豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

パラグアイの森林事情と木材加工品

2012-02-28 18:38:43 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米の樹-1

パラグアイを離れるとき,一人のアミーゴから記念にと「レリーフ」を頂戴した(写真)。パラグアイの形を象った木製のレリーフで,ガラニー語とスペイン語で家族のメッセージが添えられている。中央のパラグアイ地図は,異なる種類の木材を各県の形を象ったブロックに切り取り,それらを組み合わせてある。

パラグアイ共和国は,南米大陸のほぼ中央に位置し,ブラジル・アルゼンチン・ボリビアに囲まれた内陸国である。パラグアイ河が国土の中央を北から南に貫流し,その東部(国土の4割を占める,降水量1,600-1,800mm)は肥沃な農耕地で99%の人口が集中している。この地域は今でこそ,大豆,小麦,牛肉など輸出産品の生産地となり国家経済を支えているが,昔は広大な原生林(乾燥熱帯林)が広がっていた。因みに西部地域は塩分の多い湿地とサバンナで,降水量1,100mm,森林植生としては乾性熱帯低木林地帯である。

1950年以前は,パラグアイ国土の70%が天然林で占められ,木材輸出が外貨を稼いでいた時代であった。1950年以降,森林が切り開かれ農牧地への転換が進み,さらに1960年代には大型農業機械の導入が無秩序な森林伐採を促し,森林は20%まで減少した。その後政府は伐採規制を強めたが(1967年「丸太輸出禁止令」,1973年「森林法」制定,1992年「天然林の商業的伐採規則例」),効果は顕著でなく,1990年代には10%にまで減少した。当国の森林率推移を示す言葉として,「過去70%,今10%・・・」としばしば表現される(参照:植松龍太郎,パラグアイで生かされた日本の林業普及)。

JICA19952001年「林業普及指導事業」を展開し,さらに21世紀に入っては日本のNPO団体なども植林活動に協力している。また,パラグアイ政府は,河川両岸の一定幅の伐採を禁じ,所有地の一定率面積に植林を義務づけるなどの法律を定め,森林保護に努めている。栄華を誇った文明が消え去った過去の歴史のように,「森が枯れて,農業が廃れ,やがて人類が滅亡した」とならないことを願うばかりだ

FAOSTAT によれば,2010年パラグアイの林業生産量は4,800 million m3と推定され(他の数字もある),その内訳は丸太材70%,製材8%,パネル材6%,再生紙を含むパルプ材8%,紙8%となっている。丸太材の中身は燃料用(薪炭)が38%で,この比率が最も高い。パラグアイに滞在していた頃,トラックに山積みされた木炭が,北部のカニンデジュ県から国境を越えてブラジルに渡るのをよくみかけた。アサード(焼肉)には木炭を使うが,その需要だけでも馬鹿にならない。

レリーフには,トレボル,ラパチョ,インシエンソ,セドロ,ケブラッチョ,パロサント・・・の名前が読み取れる。それぞれ,パラグアイ,アルゼンチン北部,ブラジル・パンタナールなどの地域に植生がみられる固有樹木で形成されている。パラグアイには小さな製材所が各地にあり,これらの稀少材を日本が輸入している事例も見られる。

中には乱伐が進み貴重樹種となっている樹木もあるが,材質,色,香りに特長ある材が多い。これら材の特性を生かした家具,民芸品の人気が高まっている(写真)。

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パラグアイ技術協力を推進したエキスパート群像

2012-02-26 10:02:41 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

1979年(昭和54)から2002年(平成14)にかけて,パラグアイの農林業開発に対する技術協力が行われた。プロジェクトは三期に分かれ,第一期の「南部パラグアイ農林業開発」プロジェクト,第二期の「主要穀物生産強化」プロジェクトを経て,最後は「大豆生産技術研究強化」プロジェクトで終結した。

さらにその後,大豆さび病やダイズシストセンチュウが発生し被害が拡大したことから,2006年(平成18)から2008年(平成20)には「ダイズシストセンチュウ及び大豆さび病抵抗性品種の育成」フェニックス・プロジェクトを実施した。

付表:プロジェクトの活動概要,Resumen de las actividades del proyecto

   

 

成果の数々は多くの場面で報告されているので,ここではパラグアイ国地域農業研究センター(CRIA)で実施されたプロジェクトに関わった,長期・短期専門家,プロジェクトの計画から評価まで幾度か派遣された調査団,日本で研修を積みパラグアイで中核技術者となったカウンター・パートたちの名前を,歴史を刻んだ群像として記録しておこう。「技術協力は人によって行われ,技術は人に受け継がれる」,昔も今も変わらぬ真理であると信ずるから・・・。

また,派遣専門家は,環境が異なる南米での生活に多くの苦難を味わったと推測されるが,時がたてば苦労も歴史の一頁と感じることができるだろう。なお,ここでは,プロジェクトを支えた日本国外務省,国際協力事業団,農林水産省,パラグアイ国政府,農牧省,日本人会など関係機関の方々の名前は割愛した。これらの方々の支援が技術協力を支えたことは言うまでもない。感謝申し上げる。

付表:パラグアイ国に対する技術協力年表,Tabla cronológica de cooperación técnica para el CRIA del Paraguay

 

 

 

 

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南米に対する技術協力はニクソンの大豆禁輸措置から始まった

2012-02-25 14:32:52 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

日本が南米への大豆技術協力プロジェクトを開始したのは1973年(昭和48)の「大豆ショック」(今から40年ほど前になるが,ニクソン大統領が「大豆輸出禁止」を宣言して,世界中を大豆ショックが襲った)がきっかけである。

 

1977年(昭和52)アルゼンチンに対する「大豆育種技術協力」が開始され,1979年(昭和54)にはブラジルに対する「セラード開発事業」とパラグアイに対する「農業開発技術協力」が開始された。それぞれの事業は長期間にわたって推進され,多大な成果を残して終結した。終結年次は,それぞれ1984年(昭和59),2001年(平成13),2002年(平成14)である


付表:南米に対する技術協力,Inicio de la cooperación técnica de soja en Sudamérica

 

 

 

日本の投資は,対象国の経済発展及び技術力向上に寄与した。一例として,大豆生産量の増大を指標にとってみよう。

 

FAOの統計データによれば,1973年(昭和48)世界の大豆総生産量は5,900万トンで,USAと中国で85%を占めていた。この時ブラジル500万トン,アルゼンチン27万トン,パラグアイ12万トンに過ぎず,三国あわせてもUSA10%に至らなかった。しかし,2010年(平成22)には世界の大豆総生産量が26,100万トン(4.4倍)の中で,ブラジル6,800万トン(14倍),アルゼンチン5,200万トン(194倍),パラグアイ750万トン(62倍)に達した。これら三国で世界の49%を占め,ウルグアイとボリビアを加えれば世界の過半に達する。

(付表:世界大豆生産量の推移,Producción de soja

 

 

 

 

食糧事情が逼迫する状況の中で,食糧基地として南米の立場は強くなっている。南米諸国が日本を友好国として接してくれるのは,日系移住者の努力もさることながら,長年の経済協力(技術協力)によって培われた人間関係が大きいと思われる。

 

日本の投資による南米諸国の経済向上は,結果として,日本車や電気製品など工業製品の輸出増加にもつながり,外交政策面でも日本に友好的な対応を示し,わが国にとって利するところ大である。20113月の東北大震災に寄せられた支援も一つの証左でなかろうか。

 

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パンパ平原を札幌生まれのガウチョが駈ける,「宇野悟郎氏」

2012-02-16 14:12:54 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

アルゼンチンのひと-2

手元に緑のカバーが付いた小冊子がある宇野悟郎著「アルゼンチン移民私史,パンパ平原をガウチョが行く」(イースト・ウエスト・パブリケーションズ,1980)である。伊藤清蔵博士の紹介記事をまとめながら,思い出してこの冊子を読み返した。

 

著者,宇野悟郎氏は伊藤清蔵博士のアルゼンチン「富士牧場」で牧童生活をおくり,後に「トレボール牧場」で博士の共同経営者を務めた北海道人である。札幌生まれの宇野悟郎氏は,アルゼンチンのパンパ平原を駆け回ったただ一人の日本人ガウチョであった。彼は,何故アルゼンチンに渡ったのか? 伊藤博士の牧場で働くことになった経緯は? 実際のガウチョ生活は? 彼の歩みを辿ってみたくなるではないか,サムライ・ガウチョの人生を。

 

宇野悟郎氏は,1905年(明治38)札幌市豊平生まれ,徳島中学を卒業(祖先は徳島出身),1年間の志願兵を経て1927年(昭和2),長姉ふみ子の夫である阿部忠一氏(北海道帝国大学農学士)の尽力で伊藤清蔵博士に対する佐藤昌介総長の紹介状を胸に,マニラ丸でアルゼンチンへ渡航。伊藤清蔵博士の「富士牧場」でガウチョ生活4年,その後1933-1941年(昭和8-16)は「トレボール牧場」共同経営,第二次世界大戦の終盤から戦後にかけて1943-1962年(昭和18-29)ブエノス・アイレスで鞣皮工場経営,その後帰国して「カンテイーナ」経営など活躍。

 

宇野悟郎著「アルゼンチン移民私史,パンパ平原をガウチョが行く」には,パンパの自然,ガウチョの生活,孤独と郷愁に耐えた実体験が語られている。また,隅々から伊藤清蔵博士に対する敬慕の気持ちが次第に募って行く様が伝わってくる。アルゼンチンで,実際にガウチョとなった体験を語れるのは,彼をおいてないだろうと思わせる話しが続く。

 

さて,アルゼンチンへの最初の移住者は1886年(明治19)の牧野金蔵とされる。伊藤清蔵博士も1910年(明治43)であるから早い方である。コーヒー園の夢を抱いてブラジルへ移住した移民第一陣が契約上のトラブルで集団脱走し,169人がアルゼンチンへ再移住する騒ぎがあったが,これも初期の時代。アルゼンチンへの移住は,いわゆる「呼び寄せ」移住が主体であった。

 

アルゼンチンは,既にヨーロッパからの移住者が肥沃な土地を占有しており,新たに入ることになった日系移住者等は,ブラジルに隣接するアルゼンチン北限の地ミシオネス州で農業に従事する者,ブエノス・アイレス近郊(Escobar)で花きや野菜栽培を行う者,都会での洗濯業等々,夢は大きかったが苦労も多かったと考えられる。そのような中,先駆者たちの尽力によって邦人の基盤は徐々に築かれて行く。

 

私がアルゼンチンに暮らしたのは30年以上も昔になるが(1978-1980年),既にエスコバール市は日系人によるカーネーション栽培など名をあげ「花の都」と呼ばれていたし,日系人の勤勉さと正直さは彼の国の誰もが尊敬の念をもって認めるところであった。参画したプロジェクトは「大豆の育種研究」,アルゼンチンに対する最初の技術協力であったため,大使館やJICA事務所,在アルゼンチン日本人会の皆さんに多くのご支援を賜った。

 

当時の在アルゼンチン日本人会会長は宇野文平氏(北大医学部卒)で,ブエノス・アイレスに出たときなどお世話になった。帰国後にもお会いする機会が一度だけあったが,何と彼は,宇野悟郎氏の甥だという(後で知った)。ご兄弟の中で遠くアルゼンチンまで出かけたのは悟郎氏一人だけだが,甥の文平氏は医学者としてアルゼンチンに渡り,結婚してブエノス・アイレスに移住し活躍されていた。さらに,北海道人はご存知の方が多いと思うが,悟郎氏の兄秀次郎氏は北海道議会議員から衆議院議員,眞平氏は長らく北海道議会議員。宇野一族の中には,新しいことにチャレンジしようとする逞しいパイオニア精神が脈打っていたのだろう。

 

冊子には,若き日の宇野悟郎氏の写真が掲載されている。貴公子然としていて,とてもガウチョとは思えない。船旅の中で映画俳優に間違えられたとのエピソードがあるが,然もありなん。

 

Boys, Be ambitious! パンパ平原に,彼の声がこだまする。そして,どこからともなく聞こえてくる「・・・雁はるばる沈みてゆけば,羊群声なく牧舎に帰り・・・」と。

 

 

 

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アルゼンチンの大牧場主「伊藤清蔵博士」,札幌農学校から世界へ

2012-02-15 18:44:51 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

アルゼンチンのひと-1

明治の末にアルゼンチンへ渡り,南部パンパの地(ブエノス・アイレス州ボリーバル市)で牧場主となり,アルゼンチンの人々からドン・セイソウと慕われた男がいたSeizoの「zo」はスペイン語で「ソ」と発音する)。伊藤清蔵博士である。

 

博士は,1875年(明治8)山形県河北町生まれ,旧制山形中学から1892年(明治)札幌農学校予科に転入,1900年(明治33札幌農学校を卒業後,恩師佐藤昌介教授(のち初代北海道大学長)のもとで助教授,新渡戸稲造教授の勧めでドイツ・ボン大学へ留学,帰国後は盛岡高等農林学校(現,岩手大学)教授として農業経営学を講じた。

 

札幌同窓会員名簿によると,博士は明治337月農業経済学科を卒業しており第6期生である。学生時代,米独留学から帰国したばかりの新渡戸稲造教授から大きな影響を受けたとされる。博士がその後ずっと持ち続ける「学問は実行なり」とする考えは,この頃培われ,ドイツ留学を経て信念となったものであろう。

 

1910年(明治43)アルゼンチンに移住,35才であった。博士をアルゼンチンに呼び寄せたのは「一人の男と一人の女と一冊の本」である,と著書(南米に農牧30年)の中で述べている。一人の男とは,アルゼンチンの牧場主で富豪のカルロス・デイアス・ベレス氏(オルガが娘の家庭教師をしていた),一人の女とはドイツ人の婚約者オルガ・デイシュ,一冊の本とは農学者カール・カエゲールの「スペイン植民地とアメリカの農業」であった。

 

入植したのは,首都ブエノス・アイレスから南西方向直線にして約300kmサン・カルロス・デ・ボリーバル市の郊外であった。資金が十分でなかった博士は,夫人の預金と夫人の伯母からの借金を元手に,他の牧場の牛を預かる方法で牧場を始めた。15年後の1925年(大正14)には「富士牧場」所有地4,000ha,借地4,000ha,家畜12千頭に達していたという。博士は同国農業や牧畜への技術指導にも熱心であった。博士の考えは,1938年(昭和13)ブエノス・アイレス大学農学部での講演によく表現されている。

 

①投機的な冒険で農場・牧場経営は行わない。

②土地の酷使は避けなければならない。

③経営はできるかぎり,農業と牧畜の混合経営で行うこと。

④天災は避けられない。適切な措置をとれば被害の軽減は可能。

⑤農牧業生産者は農牧場に居住すべきである。(Manuel Urdangarin,ウルグアイ・フィールド科学センター,2002による)。

 

すなわち,「牧場主たる者は自ら汗を流して働き,如何にしたら利益が上がるか計量しながら経営する堅実性,併せて時代の動きに対し大胆な選択をも試みる冒険性が重要」と説く。

 

働かせてくれと訪れる日本の若者達は多かったが,博士は首都近郊の花栽培や野菜作りを勧めたという。牧場での生活の苦労,広大な自然の中でのガウチョ(牧童)生活は日本の若者には無理であると考えたようである。その中で,ただ1人の例外となった人物が札幌生まれの宇野悟郎青年であった。彼は博士の牧場でガウチョ生活4年間を体験し,後に共同経営者となった(彼の活躍については別項で紹介する)。

 

博士は,日本が太平洋戦争に突入しようとする194111月(昭和16),狭心症で急逝。牧場のオンブ-の大木が同じ年に倒れたと,語り継がれている。その後,オルガ婦人は30年続いた牧場を処分し全財産を修道院に寄付,孤児院を開設した。この孤児院はボリーバル市で現在も「イトー女子孤児院」として活動している。

 

夫妻の墓はボリーバル市にあり,当時住宅であった建物も残されている。在ア山形県人会は博士夫妻の顕彰碑を建て,ボリーバル市民と共にその偉業を称えた。

 

博士は「アルゼンチン移民の先駆者」「草の根技術協力のパイオニア」と評されるが,パンパの土と帰した博士は「日本とアルゼンチンの架け橋」として生涯を捧げたといえるだろう。「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカ留学した新渡戸稲造の心は,伊藤清蔵にとってもこの地で結実した。

 

ところで,「学問は実学なり」の思想は,今も北の学徒に受け継がれているだろうか? 札幌の北大構内を歩きながら考える。

 

アルゼンチンの穀倉地帯といえば,ブエノス・アイレス州北部,サンタフェ州,コルドバ州など湿潤パンパを指す。湿潤パンパ地帯は,現在世界の穀倉として大豆,とうもろこし,小麦の産地であるが,一方パンパ南部は雨が少なく広大な牧野が広がる地帯である。

 

19781980年にかけて私がアルゼンチンで暮らしたのは,湿潤パンパの中央部に位置するコルドバ州マルコス・フアレス市であった。首都から北に450kmの場所にあったため,ブエノス・アイレス州南部を訪れることは滅多になかった。ただ一度だけ,1979年(昭和54)であったろうか,バルカルセ北方にあるINTAボルデナーベ農業試験場(ボリーバル市はこの市とブエノス・アイレスの中間)を現地調査のため訪問した記憶がある。この農業試験場の周りには牧場が広がり,エスタンシア(大農場)の住宅であった建物を庁舎に使っていた。玄関につながる並木が大きく日陰をつくり,その景色は印象的であった。町は乾燥して砂埃が舞っていたが,試験場は砂漠のオアシスのようにみえた。

 

何年かたった頃(2003年?),齋藤正隆氏からオイスカ・ウルグアイ総局出版の冊子を頂いた。大先輩の伊藤清蔵博士がアルゼンチンで訪れたことのある地で牧場を経営していたこと,この地に眠っていることを知った。当時,博士のことを知っていたなら,ボリーバル市の牧場跡を訪れる機会もあったのにと思う。あの頃,博士の足跡に触れることができなかったのは至極残念だ。

 

参照:1) アルゼンチンの大牧場主―草の根技術協力のパイオニア伊藤清蔵博士(オイスカ・ウルグアイ総局,2002),2)海妻矩彦「伊藤清蔵の生涯」(岩手県立博物館だよりNo.105, 2005.6),3)河北町役場HP「河北町の偉人」

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北海道の「裸大豆」(無毛大豆),品種の変遷

2012-02-11 09:45:46 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

現在,栽培の実態はないが,昭和の初めから第二次世界大戦後のしばらくの間(1930-1960年,昭和5-35)北海道で広く栽培された大豆の品種群がある。いわゆる「裸大豆」と呼ばれる種類で,茎,葉,莢の表面に毛(毛茸)が生えない特性を示す品種である。19281958年(昭和333)にかけて8品種が北海道優良品種に登録され(別添:裸大豆品種一覧),栽培面積の10-20%はこれらの品種で占められた。ちなみに品種名は,登録順に「早生裸」「中生裸」「大粒裸」「長葉裸」「白花大粒裸」「長葉裸1号」「十勝裸」「ホッカイハダカ」である。

この時代,何故「裸大豆」が広まったのか?

答えは,「裸大豆はマメシンクイガの被害が少ない」ことであった。

 

北海道開拓後,大豆生産は道南地方から道央へ,さらに道東(十勝)・道北へと拡大を見せた。そして,明治末から大正にかけて北海道で栽培が一番多かった大豆品種は「大谷地」,次いで「赤莢」「白小粒」「早生黒大粒」「吉岡大粒」「鶴の子」等であったが,生産者はマメシンクイガによる被害に悩まされていた。

 

松本蕃「マメシンクイガによる大豆被害の品種間差異による研究」(北海道農事試験場報告58)に総括されているが,多くの研究者により「裸大豆」は被害が少ないことが見いだされ,報告されていた。マメシンクイガの被害は,成虫が莢表面に産卵し,孵化した幼虫は莢の中に進入し子実を食害することによる。「裸大豆」の被害が少ない根拠は,莢の表面に毛がないため,マメシンクイガ成虫の産卵を促さないのだという(その他に,マメシンクイガの発生時期と大豆生育相との関係がある)。

 

実は,北海道で最初に大豆の人工交配が行われたのは1927年(昭和2)のことで,マメシンクイガ抵抗性が育種目標であった。そして,1936年(昭和11)「大粒裸」が交雑育種法による最初の優良品種として登録されている。裸大豆「大粒裸」は歴史に記録される品種となった。

 

「裸大豆」は何故消えたのか?

30年間にわたって栽培されてきた「裸大豆」は,度重なる冷害の被害を受け(低温抵抗性が弱い),また収量性も低かったことから,次代の多収品種「十勝長葉」や耐冷多収品種「北見白」等へ栽培が移行した。また,1960年代(昭和30年代後半から40年代にかけて)殺虫剤(バイジット等)が普及したことも,「裸大豆」の栽培を終わらせる引き金になった。北海道では,「ホッカイハダカ」を最後に,1975年(昭和50)すべての「裸大豆」が優良品種リストから除かれた。

 

十勝農業試験場では育種目標の一つに耐虫性を掲げ精力的に事業を展開していたが,1966年(昭和41)にはこの目標を中止することになった。最後まで保持された無毛茸の育成系統「十育153号」を納豆用として登録できないかと,「十系421号」(後のスズヒメ,毛茸あり,極小粒)と同時に加工試験に挑戦した経緯があるが,「十系421号」の線虫抵抗性特性が評価され「十系421号」に軍配が上がった。

 

しかし,無農薬栽培が志向される時代となり虫害が顕在する状況で,「裸」は優位特性になるかも知れない。また,毛茸の有無が耐干性に関係がありそうな体験もしたが,確認はしていない。

 

「裸大豆」の呼称はどこから来たか?

毛がないことを,何故「裸」と呼んだのか。感覚的に分かるが,理屈に合わない。

 

北海道農事試験場では1907年(明治40)に全国から67種を取り寄せ試験を行っているが(高橋良直,福山甚之助「大豆の特性に関する調査及び試験成績」(北海道農事試験場報告10),その中に野幌村産「毛無大豆」,秋田県三浦道哉氏産「裸大豆(「水潜」として)」,静岡県田方農林学校産「裸大豆(「水潜」として)」,山形県村山農学校産「裸大豆(「赤花裸」として)」,伊達村産「裸大豆」,茨城県立農事試験場産「裸大豆」,群馬農事試験場産「水潜」,秋田県大曲農学校産「水潜」などがあり,無毛~毛少と記されている。このことからも,北海道では一般的に,全国的にも広く「裸大豆」という呼称が使われていたのだろう。

ちなみに,「水潜」は水に浸かっても枯れなかった(耐湿性)との理由から,名付けられたと推測されている。

 

大豆の毛に関する形態的な研究は古くから存在する。一般には,①剛毛(直生),②軟毛(伏生),③無毛(短毛)と分類され,裸大豆は③無毛(短毛)をさす。無毛といっても,顕微鏡下では突起している細胞が観察されるが,長く伸びていないので肉眼では毛が無いように見える。また,毛の色は渇と灰白色に分かれる。

 

麦類の場合は,「裸麦」(Naked barleyHordeum vulgare L),「裸燕麦」(Naked oatAvena nuda L.)など「裸」に結び付く言葉が使われているが,大豆ではGlabrous(無毛の)またはNo pubscence(無毛)という。「裸」に結びつくような言葉ではない。

 

広辞苑の「裸」の項には「転じておおいや飾りのないこと」の意味が上げられている。また漢和辞典にも,つくりの「果」は「外皮のないはだかの木の実。桃,梨,梅など」とある。まあいいか。

 

「無毛大豆」を「裸大豆」と誰が最初に呼称したのか,どなたかご存知ですか?

 


 

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アルゼンチン大豆育種技術協力の成果品(追録,その後の育成品種)

2012-02-09 10:10:49 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

アルゼンチン大豆育種技術協力の成果品(追録,その後の育成品種)

 

資料を整理していたら,アルゼンチン国立農業試験場(INTA Marcos Juarez)の大豆育種部長サリーネス(Luis Salines)のペーパーが出てきた200612月この試験場を訪問した時に頂いた資料で,当時の育種目標や育種規模,育成品種の一覧が記載されている。

実は,19771984年(昭和52-59),日本はこの試験場を研究サイトに大豆育種研究の技術協力を実施し,北海道立十勝農業試験場から研究者が派遣されていた(別添PDF:アルゼンチン協力年表)。時期はアルゼンチン大豆生産の揺籃期で(図:大豆作付面積の推移),生産が拡大の一途を辿っていた頃である。プロジェクトでは,アルゼンチン政府の大豆に対する熱意に支えられ,また大使館やJICA事務所の協力のもと,育種体制や育種技術の確立を図り,育種事業を開始し,事業がアルゼンチン独自で推進できること,を目標として進めた。

 

技術協力の最終年である1984年(昭和59),アルゼンチンで初めての育成品種「Carcaraña INTA」を発表し,プロジェクトの幕を閉じたことは報告されている。この品種は,いわばプロジェクト成果品としての象徴であった。

 

その後も,アルゼンチンの大豆育種事業は INTA Marcos Juarezを育種センターとして,日本で研修を受けた技師達を中心に継続され,プロジェクト時代の材料から新品種が誕生しているはずであるが,その資料は公表されていない。

 

25年の時を経て(2006年)訪れた試験場で,サリーネスが誇らしげに示した一覧表には,奨励品種として登録済みの17品種,登録申請中の6品種が記載されていた(別添PDFINTA MJ育成品種)。来歴欄,交配組合せを目で追えば,懐かしい品種名が飛び込んでくる。「Hood」「Prata」「MID10-100」「Planarto」等々。また瞼に浮かぶのは,パンパの炎天下,灼熱の太陽に耳を焦がしながら行った人工交配や系統選抜作業,一緒に働いたカウンターパート達の群像である。

 

育種は「継続」なりと,これまでも繰り返し述べてきた。継続によってこそ成果が出る。これは当然の帰結ともいえようが,資金力旺盛な民間企業と競いながら育種を継続した公立機関INTAの努力は如何ばかりであったろうと思う。経済が破綻した彼の国で,公的育種を支え続けたインヘニエロ(技術者)達。若い頃に日本で研修を受けて彼らの心に宿った侍魂が,今のアルゼンチン大豆の興隆を築いたといっても間違いないだろう

 

技術協力はプロジェクト期間が終了したら,それでサヨナラではない。派遣された日本の研究者と彼の国の技術者たちとの絆は強く結ばれている。アミーゴの世界だから。その後30年,私たちがアルゼンチンを訪れたのは,私事旅行を含めると10回を超えた。

 

サリーネスが渡してくれたペーパーは,良いお土産になった。

 

 

   Img109

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研究室の入口に貼られた一枚の紙

2012-02-04 11:43:48 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

拙著「豆の育種のマメな話」(2000)の中で,研究室の入り口に「世界の飢えたる人のために」と書いて,新品種開発の仕事をしたと述べた。もちろん狭義というか真意は,日本のために,或いは北海道農業のために,農民のためにということを含んでいる。

時は過ぎて2006年,南米のパラグアイ地域農業研究センター(CRIA)でのことである。ある朝,大豆研究室のドアを開けると,正面の衝立に一枚の紙(写真)が貼られていた。それには,CRIAの若い農業研究者達へ(1)畑に出て観察せよ,そして記録をとれ,(2)研究員は年に一つは論文を書け,(3)農家の畑に立って考え,消費者の声に耳を傾けよ,ドクトル○○が語った,とある。

 

前日CRIAに赴任して,最初に顔をあわせた研究室の技術者達に挨拶したときの内容を,学校を出たばかりのインヘニエラ(Ingeniera女性学士)が几帳面にも書き留めたものである。「ああ,また例の調子で・・○○は,・・・」と思われる方がいらっしゃるかも知れないが,これは一つのメッセージ。技術的な伝達はその後に追々することにして,まず「これから2年間,私はこんな考えであなた方と仕事をしますよ」と伝えることにある。

 

若い研究者にそんな意図が,かすかなりとも伝わったのかな? 「技術協力プロジェクト」のスタートであった。

 

CRIAの若い研究者達は,毎朝出勤したときこの紙を無意識に眺める。訪れたゲストは,はてな? と眺める。そのプロジェクトが終了してから,既に4年が経過した。一枚の紙は風に吹かれてどこかに消えたかも知れないが,彼らの心には何かが残っていることだろう。

 

貴方は,研究室の入り口に何を掲げますか

 

 

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北海道のあお豆(大袖振大豆),品種の変遷

2012-02-02 10:49:05 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道では古くから,子実の種皮色が黄緑色の大豆(あお豆)が栽培されていた。品種を区別するとき,種皮色が「緑」「黄緑」と表記される品種群である。詳細に観察すると,種皮色は「黄色地に緑色が子実の腹部から鞍掛状に覆い,全体としては黄緑色を呈する」ことに気づく。また,緑色の発現にも若干の強弱がある。これら品種群は,一般に「袖振」「大袖振」として流通している。何故「袖振」と呼んだのか,由来は定かでない。

明治から大正にかけて,「小袖振」「早生袖振」「早生袖振枝豆」「吉岡中粒」と呼ばれる早生品種,「青白」「大袖振」「吉岡大粒」と呼ばれる中生品種が,道東や道北地方を中心に子実用または枝豆用として広く栽培されていた。いずれも来歴不明な在来種である。

 

これらの中で,最初に北海道の優良品種に登録されたのは「吉岡大粒」(本第2065号)である。北海道農事試験場本場が1912年(大正1)夕張郡由仁村古山の松浦某より取り寄せたもので,品種比較試験の結果1914年(大正3)優良品種に登録している。また,当時「吉岡中粒」(十支第8191号,短茎の極早生種)が,根室や宗谷地方で主として枝豆用に栽培されていたとの記録がある。

 

北海道立農業試験場北見支場は,1951年(昭和26)に収集した手塩産の在来種から,早熟多収な「早生緑」(北支4014号)を系統選抜し,1954年(昭和29)優良品種に決定した。「早生緑」は,早熟で作りやすいことから農家に好まれ,大袖振銘柄の主流品種として長く活躍した。本品種は種苗業者や加工業者からの評価も高く,多くの業者がこの品種を基にして「早生緑」系の枝豆用品種を開発した。今でも「早生緑」の血を引く多くの品種が販売されている。

 

また,北海道立農業試験場十勝支場は1957年(昭和32)十勝管内の在来種1,200点を収集した中から,帯広市川西町南基松の農家清水清が栽培していた「大袖振大豆」を,品種比較試験の結果「アサミドリ」として1962年(昭和37)優良品種に決定した。本品種は,収量性や品質で「早生緑」に優ったが,耐倒伏性が劣ったため栽培は伸びなかった。

 

一方,十勝地方の音更町を中心に1950年(昭和25)頃から栽培されていた「音更大袖」は,冷害年の早熟安定性が評価され急速に普及し,1985年(昭和60)には900haの普及をみた。北海道立十勝農業試験場では道内関係機関の調査を経て,1991年(平成3)優良品種に登録した。

 

冷凍技術の進歩にともない冷凍枝豆の流通が増加すると,枝豆用として白毛品種が求められるようになった(褐毛は汚れにみえる)。北海道立十勝農業試験場では,「十育186号」(臍色が黒のあお豆系統)を母,「トヨスズ」(臍色が黄でダイズシストセンチュウ抵抗性強の黄大豆)を父とする人工交配を行い,1992年(平成4)「大袖の舞」を開発した(参照:土屋武彦「豆の育種のマメな話」など)。初の交配育成品種。現在,「大袖の舞」はJA中札内ほか各地で,枝豆用等で好評を博している。

 

なお,北海道あお豆の栽培は現在5001,500haで推移している。

 

もう一つ北海道には,種皮色だけでなく子実の中(子葉)まで緑の品種群がある。「青豆」「緑豆」「青」「黄粉豆」などと呼ばれる在来種であるが,異名同種,同名異種のものも多い。緑色の「きな粉」として商品化している事例もあるが,優良品種に登録されたものはない。育種技術の手が入っていない品種群,興味をそそられる対象ではないか。

 

 参照:1) 砂田喜與志,土屋武彦1991「北海道における豆類の品種」日本豆類基金協会 2) 土屋武彦2000「豆の育種のマメな話」北海道協同組合通信社

   

 

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