保存地図を作ることにした」という。

「もちろん知っていますよ。市内に石山と言う地名がありますね。実は,下田にも軟石があるのです・・・」と応えたことは言うまでもない。 

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伊豆下田,坂戸「子之神社」でパワーは得られるか?

2012-10-26 17:07:36 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

坂戸子之神社の棟札

坂戸子之神社には大永2年(1522)の棟札があり,集落の発展の姿をうかがわせる」と言う文章を,図説下田市史増補版(下田市教育委員会)にみつけた。伊豆下田の稲梓地区の神社には,室町・戦国時代の棟札が多数残されており,坂戸子之神社もその一つという1)

現在は過疎化が進み子供の数も減少しているが,当時の稲梓郷稲梓里(稲生沢川に稲梓川が合流する流域地帯:椎原,箕作,宇土金,横川など)は南伊豆の中でも発展した地域であった。

 

ところで,「坂戸子之神社」の場所をご存知だろうか? 氏子17戸以外に知る人もないだろうが,この神社は稲梓里のはずれ,坂戸の山深く森に隠れて鎮座している。

 

小学校を終わる頃まで,この神社の近くに住んでいたため,誕生後や七五三では母に抱かれ祖父母に手を引かれてお参りしていた。秋の祭典や正月には村人が家内安全,豊穣を祈念し,弓を射て,お神酒を拝した神社である。もちろん子供らの遊び場の一つであって,橇遊びで「危ない事をするな」と叱られ,ムササビの飛翔を初めて見つけた森でもあった。

 

神社の建て替えもこの頃行われた。氏子の集会で「棟梁を誰に依頼するか,寺大工を探すか」の話があり,「地元の大工○○にお願いしよう」と決まった経緯を,父の傍で聞いていた記憶が蘇える。

 

神社は時代と共に様変わりしている。「豊穣と家内安全」を祈念した時代から,「武運長久」を願った時代へ,さらに氏子数の減少から社管理が困難な時代,パワースポットと一部神社のみが注目される時代へと,民の信仰心は変貌して行った。

 

写真は昭和10年代と平成6年頃のものである。昭和62年に一氏子が寄進たという鳥居が建っている。ガ島から生還できたこと,従軍した兄弟全員が無事であった感謝の気持ちで,朽ちた木造の鳥居を建て替えたと聞いた(この神社にパワーがあったのかも知れない)。

 

話は変わるが,雑誌「北農」(財団法人北農会,641号,1997)に「農業の時代」と題する巻頭言が掲載されている。巻頭言は,この神社の背景をイントロにしてわが国の農業に想いを馳せた内容である(タイトル:農業の時代)。さて,巻頭言から15年,この神社を祀る集落は新たな展開をみせただろうか。否,そうとも思えない・・・。時がゆっくり流れ,自然が残ったという風情である。

 

ならば,山里の自然を愛する人々に,古い神社再発見の旅を提供しようではないか。静岡県神社庁によると,下田市内に50の神社,稲梓地区に限っても13社(うち須原には5社:神明神社,水神社,子神社,山神社)が祀られている。神社にはそれぞれ,村人が信仰した長い歴史が刻まれている。旅人よ,歴史に思いを馳せるもよし,杜の緑に深呼吸するもよし。参拝したあなたはパワーを得ることが出来るだろう。

 

参照 1)下田市教育委員会「図説下田市史増補版」20042)財団法人北農会「北農641号」1997

 

 

 

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下田富士

2012-10-25 16:41:50 | 伊豆だより<里山を歩く>

通称「○○富士」と呼ばれる山(郷土富士)が全国に321座あるという(Wikipedia2012)。例えば北海道では,蝦夷富士(羊蹄山),阿寒富士,知床富士(羅臼岳),利尻富士(利尻山)など17を数える。いずれも,地域の最高峰で形が富士山似ているために呼ばれている。一方,富士山を抱える静岡県と山梨県には,駿河の富士に遠慮するように,それぞれ一座(下田富士と黒富士)しかない。

伊豆急行で下田駅に近づく頃,「右に下田富士,左に寝姿山が見えます・・・」と放送がある。右の窓から街の屋根越しに,小さな尖った山が近くにみえる。この下田富士(本郷富士)は,一つの岩から形成される一岩山で標高187m,浅間神社が祀られ,周囲はウバメガシで覆われている。○○富士と呼ばれる山の中で,一番低い富士だという。駅を出て右手の信号を渡ると頂上に向かう伊豆石の石段が見える。頂上まで20分もあれば登れるだろう。ペリー艦隊の乗組員もこの頂上に立っている。

 

その昔,小中学生の頃,下田へ出るのに坂戸口からバスに乗った。稲生沢川に沿って下ることになるが,車掌さんは「深根城」「米山薬師」「お吉が淵」「餅を食べないお正月」「下田富士」の歴史や民話の一節を語るのであった。60年も前に聞いた話が蘇る。その中から,ここでは「下田富士の話」を紹介しよう。

 

 

民話「姉妹富士」

「・・・ずっと遠い昔,この下田富士と駿河の富士と八丈富士は三人姉妹でした。下田富士が一番の姉で駿河の富士が中,八丈島の富士が末の妹だったが,駿河の富士は桜の花の咲き盛るように美しく誰にも褒め称えられているのに比べ,下田富士はごつごつの岩山で誰も見向いてくれない。妹の駿河の富士の器量よしの評判を聞くにつけ,下田富士は妹を妬み羨んで日々を送ったが,遂に思いつめて「もう妹の駿河富士の姿は決して見まい」と決心し,屏風として天城山を立てた。

朝夕,遥か彼方の海上に妹の八丈富士,山の彼方に下田富士の顔を眺めていた,気立ての優しい駿河の富士は,姉の下田富士の姿が見えなくなってしまったので,「下田富士の姉さんはどうしていらっしゃるかしら,どうかお心持がなおりますように」と案じながら,朝な夕に姉のことを心配して,少しでも見たいと背伸びし続けたので,あんなに(3,776m)背が高くなってしまった。下田富士に登って駿河の富士の事を話すと,一岩山の石が泣くという。

 

こうした二人の姉さんたちの様子をみるにつけ八丈の末娘の富士は「どうか姉さんたちが仲良くなりますように」と胸を傷めつつ祈り続けているという・・・」

 

参照下田市教育委員会「下田市の民話と伝説第1集,昭和50年」

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須原小学校(下田市),「長松舎」から始まる99年の歴史

2012-10-16 18:04:16 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

母校の「須原小学校」が,児童数減少を理由に稲梓小学校に統合されたのは昭和46年(1971),今から40年前のことである。帰郷するたびに,「あそこに小学校があった」と子供時代を思い出すのだが,校庭の桜や建物など昔の面影はなく,今は宿泊施設「あずさ山の家」が臨めるのみである。

遠く離れて暮らしていたので,廃校当時の議論を知る由もない。

「統合の記念誌,記念碑はないのか?」と尋ねたが,当時の同級生は「知らない」と言う。

それではと資料を探したら,下田市立稲梓小学校「教育百年記念誌いなずさ」(出版年月日,発行者が記されていない)が手に入った。

 

貧しい山村の初等教育はどうだったのか? 99年の時代を経て廃校に至る流れは,時代の背景(歴史)を抜きにして語れない。そんな思いで,別添「須原小学校沿革年表」を作成した。不確かな部分もあるので,情報を得て完全を期したい。

 

さて,須原小学校の開基は,明治6年(1873)学制領府を受けて,賀茂郡北湯ケ野村第131番小学「稲生舎」分校「長松舎」(三玄寺と楞沢寺)である。世に寺院が教育の場所となった事例は多い。この山村でも以前から,僧侶らが読み書きを教える「寺小屋」を開いていたのではないかと推察される。

三玄寺は当家の菩提寺でもあるので,もう少し調べてみなければならない。

 

この時代の集落の様子はどうだったのだろう

幕末の安政4年(1857),ハリスが日米修好通商条約締結を目指して江戸出府した折の記録(ヒュースケン日本日記)に,描写がある。稲生沢川の上流の辺り(実際は稲梓川,北の沢から八木山,小鍋峠に至る)は,「土地は痩せ貧困,陰鬱かつ単調な景色であったと」とある。稲生沢川の下流域(本郷や椎原など)が「稲穂稔れる肥沃な土地」と記されたのと対極にある。山間の小さな稲田と炭焼きを生業とするような貧しい集落であったと想像される。

 

残念ながら,明治33年(1900)までの就学数の資料は手元にないが,明治30年代の就学数をみても,その数は必ずしも多くない。明治19年(1886)に教育令・学校令が発せられ4年間の義務教育となったが,この数字から類推すると学校にも通えぬ子供らがいたことは想像に難くない。

 

しかし一方,貧しい山村においてもこの時期から,村の篤志らによる教育が進められていたことも注目する必要があろう。貧困から抜け出すには教育が大事である,村人たちに浸透し,次第に学校は村の中心として位置づけられる。集会や行事が学校を中心に行われ,学校への奉仕作業も進んで行い,村人相互の繋がりが強固なものになって行った。小さな村落の良き時代であった。

 

そして戦後,伊豆急行が開通し,東京オリンピックが開催された頃から,この村落から若者が消え,児童数も減少し廃校に至った。

 

そして今,考えよう。この地は自然と歴史豊かな里であるからこそ,限界集落と言われる前に元気を取り戻したい。ならば,何をするか・・・。須原小学校の卒業生(明治34年以降)1,751名が

 

 

 

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ハリス江戸出府の道程,「ヒュースケン日本日記」から

2012-10-09 09:35:37 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田の玉泉寺(柿崎)にアメリカ総領事館をおいたハリスは,日米修好通商条約を締結するため三度江戸に出ているが,陸路を辿ったのは初回(安政4107日~安政5122日)の往路のみである。帰路は病気のため幕府の軍艦観光丸で下田に戻っている。二回目(安政535日~58日)は幕府の軍艦観光丸を往復とも利用,三回目(安政5617日~624日)はポーハタン号(米国海軍の外輪フリーゲート艦,後に艦上で日米修好通商条約調印)を利用している。

艦なら12時間程度の航海であるが,陸路では1週間の道程。途中には,何しろ天城越えと箱根越えの難所が控えている。どんな道中だったのだろう? ヒュースケンの日記1)から,道程を辿ってみた。

 

そのコースは,玉泉寺(柿崎)~下田奉行所中村邸(下田市東中)~稲生沢川に沿って下田街道を上り~日枝神社で休憩~小鍋峠越え~慈眼院(河津町梨本)泊~天城峠越え~茶屋で休憩~弘道寺(湯ヶ島)泊~三島泊~箱根峠越え~茶屋で休憩~小田原泊~藤沢泊~万年屋(川崎)泊~皇城(江戸)である。詳細は添付「ハリス江戸出府の道程」に示した。

 

例えば,1日目の道程

1.玉泉寺を出たハリスらは,中村の下田奉行所(中村邸と呼ばれていた。御役所,白洲,官舎,稽古所などがあり9,792坪の広さがあったと言う)で隊列を整え(約350名),江戸に向け出立(この奉行所は現在の下田市東中14番地,下田警察署前に奉行所跡の碑がある)。

 

2.一行は,稲生沢川に沿って下田街道を北上する。街道の両側には小さな棚田が広がっていたことだろう,ヒュースケンは豊かな稲穂の稔に感嘆している。箕作の集落を過ぎるころ,ハリス一行が休憩した「日枝神社」がある。実は,この地域内のごく近い所(箕作,椎原,宇土金)に同名の「日枝神社」が祀られている。

 

3.更に,谷を分け入るように一行は進み,北の沢から小鍋峠を越える。河津町梨本の慈眼寺に到着するのが午後2時半。10km弱の道程である。日枝神社を過ぎてから梨本に至る地方は,稲生沢川の沿線に見られた豊沃な谷ではなく,土地は痩せ貧困,陰鬱かつ単調な景色であったと記されている。

 

ハリス江戸出府から100年後の頃,中学生であった私はこの辺を歩いていた。「日枝神社」と「北の沢」の間の国道を通学のため毎日往復し,下田で連合体育大会などの催しがあると「箕作」から「下田」まで全員が隊を組んで歩かされた。米山薬師,落合,松尾,お吉が淵,河内,蓮台寺口,高馬の反射炉跡,本郷・・・集落の佇まいが思い出される。稲穂が稔る穏やかな風景は当時も健全であった。

 

小鍋峠は,小学生時代の「河津七滝」までの遠足を思い起こさせた。当時の子供等にとって山歩きは苦にならなかったのだろう。その後,新道をバスが運行したため小鍋峠の古道は山に埋もれていたが,整備の動きもあると聞く。古道散策の愛好者も増えている。

 

既に半世紀以上が過ぎた平成24年,駕籠で行くハリスの隊列を想いながら私はこの道を辿った。歴史や文学に想いを馳せながら,あなたも下田街道を歩いてみませんか?

 

以下,詳細は原著に譲ることにするが,①田園風景(豊かな稲穂の稔り,天城のわさび等),②自然の美しさ称賛(富士山等),③日本文化への憧憬,西欧との比較考証(内戦でも田畑が荒廃しなかった,身分格差はあるが質素な着衣や住まい,社会秩序・・・),④幕府との交渉(条約締結に向けた幕府役人の強かさと戸惑い・・・)など,ヒュースケンの日記には興味深い内容が記されている。

 

日米交渉の立役者であったハリスについては,伝記や「ハリスの全日記」など多くの研究があるが,ヘンリー・ヒュースケン(Henry Heusken)の記録は少ない。オランダ生まれ,ハリスの通訳として応募し,優秀な秘書官として活躍したが,万延元年125日(1861115日)芝赤羽古川ばたで斬殺された。その日は,29歳の誕生日目前であったという。

 

当時,日本人に対して最も好意的であったと思われるヒュースケンが,攘夷の犠牲になったとは何と皮肉なことか。「ヒュースケン日本日記」は異国を訪れた若者の感性を感じることが出来て面白い。

 

参照:青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」岩波文庫,ほか

 

Img_3964web 

 

  ハリス江戸出府の道程(安政4107日~安政5121日)1)  
  年月日 道 程 記    事  
  安政4
(1857)
107
(1123)
玉泉寺(柿崎)
~慈眼院(梨本)
菊名仙之丞(下田奉行支配調役並)出立準備万端整う旨告げる,午前8時江戸に向け玉泉寺(柿崎)出発  
  中村の奉行邸(第三期奉行所,現在の下田市東中14,下田警察署前に下田奉行所跡の碑がある)で若菜三男三郎(下田副奉行支配組頭)の挨拶を受け出立(隊列は約350人),隊列の先頭は菊名仙之丞,殿に若菜三男三郎  
  稲生沢川に沿って進む,豊かな稲穂の稔りに感嘆する  
  日枝神社(現在国道に面しているのは箕作の日枝神社であるが,ごく近くの椎原,宇土金等にも日枝神社がある,何れか)で休憩(半時間,お茶と煙草)  
  約三千フイートの山(小鍋峠,北の沢から八木山を経て小鍋に抜ける)を越える,これまでの豊沃な谷間と異なり痩地にみえる,陰鬱かつ単調な風景,65フイートほどの見事な滝に慰められる  
  午後2時半梨本に着く(6マイルの行程),慈眼院(河津町梨本)に泊まる,菊名は「この地方貧困で人煙隔絶しているため良い旅館がない」と恐縮する  
  108
(1124)
慈眼院(梨本)
~弘道寺(湯ヶ島)
午前8時慈眼院を出発,天城越え,高さ約五千フイート,ほとんど垂直の崖に狭く鋭角的な路がついている,杉の木立が深くなった両側に「西洋わさび」「野生かぶら」が一面に生えている  
  山頂の茶屋で30分の休憩  
  山を下り1時間後茶屋にて昼食  
  田畑が開け,渓谷の向こうにみえる富士山の姿に感嘆する  
  湯ヶ島の天城山弘道寺(伊豆市湯ヶ島)に泊まる,6里の道程  
  109
(1125)
弘道寺(湯ヶ島)
~三島宿
朝,湯ヶ島出発,平坦な路になり馬を駈ける  
  修善寺(福地山修禅寺)で休む  
  三島宿に泊まる,三島神社を見に行く,ハリス神殿建築の寄付に応ずる(地震で倒壊)と神官が礼を述べに来る。キリスト教神父やアジア諸国僧侶の態度と比較して感想を述べている  
  1010
(1126)
三島宿
~小田原宿
朝,三島を出発,箱根の山を上る。この国は,内乱で国土が荒廃することなく,肥沃な田畑が軍馬に蹂躙されることなく,農家が放火されることもなかった,持ち前の礼儀正しさが残っていると印象を語る  
  四里ほど登って山頂に達し,半里下って箱根村に着く  
  村のはずれの関所を通る  
  9時ごろ小田原に着く  
  小田原泊  
  1011
(1127)
小田原宿
~藤沢宿
8時半,小田原を出発,道は手入れされて平坦,両側は水田が広がる  
  8里の旅をして藤沢に着く  
  藤沢泊  
  1012
(1128)
藤沢宿
~万年屋(川崎)
朝,藤沢山浄光寺を訪れ,その後出発  
  神奈川の茶店で休憩  
  夕方,川崎に着く,本陣での宿泊を望まず万年屋に泊まる  
  1013
(1129)
川崎滞在 安息日のため川崎に滞在  
  午後,川崎大師平間寺を訪ねる  
  1014
(1130)
万年屋(川崎)
~皇城(江戸)
早朝出発,関所を出ると小舟に乗って六郷川を渡る  
  梅園(北蒲田村梅林久三郎)で休憩,梅の塩漬などで接待される  
  品川の近くで刑場を通り過ぎる  
  品川で威儀を整え,駕籠で進む,品川から宿舎まで7マイルの道2)の両側は人垣で埋まっていた,群衆の秩序,寛大な友情,礼節をもった歓迎に感服する  
  宿舎は皇城の第三郭の中にあり,午後4時到着  
  1015日~
翌年
120
江戸 この間,大使歓迎会,将軍家定に謁見(1021日登城),宰相堀田備中守らとの会談,条約締結交渉を続ける  
  安政5
(1858)
121
(36)
江戸~下田 ハリス病気のため,午後2時観光丸(オランダで建造,わが国最初の洋式軍艦)で下田へ出発,翌朝2時下田に着く  
  1) 参照:青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」岩波文庫ほか,作表:土屋武彦2012.10
2)
品川から高輪通り,芝車町,同所田町,本芝町通り,金杉橋を渡り,芝浜松町,芝口通り,芝口橋を渡り,尾張町通り,京橋を渡り,南伝馬町通り,日本橋,室町,本町三丁目を左折,同町二丁目,お堀端通り,鎌倉河岸,三河町,小川町通り,牛ヶ淵の蕃書調所のコースと言う(同書注釈)
 
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