豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

牛飼い

2021-03-19 10:28:54 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の4:記憶の断章「牛飼い」のこと・・・。

◇◇◇牛飼い

生れて初めて見た光景として記憶に残っているのは何だろう? 何処かでキラリと光った水滴の輝きだったか、囲炉裏の赤い炎だったか、そんな一筋の光明が最初の記憶だったような気もするが確かではない。ただ、物心ついた頃には牛舎に二~三頭の牛がいたことを覚えている。

初めて乳牛を見たとき図体の大きさに圧倒され、大きな目に睨まれ、鼻息の湯気に後ずさりした記憶が蘇る。そして何よりも驚いたのは、滝のように流れ落ちる放尿の凄まじさだった。温湯の小便は音を立てて床を叩いた。子供なら簡単に吹き飛ばされてしまうほどの勢いだった。二~三歳になる頃には、牛が動きを止め背中を丸めるのは放尿や排便の予兆だと学習し、しぶきの洗礼を受けることもなかったが。

牛は横になっても咀嚼を続け、時には涎を垂らしている。「どうしてだ?」と母に聞いたら、「牛には四つの胃があって、食べたものを戻して噛んでいるのだ」と言う。その時、「牛は堅い草を食べるからゆっくり時間をかけて咀嚼する必要がある。草原で敵に襲われないように急いで食べて、安全なところへ行って噛み直す習慣からそうなった」とでも母親が応えていれば、将来動物学者になっていたかもしれない。

「食べてすぐ寝ると牛になる」と言われ、「人間が牛になるはずがない」と思いながらも素直に従う子供だったが、時には食べ過ぎて苦しくなり仰向けに寝ることもあった。そのような時、「牛なら反芻するのだが・・・」と妙に納得したことを思い出す。四つの胃は、植物繊維を分解する第一胃、餌を食道まで押し戻す第二胃、第四胃へ入る量を調節する第三胃、胃液を分布し消化をする第四胃と役割分担していることは後から知った。反芻動物はウシ、ヤギ、ヒツジ、シカ、キリン、ラクダなどいずれも草食動物である。

牛の尻尾に殴られると痛かった。夏になると虻や蝿(サシバエ)が背中に群がり吸血するのを牛は器用に尻尾で払うのだが、近くに子供がいても容赦なく一撃する。「馬は後足で蹴るから不用意に後ろから近づくな、牛の武器は角だから前から近づくときは注意しろ」と爺さんから教わっていたので、後方は安全だろうと近づき、背中の虻を捕まえようとして尻尾で叩かれることもあった。なお、牛に集まる蝿はサシバエ(Stomoxys calcitrans)で吸血性、形は似ているが「やれ打つな 蠅が手をする 足をする(小林一茶)」で馴染みのイエバエ(Musca domestica)とは属が異なることを学んだ。

飼育していたのは白黒斑紋のホルスタイン種で、搾乳と厩肥生産が目的だった。その頃集落には黒牛もいたが主に農耕作業に使っていた。牛にジャージー種、ヘレフォード種、アンガス種、黒毛和種、褐毛和種、日本短角種、無角和種など多くの種類があるのを知ったのは後年のこと、耐暑性が強いアジア原産のコブウシ系統牛が放牧されているのを見たのは五十年後の南米だった。

朝夕に搾乳した牛乳は流水で冷却したのち検査し集乳缶に入れ集荷場に集め工場へ搬出していたが、自家用としても利用していた。幼い頃は風邪をひきやすく、どちらかと言えば虚弱体質だったので牛乳は毎日飲んでいた。母は沸騰するときの匂いさえも嫌で全く飲めなかったが、遊び疲れて飲む牛乳は美味しかった。祖父は体質改善にとマムシの骨を焼いて食べろと言うが、これには辟易した。祖母は生卵を飲めと言う。ご飯にかけた生卵は美味しいが、そのまま飲み込むと黄身は何とも言えぬ不思議な味がした。

乳牛の餌は生草の場合もあるが、稲藁にカブや青木葉を加え濃厚飼料を混ぜて与えていた。生草や稲藁、青木葉は「押切り機」で裁断するが、この道具は危険なため子供は使わせてもらえなかった。大人でも誤って指を切り落とす事故が多かった。その代わり、カブを桶に入れ采の目に突くのは子供の仕事だった。牛飼いを生業とすれば搾乳、給餌、給水、敷き藁交換と終日忙しく、しかも一年中休めない。子供心にも自然と手伝わねばと思うような環境だったので、率先して手伝ったような思いがある。

牛舎を清潔に保つためには、排出物の片づけと敷き藁交換が必要で大変な作業だったが、厩肥生産は当時の百姓にとって重要だった。化学肥料が潤沢でなく高価だった時代である。堆肥を積み発酵させ、田畑に施し作物を育てた。そんな意味でも乳牛は大切な存在であった。ブラシ掛けして牛体をいつも磨き上げていた。嫁探しに初めての家を訪ねるとき「牛を見せて下さい」と声をかけると爺さんは内輪話をしていたが、牛の飼育状態を見れば其処の家族の働きぶりが分かるということだったのだろうか。

牛舎で飼育していると蹄が延びる。牛の脚を折るように持ち上げ自分の膝に乗せ、小さな専用鎌で蹄を削るのを見た時は、これぞ職人技だと感心した。牛の蹄は二つに分かれている。いわゆる偶蹄類で、第一指が退化、第三指と第四指が発達したのだと言う。これも草原を走るために進化したもので、奇蹄類ウマは第三指(中指)だけが進歩したのでより速く走れるのだと聞いた。

乳生産を続けるためには子牛を出産させなければならない。牛の発情状況を観察し獣医師に連絡すると、技師はオートバイでやってきて冷凍精液を取り出して人工授精する。数ヶ月後には着床と体内子牛の生育状態を観察するため、肛門から腕を入れ触診する様子には子供心に驚いた。子牛は牝であれば血統によってそれなりの値が付くが、牡は肉用にと早々に引き取られて行った。これは悲しい出来事だった。

乳量のコンクールや牛の品評会が毎年行われていた。乳量コンクールでは例年良い成績を収めおり、骨格がどうだ、乳房の大きさがどうだと大人たちは話していた。乳量を増やすには餌の管理が重要だが、祖母がそっと濃厚飼料を追加給餌する姿を見たことがある。家族全員が家畜を宝のように扱っていたのだろう。高学年になると牛を牽いて歩く事もあったが、手綱を緩めて牛に任せておけばどんな細い路でも踏み外さないことを知った。

 

古い資料を整理していたら、血統証明書(血統証券)や種付け証明書、伝染病検査書(畜牛結核病検査受験票、伝染性流産トリコモナス検定証など)が保管されているのを見つけた。血統証明書には当該種の名前、両親の名前、出生日、毛色、毛斑の特徴(後に鼻紋も)、所有者名等が記載されている。

振り返れば、父(啓山石堂)の代も畑仕事や山仕事の傍ら牛飼いを続けていた。牛の匂いを纏った暮らしだったと言えるかもしれない。子供らも給餌、給水、厩肥搬出などの手伝いは勿論だが、代掻きに牛を御し、お産に一人立ち会うこともあった。大学受験で浪人中も牛の世話をしながら、雑誌「蛍雪時代」と通信教育の添削で過ごした。北海道へ渡ることに決まった時、「牛飼いにでも行くのだろうさ」と話す声が何処からともなく聞こえてきた。

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伯父「朝義」のこと

2021-03-18 14:27:39 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の3:伯父「朝義」のこと・・・。

◇伯父「朝義」のこと

古いアルバムに軍服姿の青年の写真がある。

「これは誰だ?」と尋ねたら、「長男の朝義で・・・死んでしまった」と祖母常然(つね)は答えた。祖母の淋しそうな顔を見てそれ以上詳しい話は聞けなかったが、父に兄がいたことを知った。生きていたらその兄が家を継ぐことになっていたのだろうと子供心に感じ、以降この話題は封印してきた。

最近になって古い資料を整理していたら、丁寧に保管された伯父朝義の卒業証書や賞状が出てきた。また、朝鮮出兵の折のアルバムには細かい説明が付されており、朝義名義の「天城山葵沢日記」には資材の調達や出荷先と出荷量、人夫出役記録など、山葵の生産販売記録が詳細に記録されている。祖父文義(文次郎)もそうだったが、朝義は几帳面な性格だったのだろう。私が生まれたのは伯父逝去後なので面識はなく、残された資料を見て想像するしかないのだが・・・。

朝義が生まれたのは明治42年(1909)である。幼少期に第一次世界大戦が勃発し、日本は中国における勢力拡大と戦時景気による高揚感に満ちていた。尋常高等小学校卒業年には関東大震災が発生している。大正デモクラシーと呼ばれる民主主義の台頭、米騒動、世界恐慌があった。青年期には満州事変が起こり、犬養首相の暗殺、国際連盟脱退、ヒットラー総統就任など日中戦争勃発に向かう激動の時代を生きた。僅か25年余の生涯は凝縮され濃密なものだったに違いない。没後87年、伯父朝義の足跡を辿る。

(1)生い立ち

◇明治42年(1909)3月7日、文義(文次郎)・常然(つね)の長男として生まれる。出生地は賀茂郡稲梓村須原5××番地、3歳上に姉喜代子がいた。

◇大正10年(1921)3月に賀茂郡稲梓尋常小学校卒業、同級生(大正9年度卒業)は28名だった。大正12年(1923)3月に尋常高等小学校(2年課程)を卒業。

◇大正15年(1926)3月、賀茂郡村立稲梓農業補習学校5年課程を卒業。尋常小学校卒業後は高等科と農業補習学校の双方で学んだのだろう。農業補習学校5年課程修了後は同研究科(2年課程)に進学し、昭和2年3月に「本校生徒ノ中堅トナリ克ク他生ノ善導ニ務メ其ノ功績顕著ナリ」、昭和三年三月には「孜々黽勉ニシテ一般生徒ノ模範タリ」と賞状を授与され研究科を修了している。

◇昭和2年(1927)から4年(1929)にかけては農業補習学校研究科に通いながら青年団でも活動している。昭和4年12月には賀茂郡稲梓青年訓練所の過程を修了し、「一般生徒ノ模範タリ」と表彰される。

◇文次郎は大正13年(1924)に幸蔵(新田)と謀り計2,000円を出資し、天城梨本で山葵の栽培を始めているが、朝義は学業や青年団活動の傍ら懸命に働いていた様子が伺える。朝義名義の「山葵沢日記」には諸経費(資材、出役など)や出荷記録(岡林商店、東京日本橋石川商店、東京京橋金子久太郎、東京京橋青物市場、田島商店、戸野部商店など取引先と出荷量)が残されている。

(2)二十歳代

◇昭和5年(1930)6月入営。昭和6年(1931)6月歩兵第76連隊所在地のある朝鮮羅南に渡った。歩兵第76連隊は大日本帝国陸軍の連隊の一つで、満州事変の勃発に伴い同年12月連隊の派兵が決定された。朝義は昭和7年(1932)陸軍歩兵第一等兵として務め、「賞状(小銃第二種徽章付与)」「善行證書」「賞状(射撃成績優等に付小銃特別徽章を付与)」「陸軍憲兵上等兵適任證書」等が残されている。

◇昭和8年(1933)除隊。実家に戻り家業に携わる傍ら青年団活動に関わる(静岡県賀茂郡青年団講習証書が残されている)。昭和9年(1934)7月15日下田町(旧岡方村)5番地にて逝去。享年26歳。三玄寺墓所に眠る。

伯父朝義が早逝した病名について聞いた覚えがない。軍隊での怪我が原因だったのか、若くして病死したのであれば結核だったのかと想像していたが、石堂(啓二)が昭和17年に契約した生命保険の被保険者審査報状に朝義の死因は急性肺炎と記載されているのを見つけた。

(3)入営時の餞別

入営(昭和5年6月29日)及び朝鮮入営(昭和6年6月21日)時の餞別覚書がある。恩師、三玄寺住職、親戚、友人、集落の方々の名前と金額が列記されている。多くは50銭から1円、親戚が3円から5円とある。

また、 昭和9年の葬儀記録(香典控簿)には多数の方々からお悔やみを頂いた記録がある。当時の香典は20銭から50銭、親戚が2円程であったようだ。また、3人の僧侶が葬儀を執行しているが、お布施は導師に10円、外2名の僧侶に各2円の記載がある。忌中見舞いとして白米1~2升などの記録もあり、村人が物品を持ち寄り総出で葬儀を執り行っていた様子が伺える。

集落の人々は弔事や祝い事のみならず、田植えや稲刈りなど多忙な農作業も協力し合っていた。いわゆる手間換え、結いの精神である。都会でも町内会が葬儀に関わるなど結びつきが強かったが、平成~令和時代になるとこの慣習は次第に薄れてしまった。さて、この慣習を「煩わしい」「と考えるか、「寂しい」と感じるか。

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四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券

2021-03-17 09:44:13 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の2:禮堂文義が保存していた「四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券」・・・。

◇四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券

禮堂文義(文次郎)は第二次世界大戦前の国庫債券を保管していた。一枚は昭和9年(1934)発行の「大日本帝国政府四分利公債證書」(へ号、無記名)額面50円、他は昭和15年(1940)発行の「大日本帝国政府支那事変行賞賜賞国庫債券」(い号、記名)額面70円及び昭和16年(1941)発行の「大日本国政府支那事変国庫債券」(く号、無記名)額面25円である。

◇昭和九年発行「四分利公債證書」

写真は昭和9年(1934)に発行された「四分利公債證書」である。発行記号は「へ」、額面50円、表面に「(一)此国債ハ発行ノ年ヨリ五箇年据置キ其翌年ヨリ三十箇年内ニ之ヲ償還ス、(二)此国債ノ利率ハ年四分トス、(三)此国債ノ利子ハ毎年六月一日及十二月一日ニ於テ各其ノ日以前六箇月間ニ属スルモノヲ支払フ・・・(五)此国債ノ消滅時効ハ元金ニ在リテハ十箇年利子ニ在リテハ五箇年ヲ以テ完成ス・・・」の記述があり、40枚の利札(6か月分の利金各1円)が付いている。利札は昭和20年前期までの22枚が切り取られ、それ以降の18枚が残っている。昭和20年に利子22円を受け取ったが、元金と以降の利子は支払われなかったのだろう。

昭和初期の50円はどの位の価値があったのだろう? 比較は難しいが、消費者物価指数を基準にすると約2,000倍になると言う。現在の10万円程度であろうか。

◇昭和十五年発行「支那事変行賞賜賞国庫債券」、昭和十六年発行「支那事変国庫債券」

「支那事変行賞賜賞国庫債券」は昭和15年(1940)発行で、発行記号は「い」、額面70円、健吾叔父の名前が記されている。表面の記載によれば「(一)此債券ハ右ノ者ニ対シ支那事変ニ関スル一時賜金トシテ交付スル為之ヲ発行ス、(二)此債券ノ元金ハ昭和三十五年四月一日迄ニ之ヲ償還ス、(三)此債券ノ利率ハ年三分六厘五毛トス、(四)此債券ノ利子ハ毎年四月一日ニ於イテ其ノ日以前一箇年間ニ属スルモノヲ支払フ・・・」とあり、35枚の利札(各2

円55銭)が付いている。昭和24年4月1日までの20回分が切り取られて、それ以降は残っている。昭和20年までに利子51円を受け取ったが、元金と以降の利子は支払われていない。

もう一枚の「支那事変国庫債券」は昭和16年(1941)発行で、発行記号は「く」、額面25円、利率年3分半利の債券である。表面の記載事項は「(一)此債券ノ元金ハ昭和三十三年十二月一日迄ニ之ヲ償還ス、(二)此債券ノ利率ハ年三分六厘五毛トス、(三)此債券ノ利子ハ毎年六月一日及十二月一日ニ於テ各其ノ日以前六箇月間ニ属スルモノヲ支払フ・・・(五)此国債ノ消滅時効ハ元金ニ在リテハ十箇年利子ニ在リテハ五箇年ヲ以テ完成ス・・・」とある。43銭の利札が35枚ついているが、昭和20年4月1日までの8回分が切り取られ、それ以降は残っている。昭和20年に利子3円44銭を受け取ったが、元金と以降の利子は支払われなかったのだろう。

因みに、支那事変は昭和12年(1937)盧溝橋事件を発端に始まった。日支事変、日華事変とも称されたが、後に日中国交正常化を受け1970年代以降は日中戦争と呼ばれている。日中戦争から太平洋戦争への流れの中で、大日本国帝国政府は多くの国庫債券を発行して財政を賄っていた。

 

◇賜金国庫債券を無効とする

賜金国庫債券は、日中戦争(支那事変)及び太平洋戦争(大東亜戦争)の論功行賞として金鵄勲章授与者等の功労者に対し支給する一時賜金に代えて交付された(昭和15年法律第69号)。しかし、終戦後、連合国最高司令官は日本政府に対し軍人等に対する恩給、給与等の支払停止に関する指令を発し(昭和20年11月24日)、賜金国庫債券も無効にすべきと指示した。この指令に基づき、政府は「賜金国庫債券ヲ無効トスルノ件」を閣議決定し(昭和21年2月26日)、昭和21年勅令第112号によって無効とする措置をとった。戦争に関わる対応とは言え、わが国でも法律によって国債を無効にした歴史がある。

◇放棄された戦時国債

禮堂文義は、賜金国庫債券以外の国庫債券を何故に放置したのだろうか。戦後4年間で東京の小売物価が80倍になったと言われる債券価値の下落が原因ではないかと想像できる。日本銀行調査によれば、昭和9~11年(1934~36)の消費者物価指数を1とした場合、昭和29年(1954)の物価指数は301.8(18年間で約300倍)。また、卸物価も昭和9~11年に比較し昭和24年(1949)までに約220倍、昭和20年(1945)後の4年間で約70倍のインフレーションだったと言われる。インフレの原因は、戦時国債や軍人退職金支払いのために日本銀行が国債を引受けたことによるが、戦時国債はこのスーパーインフレによってほとんど紙屑となった。庶民の僅かな預金も同様だった。

なお、保管されていた国庫債券は消滅時効が既に完成しているので現金化出来ない。たとえ紙屑同然だったとしても、禮堂文義(文次郎)や寂空常然(つね)が生きた時代の歴史遺産。大事なものだ。

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禮堂文義が保存していた「感謝状」「嘱託状」

2021-03-16 09:54:32 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の1:禮堂文義が保存していた「感謝状」「嘱託状」・・・。

◇感謝状と嘱託状

禮堂文義(文次郎)名の感謝状や委嘱状が何枚か残されている。それらの書類を最初に見たのは幼少の頃だったが、子供心に「祖父はこんなこともしたのか」と思い、祖父文次郎の性格や集落での立ち位置が理解出来た様な気がした。祖父が実直で間違いのない人間と評価されていたことは疑う余地がないだろう。

◇国勢調査「感謝状」

写真は昭和5年(1930)10月に実施された国勢調査に関わった折の感謝状である。文面には「本年十月施行ノ国勢調査ニ関シ克ク尽力セラレタリ茲ニ感謝ノ意ヲ表ス 昭和五年十二月二十日 内閣統計局長従四位勲三等長谷川赳夫」とある。国勢調査は大正9年(1920)に第1回を実施したのち5年ごとに実施されているので、文次郎が国勢調査員を務めたのは第3回国勢調査ということになる(因みに、直近の令和2年調査は第21回目)。

国勢調査とは、統計法(平成19年、法律第53号)に基づき「日本国内の外国籍を含むすべての人及び世帯」を対象に実施する、わが国の最も重要な基幹統計調査である。本法は個人情報保護法の適応外とされ、調査拒否や虚偽報告に対する罰則規定も定められている。このため、国勢調査員は総務大臣の任命による非常勤国家公務員と位置づけられている。このような国勢調査だが簡単に実施が決まったわけでなく、開始までには紆余曲折があったようだ。制度設定までの流れを追ってみよう。

(1)明治治28年(1895)日清戦争が終わった同年9月に国際統計協会から日本政府に対し「1900年世界人口センサス」への参加要請があった。これを契機に制度設定の機運が高まった。明治の初めにも、「沼津政表」「原政表」(明治2年)、「甲斐国現在人別調」(明治12年)など地方版調査が行われたが、全国レベルでの調査は実施されていなかった。

(2)明治35年(1902)「国勢調査ニ関スル法律」が公布され、明治38年の実施を予定したが、日露戦争のため実施は見送られた。

(3)大正4年(1915)第一次世界大戦の影響で実施が見送られた。

(4)大正9年(1920)第1回国勢調査実施。

国勢調査開始から100年が経過した。近年は国勢調査の未回収率が高まっているのだと言う。例えば、平成12年(2000)1.7%、平成17年(2005)4.4%、平成22年(2010)8.8%、平成27年(2015)13.1%と増加傾向にある。直近の令和2年(2020)の最終結果はまだ公表されていないが、郵送とインターネットによる回答数が前回より上昇しているので、未回収率は5~10%に留まるのではないかと推察される。未回収増加の大きな原因はプライバシーに対する意識変化であろう。

文次郎の孫の私も町内会役員時に国勢調査員を務めた経験があるが(昭和60年芽室町、平成17年恵庭市)、当時は調査票を各戸に配布し改修する手順になっていた。神経を使う大変な業務だった印象がある。郵送及びインターネット回答が可能になったことは個人情報保護の観点からも一歩前進だろう。

◇小麦増殖実行委員「委嘱状」、片倉製糸蚕種製造実行班長「嘱託状」

写真は「静岡県小麦増殖実行委員ヲ嘱託ス 昭和七年十月十日」と表記された嘱託状と「坂戸分場土屋文次郎 右者実行班長ヲ嘱託ス 昭和八年四月壱日 片倉製糸紡績株式会社沼津蚕種製造所」と書かれた嘱託状である。

小麦については、食糧増産の掛け声のもと国内生産が推し進められていた時期である。農林省は「主要食糧農産物改良増殖奨励事業」を行い、優良品種普及のために種子増殖事業を全国で展開していた。昭和7年(1932)に89万トンだった小麦生産は、8年後の昭和15年(1940)には180万トンに達している。第二次世界大戦後も全国で約150万トンの生産を維持していたが、昭和30年(1955)関税貿易一般協定(GATT)に加盟後は貿易自由化によって輸入が増え国内生産は減少の一途を辿った(昭和51年、22万トン)。

写真は「静岡県小麦増殖実行委員ヲ嘱託ス 昭和七年十月十日」と表記された嘱託状と「坂戸分場土屋文次郎 右者実行班長ヲ嘱託ス 昭和八年四月壱日 片倉製糸紡績株式会社沼津蚕種製造所」と書かれた嘱託状である。

一方、養蚕も歴史の荒波にもまれた。幼少時の記憶には養蚕風景が鮮明に残っている。養蚕に使う部屋の消毒、種卵の配布、繭の集荷など製糸会社の技術者が巡回していたが彼らは片倉製糸沼津蚕種製造所の人間だったのだろうか。裏の畑にも桑が栽培されていた。葉を摘むために指にはめる刃のついた便利な道具があることを知った。大人のマネをして使ってみたが、子供の柔らかい指には危険だと体感したのもこの頃である。わが家では10年以上養蚕を行っていたが、戦後は生糸の需要が減少し集落から養蚕は消えて行った。

片倉製糸紡績株式会社は、明治期から大正期にかけての日本の主力輸出品であった絹糸の製造を行い、片倉財閥を構築した老舗企業である。かつて操業していた富岡工場(富岡製糸場)が日本の工業近代化の貴重な遺産として世界文化遺産(富岡製糸場と絹産業遺産群)に登録されている(2005年、富岡工場の土地・建物を富岡市に寄贈した)。第二次大戦後は化学繊維の普及が進んだため、平成6年(1994)に伝統事業である蚕糸事業から撤退し他部門へシフトした。

一枚の古い資料に歴史が蘇り、想像が広がる。

 

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