豆の育種のマメな話

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ハカランダ(ジャカランダ)

2013-05-28 17:59:58 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

青紫の花が零れるばかりに咲き,歩道の石畳が紫に覆われている

ブエノス・アイレスの大通りを歩いていた時,ネストルが街路樹の名前を「ハカランダ」と教えてくれた。1978年のことである。

その時,「南極越冬隊を乗せた宗谷がケープタウンを出航するのは,ハカランダが咲く頃」と聞いた記憶が何故か蘇った。

南米アルゼンチンは海外技術協力の仕事で初めて暮らすことになった国だったので,遠い旅立ちのイメージが重なったのかも知れない。ハカランダの開花は11月初め,南半球でいえば春の季節に当たる。この時期に,当時の南極観測船も旅立ったのだ・・・。

 

技術協力の拠点はコルドバ州の小さな町(マルコス・フアレス市)にある農業研究所(INTA)であったが,たびたび農牧省や日本大使館・JICA事務所を訪れる機会があったので,ブエノス・アイレスのそぞろ歩きは楽しみの一つであった。フロリダ,ラバージェ,サンタフェ,コリエンテス等の通りの賑わい,店の洒落た飾り付けを眺め,レストランやカフェテリアで寛ぐのも楽しかったが,アエロ・パルケ(空港)脇のラ・プラタ河畔に続くハカランダを眺めるのも好きだった。ラ・プラタ川は海のごとく広がり対岸のウルグアイは霞んで見えなかったが,ハカランダの木の下では子供らが竿を投げペヘレイを釣っていた。

ともかく,南米のパリと謳われるブエノス・アイレスの街には,ハカランダが良く似合った。コロニアル様式の高級マンションンが並ぶ通りの一階には洒落たレストランやセンスの良いブテイックがあり,ポルテーニョがそぞろ歩く。街路樹は大きく緑を落としている。

 

(写真左:Bs.As.絵葉書から、右:熱海のハカランダ)

 

ハカランダ(Jacaranda)の和名は,シウンボク(紫雲木),キリモドキ(桐擬)であるが,日本でも英語読みしたジャカランダやスペイン語読みしたハカランダの方が一般的かもしれない

ノウゼンカズラ科(Bignoniaceae)キリモドキ属(またはジャカランダ属Jacaranda )の中南米原産の落葉高木,花は濾斗状で先端が5弁に裂け,桐の花に似ている(ちなみに,ラパチョもノウゼンカズラ科で花の形が似ている)。葉は細く羽状複葉でアカシアやネムノキに似て,夏には清涼な日陰を作るので街路樹に利用される。葉の出る前に満開となると,これはもう桜の風情で美しい。

 

ハカランダは三大熱帯花樹のうちの一つと言われるが(他は,アフリカン・チューリップ・ツリーとホウオウボク),然もありなんと思われる。

Arvores BrasileirasHarri Lorenzi (Instituto Plantarum de Estudos da Flora LTDA 2000)によれば,ノウゼンカズラ科の多くはブラジルの一般名で「ipé」と呼ばれ(22種掲載)るが,一部には「jacaranda」と呼ばれるものもある。また,この本で一般名が「jacaranda」と呼ばれるものの多くはマメ科で,13種が掲載されている(花や実の形が異なる)。このように,ハカランダと呼ばれるものは植物学上異なる種類を含み混乱している。

 

花を愛で街路樹としてアメリカ,ヨーロッパ,アフリカ,大洋州などに広まっているハカランダは,ノウゼンカズラ科キリモドキ属の種類で,雌蕊の数でJacaranda18種,アルゼンチンや中米原産)とDilobos31種,ブラジル原産)に下位分類される。

中でも,特に花が華やかなブルージャカランダ(Jacaranda mimosifolia)が多いようだ。日本でも人気が出てきて,宮崎県のジャカランダの森には約700本が群生しているし,熱海の海岸通りに植栽された街路樹も花をつけるようになった。

 

一方,後者のマメ科に分類されるハカランダに,ツルサイカチ属のブラジリアン・ローズウッド(Dalbergia nigra)と呼ばれる種がある。重厚な材質で,十分乾燥すると狂いが起きない。名前のとおり甘い香りがする。ご存知のようにギター材として有名である。

ギター作りを趣味にする友人Mが,

「表面板にはヨーロッパ産のスプルース,横板と裏板にはハカランダを・・・。ハカランダはワシントン条約で絶滅危惧腫に指定され,手に入らない垂涎の材だね」

懇親会の席でため息交じりに語った。

「下田武ヶ浜で観光目的の植栽グループがいるよ」

ギタリストにほど遠く,材に詳しいわけでもなかったので,勢いで話した。

「伊豆の山に植えてみようか?」

 

酔いが覚めて考えたら,ハカランダはハカランダでも別の種類であることに気がついた。酒宴での話だから,後日「あれは別物だった」と言うのも可笑しいかと,そのままにしている。

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伊豆の人-9,「橘 耕斎」 幕末の戸田港からロシアに密出国した男

2013-05-27 15:08:45 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

時は幕末,まだ日本人の海外渡航が禁止されていた頃の話である。

吉田松陰と金子重輔が,伊豆柿崎の浜からペリー黒船艦隊に身を投じ密航しようとしたが失敗し,獄に繋がれた史実は皆さんもご存知だろう。そのような情勢の中,翌年の安政2年(1855)西伊豆の戸田港からロシアに密航した一人の男がいた。その人の名は「橘 耕斎」。記録がほとんど残っていない謎の人物である。

 

◆デイアナ号の乗組員に紛れ込んで

日露和親条約に向けた協議が始まった二日目の朝,下田は大地震と津波に襲われた(安政の大地震1854)。この津波でロシアのプチャーチン提督率いるデイアナ号は大破し,修理のため戸田港へ回航中に沈没してしまう(安政元年122日,嵐の中漁民たちの決死の協力で約500人の全乗組員が救助され上陸)。

 

安政元年1221日,日露和親条約は調印され(長楽寺,エトロフとウルップ間に国境を定めた),乗組員500人は帰国することになった。第一船は下田にやって来たアメリカ商船フート号で士官・水兵159名が出発(安政22月25日)。第二船は日本の船大工がロシア人と協力して建造したわが国初の洋式帆船(戸田号と命名,3か月位で完成している)で,プチャーチン以下48名が出発(322日)。第三船は残りの278名が商船グレタ号を借り上げて戸田港を出帆した(61日)。

 

この時,戸田村から一人の男が忽然と姿を消した。当時,戸田村の取り締まりに当たっていた代官江川太郎左衛門が勘定所にあげた報告書によれば,「順知という蓮華寺の弟子が召捕り手配中に居なくなってしまった」とある。姿を消した男は順知と名乗っていたが,掛川藩の元藩士の橘耕斎(またの名を増田甲斎)であった。ロシア人に紛れ「樽の中に隠れて」密航したとされる。

 

戸田村の蓮華寺に寄寓していた順知(耕斎)は,プチャーチンの幕僚で中国語の通訳をしていたゴシケヴィチ(後に箱館領事となる)と懇意になる。恐らく,ゴシケヴィチは順知に資金を渡し日本語辞書や絵図などを購入させていたのだろうが,取締方もこれに気づき,順知は捕えられ監禁される。脱出した順知はロシア人宿舎に逃げ込み,ロシア側も協力者を匿う必要があったので密航を助けたと考えられる。

 

一方,海外雄飛を志してグレタ号に身を投じたとする好意的な見方,朝鮮でロシア正教に改宗したのがばれてしまったので日本に居られないと乗船を要望したという話もあるが疑わしい。当時の列強国の動きから判断すればゴシケヴィチが重要な日本の書物を順知に集めさせていたとする方が正しいだろう。

 

◆和露通言比考(和露辞典1857年刊)の編纂に協力する

耕斎が乗ったグレタ号はカムチャッカ半島に向かう途中,オホーツク海で英国軍艦に拿捕される。ちょうどクリミア戦争の真最中であったため,ロシア兵は英軍の捕虜となり,ロシア人に紛れた耕斎も英軍艦でロンドンまで移送され抑留される。

この9か月に及ぶ捕虜生活中に,ゴシケヴィチは耕斎を助手にし,16,000語に及ぶ和露辞典「和露通言比考」を編纂した。辞書の日本文字は耕斎が書いている。「和露通言比考」は,本格的な日露語辞典として高い評価を得た(ペテルブルグ帝室アカデミーからデミードフ賞を受賞1858)。

 

◆ロシア外務省に勤める

1856年ロシアに渡った耕斎は,外務省アジア局に入り通訳として勤務することになった(ロシア語は余り上達しなかったとの伝聞がある)。1858年にはロシア正教の洗礼を受け,ウラジーミル・ヨシフォヴィチ・ヤマトフ(大和夫)と名乗った。

耕斎は,ペテルブルグにあって日本政府の使節を三度迎えている。最初は文久2年(1862,竹内下野守保徳),次が慶応2年(1866,小出大和守秀実),最後は明治6年(1873,岩倉具視)である。また,慶応2年の初めには6名の幕府留学生,その夏には薩摩からイギリス留学中の森有礼らがペテルブルグを訪れている。

 

最初の使節団に対して,耕斎は全く姿をみせていない(密航であった故だろう)。ただ,副使松平石見守の従者市川渡や随員福沢諭吉の記録には,「室内には橘耕斎の名前がある和露辞典(和露通言比考)に毛筆と用紙,刀掛,日本の枕,煙草,浴室にはヌカ袋を備え,食事は日本料理,箸や茶碗も日本と変わることなし・・・」と述べ,日本人が接待に関わっているに違いないと疑ったが,耕斎と会うことは無かった。

その後,耕斎は使節団や留学生たちの前に姿を現し(日本の変化が耳に入ったのだろう),彼らの世話をしている。使節団の随員や留学生たちの記録には色々な話が述べられているが,ここでは触れない。

明治7年(1874)岩倉具視の勧めで帰国する。その直前にはペテルブルグ大学で日本語を教えており,最初の日本語講師として名を遺すことになった。異郷にあること19年。ロシア人と結婚し二人の子供がいたとの話もあるが,確認されていない。

 

◆帰国後の暮らし

帰国後は,明治政府からの便宜を受け芝の増上寺境内の草庵に住み,ロシアの年金で余生を終えたとされる(1885,享年65歳,墓は芝白金の源昌寺)。

 

◆掛川藩士の家に生まれて

墓誌によれば文政3年(1820)生まれ。耕斎が掛川藩士の家に生まれたのは確かなようだが,「立花四郎右衛門の次男で久米蔵」或いは「増田市郎兵衛に連なる増田甲斎」が本名と二説あり出自は定まっていない。

耕斎は武士を棄て掛川藩を出奔するが,その理由も「善人を有罪にして信望を失った」「大喧嘩をして幕官に追われた」「主家の宝物を叩き売って女郎・酒・博打に費やし,邸に居られなくなった」「恋愛関係で婦人を殺害し,郷里に居られなくなった」「武術に長じており,藩内に安んじるのは嫌気がさした」など諸説語られているが,どれ一つ確かな証拠は無い。

流浪の時期には,「博徒に推され頭分となり,幾度も投獄」「帰依して黒衣をまとい池上大門寺の幹事になったが,煩雑さを嫌い雲水になって諸国を行脚」「緒方洪庵の適塾に入り蘭学を学んだ」など語られているが,どこまで真実であったか分からない。

 

耕斎が戸田の蓮華寺に寄寓していたことは,ゴシケヴィチとの邂逅をもたらし,人生を大きく変えた。僧衣に身を包み積極的に(恣意的に)近づいたとの話もあるが,この地が掛川藩の藩領であったため流浪の先が戸田村蓮華寺であったと言うことかも知れない。


耕斎自身が記述したものは殆どないので,多くは伝聞が独り歩きしている。確かに,語られる耕斎の資質は磊落豪放,放蕩無頼である。

 武士と言う身分にこだわらず,日本と言う祖国にこだわらず,宗教も仏教とロシア正教さらに仏門に復帰,仏門でも日蓮宗(池上本門寺,蓮華寺)から浄土宗(芝増上寺),禅宗(源昌寺)と全く拘りがない。耕斎には,既成の法律やルールに留まらない行動が多々みられる。

これを,遠江人の気質,変わりゆく時代の流れだったが故と決めつけて良いのだろうか。何か計画的な意図が隠されているような気がしないでもない。

 

岩倉具視が帰国を勧め,芝の増上寺境内の草庵に住み,脱藩したはずの耕斎が旧藩主太田資実を囲む維新後初の親睦会に出席し,墓石には十六弁の菊の紋章が彫られているという。一体これは何を意味するのか? 伊豆の散策では夢が膨らむ

 

参照:肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館,肥田喜左衛門「橘耕斎と吉田松陰」下田開国博物館,中村喜和「橘耕斎伝」一橋論叢63(4)514-540,中村孝「幕末の密航その2橘耕斎と新島襄」神田雑学大学定例講座469

 

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アンデスの旅,グアナコ,リャマ,アルパカ,ビクーニャの群れを見たか?

2013-05-09 10:04:43 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

アンデスを旅すると,高原地帯で草を食むグアナコやビクーニャの群れをしばしば見かける。チリ北部のアリカからボリビア国境にあるラウカ国立公園を訪れた時も,標高3,500mを越え4,500mに至るアンデス湿潤高原地帯で,ビクーニャの群れ(写真)に何度か出会った。ペルーからチリ北部にかけての海岸線はほとんど雨が降らないため景色は砂漠そのものであるが(谷に沿ってのみ雪解けの水が流れ,人が住む),アンデス山脈の高所にはうって変わって草原が現れる(アンデスの峰は雪に覆われる)。

「遠くに見えるのがビクーニャの群れです。アンデス原産の動物には,グアナコ,リャマ,アルパカ,ビクーニャの四種の近縁種がいます。身体の大きさでいうと,大きいのがグアナコとリャマ,一番小さいのがビクーニャです・・・」

「あの岩陰の動物がビスカッチャ(アンデスウサギ,写真),ここは動物たちの聖地ですね」

ガイドの説明が続く。

 

また,アンデス山脈の南端アルゼンチン・パタゴニアからチリのプエルト・ナタレスに向けバスで国境越えした時も,グアナコの群れに出会った。

「グアナコの群れです。バスを降りて近づいてみましょう」

運転手は群れを指さし客に説明しながら,ゆっくりと停車した。

脚がすらっとして気品のある野生動物だ。厚い毛をまとい,愛くるしい目をしている。インカの時代に比べ生息数が激減しているので(一部では保護されている),野生の群れに出会う旅は記憶に残る。

これ等の動物は日本の動物園でも飼育されているので,アンデス原産の動物としてリャマ(ラマ),アルパカの名前を知る人は多いだろう。

 

「リャマは,ボリビアやペルーの山岳地方で古くから家畜として飼われ,荷物の運搬用,毛や皮を衣類に加工し,肉を食べることもあり,糞は燃料に利用されてきた。また,インカ帝国の時代には儀式の生贄として捧げられ,現にラパスの市場ではリャマの胎児のミイラが売られていて,これは家を新築するときに埋め家内安全を願うという生贄風習の名残だ・・・。一方,アルパカは毛を利用するために飼われ,アルパカ毛は羊毛より軽く世界中で品質評価が高い。インデイオもマントやポンチョに加工し,お土産として売っているよね・・・」と,私たちは知っている。

 

インカ時代に重要な家畜であったグアナコ,リャマ,アルパカ,ビクーニャは,ラクダ科の近縁種である。リャマはグアナコを家畜化したもの,アルパカは毛をとるためにグアナコ・ビクーニャから改良された派生種と言われ,分類学上の系統図には諸説あるが,以下の分類が有力のようだ。

 

1 ラクダ科(Camelidae

  1-1 ラクダ属(Camelus

 1-2 ラマ属(Lama

 1-2-1 グアナコ(Lama guanicoe

 1-2-2 ラマ(リャマ,Lama glama

 1-3 ビクーニャ属(Vicugna

 1-3-1 アルパカ(Vicugna pacos

 1-3-2 ビクーニャ(Vicugna vicugna

 

格好は似ていて遠目には区別が難しい。体の大きさに違いがあり,グアナコとリャマ(体高1-1.2m,身長1.5-1.6m,体長約2m,体重約100kg)が大きく,アルパカ(体高0.9-1.0m,体長約2m,体重50-55kg)が中間,ビクーニャ(体高約0.85m,体長1.3-1.6m,体重33-65kg)が小型と言える。

 

毛の長さは,アルパカが長く,ビクーニャは短いが細くて高級,グアナコはその中間とされる。セーターを着てみれば羊毛とは違う満足感を覚えるだろう。

 

   

コメント (1)
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