豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

北海道の黒豆(黒大豆),品種の変遷

2012-01-28 14:18:46 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

黒豆とは子実の色が黒い大豆の総称で,極大粒の兵庫県丹波篠山「丹波黒」,光沢がある北海道「光黒」銘柄が有名である。「黒豆」は新年のお節料理に欠かせない材料として知られるが,その他にも煮豆,枝豆など広く利用されている。なお,黒豆は価格変動が甚だしいため栽培面積が大きく変動し,最近の10年間をみても1,0006,000ha(北海道)と振幅が大きい。

価格変動は,気象に影響される生産性の不安定さに起因する。黒豆の安定生産を目ざして,品種改良の試みは長く続けられてきた。先ず,その経緯を振り返ってみよう。

 

北海道における黒大豆の品種改良は,当初在来種から優良品種を選定することに始まり,第二次世界大戦後は交配育種が試みられた。しかし,黒大豆の改良は育種事業の本流とはならず,十分な成功を収めたとは言い難い。この原因には種皮色の複雑な遺伝様式がある。

 

1.在来種から優良品種を選定した時代(北海道開拓から第二次世界大戦まで)

 

記録に残る最初の黒大豆は「早生黒大粒」である。来歴は不詳であるが古くから栽培されていたものを,北海道農事試験場が1902年(明治25)から品種比較試験を行い,1905年(明治28)に優良品種(北海道における大豆最初の優良品種)に決定した。

 

さらにもう一つ古くから栽培されていたもので,北海道農事試験場十勝支場が品種選定試験を行い,1914年(大正3)優良品種に決定した品種「中生黒大粒」がある。この品種は,大豆の主産地が道南・道央から十勝地方に移行した時代,明治後半から大正にかけて当地方の基幹品種として広く(普及率20%)栽培された。

 

また,来歴は不詳であるが枝豆用として使われていた品種もある。1933年(昭和8),北海道農事試験場十勝支場は札幌農園から園芸用に「極々早生(千島)」として取り寄せ,1936年(昭和11)根室支場に分譲され「極早生千島」として保存されていた。

 

「中生黒大粒」に替わって十勝地方に普及した品種が「中生光黒」である。本品種は,北海道農事試験場十勝支場が品種比較試験を行い,1933年(昭和8)優良品種に決定し「中粒光黒」と命名したもので,1935年(昭和10)「中生光黒」に改められた。なお,この品種はそれ以前の1920年(大正9)十勝国本別村の農会技手立石幸助が函館から少量入手し,同村本別沢の小林秀雄に増殖させ,本別農業協同組合から出荷したとの記録がある(砂田喜與志:豆類の品種,日本豆類基金協会)。

 

また,「中生光黒」と同じ年に優良品種となった「晩生光黒」は,熟期が遅いため,1933年(昭和8)道南地方の限定優良品種に決定し,「大粒光黒」と命名,1935年(昭和10)に「晩生光黒」と改名されている。この品種の前歴については,1912年(明治45)渡島国厚沢部村焼尻の由利徳治の妻が秋田県雄勝郡秋ノ宮村から移住の際携帯した大豆の中に光沢のある黒大豆2粒を発見し,増殖したもので,1920年(大正9)頃より函館市場で好評を博したことから栽培が広まったと伝えられる。その後,「晩生光黒」は渡島地方厚沢部町を中心に最近まで栽培され,特産品として活用されていた。

 

この時代,北海道農事試験場檜山支場では,道南地方の在来種から純系分離を行い,1942年(昭和17)優良品種「檜山黒1号」「檜山黒2号」を開発している。荒木喜六・有賀文平(北農第10巻第4号)によれば,「晩生光黒」を選出した「在来光黒」の原種と称せられる五葉種光黒大豆の種子を,昭和13年厚沢部村小鶉の中條善次郎から譲り受け試作した中から選抜したとある。

 2.人工交配による新品種開発の時代(第二次世界大戦後)

黒大豆の需要を支えてきた「中生光黒」「晩生光黒」は,度重なる低温年の被害が大きいため,安定品種の開発が熱望されていたが,新品種の誕生まで半世紀を要した。

50年という年月は,「光黒」「黒大豆」と呼ばれる変異に富んだ品種群を農家の庭先に生み出したが,安定生産には至らなかった。

北海道立十勝農業試験場は,早熟多収な黒大豆の開発を目指して,1967年(昭和42)「十育122号」(後のキタムスメ)を母,「中生光黒」を父として人工交配し,以降選抜を続け,1984年(昭和59)に優良品種を育成した。この品種は「トカチクロ」と命名された。

半世紀を経て初めて誕生した品種であった。育成に関わる困難さがうかがい知れる。黄大豆と黒大豆の交雑後代からの選抜苦労については「土屋武彦:豆の育種のマメな話」にその一端が紹介されている(このブログ「パンダと呼ばれた黒大豆」参照)。

さて,もう一つの新品種は「いわいくろ」。北海道立中央農業試験場が「晩生光黒」に「中育21号」を交配し,1998年(平成10)に開発した。豊満で粒ぞろい良く,食味良好,栽培しやすいことから,2003年(平成15)以降は栽培面積が黒豆の中で最大になっている。

北海道の大豆栽培100年の歴史の中で,育種家の手によって交配され,育成された品種は「トカチクロ」「いわいくろ」の2品種のみで,ちょっと寂しい。この2品種には,まだまだ改良の余地が残されているのだが・・・。

Web

*2012年(平成24127日の「北海道農作物優良品種認定委員会」で,「中育63号」が優良品種に認定された,同総研中央農業試験場育成,命名登録申請中で名前はまだない(当面は系統名で呼んでください)。晩生,極大粒の黒大豆で,煮豆適性が高い。シスト線虫抵抗性(レース3)である。道南地方に適する
2012.2.4追記)。

*「中育63号」は2014年(平成26)に農林登録され、名前は「つぶらくろ」(2021.12追記)。

 

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南米の香り懐かしマラクジャ,パッションフルーツ,時計草

2012-01-26 16:09:06 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

マラクジャの花

「時計草」の名前を認識したのはいつだったろうか,定かでない。ただ,アルゼンチンのマルコス・フアレス農業試験場の庭にあった一本が今も記憶に残る。生け垣に蔓を延ばし,5枚の白色花弁に基部が紫色の副冠,雄蘂は5本で広がり,1本の雌蘂は柱頭が三裂しており時計の文字盤のように見えた。広大なパンパ平野に照る朝の太陽を受けて,その花は華やかで,また可憐さを漂わせていた。

 

「この花が時計草だね」

と,一緒にいた妻に話した記憶があるので,休日散歩の道すがらの会話だったかも知れない。私たちは,19781980年(昭和53-55),JICAの専門家(大豆育種)としてこの地に暮らしていた。40才頃のことである。その後も注意していると,卵形の果実ができ,熟するにつれ果実は黄色に変色した。

 

パッションフルーツPassion fruit, Maracujá, Passiflora edulis Sims, クダモノトケイソウ)はトケイソウ科の多年生つる草で,ブラジル原産で現地ではマラクジャと呼ぶ。ブラジルが最大の生産国で,その周辺南米諸国に栽培地は広がる。近年は東南アジアでも栽培されている。

 

和名のトケイソウは特徴ある花の形に由来する。英名のPassion flowerは,「情熱」「情欲」ではなく,the Passion「キリストの受難」からきているという16世紀,中南米に派遣されていたイエズス会の宣教師らは,聖フランテスコが夢にみた「十字架上の花」を連想し,この花(ラテン語のFlos passionis)を布教に利用し,ヨーロッパへ持ち帰ったことから名づけられたという。ラテン語の「耐える」が語源である。

 

◆マラクジャの香りと味

時を経て200008年(平成12-20),60歳を過ぎてからのことである。南米パラグアイで再びJICA専門家(大豆育種)として仕事をする機会があった。この国でのパッションフルーツの想い出は,アスンシオンのシュラスケリア(ブラジル系の焼き肉店)「パウリスタ,Paulista Gril」でのデザートである。この店は,焼き肉店として規模が大きく,清潔で,モッソ(moso, ウエイター)達のサービスが良いので時々訪れた。

 

デザートにはワゴンに溢れるばかりのサービスがあり,私たちはマラクジャのフラン(flan, プリン)を食べた。その独特な香りと味が,訪れる度に食欲を誘うのだ。

もちろんジュースやアイスクリームも良い。何故か,この濃い味はヨーロッパ人が好むらしい


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「スイートコーン」の作り方と食べ方,家庭菜園市民講座-3(恵庭)

2012-01-23 19:33:50 | 講演会、学成り難し・・・

スイートコーンは「新鮮さ」が決め手

恵庭市恵み野に住むようになって恵庭市家庭菜園講座の講師を三年間務めた。取り上げた作物は,主宰者の希望で「えだまめ」「ばれいしょ」「スイートコーン」であったが,沢山の質問が出されて楽しい時を過ごした。また,数日後に熱心な受講者から電話やメールで問い合わせが来ることもあった。

 

その時の講習会資料を,家庭菜園を楽しむ方々の参考になればと思い,添付する。今回は「スイートコーン」である。

北海道へ来たら,新鮮なスイートコーンがお勧め。

 

標語:「とうもろこし」の甘味種・新鮮さが決め手・ビタミン類が豊富

 

 

 

 

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「ばれいしょ」の作り方と食べ方,家庭菜園市民講座-2(恵庭)

2012-01-22 10:52:42 | 講演会、学成り難し・・・

歴史を動かした「貧者のパン」、ばれいしょ

恵庭市恵み野に住むようになって恵庭市家庭菜園講座の講師を三年間務めた。取り上げた作物は,主宰者の希望で「えだまめ」「ばれいしょ」「スイートコーン」であったが,沢山の質問が出されて楽しい時を過ごした。また,数日後に熱心な受講者から電話やメールで問い合わせが来ることもあった。

 

その時の講習会資料を,家庭菜園を楽しむ方々の参考になればと思い,添付する。今回は「ばれいしょ(じゃがいも)」である。

 

北海道を旅する機会があったら,是非その味覚を味わって欲しい。「男爵薯」「メークイーン」だけでなく,多様な品種の存在に驚かれることだろう。

 

標語:歴史を動かした「貧者のパン」。飢餓を救った(アイルランド,フランス,ロシア,北海道開拓で)。

 

 

 

 

 

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「えだまめ」の作り方と食べ方,家庭菜園市民講座-1(恵庭)

2012-01-21 09:41:25 | 講演会、学成り難し・・・

「えだまめ」は「大豆」の青春時代。カッコウが鳴いたら豆をまく。

恵庭市恵み野に住むようになって恵庭市家庭菜園講座の講師を三年間務めた。取り上げた作物は,主宰者の希望で「えだまめ」「スイートコーン」「ばれいしょ」であったが,沢山の質問が出されて楽しい時を過ごした。また,数日後に熱心な受講者から電話やメールで問い合わせが来ることもあった。

 

 その時の講習会資料を,家庭菜園を楽しむ方々の参考になればと思い,添付する。今回は「えだまめ」である。

 

 

 

 

 

 

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飲むサラダ「マテ茶」の作法

2012-01-20 17:50:40 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米の生活の中で,マテ茶は極めて重要である。朝起きて夫婦でまず一服,仕事始めに仲間で回し飲み,車で走れば助手席に座った人間が運転手に振る舞う。いつも,マテ(瓢箪で造った容器),ボンビージャ(先端に茶漉しの細かい穴が空いた金属製のストロー),ポットを持ち歩いている。ポットの中身は,アルゼンチンやウルグアイでは熱いお湯であるが,気温が高いパラグアイでは氷が入った冷水の場合が多い。冷水に薬草やハーブを入れて飲むマテ茶を,パラグアイではテレレ(Tereré)と呼ぶ。

 

マテ茶は,南米原産のジェルバ・マテYerba matéIlex paraguariensis,モチノキ科モチノキ属に分類される常緑樹)の葉や小枝を乾燥させた茶葉に,お湯や冷水を注ぎ成分を浸出させて飲むお茶で,特殊な道具を使って飲用する。苦みが強い。ビタミンやミネラルの含有量が極めて高く,飲むサラダともいわれる。野菜を食べる習慣がなかった南米の地域では,重要な栄養摂取源でもある。

 

 容器は,瓢箪をくりぬいたマテ,木や牛の角で作ったグアンパと呼ばれるものがあり,座りを良くする台座を着け,外側に銀細工の装飾を施したものが多い。アルゼンチン,ウルグアイ,ブラジル南部では瓢箪のマテが良いと聞いたが,パラグアイではパラサントなど木製のものが多かった。

 

一組の茶器を使い複数人が回し飲む習慣が一般的である。ホスト役がマテ茶を入れ,仲間に順次振る舞う。その作法は,次のようになる。

 

 ①ホスト役は茶器に1/23/4ほどジェルバ・マテを入れ,ボンビージャを立て,お湯を注いで,一煎目は自分で飲む。お湯の熱さ加減,茶の濃さ加減,うまく吸えるかなどの試飲である。

 ②二煎目は隣の客に渡す。受けた者はボンビージャで飲み干して,ホストに返す(飲み干してホストに返すのが手法で,客から客に渡さない)。

 ③ホストはお湯を注ぎ,次の客に渡す。飲み干してホストに返す。この繰り返しで,各人が満足するまで延々と続けられる。ホストは,お湯を注ぎ,時折ボンビージャの位置を変えたり茶葉を加えたりして味を調え,次の客に渡す(客はかってにボンビージャを動かしたりしない)。

 ④茶器をホストに返すとき「グラシャスGracias(ありがとう)」といえば,もう満足しましたということで,次からはサービスされない。

 

大抵の場合は,ポットのお湯がなくなるまで続けられる。人数が多ければ,お湯を沸かしながら続けることになる。朝の作業前,このテイセレモニー(おしゃべり時間)のために優に30分は必要になる。日本人が最初に出会うカルチャーショック。だが,慣れてくると,これがまた良い。「何をあくせくするの?アスタ・マニヤーナ,明日があるさ」ということになる

 

パラグアイではテレレに入れる薬草やハーブを街角で売っている。路上や野原で摘んできて売り歩く裸足の子供もいる。薬草の種類は非常に多い。「これは腹痛に良い」「下痢にはこれ」「二日酔いには・・・」と使い分けている。小さい臼のような容器に入れて突き潰してから,冷水に浸して使用する。薬草の知恵は原住民ガラニーから受け継いでいて,野原や路傍で摘んでくることもある。私たちは夏に,薄荷やレモンを入れて飲んだが,暑さを忘れさせてくれた。

 

日本でも最近,元気が出る「マテ茶」の愛好者が増えている。

 

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世界を養う「マンジョカ」

2012-01-19 13:11:56 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイでよく食べた食材の一つにマンジョカ(キャッサバCassavaManihot esculentaがある。例えば,アサード(焼き肉)には茹でた芋が添えられ,軽食おやつにはチパ(Chipa)を食べる。パラグアイの食生活で必須なものといって間違いない。ともかく美味しい。

アサードでは牛肉が主役だが,マンジョカは名脇役。サツマイモに似ているが,もっとホクホクして口の中の脂気とよく調和する。これに,野菜サラダとビノ(Vino,ワイン)があればバランスも満点だろう。

 

チパは,マンジョカ澱粉(アルミドン,キャッサバ粉デンプン)に,チーズ,卵を混ぜて牛乳でこねてオーブンまたはオーブントースターで焼いたパラグアイの伝統パン。パラグアジョ(パラグアイ人)はよく食べる。籠を抱えた売り子が「チパ,チパ,熱いチパ,焼きたてだよ」と,街角や駅で声を張り上げる。安価に腹を満たす食品でもある。

 

マンジョカはトウダイグサ科イモノキ属の低木。古くから中南米で栽培されていたが,大陸発見後にポルトガル人によって世界に広まり,広く熱帯,亜熱帯で栽培されている。主産地は,生産量の多い順にナイジェリア(3,700万トン,FAOSTAT2009),タイ(3,000万トン),ブラジル(2,400万トン),インドネシア(2,200万トン),コンゴ(1,500万トン),アンゴラ(1,300万トン)と続く。世界の総生産量は23,000万トン(FAOSTAT2009)で,穀物以外の食糧用デンプン源作物としては馬鈴薯の33,000万トンに次いで二番目の位置にあり,サツマイモ(1億トン)より多い。貧者のパン。世界の食糧問題,エネルギー問題に貢献する作物として注目されている。

 

その特徴は

①栽培が容易(茎を地中に挿すだけで発根,生育する。痩せた土地でも栽培できる。パラグアイでは,ネイチブ農家の庭先に必ず植えてあった)。

②他のイモ類穀類より,デンプンの生産効率が高い。

③シアン化合物のリナマリン,ロトストラリンを含む。苦味種はイモに青酸を多く含み有毒,甘味種は青酸が外皮に含まれ毒性は少ない(食用には,皮をむき,水にさらして毒抜きする)。遺伝的変異があり,改良種の栽培が増加している。

 

マンジョカから精製した澱粉(アルミドン)は,タピオカデンプンとして日本のスーパーでも手に入る。タピオカには小麦粉が含むグルテンがなく,タンパク質もほとんどない。水分を加えて加熱すると糊化し易く,抱水力が強い特徴がある。タピオカパールは中華料理等にも利用されている。

 

 

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ソフィア王妃芸術センターの「ゲルニカ」(スペインの旅-9)

2012-01-18 18:41:07 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

マドリードではソフィア王妃芸術センターで,ピカソの「ゲルニカ」を観た。作品の芸術性評価や解説は多くの書物に論じられているので,ここでは詳しくは述べない。

 

 「ゲルニカ」(Guerniika)は,パブロ・ピカソがスペイン内戦中に都市無差別空爆を受けた町ゲルニカを主題に描いた絵画として知られている

 

 スペイン内戦中の1937426日,スペイン北部バスク地方のゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受け,人口6,000人のうち598人が死亡,1,500人が負傷したと伝えられている。当時パリに居たピカソは,この報を聞いて義憤を覚え,急遽パリ万国博スペイン館の壁画としてこの絵を完成させた。戦争への怒りと生命の尊厳を独自の手法で表現している。

 

 スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結したが,この絵はヨーロッパの戦火を避けて1939年ニューヨーク近代美術館に預けられる。第二次世界大戦後スペインとニューヨーク美術館の間で返還交渉が行われるが,1981年になってようやくスペインに返還され,現在はソフィア王妃芸術センターにある。

 

ソフィア王妃芸術センターはアトーチャ駅の近くにあり,ピカソ,ダリ,ミロ等の現代芸術を代表する作品が展示されている。2階と4階が常設展示場で,「ゲルニカ」は2C室にある。縦3.5m,横7.8mの大作,カンバスに工業用絵具ペンキによってモノクロールで描かれている。この絵は,作品誕生の経緯から反戦のシンボルとみられてきた。

 

 一室に独占展示されている「ゲルニカ」は,一つの鑑賞グループが説明を受けているところであったが,壁一面にその存在感を示していた。

 

 「あー,ゲルニカだ」と思わず近づくと,

 「セニョール,ノー,ノー・・・」とガードマンが近づいてきた。

 

ガードマンが指さす床には,壁から2mほどのところに線が引かれており,この線が立ち入り禁止ラインということらしい。作品の迫力に圧倒され,足下に注意を払わなかったため,一歩踏み込んでいた。

 

 ニューヨーク展示中にスプレーで落書きされたことがあり,スペインに戻ってからはバスク独立運動にからんだテロを警戒し,自動小銃を抱えた兵士が警護し防弾ガラスに囲まれていたこともあったというが,今は近くから直に鑑賞できる

 

バスク地方のビルバオに1997年グッゲンハイム美術館が完成してから,ソフィア王妃芸術センターとの間で所蔵論争が起きているという。論争の絶えない作品だ。

 Img_3482web

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パラグアイ大豆生産の歴史年表

2012-01-14 13:55:45 | 南米の大豆<豆の育種のマメな話>

南米パラグアイ共和国の大豆生産量は約600万トン,干ばつで生産量が少ない年でも400万トンである。この量は,わが国生産量の27倍,食用・加工・飼料用などすべてを含むわが国の需要量に匹敵する。

このパラグアイで最初に大豆栽培を始めたのは日系移住者で,彼らがその後も栽培技術や品種開発などで先進的な取り組みをし,現在も生産の中枢にあることを,あなたはご存知ですか?

 

大豆自給率が僅か4-5%にすぎない日本が,大豆ショックの経験を経て,アメリカ合衆国からの輸入に依存していた体質からウイングを広げ,南米諸国の大豆生産に技術支援をしてきたことを,あなたはご存知ですか?

 

パラグアイ大豆生産の歴史を,年表として整理しました。

 

 

 

 

 

 

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ジャボチカバ,木の幹に白い花が咲きブドウが生る?

2012-01-09 15:01:44 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

ブラジルとの国境に近いパラグアイ共和国カニンデジュ県イホビ,国道脇の旅籠(粗末なモーテル)の中庭で,珍しい灌木を見かけた。小鳥が群れを成してきては群がり,飛び去る。近づいて観察すると,何と木の幹にブドウの粒が着いているではないか。地表から蟻の列が幹を上っている。果実の甘みが蟻を呼んでいるのだろう。

  一緒にいたアニバルが「食べてみろ,甘いよ」という。アニバルは,子供の頃よく食べたそうだ。摘んでみる。確かに,小粒の「巨峰」だ。

 

ジャボチカバJaboticaba, Myrciaria cauliflora O.Berg.)は,ブラジル南部原産,フトモモ科の常緑小高木だと,後で知った。木の幹に直接白い花が咲き,実を着ける。世の中には変わった特徴の樹木があるものだ。果実は,最初緑色であるが,熟せば濃紫色の直径2cmほどになる。果肉は半透明の白で水分をたっぷり含み,味までブドウに似ている。

 

 沖縄でも庭先で栽培されるようだが,実を着けるまで年数がかかり,生産性や輸送性に欠けることから,広く店頭に並ぶことはないだろう。だが,興味深い果実だ。

 

ジャボチカバを初めて味わった旅籠はパラグアイ国道10号線(ブラジル対岸のガイラから西方に延び,ビジャ・デル・ロサリに通じる)脇にあり,隣のガソリンスタンド以外は何もない場所に立っていた。ブラジル系の老婦人が宿を,若夫婦が食堂と売店を切り盛りしていた。旅籠の部屋は入り口のドアにペンキで大きな部屋番号が書かれ,荒削りな板壁で仕切られ,ベッドが一つ,奥にはトイレと電熱線を巻いたシャワーがついているだけ。隙間から蚊が入ってくるので,先ずは入り口とベッドの枕もとに蚊取線香。調査に疲れた体を,ただ横たえるだけの宿であった。

 

 朝食のサービスなどないので,老婦人に約1,000円?の宿賃を支払い,陽の上がる前に旅立つのがいつもの利用法であった。赤土に汚れた壁が夕日に映えるころ,国道を走り抜けるトラックを眺めながら飲んだ作業後のセルベッサ,ジャボチカバの実を摘んだ味覚が今も思い出される

 

 

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