豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

恵庭の森林鉄道(歴史の道散策会2019 えにわ)

2019-06-20 14:13:18 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市郷土資料館主催の「歴史の道散策会」が、今年も615日(土)に開催された。講師は郷土資料館主査・学芸員大林千春氏。途中に小雨のぱらつきもあったが、参加した同好の方々15名は予定のコースを無事に完歩。

本年度のコースは、市役所から「御前水跡碑」「漁村帷宮碑」「大安寺」「豊栄神社」「松浦武四郎歌碑」「森林軌道跡」「山口県人開拓記念碑」を巡って戻る道程。各場所では当時の地図と資料をもとに解説があり、恵庭最初の市街地となった旧国道沿いでは昭和初期の写真と現在の姿を比べて見るなど、有意義で楽しい散策会でした。「転入してきたばかりで、恵庭のことが何もわからないので参加しました」という方もおり、故郷の歴史を学ぶ良い機会となった。

歴史の話を聞きながら、会話は自然と「恵庭の街を活性化するにはどうしたら良いか?」と発展。これも散策会の副次効果ということか。

 

◆恵庭の森林鉄道

本稿では森林鉄道について触れておく。森林鉄道とは、山から木材を搬出するために設けられた鉄道。昭和の初めから第二次世界大戦後の復興期に掛けて(昭和230年の約30年間)、恵庭でも盤尻から恵庭駅前まで森林鉄道が走っていた。今はその痕跡を市街地で見るのは難しいが、昭和30年測図の地図(恵庭1/25,000、国土地理院昭和34年発行)からそのルートを知ることが出来る。

森林鉄道は、恵庭駅前から恵庭小学校の脇を通り(斜めの道路、写真)、恵庭小学校と市民会館との間を抜け漁川に向かい(斜めの道路、写真)、漁川を渡ってからは大安寺を回り込むようにして豊栄神社の手前を南西方向に走っていた。弘隆寺の前を通る斜めの道路が現在も面影を僅かに残している。この道路は美咲野、牧場を経て今も盤尻に繋がる。漁川を遡れば、何ヶ所か鉄道の痕跡を見つけることが出来るだろう。

いつの日か、かつての橋梁が残る辺りまで鉄道跡を辿ってみたいと思った。

<歴史>

〇昭和2年(1927):王子製紙(株)が漁川水力発電所の建設資材運搬のため、恵庭駅と盤尻(ウシの沢土場)間14.4km軌道敷設の認可を受ける。

〇昭和6年(1931):帝室林野局札幌支局(林野庁札幌営林局恵庭営林署)が軌道を買収、恵庭森林鉄道開設。漁川上流まで軌道を延長。

〇昭和24年(1949):戦後復興期の木材需要に応じて、さらに上流(滝の上)まで延長し、総延長29.7kmの森林鉄道となる。木材搬出のためインクライン装置を建設。なお、漁川本流線の他に支流のラルマナイ川上流、イチャンコッペ川上流へそれぞれ軌道が敷設されたが、いずれも3、4年の短期運用で昭和18年(1943)に撤去されたという。ラルマナイ川の合流点には機関庫や宿泊所が設けられていた。インクラインが設置された場所の滝には「インクラインの滝」の名が付けられている。

〇昭和30年(1955):木材搬出はトラック輸送に切り替わり、森林鉄道軌道を撤去。

 

◆恵庭郷土資料館に展示されているインクライン(模型)

インクライン(incline)の意味は、傾斜、勾配、坂のことで、主に米国ではケーブル鉄道を指す。大辞泉には「傾斜面にレールを敷き、動力で台車を動かして船・貨物を運ぶ装置。京都市東山区蹴上にあったものが有名。勾配鉄道」とある。

恵庭森林鉄道でも峻険な山から木材を搬出するために、漁川上流にインクラインを設置していた。恵庭郷土資料館でその写真と展示模型を見ることが出来る。

恵庭森林鉄道については、地蔵慶護「恵庭森林鉄道とインクライン」(北海道文化財保護協会発行「北海道の文化 No.74」2002、特集、北海道の森林鉄道)に詳しい。

なお、漁川上流にインクラインの名前を付けた小さな滝「インクラインの滝、落差4m」がある。白老町の別々川上流にある「インクラの滝、落差44m」も、脇に設置されていたインクラインに由来すると言う(こちらは、日本滝百選の一つ)。

 

写真は恵庭郷土資料館展示品

参照:(1)恵庭市史 昭和57年7月発行、(2)北海道文化財保護協会「北海道の文化 No.74」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豆の人,韮山代官「江川太郎左衛門英龍(坦庵)」

2019-06-07 09:31:03 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

1日乗り放題の周遊バス「歴バスのるーら」は50分間隔で運行している。韮山反射炉の見学を終えて次の便に乗車した。目的地は「江川邸」。江戸時代の世襲代官を務めた江川家の邸宅である。主屋を中心に書院,仏間,表門,裏門,肥料庫,米蔵,武器庫などが残され,江川太郎左衛門英龍(坦庵)にまつわる資料が展示されている。

主屋は,13間(24m)×10間(18m)と大きく,広い土間からは高さ12mにもなる茅葺きの大屋根を支えてきた小屋組の荒々しい架構が眺められる。土間には生えていた欅の木をそのまま利用したとされる「生き柱」が立っている。また,玄関脇には,使者の間,控えの間,塾の間などもあり,そこに佇めば歴史が蘇る。樹齢を重ねた屋敷の樹々も当時の面影を彷彿とさせる江川邸である。

 

1.江川太郎左衛門英龍(坦庵)の生い立ち

◆江川太郎左衛門英龍は韮山代官江川英毅(江川家35代当主,代々太郎左衛門を名乗る)の次男として生まれる。名は英龍,幼名は芳次郎,号を坦庵(たんなん)と称した。父英毅は42年間にわたり,農地の改良・商品作物の開発など職務に尽力し名代官と呼ばれた人物である。

◆少年時代の英龍は兄倉次郎(英虎)とともに,父から直々の教育を受け6歳頃から「論語」「大学」など儒学を学び,母からは厳しさと優しさ,人の上に立つ心構えを学んだと言う。次男で気楽な部屋住み時代に色々な分野の人物と交友したことが,その後の人生に大きく影響したと考えられる。

◆堀内永人「韮山反射炉の解説」(文盛堂書店)によれば,父英毅の多彩な交友関係の中から,①儒学は水戸学の藤田幽谷,市川寛斎,山本白山,②漢詩は山梨稲川,大窪詩仏,頼杏坪,③戯作は大田南畝,山東京伝,④医学は杉田玄白,宇田川玄真,⑤書道は市川米庵,大窪詩仏,⑥測量は間宮林蔵,⑦絵画は谷文晁,大国士豊,立原杏所に師事。武道は荒稽古で有名な剣道場,江戸神田の神道無念流岡田十松の「撃剣館」に入門,2年後に免許皆伝,撃剣館四天王の一人に挙げられたと言う。

◆堀内永人は,撃剣館での様々な人との出会いが英龍の人生に大きな影響を与えたと述べている。例えば,①斎藤弥九郎:幕末の剣豪,英龍が最も信頼した人物,②藤田幽谷・藤田東湖:儒学者,水戸学(尊王攘夷)の権威,③会沢正志斎:儒学者,勤皇思想,④渡邉崋山:儒学者,画家,⑤高野長英:蘭方医,洋学者,⑥幡崎鼎:蘭学者,蘭方医,英龍蘭学の師,⑦川路聖謨:幕臣,勘定奉行,外国奉行,英龍のよき理解者,⑧羽倉外記:幕臣,儒学者,勘定吟味役らである。確かに,各分野のオピニオンリーダーたちである。

◆江川太郎左衛門自画像が残されている。面長で,眉は太く,黒目を大きく見開き,鼻は高く,グイと引き結んだ口元が印象的である。役者絵のような存在感がある。

2.韮山代官としての英龍

◆韮山代官は,伊豆・駿河・相模・甲斐・武蔵にある幕府直轄地の支配を担当する行政官である。英龍は,天保5年(1834)父英毅逝去に伴い家督を相続(兄英虎は24歳で死亡),翌天保6年(1835)韮山代官に任命された。

◆伊豆の国市文化財課「韮山反射炉」栞を引用する。「当時の日本は,全国的な飢饉に見舞われていて,各地で一揆や打ち壊しが頻発していた。また,異国船が相次いで来航し,補給や通商を求めてくるなど,まさに内憂外患と言っていい状態であった。・・・内政面では,飢餓で病弊した管轄地の村々を立ち直らせることが急務であった。英龍は自ら率先して質素倹約に努め,部下たちにも勤務精励と徹底した節約を求めた。また,村々を巡回して村役人への説諭と窮民の救済にあたった。同時に,各地に部下を派遣して実状を調査し,時には甲州微行図にあるように自身が現地に足を運び,正確な情報を得ようとする努力を惜しまなかった。加えて,困窮した村に対し長期低金利の貸付金を設定するなど,金融面の対策も積極的に導入している。そうした様々な努力の結果,韮山代官の管轄地の人々は英龍に心酔し,英龍は世直し江川大明神と称されるようになった(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」栞,平成31)」

◆この地方は二宮尊徳の報徳精神が強く根付いた地域である。英龍も尊徳の教え(質素倹約,殖産振興)を受けひろく実践した。新田開発,田畑改良,道路や橋梁の改修など環境整備に努め,救済事業を推進するなど領民の幸せを願った施策を行った。

◆嘉永2年から3年(1849-50)にかけて天然痘が大流行した。英龍は牛痘種痘法をわが子に治験し,役人の子供らを初め領民にも種痘を進めた。その結果,管内の天然痘被害は軽微であったと言う。

◆安政元年(1854)マグニチュード8.4の地震が発生し,日露外交交渉最中の下田は津波で甚大な被害を受けた。875軒のうち841軒が流失し,死者は総人口3,851人中99人(幕府からの出張役人などを含めると122人と推定される)であったという。幕府の救済支援も素早い立ち上がりをみせ,英龍はその日のうちに「お救い小屋」を設置し粥の炊き出しを行い,翌日には被災者の調査や対応策を処理し,幕府から米1,500石,金2,000両を下田へ届けた。

◆沈没したロシア艦船デイアナ号を修理(造船)することになり,英龍が建造取締役に任命された。英龍の指揮のもと天城山や沼津千本松原から木材が運ばれ,戸田村の船大工たちはロシア人の指導を得ながら設計図を頼りに3か月の突貫作業で100トンの西洋型帆船を完成させた(我が国初)。プチャーチンは人々への感謝を込めて「ヘダ号」と命名,部下47名と共にこの船で帰国(後に日本へ大砲52門を添えて返還・贈呈された。この時英龍は逝去していた)。建設に係った船大工たちは,各地で造船技術の普及指導にあたり我国造船業の礎を築いた。

余談になるが,安政3年に返還されたヘダ号は2年近く下田に繫留されていた。江川太郎左衛門(英敏)の手代となっていたジョン万次郎は漂流後アメリカ捕鯨船に乗り込んでいた経験から,この船に目をつけ捕鯨船に改良し出帆するが嵐に遭い破損し断念。その後,ヘダ号は箱館戦争に参加,函館で廃船になったと伝えられている。

 

3.海防政策推進者としての英龍

◆再び,伊豆の国市文化財課「韮山反射炉」栞を引用する。「英龍は,行政官として能力を発揮する一方で,海防問題にも深い関心を寄せていた。・・・幡崎鼎や渡邊崋山,高野長英といった蘭学者と親交を結び,より深く西洋事情を知って行く中で,日本にとって海防が必要不可欠であるとの思いを強くしたのであろう。後に形を成す英龍の功績の多くは,この海防というテーマを実現するために推進された事業にほかならない。西洋砲術の導入と普及,品川台場の築造,パン食の導入,農兵制度や海軍創設の建議,そして反射炉による鉄製大砲の鋳造。いずれも日本に進出してこようとする列強国と,いかに対峙するかの具体的な方法論であった。・・・英龍は,韮山反射炉の感性を見ることなく世を去ったが,反射炉築造という大型プロジェクト成功の功績は,まさにリーダーであった英龍に帰すると言える。情報収集と分析に始まり,人材の確保,実現可能なプランの策定など,事業を推進していく上で必要な総合力が,江川英龍という人物には備わっていたのである(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」栞,平成31)」

◆天保13年(1842)英龍は,砲術を学びたいと言う者を韮山に集め私塾韮山塾を開く。江川邸玄関脇の18畳一間を教室に当てた(塾の間と呼ばれた)。塾生の中には,佐久間象山,川路聖謨,橋本佐内,桂小五郎,黒田清隆,大山巌,伊藤祐亨らが名を連ねる。

◆天保13年(1842)4月12日,日本で初めて携行食糧としてパンを焼く。兵糧や飢饉のための備蓄食料として適していると判断したものである。江川邸の一角からパン釜の切り石が発見され,江川邸の土間に再建されている。業界では4月12日を「パンの日」と定め英龍を「パンの祖」と慕っている。邸内には,徳富蘇峰の筆による「パン祖江川坦庵先生邸」の碑が建っている。

◆洋式号令を採用する。「気ヲ付ケ!」「前ヘ倣エ!」「右向ケ右!」など今でも使われる歯切れのよい号令は,オランダ語を翻訳したもので,英龍が考え実行したものだと言う。

◆武士に代わる軍隊の必要性を痛感し「農兵隊」を編成。「農民はすぐに戦力にはならないが,訓練すれば国家防衛に役立つ」と農民の潜在力を認め登用を計画。下田警備のため足軽身分の農兵隊許可が幕府から降りると,すぐに農兵隊を編成し訓練を行った。高杉晋作の奇兵隊より17年も前のことである。「農兵節」は民謡として今も歌い続けられている。

◆嘉永6年(1853),ペリー提督やロシアのプチャーチン提督が来航し日本中が騒然となる中,英龍は「勘定吟味役格海防掛」を命ぜられた。また,同年7月「江戸湾砲台築造」を拝命。直ちに台場築造に着工し1年8ヶ月で完成させた。

◆嘉永6年(1853)7月,下田反射炉の築造許可申請書を提出。同年12月,反射炉建設の御用を仰せ付かる。その後の経過については,拙ブログ「韮山反射炉再訪2019.6.3」に記したとおりである。

  

4.英龍没する

◆嘉永7年(1854),54歳になった江川太郎左衛門英龍は多忙を極めた。①韮山代官,②勘定吟味役格,③海防掛,④江戸湾台場の築造工事責任者,⑤幕府の砲兵隊長(鉄砲方),⑥反射炉築造工事責任者,⑦デイアナ号の支援責任者などを兼務していた。英龍がいかに有能で,幕府の信頼を得ていたか想像に難くない。激務の結果病を得て,主治医大槻俊斎を初め16人の医師団が治療にあたるも,安政2年(1855)1月16日逝去。病名は腸胃性リウマチ熱であった。享年55歳。法名修功院殿英龍日淵居士。江川家菩提寺の日蓮宗「本立寺」に眠る。

◆江川太郎左衛門英龍が手掛けた事業は,英龍亡き後も継承され大きな実を結んでいる。韮山代官,江川家36代当主江川太郎左衛門英龍(坦庵),まぎれもなく歴史に残る伊豆人のひとりと言えよう。伊豆人特有の「無私」の心を持つ日本人であった。

 

参照:堀内永人「韮山反射炉の解説」文盛堂書店2015,肥田稔「幕末開港の町下田」下田開国博物館2007,肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館2009,伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」栞2019)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「韮山反射炉」再訪

2019-06-02 19:08:50 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

2019年5月の或る日、河津から天城峠を乗合バスで越え、修善寺で伊豆箱根鉄道に乗り換え伊豆長岡を訪れた。「韮山反射炉」を70年ぶりに訪ね、江川太郎左衛門英龍の足跡に触れて見ようと思ったのが旅の始まり。前日は季節外れの暴風雨で天城峠は交通止めになっていたが当日は天候も回復し、緑滴る天城路は爽やかだった。

伊豆長岡駅の蕎麦屋で椎茸そば(美味)を食べ、1日乗り放題の周遊バス「歴バスのるーら」に乗車。韮山反射炉バス停まで10分。当日は、5月だと言うのに外は30度を超える暑い日であった。

先ず、平成28年(2016)にオープンした韮山反射炉ガイダンスセンターで歴史を学び、修復なった韮山反射炉を見学する。隣接する物産館に立ち寄る。

 

 

◆旅の動機

小学生の頃、下田へ出る途中に「反射炉跡」と呼ぶバス停があった。下田街道(国道414号)を下田に向かって走り「お吉が淵」の信号を右手に別れる道路が旧国道で、山裾を這うように曲がりくねった細い道が稲生沢川に沿って「河内」「中ノ瀬」「本郷」地区を抜け、伊豆急下田駅前(本郷交差点)まで続いている。当時はこの道をバスが走っていた。現在もこの沿線(東海バス06門脇経由、逆川・蓮台寺・大沢口行き)に「反射炉跡」のバス停が残っている。バス停の周辺は静かな住宅地で反射炉の痕跡はない(当時は反射炉築造に使用した伊豆石がいくつか残っていたように思うが定かでない)。

子供心に「反射炉とは何だ?」と聞くと、「鉄を溶かす溶鉱炉で、江川太郎左衛門という人が大砲を作るために建てたもので、ペリーが下田に来た頃の話だ」と言う。この下田にも「偉い人がいたものだ」と感じたような気がする。その後、韮山反射炉を見る機会があり、江川太郎左衛門の名前は頭の片隅にずっと留まることになる。

◆韮山反射炉

韮山反射炉は、韮山代官江川英龍と英武親子が築造にあたり、砲数百門を鋳造したという耐火レンガ製の反射炉。煙突と炉跡が残っている。近代鉄鋼業発祥のシンボル。国指定史跡、近代化産業遺産。平成27年度に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼・造船・石炭産業(日本国内8エリア、23資産から構成)」登録。

反射炉本体は連双2基(4炉)から構成され、高さ15.7m、外部は凝灰岩(伊豆石)の石積み、内部は耐火煉瓦積み、煙突部は煉瓦組石。溶解量は1炉500-700貫(1.9-2.6t)だと資料にある。九州佐賀藩と技術を交換しながら完成させた先端技術の溶鉱炉。その後、全国各地で建設された反射炉の原型ともなっている。

 

◆築造に至る歴史的背景

築造に至る歴史的背景に触れよう。案内栞から引用する。「アヘン戦争を契機に、日本では列強諸国に対抗するため軍事力の強化が大きな課題となった。それを受けて、薩摩や佐賀などの各藩では、西洋の先進的な技術の導入が積極的に行われるようになる。幕府においても、韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)をはじめとする蘭学に通じた官僚たちにより、近代的な軍事技術や制度の導入が図られ始めた。江川英龍は、西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に進言している。このうち、鉄製大砲を鋳造するために必要とされたのが反射炉であった。嘉永6年(1853)、ペリー艦隊の来航を受け、幕府もついに海防体制の抜本的な強化に乗り出さざるを得なくなった。そこで、以前から様々な進言をしてきた江川英龍を責任者として、反射炉と品川台場の築造が決定されたのである。(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」平成31年発行栞)」

◆築造の経過

築造の経過は年表にも示したが、案内栞には以下のように記されている。「反射炉は、当初伊豆下田港に近い賀茂郡本郷村(現下田市)で着工し、基礎工事などが行われていた。しかし、安政元年(1854)3月、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入する事件が起きたため、急きょ韮山の地に建設地を変更することになった。下田での建設のために用意されていた煉瓦や石材は韮山に運ばれ、改めて利用された。また、千数百度という高温に耐える良質の耐火煉瓦は、賀茂郡梨本村(現河津町)で生産されていた。韮山での反射炉建設は順調には進まず、江川英龍は、その完成を見ることなく安政2年(1855)に世を去っている。跡を継いだ息子の英敏が建設を進め、安政4年(1857)、連双2基4炉の反射炉本体とその周辺の関連施設からなる韮山反射炉を完成させた。(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」平成31年発行栞)」

◆韮山代官江川英龍(坦庵)

見学後に感じるのは、反射炉建設を建議し責任者として苦労を惜しまなかった江川英龍(坦庵)の偉大なる生き様である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする