坂戸子之神社の棟札
「坂戸子之神社には大永2年(1522)の棟札があり,集落の発展の姿をうかがわせる」と言う文章を,図説下田市史増補版(下田市教育委員会)にみつけた。伊豆下田の稲梓地区の神社には,室町・戦国時代の棟札が多数残されており,坂戸子之神社もその一つという1)。
現在は過疎化が進み子供の数も減少しているが,当時の稲梓郷稲梓里(稲生沢川に稲梓川が合流する流域地帯:椎原,箕作,宇土金,横川など)は南伊豆の中でも発展した地域であった。
ところで,「坂戸子之神社」の場所をご存知だろうか? 氏子17戸以外に知る人もないだろうが,この神社は稲梓里のはずれ,坂戸の山深く森に隠れて鎮座している。
小学校を終わる頃まで,この神社の近くに住んでいたため,誕生後や七五三では母に抱かれ祖父母に手を引かれてお参りしていた。秋の祭典や正月には村人が家内安全,豊穣を祈念し,弓を射て,お神酒を拝した神社である。もちろん子供らの遊び場の一つであって,橇遊びで「危ない事をするな」と叱られ,ムササビの飛翔を初めて見つけた森でもあった。
神社の建て替えもこの頃行われた。氏子の集会で「棟梁を誰に依頼するか,寺大工を探すか」の話があり,「地元の大工○○にお願いしよう」と決まった経緯を,父の傍で聞いていた記憶が蘇える。
神社は時代と共に様変わりしている。「豊穣と家内安全」を祈念した時代から,「武運長久」を願った時代へ,さらに氏子数の減少から社管理が困難な時代,パワースポットと一部神社のみが注目される時代へと,民の信仰心は変貌して行った。
写真は昭和10年代と平成6年頃のものである。昭和62年に一氏子が寄進たという鳥居が建っている。ガ島から生還できたこと,従軍した兄弟全員が無事であった感謝の気持ちで,朽ちた木造の鳥居を建て替えたと聞いた(この神社にパワーがあったのかも知れない)。
話は変わるが,雑誌「北農」(財団法人北農会,64巻1号,1997)に「農業の時代」と題する巻頭言が掲載されている。巻頭言は,この神社の背景をイントロにしてわが国の農業に想いを馳せた内容である(タイトル:農業の時代)。さて,巻頭言から15年,この神社を祀る集落は新たな展開をみせただろうか。否,そうとも思えない・・・。時がゆっくり流れ,自然が残ったという風情である。
ならば,山里の自然を愛する人々に,古い神社再発見の旅を提供しようではないか。静岡県神社庁によると,下田市内に50の神社,稲梓地区に限っても13社(うち須原には5社:神明神社,水神社,子神社,山神社)が祀られている。神社にはそれぞれ,村人が信仰した長い歴史が刻まれている。旅人よ,歴史に思いを馳せるもよし,杜の緑に深呼吸するもよし。参拝したあなたはパワーを得ることが出来るだろう。
参照 1)下田市教育委員会「図説下田市史増補版」2004, 2)財団法人北農会「北農64巻1号」1997
探していた神社がわかり感激してコメントさせていただきました。
本当に何十年前になりますが、祖母に預けられその神社のすぐ側で妹と数ヶ月過ごしました。
当時幼かった私はその神社がとても怖かったくせに一人で神社まで行き格子越しに鏡?みたいなのを覗いて木々のさわめきに驚き何か奇声?を発しながら祖母の家まで帰ると言うわけのわからない事をしていました。ずうっと記憶の中に埋もれていたのですが、最近、何かの拍子にふと思いだし鏡を覗いている自分の夢までみたので、あの神社は本当にあったんだろうか?夢だったのだろうか?とネットで検索してたどりつきました。本当に記載していただきありがとうございました。不思議に思っていた記憶の霧が晴れました。
今度上原美術館に行く予定なので時間がありましたら足を運んでみようと思います。実は今でも怖いんですが、、
追記
祖母は上原小枝さんと同い年で当時は箕作か須原辺りにいたようです。祖父がなくなり坂戸の奥に移ってきました。
路傍の道祖神や墓石の場所、姿を思い出し、坂戸子之神社の静寂さが蘇ります。