豆の育種のマメな話

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伊豆の人-3,「伊豆の長八」と呼ばれた男

2011-10-31 18:01:27 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆の松崎町に「伊豆の長八美術館」がある。漆喰芸術,鏝絵(こて絵)の名工と謳われた入江長八の記念館である(昭和59年開設)。平成2210月この地を訪れ,初めてその芸術性に触れた。

 

従前から,伊豆の町には「なまこ壁」と呼ばれる外壁の民家や土蔵が多く,その白色に盛り上がった部分が漆喰であることを知ってはいたが,漆喰の鏝絵を芸術まで高めた伊豆出身の男がいたことを知らなかった。

 

なまこ壁とは,壁面に平板の四角い瓦を並べ,その継ぎ目を漆喰でかまぼこ型に盛り上げて塗ってあるもので,装飾的な目的だけでなく,防火や雨水を防ぐ役割があった。この地方は海からの風が強く,火災が起きると大火事になり易く,防火に優れるこの建材が普及していた(江戸幕府も防火のために漆喰壁を奨励していた)。現在でも,下田や松崎など伊豆の周辺にはなまこ壁の建物が残っているので,ご覧になった方々もいらっしゃるだろう。また,古くは城郭や寺社,商家,民家土蔵などの室内壁にも板壁や土壁(竹格子に土と切断した藁を混ぜて塗り込む)の表面に漆喰を塗ったものがあった。漆喰壁は,保温,防湿にも優れる。

 

村山道宣編「土の絵師伊豆長八の世界」,松崎町HPなどによれば,長八は,文化12年(1815)伊豆国松崎村明地(現,松崎町)に,父兵助,母てごの長男として生まれた。家は貧しい農家であったが,菩提寺である浄感寺の住職夫妻に可愛がられ,浄感寺塾で学ぶ。12才の時村の左官棟梁・関仁助に弟子入りして左官の技術を磨く。当時から手先の器用さは知られていたようである。19才の時江戸に出て,著名な狩野派の絵師・喜多武清の弟子となり3年間修業した。

 

そして,漆喰に漆を混ぜて鮮やかな色を出す,長八独自の技法を生み出し,鏝絵の新境地を開いた。26才で江戸茅場町薬師堂の御拝柱の左右に「昇り竜」「下り竜」を描き,評価を得て,一躍名工と謳われるようになった。その後,浅草観音堂,目黒祐天寺,成田不動尊などに名作を残したが,多くは関東大震災で消失したという。長八の技術は多くの弟子によって九州まで広まった。

 

長八が郷里松崎に戻り制作した作品も残っている。現在,松崎には伊豆の長八美術館に約50点,浄感寺の長八記念館に約20点が公開されている。東京に残っているのは,橋戸稲荷,泉岳寺,寄木神社,成田山新勝寺など約45点といわれる。

 

鏝絵であるにもかかわらず繊細。伊豆の長八美術館に入ると鑑賞のため虫眼鏡を渡されたが,確かに彼の技術は虫眼鏡を必要とするほど細かい。この記念館を建設する際には,全国左官業組合の協力の下,全国から多くの名工達が集まり腕をふるったと,伝えられている。最近の住宅建築では,新資材が出回り,左官業が腕を振るう場面が減っている。ましてや鏝絵を飾るような建物も,名工と呼ばれるような職人が活躍できる機会も少ないのではあるまいか。

 

漆喰芸術としては,ヨーロッパのフレスコ画が知られている。フレスコ画は,壁に漆喰を塗り,その漆喰がまだ生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く手法である。やり直しが効かないため,高度な計画と技術力を必要とした。ルネサンス期にも盛んに描かれ教会に多く残っている。ミケランジェロの「最後の審判」などがよく知られている。一方,鏝絵は文字通り鏝を使って,色づけした漆喰を塗っていくが,漆喰の乾燥によってもたらされる色合い,保存性など共通項も多い。

 

参照  1) 村山道宣編「土の絵師伊豆長八の世界」 2) 松崎町HP

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伊豆の人-2,「三余塾」,奥伊豆生まれの碩学土屋宗三郎(三余)

2011-10-29 10:46:02 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

依田佐二平や依田勉三らが幼少の頃大きな影響を受けたのが,碩学の漢学者土屋三余(幼名宗三郎)であったと,前回述べた。

ところで,この人物はどんな人だったのか?

 

萩原実著「北海道十勝開拓史話」,松崎町役場HP,松本春雄HPなどからその一端を知ることができる。

 

土屋宗三郎は,文化12年(1815)伊豆国那賀郡中村(現,松崎町)に生まれ,6歳で父の伊兵衛安信を失い,8歳の時には母冬子にも死別したため,母の実家である道部村(現,岩科)の斎藤弥左衛門宅に引き取られ,そこから松崎の淨感寺に通い,住職本田正観から経書を学んだ。

 

天保217歳の時,江戸に出て高名な儒学者東条一堂の門に入り漢学を修め,また大沢赤城から国学,算術,剣法に励み,赤城塾では勝海舟とも机を並べたと伝えられている。江戸における土屋宗三郎の名声は次第に高まったが,天保1025歳のとき伊豆に帰郷し,依田善兵衛の娘みよ(勉三の父の姉)を娶って塾を開く(最初竹裡塾と称したが,三余塾と改める)。門弟は総計七百余名,その名声を聞きつけ,東は仙台・江戸から西は熊本にまで及んだという。

 

三余とは,魏の薫遇が詠んだ「読書当以三余,冬者才之余,夜者日之余,雨者時之余」に因む。いわゆる「晴耕雨読」で,農業のできない冬の間や,夜間または雨降りを利用して,学問することだという意味で,「士農の差別をなくすには,業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要」との信念に基づく。

 

萩原実著「北海道十勝開拓史話」に,三余自作の五言絶句の漢詩「姑息吟」「莫懶歌」(塾の校歌)が紹介されている。塾生はこれを吟唱しながら作業や家事にいそしんだというが,三余塾の情景が垣間見えて面白い。郷土史家足立鍬太郎の訳が付いているので引用する。

 

姑息吟

六歳(むつ)で学問本気にならにゃ年をとっても役立たぬ,

十二学問本気にやらにゃ六歳(むつ)の子供に負けましょう, 

十四学問本気になれず僅か十五でやめる馬鹿, 

とかく学問本気にやらにゃ末は後悔臍をかむ

 

莫懶歌

寝床片付ケ顔ヲバ洗イ懶(なま)ケズ懶ケズ部屋ノ掃除ヲソレ急ゲ作法ノ始メハココカラジャ, 

掃除スンダラ道具ヲシマイ懶ケズ懶ケズ声ヲソロエテ本ヲ読メ民ノ勤メハ国ノ本(もと)・・・

 

三余は勤皇の志に篤く,広く天下の志士と交わり大義を唱え,天誅組十津川事件の志士松本奎堂と親交が深かったという。伊豆の僻地にあって,当時の若者たちに与えた三余の教化は大きく,後の晩成社結成・十勝開拓にあたり,依田一門はじめ郷里の有志が多数参画したのも,三余精神の発露であったのだろう。三余は慶応元年,痔疾のため塾を閉じて江戸に下り,勤王の同志や勝海舟と交わって倒幕運動に奔走,慶応2年幕臣の凶刃に倒れた。

 

なお,門下生には,依田善六(晩成社初代社長),依田佐二平(晩成社二代目社長,大沢小学校・私立中学豆陽学校設立など教育振興,県会議員,衆議院議員,養蚕業および海運業振興),依田勉三(十勝開拓),大野恒也(豆陽中学校長兼賀茂郡長),石田房吉(遠洋漁業の先駆者で元国鉄総裁石田礼助の父)など郷土の逸材が多い。

 

伊豆人気質という言葉がある(人国記による)。いわゆる「一本気」。三余や依田兄弟の行動を見るにつけ,言いえて妙である。かくいう私も奥伊豆の生まれ,なぜか納得している。

 

 

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伊豆の人-1,「依田勉三」 奥伊豆の里から何故「北海道十勝開拓」だったのか?

2011-10-26 18:05:24 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

奥伊豆は,今でこそ電車が走り東京からも3時間弱で行くことができる気候温暖な土地であるが,江戸末期の当時は峻険な天城峠に阻まれた交通不便な地であった。江戸幕府がアメリカとの和親条約を結ぶにあたり,江戸から遠い下田を選定したことでも窺い知れる。

ところで,このような片田舎から,北海道開拓に夢を描いた依田勉三のような人間が何故生まれたのだろうか?

 

そんな疑問を抱えたまま,2010年久々にこの地を訪れた。依田勉三が生まれた依田家は那賀郡大沢村(現,松崎町大沢)にある。私の生家から直線距離にすれば16km程と近いが,谷間を走る国道は山を迂回して進み峠を越えなければならない。娑羅峠の九十九折りを下りると,那賀川のほとりに道の駅「花の三聖苑」があり,三聖会堂,大沢学舎などから昔を偲ぶことができる。

 

資料には,依田家は当地の名主であり豪農と記されているが,江戸から離れた奥伊豆辺境の地が豊かであったとは考えにくい。伊豆の里は農地が狭く,いわゆる寒村の地であった。江戸に出て碩学の誉れ高かった土屋宗三郎(三余)が,伊豆に戻り私塾(竹裡塾,後に三余塾)を開いたのは,「この辺りは遠州掛川藩の領地で江名陣屋の役人が横暴を極め,善良な農民達が苦しめられていたのを見ながら育った。士農の身分差別をなくすためには農家の青少年を教育し,知徳を磨くことによって武士と対抗させることが大切だとの信念をもった」ことによるという(松崎町HP)。また,依田家11代の佐二平が,三余塾に学んだ後,「大沢塾」「謹申学舎」「私立豆陽学校」の開設など教育に心血を注ぎ,養蚕業や海運業の発展に尽力して,地域の経済振興に心を砕いていたことでも伺い知れる。

 

この地で生まれた若者たちの純粋な心に,貧しさに耐え抜いた強靱な意志が芽生え,其処に,江戸を往来する「風待ち船」から多くの新鮮な情報が入ってきたことが,彼らの心に大きな影響を及ぼしたことだろう。時代は幕末から明治へ移る変動の時で,嘉永7年にはアメリカ艦隊が下田に入港している。

 

1. 三余塾に学ぶ

三余とは,魏の薫遇が詠んだ「読書当以三余,冬者才之余,夜者日之余,雨者時之余」に因む。いわゆる晴耕雨読で,農業のできない冬の間や,夜間または雨降りを利用して,学問することだという意味に因んでいる。浄感寺住職本田正観から経書を学び,江戸に出て東条一堂のもとで漢学を修め,碩学の誉れ高かった土屋宗三郎(三余)は,この地に戻り塾を開く。門弟は,その名声を聞きつけ,東は仙台・江戸から西は熊本にまで及んだという。

 

三余が修学の信条としたのは,「人の天分には上下の差異がない。したがって士が貴く農が賤しい理のないこと」「人には天分を完うするために職業を持たねばならない。自分のためには,家のためにも国のためにも働くことである」「士農の境界を撤去するには,業間の三余をもって農家の子弟を教育し,その器を大成せしめて士に対抗させることである」の三つであった。

 

三余は,常に塾生と起居寝食をともにし,塾生の名も“さん”づけで呼び,塾生の人格を疑い損なうような言動もせず,品性の陶冶に心を砕いた。質素謹直清廉を専らとし,入門に際しても束修金1分を受けるだけで,その後は1文も謝礼を受けなかったという。依田佐二平とともに勉三もこの塾に学び大きな感化を受けている。

 

 2. 兄,依田佐二平の薫陶

善右衛門の長男として生まれた佐二平は,5才にして三余塾に入り,17才で江戸に出て学ぶ。20才で家督を継ぎ(依田家11代),翌年から大沢村名主。その後,県議会議員,賀茂・那賀郡長,衆議院議員など歴任。晩成社設立。また蚕業,農業,海運業の発展に多大な貢献を果たす。

 

少年期に両親を失った勉三にとって,温厚で至誠な7才違いの長兄佐二平の影響は大きかったと思われる。また,この地は二宮尊徳の報徳精神が浸透しており,勉三も「報徳訓」を毎朝唱えていたという。

 

3. 謹申学舎に学ぶ

佐二平をはじめ有力者が協力して開設した郷学校「謹申学舎」。塾長に会津藩の保科頼母(戊申戦争で会津藩の白河方面総督,函館戦争では榎本武揚軍に参加)を迎え漢学を,また静岡藩士山川忠與が英語を教え,数学の講義もあった。勉三も入門している。

 

4. 慶應義塾でケプロン報文と出会う

勉三は江戸に出て慶応義塾に入る。江戸に遊学するとき,江川太郎左衛門(韮山代官)の支援があったという。福沢諭吉の「本邦の人口が年々増加して耕地と相伴わず,今にして不毛の地を開拓せねば食糧欠乏せん」の言葉に深い影響を受け,またこの時期の「ケプロン報文」との出会いが大きな転機になったと考えられる。

 

ケプロン報文は「そもそも本島(北海道)の広大たるやアメリカ合衆国西部の未開地に等しく,その財産は無限の宝庫である。・・・かかる肥饒の沃野を放置するは,日本政府の怠慢と言っても過言ではない。・・・もし放置するなら外国がこの地を侵略するであろう。それは必ず後生に悔いとなろう。・・・」とある。これに接し,北海道開拓の決意をしたとされる。

 

6. ワッデル塾での出会い

スコットランド出身の宣教師,医師のヒュー・ワデルの英語塾で学ぶ。後に,北海道開拓の同士となる渡辺勝,鈴木銃太郎と出会ったのもこの塾生としてであった。

 

勉三は明治9年慶應義塾を退学して伊豆に戻り,兄佐二平を手伝い富岡への養蚕研究や豆陽学校創設に関わる。佐二平明治12年に豆陽学校設立。渡辺勝を首席教員(校長)に迎え,勉三も教諭を務めた。明治14年に北海道開拓を表明し,単身北海道探査。明治15年には依田佐二平,依田園,依田善吾,依田勉三を発起人に晩成社を設立,鈴木銃太郎および鈴木親長(銃太郎の父)とともに渡道。札幌県庁に開墾の許可を願い,十勝に向かう。

 

十勝を開拓地と決めたのは,内田瀞,田内捨六(札幌農学校一期生)による内陸実地踏査記録(明治14年)に書かれた「十勝は最も牧畜に適するところ・・・」に触発されたためと言われる。一方,開拓使庁で出会った渡瀬寅二郎(沼津兵学校附属小学校から札幌農学校卒業,後の興農園創始者)には,「十勝は時期尚早,札幌近郊の開拓を」と勧められたという。しかし振り返れば,十勝入植に尚早の面はあったかも知れないが,晩成社がなかったら十勝の今はあり得まい。

 

下田北高等学校の校訓,校是として「至誠」「雄飛」であったことを思い出す。貧しさ脱却に,徳,忍耐,進取の技をもってする。その基本は教育なり,とする一本気な伊豆人の心意気は,今もこの地に健在だろうか?

 

参照  1) 萩原実「拓聖依田勉三伝」「北海道十勝開拓史話」 2) 松崎町役場HP 3) 松本春雄HP

 

 

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南米三国(BAP)では,何を目標に大豆育種を進めているか?

2011-10-22 17:27:02 | 南米の大豆<豆の育種のマメな話>

生産増加が続く南米大豆であるが,課題は多い。課題解決に向けては品種対応が一番であるとの認識で,新品種開発の努力が精力的に進められている。南米三国における大豆育種はいま,何を目標に進めているか?

多収・安定性,適応性

南米における大豆栽培地帯は低緯度から高緯度まで広範であるため,それぞれの地域の環境に適する安定・多収品種が求められる。また,耐倒伏性や難裂莢性などは大型コンバインで収穫するための必須形質である。生育障害に対する耐性では,病害抵抗性,センチュウ害抵抗性,耐乾性などを重視した育種が進められている。

 

病害,センチュウ害抵抗性

被害が大きい病虫害の種類は,ブラジルとパラグアイでは褐紋病(Septoria glycines),茎かいよう病(Diaporthe phaseolorum f.sp. meridionalis),紫斑病(Cercospora kikuchi),葉焼病(Xanthomonas oxonopodis pv glycines),炭腐病(Macrophomina phaseolina),さび病(Phakopsora pachyrhizi),シストセンチュウ(Heterodera glycines)が,アルゼンチンではその他に菌核病(Sclerotinia sclerotiorum),茎疫病(Phytophthora sojae),急性枯死症(Fusarium solani f. sp. Glycines)であり,これらの耐病性育種が目標となっている。勿論,地域によってその重みは異なる。

 

茎かいよう病は1988/89年作で初めて確認され,ブラジルのパラナ州,マトグロッソ州およびパラグアイで大問題となった。Embrapa大豆研究所では幼苗期の抵抗性検定法(爪楊枝接種)を確立し,育種事業に導入して短期間に抵抗性品種の開発に成功した。パラグアイのCRIAでも同様の抵抗性検定を育種に組み込み,抵抗性品種を開発した。最近育成されたほとんどの品種は,茎かいよう病について抵抗性をもっている。

 

ダイズシストセンチュウについては,1992年ブラジル,1998年アルゼンチン,2002年パラグアイで相次いで発生が確認され,被害面積も拡大している。ブラジルではシストセンチュウによる汚染面積は250haに達すると推定され,Embrapa大豆研究所やマトグロッソ農業研究財団(Fundação MT)等がレース13に対応した抵抗性品種開発に成功しており,本格的な抵抗性育種に取り組んでいる。アルゼンチンではサンタフエ州とコルドバ州で汚染圃場率が高く,パラグアイではブラジルに隣接する北東部のカニンデジュ県やアルトパラナ県で汚染圃場率が高い。アルゼンチンおよびパラグアイ両国でも最近になって抵抗性品種が開発された。

 

一方,シストセンチュウの拡散が予想に反して抑えられているのではないか,との意見もある。その理由として,不耕起栽培であること,高温のためシストの孵化が早まり大豆の生育とズレが生じること,などが挙げられている。しかし,線虫対策が重要なことに疑いはない。

 

さび病(アジア型)は,2001年にパラグアイで発生が確認され,その後ブラジル,ボリビア,アメリカ合衆国などへ拡大した。筆者は当時パラグアイに滞在しており,発見者であるEmbrapa大豆研究所Yorinori博士と現地調査する機会(2001年)があったが,さび病がこれほどまで急激に拡大し,被害が継続するとは思わなかった。しかし現在,アメリカ大陸の大豆育種機関では,さび病耐性の付与が緊急の課題として取り組まれている。

 

環境ストレス耐性

水分不足は生育の停滞と減収を招きやすい。特に,開花・着莢期の旱魃は被害が大きく,南米各地では頻繁に旱魃害がみられ,その年の豊凶はいつも干ばつとの関連で語られる。したがって,乾燥耐性は重要な特性である。また,地帯によっては高塩分土壌耐性などの課題もある。しかし,これら耐性育種は,まだ実際の事業として定着しているとは言えず,より適性の高い品種を選択している段階にある。

 

食品・加工適性

主たる用途は製油用であるため,高脂肪品種が一般的ある。最近は食品・加工用も一部目標とされ,輸出を念頭に高タンパク,その他特殊用途の育種も試みられている。

 

Embrapa大豆研究所では独立行政法人国際農林水産業研究センター(JIRCAS)との共同研究を進め,リポキゲナーゼ欠失の有機農業用品種(BRS 213, BRS 257)や納豆用品種(BRS 216)を開発した。また,アルゼンチンではINTA MJが遺伝資源の成分評価など育種研究を開始した。

 

参照土屋武彦2010「南米におけるダイズ育種の現状と展望」大豆のすべて(分担執筆)サイエンスフォーラムを一部加筆,詳しくは本書をご覧下さい。 

 

 

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下田北高第11回卒業生の記録,十勝での研究生活22年

2011-10-20 17:13:57 | 伊豆だより<里山を歩く>

奥伊豆の閑静な場所(下田市蓮台寺)に県立下田北高校(現,下田高校)がある。私の家は農家で,天城路に連なる山奥(須原)にあったので,下田高校での3年間はバス通学した。自転車で行くこともあったし,たまに高校の裏山から峠を越え荒増(稲梓)に出て,更に山道を歩くこともあったが,山育ちの身にはこの道程も苦に思わなかった(今でこそ山道は荒れ果て通行もできないが,当時はまだ峠越えの道が縦横に張り巡らされ,近道として利用されていた)。

 

この高校の入学式の日,校長は式辞の中で,当校の前進は私立豆陽学校(明治12年創立)で創立者は依田佐二平,西伊豆の松崎町の人であると話した。その場では「そうか,そうか・・・」という程度のことであったが,依田佐二平の名は記憶に残った。当時,下田北高には河津,松崎,南伊豆,八丈島等からも生徒が集まっており,大学進学を目指すクラスも編成されてはいたが,2年生の後半頃からようやく進学を意識するようなのんびりした雰囲気であった。また,クラブ活動でも稲生沢川で泳いでいた水泳部が県大会で良い成績を上げてはいたが,その他ニュースになるような出来事もなく,凡々たる学校であったように思う。

 

高校卒業後は浪人生活を経て,「まあ,いいか・・・」と受験した北大で4年間を過ごすことになる。初めて海を渡り(試験場は東京だった),落ち着いたのが恵迪寮。ここには,全国から集まった豪傑が寝起きしていて,金はなかったが理想は高く純粋で,思えば貴重な体験と多くの友情を得ることができた2年間であった。教養課程を終え,進んだ学部は農学部(専攻は植物育種)。そして卒業後,就職したのは北海道立十勝農業試験場,大豆の品種改良(農水省指定試験地)が仕事となった。

 

十勝では,十勝平野開拓の父と謳われる依田勉三(明治15年,依田佐二平,園,善吾,勉三を発起人に晩成社を結成して十勝開拓に入る)が,依田佐二平の弟であることを知る。彼については多くの歴史資料があり,晩成社の苦難の歴史とともによく知られているのでここでは詳述しない。が,就職した十勝農業試験場の前身は,明治28年(1895)北海道庁が晩成社の社宅の一部を借りて,仮事務所を設置し十勝農事試作場として発足したのが開基とされる。十勝農事試作場はその後十勝農業試験場と名前を変えながら,十勝開拓・十勝農業の振興を技術面で支え続けてきた。

 

伊豆の出身で下田北高を卒業し十勝農業の発展に関わるという,依田佐二平・勉三との不思議な縁を感じながら,十勝では22年間暮らすことになったのである。仕事柄,十勝の農業現場は庭のような感覚でよく歩き,帯広,大樹,音更などなど晩成社の足跡を幾度となく訪れ,開墾の苦労を偲ぶことも多かった。この地で二人の子供が生まれ家族の核が出来たのだから,第二の故郷と言えなくもない。

 

さて,十勝は「豆の国」として全国的に有名で,実需者がほれ込む良質な豆の生産地として知られる。十勝小唄(1927年)には「ランランラントセ,カネガフル,トカチノヘイヤニ,カネガフル,狩勝峠で東を見れば,雲か海かや只芒々,十勝平野は涯てしも知れず,あれサ日本一,豆の国…」と唄われている。豆景気に沸く当時の様子が生き生きと伝わる歌詞である。ところで,豆の栽培はいつごろ十勝に入り,定着したのであろうか。

 

 依田勉三ら晩成社の一行は,明治16年(1883)帯広に入り,開拓の鍬を下ろす。食糧としてアワを播き,色々な作物の試作を始めるが,天候不順やイナゴの来襲,兎,鼠,鳥の被害などにより殆ど収穫できなかった様子が記されている。「・・・本年は主に大小豆を播種いたし候ところ,九月二十四日の初霜より数回の濃霜にて大害をこうむり皆無と相成り落胆仕り候・・・」とある。

 

そのような時,札幌農芸伝習所で学んだ山本金蔵(南伊豆町市ノ瀬出身,渡辺勝の妻カネが入植早々読み書きを教えた中の一人)が数粒の大豆を帯広に送り,栽培したところ安定して収穫ができることが分かり,これを契機に豆類が安定作物として栽培されるようになったという。明治24年(1891)のことであった。豆の国十勝の曙である。

 

山本金蔵が帯広へ送った大豆が何であったか知る由もないが,十勝で安定して収穫できたことを考えると,「秋田大豆」の系統ではないかと思われる。秋田大豆は,渡島国南尻別村字大谷地の苫米地金次郎が北海道移住の際携帯した秋田大豆から選抜したもので,その地名にちなんで「大谷地」と呼ばれ,その後これから純系分離法によって選出された「大谷地2号」などが,十勝の基幹品種として普及する。大豆栽培は,当初北海道開拓とともに道南地方で始まり,道央を経て,道東の十勝地方へと広がりを見せる。明治43年(1910)には十勝が全道の栽培面積の26%(2ha),昭和14年(193949%(4ha),昭和40年(196565%(21ha)を占め,十勝が主産地となって行った。

 

十勝農業試験場で大豆新品種開発を担当していた頃(昭和4050年代),「キタムスメ」「ヒメユタカ」「キタコマチ」「キタホマレ」「トカチクロ」「トヨムスメ」「トヨコマチ」「カリユタカ」「大袖の舞」「トヨホマレ」「ハヤヒカリ」「ユキホマレ」等の育成に関わった。この中のいくつかは,先に述べた「大谷地」の血を受け継いでいる。晩成社の夢と苦労を想像しながら過ごした北海道での研究生活であったが,新技術の普及を通じ十勝農業の発展に多少なりとも寄与できたのではないかと自負している。

 

そして今,十勝農業は畑作と畜産を主体に発展し,大規模で機械化された生産性の高い農業が展開されている。農家1戸当たりの平均耕地面積は約37.8haと全国平均の約24倍の規模,乳牛飼養農家1戸当たり飼養頭数は約118頭でEU諸国の水準に匹敵する規模である。また,農家戸数に占める専業農家の割合は約73%,主業農家の割合は約90%で専業的経営が圧倒的に多く,産出額2,400億円を超えるまでに発展した。

 

二宮尊徳の「報徳精神」が根付いていた伊豆に生を受け,幼少の頃「三余塾」(土屋三余)に学び,長じては慶応義塾で福沢諭吉の思想にふれ,北海道の可能性を語る「ケプロン報文」に感化され,ワッデル塾で学び,同志を得,札幌農学校一期生の内田瀞,田内捨六の「内陸実地探査記録」に触発された勉三が,十勝を選び,開拓にかけた夢はいま農業王国として成熟している。最近,TPP議論がにぎやかであるが,外圧に耐えうる農業地域はわが国で十勝だけかも知れない。勉三なら今,何を思うや?

 



 

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南米三国(BAP)の大豆育種体制

2011-10-19 17:35:19 | 南米の大豆<豆の育種のマメな話>

南米各国の大豆育種は,公的機関に加えて民間の種子会社が担っている

ブラジルBrasil

農水産供給省の大豆品種保護登録簿に品種登録を申請している機関は2008年現在35社あるが,その中でブラジル農業研究公社(Embrapa),Monsoy社,農業協同組合研究センター(COODETEC)およびマトグロッソ農業研究財団(Fundacção MT)による品種登録数が全体の70%を占めており,これらが代表的な育種機関といえよう。

Embrapa大豆研究所は,パラナ州ロンドリーナ市に位置する。ブラジル農牧業研究公社40ユニットの一つで,品種改良,土壌・栽培管理,病害虫防除,食品加工および経営などの研究開発が進められている。また,低緯度地帯に対応する大豆研究センターとしての役割を担っていて,南米各地からの研修生受け入れ,研究情報の発信など各国の大豆研究をリードしている。2006年同研究所が奨励している育成品種は,中南部だけでもBRS 232BRS 256RRなど26品種で,同国大豆種子市場の46%に対応している。研究者70名,総職員数300名の体制で,350haの試験圃場,15研究棟,23温室など研究施設も充実している。

COODETECは,パラナ州カスカベル市に本部があり,研究と種子生産・販売を業務としている。ブラジル国内に5研究所,95試験圃場を有し,各地帯に適応する品種の育成を行っている。2008年,CD 201CD 214RRなど各地域に対応した27品種を奨励している。

Fundacção MTはマトグロッソ州ロンドノポリス市に本部をおく同国最大の財団で,生産者,種子会社,農薬会社,機械メーカー,輸送業者などからの基金と種子販売収入によって運営されている。大豆育種は年間400800組合せの交配を行い,農場200ha5か所の現地選抜圃で選抜を進め,全国50か所で系統評価を実施している。

その他,育種には民間種子会社も多く参入しているが,公社や財団組織が育種をリードしている点が同国の特徴である。

アルゼンチンArgentina

国立農業技術研究所(INTA)と民間のNideraDon MarioMonsantoRelmoSyngentaなど多くの種子会社が育種を行っている。民間種子会社はいわゆるメジャーなものから,国内の中小会社まであり,大豆品種保護登録簿に登録申請している機関は2008年現在46社と多い。

品種保護登録簿へ登録申請のために必要な特性を評価する連絡試験は,同国の大豆研究センターであるINTA マルコスフアレス農業試験場(INTA MJ)が取りまとめを行っている。連絡試験は緯度の高低と降水量の多少によって区分された13地域64か所で行われ,試験結果は翌年の播種前には公表される。この試験にエントリーするための費用は,種子協会(Asociación de Semilleros Argentinos: ASA)との協定によりINTAへ振り込まれ,各地域のINTA地域農業試験場が評価を担当している。

因みに,INTA MJの大豆育種グループは,育種,病理,栽培,品質など各分野の専門家13名で構成され,年間120組合せの交配,5,000系統の予備選抜,280系統の生産力検定予備試験,60系統の生産力検定試験を実施している(1970~80年代の育種研究創始期,筆者等は技術指導に携わった)。

パラグアイParaguay

公的機関としては,農牧省所属の地域農業研究センター(CRIA)が育種を行っている(*2011年,独立行政法人パラグアイ農業技術研究所IPTAに組織替え)。また,JICAパラグアイ農業総合試験場(CETAPAR)も小規模ながら育種を進めている(**2010年に日系農協中央会へ移行)。パラグアイ国内で独自に育種を行っている種子会社は,まだ数が少なく規模も小さい。実際に栽培されている主な品種は,2008年現在A 4910RR,A 7321RR,CD 202,CD 219RR,BRS 245RR,BRS 255RRなどで,多くはブラジルのEmbrapa,COODETECおよびアルゼンチンのNideraなどが育成した品種である。

これら国外の種子会社は,パラグアイでの種子販売を目的に育成系統の選抜を行い,パラグアイ農牧省が実施する大豆品種連絡試験の評価を得て,商業品種国家登録簿に登録し種子を販売している。実際には,パラグアイ国内に試験圃を持ち,系統評価及び展示PRを行っている場合が多い。ブラジル南部に適する熟期群の品種は,パラグアイでも良好な成績を示すことが多い。

CRIAはイタプア県カピタンミランダ市にあり,畑作農業研究のセンター場である。1979年に開始された日本からの技術協力(JICA,2008年3月に終了)によって整備が進み,大豆育種事業を着実に展開しているが,育成品種の普及シェアは低い。最近の情報によると,国家経済情勢の悪化を反映して,研究体制が弱まっているという。

技術協力の成果としては,1997年にはAuroraが同国の登録第1号となり,2008年までに7品種が育成された(いずれもNon-GMO)。量は僅かであるが,Auroraは豆腐用として日本へ輸出されているので,ご存じの方がいらっしゃるかも知れない。

CRIA育成品種の普及率が低いのは,同国政府がGMOを承認しなかったため,国立機関であるCRIAでのGMO品種開発が遅れ,隣国アルゼンチンからのGMO品種が非合法栽培された経緯がある。因みに,ブラジルではGMO承認前から育種研究を許可していたので,解禁と同時に品種交替が進んでいる。

参照:土屋武彦2010「南米におけるダイズ育種の現状と展望」大豆のすべて(分担執筆)サイエンスフォーラムを一部加筆,詳しくは本書をご覧下さい。

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南米における大豆栽培の歴史<導入の経緯>

2011-10-15 10:04:24 | 南米の大豆<豆の育種のマメな話>

南米における大豆栽培の歴史は比較的新しい19世紀末から20世紀初頭にかけて導入試験が試みられたが,商業作物として定着したのは1940年代以降(第二次世界大戦以降)のことである。その後,1970年代の価格高騰を契機として大豆栽培は南米各地で爆発的に拡大し,1990年以降さらに飛躍的な伸びをみせた。その結果,ブラジル,アルゼンチン,パラグアイに代表される南米の大豆生産量は,2007年には世界の過半を超えるまでになった。

ブラジル

1882年バイア州農学校の教師Gustavo DUtraが数品種を導入試作したのが最初の記録である。その後,1892年サンパウロ州カンピーナス農業研究所,1900年リオグランデ農学校,1914年リオグランデ・ド・スル州ポルトアレグレ農科大学等で試験が行われた。バイア州は低緯度(南緯12度)のため大豆栽培には適さなかったが,南部のリオグランデ・ド・スル州(南緯30度)では気象条件が似ているアメリカ合衆国南部の品種が試作され良い成績を示した。

一方,日系移住者も大豆の導入に関わっている。1908年に日本人コーヒー農園労働者が移住第1船でサントス港へ入港したのを初めとし,1940年までに約19万人の日本人がブラジルへ移住し,サンパウロ州やパラナ州北部へ定住した。彼らは持参した大豆を栽培し,味噌,醤油,豆腐など大豆食品を作り始めたのである。

一方,日系移住者も大豆の導入に関わっている。1908年に日本人コーヒー農園労働者が移住第1船でサントス港へ入港したのを初めとし,1940年までに約19万人の日本人がブラジルへ移住し,サンパウロ州やパラナ州北部へ定住した。彼らは持参した大豆を栽培し,味噌,醤油,豆腐など大豆食品を作り始めたのである。

当初大豆は,リオグランデ・ド・スル州に限定された地域作物,あるいは日系移住者の庭先に植えられた作物に過ぎなかったが,1950年小麦の輪作作物としてマメ科作物の大豆が選ばれ,大々的なキャンペーンが張られたことから栽培は拡大し,大豆生産は経済的にも安定した。また,第二次世界大戦がもたらした食糧不足は大豆食品に注目させ,1960年代に入ると製油工場の設立,豆乳の製品化が進んだ。1940年代後半1万トンに過ぎなかった大豆生産量は,1969年には100万トンを超えている。

南部3州が中心であった大豆生産は,1960年のブラジリア遷都および1970年代に始まる中西部に広がるサバンナ地帯(セラード)開発にともなって爆発的に拡大し,1974年に生産量は中国を抜き世界第2位になった。セラード地帯の開発には日伯セラード農業開発協力事業が大きな役割を果たしている。また,1973年にブラジル農業研究公社(Embrapa)が創設され,同公社の大豆研究所は低緯度に適する品種開発,病害抵抗性品種開発,病害虫防除,肥料・根粒,輪作と不耕起栽培技術の研究を加速させた。

大豆育種については,1936年頃カンピーナス農業研究所(IAC)などで開始された。当初はアメリカ合衆国等からの導入品種について選抜試験が進められ,Santa RosaMissõesSulinaなどいくつかの品種が選出された。Santa Rosaはリオグランデ・ド・スル州で主要品種となった。1958IACが冬季に実施した飼料用品種試験で日長感受性の低い品種が見つかり,同国北部における大豆栽培の道が開かれた。その後,低緯度地帯への適応性を求めて育種が進められた結果Cristarinaが開発され,本品種は今日ブラジル中央部に普及する多くの品種の基礎となっている。宮坂四郎博士ら日系技術者の貢献が大きい。

アルゼンチン

大豆が最初に導入されたのは1862年であったが,当地に適応するものではなかった。1909年にはいくつかの農学校で試作が始まり,1910年代にはパンパ地帯のコルドバ農業試験場や北部のツクマン農業試験場で試作が続けられた。1940年代にはブラジルに接するアルゼンチン北部のミシオネス州で栽培がみられた。

ブエノスアイレス州にあるペルガミノ農業試験場は,パンパ地帯への大豆導入を目的に海外から導入した96品種の比較試験を実施し(1956年から3年間),アメリカ合衆国から導入のLeeが良好な成績を示したと報告している。さらに,1960年からは国内各地で品種比較試験を実施するとともに,展示圃の設置,栽培技術情報の提供,大豆女王の選出など大豆生産に対する啓蒙普及が進められた。この頃,多収穫コンテストでは無肥料栽培で2.8t/haを記録している。当時の栽培技術は,品種も含めほとんどがアメリカ合衆国からの導入に依存していた。

大豆生産は1960年代後半以降増加し続け,1970年代半ばには世界第4位の生産国になったが,栽培されていたのはBragg, Davis, Halesoy71, Hoodなど導入品種であった。また,同国は牛肉の消費大国であるため大豆の食品化や食品研究は進まず,ヨーロッパへの輸出作物として位置づけられていた。

1970年代後半になって国立農業研究所(INTA)は,日本からの技術協力(JICA)を得ながら本格的な育種をスタートさせ,1983年には交雑育種による同国最初の品種Carcaraña INTAを開発した。

パラグアイ

1921年医師Pedro N. Ciancinoがヨーロッパ留学の帰国時に持ち帰り,栄養学的見地から栽培を試みたのが大豆導入の最初とされるが,栽培定着の記録はない。一方,1936年に日本からの移住が開始され,日系人は開墾した焼畑に持参した種子を播き,味噌,醤油,豆腐,納豆などの食品用として大豆栽培を始めた。1946年の第1回農業センサスによれば163トンの生産量があり,1962年には3,500トンへと増加した。

1970年代に入るとトラクタやコンバインなど機械化が進み,大豆価格の高騰も生産増加に拍車をかけ,日系入植地以外へも栽培は拡大した。また,1980年代には不耕起栽培が導入され,生産量は急激に増加した。同国の大豆生産量は1991年に100万トン,1999年に300万トンを超え,2008年には400万トンに達しようとしている。大豆の輸出額は同国総輸出額の40%を超え,今やパラグアイ経済を支える重要な作物となっている。

栽培の開始から商業作物としての定着,不耕起栽培技術の率先導入など,日系人は同国の大豆生産をリードしてきた。1979年から地域農業研究センター(CRIA)で開始された日本の技術協力(JICA)も,研究環境の整備と育種研究の推進に大きな貢献をした。

その他の国

ウルグアイ,ボリビアでも1970年代から大豆生産が始まった。中でもボリビアは,1990年代に栽培拡大が進み,1998年に生産量が100万トンを超えた。2009年の生産量はサトウキビに次いで第2位(150万トン),生産額は牛肉に次いで第2位(4億ドル)に達し,同国の重要品目になった。ここでも,オキナワ,サンファン日系移住地の方々の力が大きい。また,ボリビア,チリ,ペルーなどでは栄養改善の見地から大豆の利用が注目されてきた。

 

南米大豆,生産拡大の要因は何だろう?

世界の大豆生産量は年々増加し,FAOSTAT(2009)によれば22,318万トンに達した。国別にみると,1位アメリカ9,142万トン,2位ブラジル5,735万トン,3位アルゼンチン3,099万トン,そして4位中国1,498万トン,5位インド1,005万トン,6位パラグアイ386万トン,7位カナダ350万トン,8位ボリビア150万トンと続く。この中で,南米各国の生産量増加が近年著しく,全世界の大豆生産量に占めるシェアは2002年にアメリカを超え,2007年には51%(2009年には42%)に達している。因みに日本は20~25万トン。

南米における生産量増加の要因は何だろう? ①価格の優位性に対応できた,②耕作地拡大が可能で強い国際競争力を有する,③新品種や不耕起栽培など技術向上,④遺伝子組み換え品種の普及,⑤中国への輸出増加などが指摘される。特にブラジルの場合は1970年代に開始されたセラード開発に負うところが大きい。不毛の地とされてきたブラジル中央高原のサバンナ地帯は大豆の主産地となった。また,アルゼンチンでは先駆けて遺伝子組換え品種を普及したことが生産拡大の要因として大きく,同国では最近10年間で非農業用地560万haが大豆生産地に転換したといわれる。

南米で生産される大豆および大豆油は大部分が輸出用で,輸出先は当初ヨーロッパ諸国が主体であったが,2000年代に入ると中国が第一の輸出先になった。最近の中国における輸入拡大が,南米の大豆生産意欲を高めたといっても過言ではない。

参照:土屋武彦2010「南米におけるダイズ育種の現状と展望」大豆のすべて(分担執筆)サイエンスフォーラムを一部加筆,詳しくは本書をご覧下さい。

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リマ, 黄金の都はどうなった?

2011-10-10 09:52:50 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

黄金の都リマ

ペルーは,紀元前から古代文明が栄え,16世紀スペインに征服される前はインカ帝国の中心地であった。スペイン植民地時代に,首都がアンデス山中のクスコから沿岸のリマに移され,ペルー副王領として栄えた。植民地時代のリマはポトシ銀山から産出される銀の輸出港であり,南米植民地支配の中心地であった。19世紀の独立後もリマはペルー共和国の首都であり,都市圏人口は現在890万人といわれている。

因みに,ペルーの地形は大きく三つに分かれる。太平洋沿岸地帯のコスタ(標高500mまで),アンデス山脈が連なるシェラ(アンデス山脈西斜面の500m以上から東斜面の標高1,500mまで),アマゾン流域のセルバ(アンデス東斜面2,000m以下)である。それぞれ気候が異なり,植生も大きな違いがある。太平洋沿岸コスタ地帯は砂漠が広がり,アンデスの雪解け水が流れる川の流域や地下水が湧出する場所に都市が形成され,現在ペルー国民の半数以上が太平洋沿岸地帯に住んでいる。リマはこのコスタに位置する。

私達は,成田からロスアンゼルス経由でリマのホルヘ・チャベス空港に入った。拙著「豆の育種のマメな話」は,次のような言葉で始まっている。

ランチリ航空601便は,リマのホルヘ・チャベス空港に着陸しようと機首を下げていた。眼下には,太平洋の波が打ち寄せる海岸線が南北に延び,その海岸線からはアンデス山脈の北の峰に続く荒野が眺められる。その海岸に近いところに,レンガ造りの家並みとわずかな緑が町を形成している。・・・20年前にこの空港へ立ち寄ったのは,アルゼンチン出張の途中で一人旅。その時はわずか一夜のリマであったが,今回は一週間,マチュ・ピチュを訪れ,ナスカの地上絵を眺めることが出来るだろう」

さてここでは,リマ市内で訪れた旅の印象を記そう。旧市街セントロ地区の中心はマジョール広場,大統領府,カテドラル,市庁舎が広場に面して建っている。スペイン風の広場は多くの人で賑わっている。

黄金博物館

リマの実業家だったミゲル・ムヒカ・ガーリョ(Miguel Mujica Gallo)が,収集したものを展示公開している黄金博物館(Museo Oro del Perú)。ユーカリの木立に囲まれた住宅地の一角にある。1階は武器博物館,日本の鎧兜や刀剣もある。地下にモチェ文化,シカン文化,チムー文化,インカ文化等ペルーを代表する文明の金銀,銅,宝石入りの装飾品,食器などが数多く陳列され,見応えがある。2階は織物展示室。なお,世界に黄金博物館と名のつくものはいくつかあるが,中南米ではコスタリカのサンホセ,コロンビアのボゴダにあるものが知られている。

天野博物館

マで活躍した実業家,故天野芳太郎(秋田県生まれ,リマ名誉市民18981982)が収集した,プレインカ・インカ時代の織物や土器が数万点展示・収蔵されている(博物館は私財を投じて1964年に設立)。彼は,仕事の傍ら,リマの北およそ60kmにあるチャンカイ河谷を訪れて発掘・採集を続けた。そこで発見された織物や土器類,化石化した栽培植物,生活用具から,チャンカイ渓谷に極めて優れた文化が存在していたことが明らかになった。アンデスの古代文化を愛し,アンデス人の心を理解し,その完成に尽力した氏の思いが伝わってくる。中でも,華麗にして繊細な織物の収集品が素晴らしい。海外にあって,日本人が応援したくなる博物館である。

パチャカマ神殿

リマから南へ30kmの海岸近くにある日干し煉瓦で作られた広大な遺跡。「パチャカマ」とは天地の創造者という意味で,パチャカマ神を信仰する民族の祭祀行事に使われた神殿であったとされる。太陽の神殿,月の神殿,太陽の処女の館からなる。

「遺跡は,新時代の征服者によって壊され,財宝を狙う盗掘者に荒らされ,崩壊への道を辿る」

「文化財の保護は難しいね」

「近頃ではスラム街が拡大し,遺跡が侵食される事例が結構多いそうだ」

「心ない観光客による崩壊も問題だね」

「ガードマンが必要な訳だ。ここでも,自動小銃を抱えたガードマンが目を光らしている」

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クスコ,インカ帝国の都は黄金の輝き

2011-10-08 16:20:00 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

旅の安全を祈って「アウサンガテ」と呟いた

ペルーの南東部,標高3,4003,600mにあるアンデスの懐に抱かれた街,クスコCusuco)。太陽を崇拝し,高度な文明を築いたインカ帝国の首都であった(1200年代から1532年まで)。「クスコ」とはケチュア語で「へそ」を意味する言葉で,インカの人々にとってクスコが世界の,文化の中心であったことを示し,インカ道も此処から各地に延びていた。インカ帝国の最盛期には,南はボリビア,チリ,アルゼンチンの北部まで,北はエクアドル全域,コロンビアの南部までその勢力を誇り,古代エジプト王国にも似て,1,200万人を超える人々が自活できるシステムが整えられていたという。

黄金の輝きは太陽の輝き,金は太陽の涙」と考えたインカの人々は,神殿や宮殿を黄金で華やかに彩った。16世紀,その豊富な黄金を狙ったスペインの征服者たちは(15331534年,最初のスペイン人がクスコに入る),インカの建造物を壊し,その巨大な礎石の上に教会や邸宅などスペインの街を作った。土着の寺院はカトリック教会に,宮殿は侵略者の住宅にされるが,建造物の構造は重厚な文化の融合された形となって残っている。クスコは暫くスペイン植民地とキリスト教布教の中心地であった(1542年リマに首都が移され,リマがスペイン植民地の中心となる)。

クスコ郊外にはインカの石組が今も昔のままにあり,「剃刀の刃1枚通さない精密な石組み」「灌漑用水路」など,当時の技術の高さを知ることができる。そしてまた,金や財宝を求めてやってきた征服者たちの術策にはまり,インカ帝国が滅び行く哀愁の物語も語り継がれている。

「インカ帝国は何故滅亡したのだろうか?」

「疫病が蔓延したという説があるね。ヨーロッパからもたらされた疫病が,特にパナマ以南に広がったと言われている。抵抗性をもたないインデイオの多くが死亡し,帝位継承などを巡る内紛が起き体制は弱体化して行った」

「スペイン軍との戦も熾烈だったでしょうね」

「勿論,戦での死傷者は多かったし,皇帝アタワルパを絞首刑にして体制が壊れたこともあるだろう。それ以降も,金銀などの鉱物搾取のため鉱山開発に多くの先住民を駆り出し,苦役の末100万人以上もの原住民が死亡したと言われている」

市内のサント・ドミンゴ教会,サクサイワマン遺跡など郊外の遺跡を巡る。ロレト通りの石組みが素晴らしい。

サント・ドミンゴ教会は,インカ帝国時代のコリカンチャと呼ばれる太陽神殿の上に建てられた教会。大地震で教会の建物は壊れたが,土台の石組だけは歪もなかったという話は有名。スペインの征服者たちはこの神殿に飾れていた金をすべて本国に持ち帰り,ヨーロッパでは金が大量に出回ったためインフレになったと語られている。

サクサイワマン遺跡は,クスコの北西にある堅固な要塞跡。巨石を3層に積み上げ,360mにわたって石垣が続く。スペインン人に対して反逆を企てたマンコ・インカが2万の兵士と共に陣取って戦った場所といわれる。広大な遺跡の中に入ると,すぐに広場の西側に連なる石壁が目に飛び込んでくる。

タンボ・マチャイは,小規模な谷の一方の斜面に石組みによって建設された沐浴場。聖なる泉と呼ばれる。名前のとおり絶えることなく清水が湧き出しているが,水源については未だ解明されていない。インカの人はサイフォンの原理を知っていて,これを利用してどこからか水を引いているという。

クスコへは空路リマから入るのが一般的であるが,私たちは前日チチカカ湖で遊び,プーノからバスで峠を越えてやって来た。アンデス山中の村に立ち寄りながら峠を越える。ランチ弁当を食べた街で,地元の小母さんにスペイン語で話しかけたが通じない。

峠で車を停めて外に出ると,凍り付いた雪が吹き付ける。右手遠方には雪を抱くオリエンタル山脈,カラバヤ山脈の北方に標高6,390mのアウサンガテ山が神々しく眺められる。アウサンガテ山は,ペルー南部に住む人々が昔から崇める霊峰で,動物を絞めるときや畑仕事を始めるときに「アウサンガテ」と唱えて山への祈りを捧げるのだという。

写真を撮り,旅の安全を祈って「アウサンガテ」と呟いた。 

 

 

 

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農業と雪,雪氷熱エネルギー

2011-10-07 10:57:21 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

今年の1月,岩見沢を中心に局地的な大雪があった(札幌管区気象台によると,岩見沢の1月の降雪は平年対比58%増の337cm,冬期間トータルでは平年を18%下回る)。また,今年の冬は雪の事故が多かったこと,公の除雪対策や除雪費用など,豪雪に関わる話題が多かった。雪のマイナス面が強調されたが,一方雪を活用する試みは近年急速に進んでいる。

 

◆「北農」第402号(昭48)に,松山龍彦氏ら北農試・雪の研究班が取りまとめた特集記事「雪の研究―農業と雪―」が掲載されている。積雪期の農業実態,融雪促進の手法と効果(融雪促進剤・作業方法と経済性・雪上施肥),除雪作業(除雪方法・除雪機)について解説し,最後に「貯雪」について触れている。その中で,「現実には貯雪は行われていない。したがって需要はない。しかし,雪には水資源としての活用面,融雪現象を活用する冷凍剤的利用がある。今後,雪の利用について追求する必要がある」と述べている。

 

◆それから38年,雪の活用は拡大している。スノーフェステイバルのような観光資源としての活用,和寒町の越冬キャベツや沼田町の雪中米等が良く知られている。さらに近年,新エネ法施行(平成9年施行,平成14年改正)により雪氷熱エネルギーが新エネルギーとして位置づけられたこともあり,雪氷を施設の冷房,食材の貯蔵などに活用する事例が増えている。雪氷熱エネルギー活用事例集4(経済産業省,平成20年)には,120を超える事例が紹介されている。

 

◆松山氏らは論文の中で,農業研究が生産手段に偏った狭い範囲に限定されていると危惧し,広い角度で第一次産業研究者としてのアプローチが必要ではないのかと述べているが,総合的な研究は次第に実を結びつつある。農業・食品産業技術総合研究機構や北海道立総合研究機構など組織の再編が進み,分野を横断した研究は加速している。

 

◆陽だまりの雪どけに春を感じる。農業試験場の春季,それは成果の公表時である。今年も新たな研究成果が数多く世に送り出された。11721日の北海道農業試験会議(成績会議)を経て,普及奨励9,普及推進18,指導参考204,研究参考7課題が新技術として決定・公表された。これらの中から,本号では「新品種の成績概要」と「平成22年度の発生に鑑み注意すべき病害虫」の情報を紹介したが,その他についても順次掲載する予定である。

 

◆雪解けが始まった311日,東北地方太平洋沖地震の激震と津波が甚大な被害をもたらした。自然のエネルギーに驚愕,茫然自失。被災者の皆様に心からお見舞いを申し上げます。

 

参照:土屋武彦2011「編集後記」北農78244

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