横浜の馬車道通り,弁天通り散策
10月某日,下田北高等学校第11回生同窓会が横浜で開催されたのを機会に,いつか訪れたいと思っていた馬車道通り,弁天通りを散策した。実は,馬車道通りには伊豆下田出身で日本写真の開祖と謳われる下岡蓮杖の顕彰碑があり,弁天通り5丁目周辺は安政の大津波で被災した下田の人々が多く移り住んだ場所である。
下岡蓮杖は文久2年(1862)野毛に初めての写真場を開業し,その後弁天通りに進出し,太田町5丁目角地(馬車道)で写真館を開業し成功している。また,蓮杖の弟子である鈴木真一も弁天通り6丁目で写真館を開業した。鈴木宅には北海道開拓に向かう依田勉三が投宿して出立の準備を進め,鈴木写真館では晩成社一行が記念写真を撮っている(帯広百年記念館に保存)。いわば,この周辺は進取の気概溢れた伊豆人が集いし場所であった。
1.日本写真の開祖,写真師下岡蓮杖顕彰碑
馬車道と弁天通が交差する弁天通4丁目の歩道に顕彰碑はある(県立歴史博物館の筋向い,損保ジャパン日本興亜馬車道ビルの向い)。赤御影石の台座の上に膨らみを帯びた円錐が形作られ,その頂点に写真機が乗っている。円錐体の歩道側下部に「日本写真の開祖,写真師・下岡蓮杖顕彰碑」の文字,車道側には「1862,横浜に写真館をひらく」とある。台座には,製作者 田辺光彰,寄贈 建立実行委員会,協力 馬車道商店街協同組合,一九八七・六と彫られている。即ち,記念碑は昭和62年に建立されたものである。
因みに,作者の田辺光彰(1939-2015)は横浜生まれの著名な彫刻家。イサム・ノグチの影響を受け,巨大なモニュメントなどの作品が多い。特に「農」をテーマにして野生稲保存・生物多様性などの作品を発表。作品はアジアの稲作地帯,国際的農業研究施設(国際稲研究所など),各国の国立研究所,美術館,博物館,国連機関(FAOなど)に収蔵展示されている。
傍らに,モニュメントの説明板があるので引用する。
「日本写真の開祖 写真師・下岡蓮杖(一八二三~一九一四)伊豆下田に生まれる
嘉永元年(1848)オランダから長崎へダゲレオタイプ一式が渡来した。
弘化二年(1845)狩野派の青年絵師が,銀板写真に遭遇し,そして絵筆を折り捨て写真術習得の道へ歩み出した。この青年こそ,日本に写真師という職業を確立した日本写真の開祖 下岡蓮杖その人である。蓮杖は,来日の外交人から湿板写真の機材を入手し,筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て,文久二年(1862)野毛に初めての写真場を開業し,その後,弁天通りに進出し,慶応三年(1867)太田町五丁目角地に「富士山」と「全楽堂」「相影楼」の看板を掲げた写真館を開き大繁盛をした。数多くの門下生を育て,我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。その業績に敬意を表し,文明開化の地,馬車道通りに写真師発祥一二五周年,日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和六十二年(1987)建立をみたのである。
顕彰碑 下岡蓮杖顕彰碑建立実行委員会
碑文 横浜市写真師会設立百周年記念実行委員会
平成二十二年(2010)六月一日」。なお,説明板には写真が印刷され,当時の写真館の様子を窺い知ることが出来る。
2.馬車道は新しい文化が行き交う通りだった
横浜開港時の混乱を避けるために吉田橋を架け関門を設置し,その内側を「関内」と呼んでいたと言う。従って,馬車道(慶応3年計画道路として完成)は,外国人も住む関内と吉田橋を結ぶ道で,新しい文化が行き交う通りだった。なお,明治2年(1869)に吉田橋から東京に向けて日本初の乗合馬車が走り始めたが,この事業には下岡蓮杖が係わっている。
馬車道通りには現在,上記顕彰碑の他に「ガス灯記念碑」「アイスクリーム発祥記念碑,母子の像」「近代街路樹発祥の地記念碑」「日刊新聞発祥の地記念碑」「牛馬飲水」など多数の記念碑があり,歴史建築物も保存されている。また,ガス灯を模した街灯が並び,馬車をデザインしたロゴが到る所に散りばめられ,落ち着いた中にも楽しさを漂わせる通りになっている。
約150年の時を経た馬車道を歩けば,文明開化の浪漫を感じることが出来るだろう。「みなとみらい線」の馬車道駅,或いは横浜市営地下鉄ブルーライン「関内駅」,JR根岸線「関内駅」が最寄駅。
3.弁天通り5丁目
伊豆下田出身者が多く住んでいたと言われる「弁天通り5丁目」周辺。地図を頼りに行ってみると「弁天通5丁目」の標識があった。当時の面影は感じられず,東側には県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店本館),西側にはホテル等高層ビルが建っている。
大津波に全てを失い,新天地を求めてこの地にやって来た伊豆下田の人々は,この地で夢を実現できたのか。知る由もない。