豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
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恵庭と「松浦武四郎」

2019-01-14 18:07:33 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

1869年(明治2)8月、太政官布告により蝦夷地が「北海道」と命名されてから150年。北海道は今や530万の人々が暮らし、総生産額が18兆円を超える経済規模を誇るまでになりました。農業・水産業・観光関連産業など魅力あふれる地域です。

北海道の名付け親は松浦武四郎と言われます。明治政府から蝦夷開拓御用掛(後に開拓判官)を命ぜられた武四郎が蝦夷地の新しい名前として「北加伊道」など6案を提案し、「北海道」に決定した経緯があるのです。「北加伊道」は、武四郎が音威子府のコタンを訪れた際に、アイヌの古老からアイヌ語の「カイ(加伊)」は「この国に生まれし者」の意味だと聞いたことが命名発想の原点だと言われています(「北海道命名之地」記念碑、音威子府村)。

松浦武四郎(1818-1888)は、伊勢の人。幕末から明治時代の探検家。下記のとおり6回に及ぶ蝦夷地探査を行っていますが、第4回以降は幕府から蝦夷地御用御雇入の命を受けての探査行でした。

第1回蝦夷地探査:1845年(弘化2)。函館、森、有珠、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室など

第2回蝦夷地探査:1846年(弘化3)。江差、宗谷、樺太、紋別、知床、石狩、千歳など

第3回蝦夷地探査:1849年(嘉永2)。函館から国後島、択捉島へ渡る

第4回蝦夷地探査:1856年(安政3)。函館、宗谷、樺太、根室、様に、有珠など

第5回蝦夷地探査:1857年(安政4)。函館、石狩、上川、天塩など

第6回蝦夷地探査:1858年(安政5)。函館、石狩、宗谷、北見、十勝、阿寒、日高など

◆恵庭と武四郎の接点

ところで、恵庭と武四郎の接点は? 「再航蝦夷日誌」(第2回探査)と「西蝦夷日誌」(第6回探査)に、当時のイザリブトとモイザリの様子が記録されています。いずれも現在の恵庭市内、松浦武四郎の足跡を偲ぶことが出来ます。

 

1.松浦武四郎「イザリブト番屋の図」

 

松浦武四郎は幕末の探検家、「北海道」の名づけ親として知られています。彼は、蝦夷地探査の折に恵庭の地を二回訪れています。最初は弘化3年(1846)、対雁(江別)から千歳川を遡り漁太に立寄り、当時の風景を「再航蝦夷日誌」に残しました。本誌によれば「イサリブトは広々とした広野で沼や湿地が多く、大きな番屋、弁天社、蔵、アイヌの小屋56軒がある。隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガイモ等を作っており、土地は肥沃で豊かに実っている。アイヌの人々は菱の実、干した鹿肉を平日食としている。此処で川は二つに分かれ(意訳)・・・」とあります。

この場所は、漁川が千歳川に合流するところ、「恵庭神社遥拝所跡」(恵庭市林田)の辺りと考えられています。松浦武四郎が描いた「イザリブト番屋の図(再航蝦夷日誌)」はこの地点である旨の説明板(恵庭市教育委員会)が境内一隅に立っています。改修前の千歳川は蛇行しており、番屋・船着場を置くのに絶好の場所でした。当時、ここは水路交通・交易の拠点として重要な役割を果たしていました。

なお、恵庭神社遙拝所跡には現在、鳥居と石灯籠、記念碑(平成8年建立)が残されています。灯籠には、明治40年加越能開耕社専務取締役林清一らが献納とあるので、開拓に入った加越能開耕社の人々が祀っていたのでしょう。江戸末期から明治に掛けて弁天社、稲荷神社が祀られ、大正13年に稲荷神社が恵庭神社へ合祀された後は恵庭神社遥拝所として祀られていました。

武四郎が訪れた当時の湿原や曠野の面影はすでになく、周辺には拓かれた沃地が広がっています。恵庭開拓歴史遺産の一つとして記憶に留めたい場所ですね。

2.松浦武四郎「歌碑」

 

松浦武四郎が二回目に恵庭の地を踏んだのは安政5年(1858)、武四郎にとって最後の蝦夷地探査の折でした。開削されたばかりの札幌越え新道を陸路で銭函から発寒、札幌を経て千歳、勇払に至る踏査の途中、茂漁川の傍らで詠んだ句が「西蝦夷日誌」に載っています。

「是より千歳領。険しい道を上ると平地がある。茅の原を過ぎ、ロロマップ川、そしてヘケレベ川があり、水底は砂地のため濁っていない。これらの川はシュママップ(島松)川に注ぐ。さらにルウサン川、アツシヤウシ川、モイザリ川があり、これらはイザリの枝川。傍に石狩土人の家があり、去年夕張に連れて行った者だったので、立ちよると妻が居て、私の名を聞いて大いに悦び、粟を二合と焼鱒を三匹ほど呉れた。私もお礼して出発。この辺は畑が多い。かつて石狩領であった(以上意訳)。蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや」。穀物が豊かに実っている状況に驚き、感銘を受けた様子が詠まれています。

恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」(恵庭市大町)前庭に、この句を刻んだ「歌碑」が建っています。碑は市道恵庭線(旧札幌本道)に面し、茂漁川の近くです。建立は「21世紀恵庭新ふるさと創りの会」、北海道命名150年を記念して建てられました。平成30112日に記念碑除幕式、恵庭市への贈呈式が行われました。

武四郎の足跡を記念して建てられた記念碑や説明板は北海道に数多く、本人が主役のもの77点、文献などを引用したものを加えると100点を超えるそうです(松浦武四郎研究会等)。新しく恵庭に誕生した武四郎歌碑を訪れ、当時に思いを馳せて見ませんか。

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謹賀新年(2019)

2019-01-01 15:56:35 | さすらい考

「去年(こぞ)今年 貫く棒の 如きもの(虚子)」。

拙宅(草庵)軒先の温度計は氷点下7度、静かな元旦を迎えました。

 

新春のお慶びを申し上げます。

昨年は自然災害の多い年でした。胆振東部地震では山肌崩壊の映像に息をのみ、余震の度に揺れの前には地鳴りがすることを体感しました。また、日本列島は猛暑、暴風、豪雨に見舞われました。これも地球温暖化、海水温上昇の影響でしょうか。今年こそ安寧、豊穣の年でありますよう祈念しております。

当方、おかげ様で平穏無事に暮らしております。①歩くことを日課とし、②恵庭市長寿大学や各種講演会で学び、③原稿執筆と講師依頼は、これが最後と義理で受け、④地域に役立てばと、千歳・恵庭市内全戸配布の情報紙にコラム「恵庭散歩」を連載、⑤思い出したように書くブログには毎日三百人の来訪者、六百ほどのアクセスがあり、⑥何年ぶりになるのか、春には函館・松前の桜を愛で、秋には十勝に晩成社の足跡を辿り、⑦伊豆の里山へも三回ほど足を運びました。

今年も老いを楽しみながら心静かに生きようと思います。

皆様のご健康とご多幸を心からお祈り致します。

2019年元旦

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