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下田生まれの日本画家「中村岳陵」と皮革工芸家「大久保婦久子」

2020-08-25 13:17:42 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田市が名誉市(町)民の称号を贈った人物はこれまで二人存在する。日本画家中村岳陵と皮革工芸家大久保婦久子の二人で、双方とも下田生まれである。中村岳陵は昭和37年 (1962)名誉町民の称号を、大久保婦久子は平成12年(2000)名誉市民の称号を贈られた。

因みに、名誉市民の称号は欧米で始められた制度で、主に公共福祉、学術、芸術、産業等に業績ある人に対して賞賛と尊敬の念を示す目的で贈られる。日本では、昭和24年(1949)仙台市が志賀潔、土井晩翠、本多光太郎らに名誉市民の称号を贈ったのが最初だと言う。

◇ 中村岳陵

中村岳陵が文化勲章を受章した日本画家であることは知っていたが、作品についての知識は乏しかった。書棚の片隅にあった冊子「郷土が生んだ日本画の巨匠 中村岳陵展」を参考に、岳陵の生き様を辿ってみよう。この冊子は下田市中村岳陵展実行委員会が平成13年(2001)「ベイ・ステージ下田」の開設に併せて開催した展覧会の資料であるが、十数年前「道の駅 開国下田みなと」に立ち寄った時、「岳陵も下田生まれだったのか」と購入したものである。

<略歴>

中村岳陵は明治23年(1890)3月10日、静岡県賀茂郡岡方村字岩下(現 下田市6丁目)で父中村筆助、母俊の三男(九人兄姉の末弟)として生まれた。本名は恒吉。下田尋常高等小学校四学年を終えた10歳のとき上京し、実姉コウの嫁ぎ先であった医師の家に寄宿しながら本所表町の明徳尋常高等小学校に入学し、12歳で池田孤邨門下の野沢堤雨について琳派を学んだ。慣れぬ都会暮らしで脚気を患い一時帰郷を余儀なくされるが、14歳のとき再び上京し土佐派の川辺御楯に師事して大和絵を学び、伝統的な武者絵を描く。同年の日本美術協会展では「名和長年船上山に登るの図」が入選。三年続けて日本美術協会展に出品し褒状を受けるなど画家としての一歩を踏み出す。15歳のとき師の御楯が死去、御楯の別号「花陵」から一字を譲り受けた画号「岳陵」を使い始める。

明治41年(1908)東京美術学校日本画科選科に入学。寺崎広業教授、結城素明助教授について学び、横山大観の知遇を得る。一方で革新的な日本画家の団体紅児会に入会し西欧絵画に触れ、ゴッホ、ルソーなど後期印象派の画風を取り入れた作品を描くようになる。在学中は東京美術学校学期全級合同競技などで優秀な成績を収め、飛級して首席で卒業。

明治45年(1912)第6回文部省美術展覧会(文展)に「乳糜供養」を出品し、初の官展入選を果たす。以降、再興日本美術院展(再興院展)を活躍の場として、「緑蔭の饗莚」「薄暮」「輪廻物語」「浮舟」「竹取物語」「貴妃賜浴」など古典的題材に取材した作品を出品。三十代には「婉膩水韻」「都会女性職譜」「砂丘」「砂丘」「緑影」など、都会的風俗を描いたものや現代風の作品を描く。院展同人として活躍する一方、大正3年(1914)に今村紫紅らと赤耀会を創立、昭和5年(1930)には福田平八郎、山口蓬春、洋画家中川紀元、牧野虎雄らと六潮会を設立して、それぞれの展覧会にも出品。この間、昭和3年(1928)日本美術学校日本画主任教授、昭和10年(1935)多摩美術学校日本画主任教授、同年帝国美術院参与、昭和十五年(1940)法隆寺金堂壁画模写主任を務める。

第二次大戦後は日本美術展覧会(日展)を中心に、さらには広く彩交会などでも活躍を続け、79才で没するまで制作意欲の衰えることはなかった。昭和22年(1947)帝国芸術院会員(日本芸術院会員)、昭和24年(1949)日展運営会理事、昭和33年(1958)日展運営会常務理事。昭和34年(1959)に大阪四天王寺金堂壁画を制作し、昭和36年(1961)朝日文化賞、毎日芸術賞を受賞。昭和37(1962)文化勲章受章、文化功労者に列せられ、下田町名誉町民の称号を贈られた。現代日本画壇の重鎮として、華やかな足跡を残したと言えよう。昭和44年(1969)11月20日逝去。享年79才。岳陵年譜を付表12に示したので参照されたい。

なお、「富士山の絵」「女性画」の2点が母校の下田市立下田小学校に寄贈されている。

<作品の特徴>

  • 功績

岳陵は歴史画、人物画、宗教画、風俗画、風景画、花鳥画など、多彩な分野の作品を残している。特筆されるのは、大和絵の伝統的な技法を基礎にして、油絵の表現、暈し技法など後期印象派の画風を採り入れるなど常に挑戦的な試みを続け、新たな日本画の境地を築き上げたことにあろう。岳陵の生涯は近代日本画壇の歴史に重なる。

金原宏行は「岳陵芸術は最初の歴史画から大和絵、風俗画、花鳥画、また人物画と多彩であり、それらは新感覚の風景画に生かされている。一貫しているのは自然観察であり・・・どの作品にも過剰な抒情性は見られず、時代の空気を敏感に吸っている。その画面には西洋と日本の伝統がないまぜになった自由さがあり、晩年の鳥や花の描写も単なる花鳥諷詠的な伝統回帰に終わっていない」と、中村岳陵展資料の中で述べている。

岳陵は「自然をよく見ること、優秀な作品に目を向けること、スケッチに励むことの三つを画家の心得るべきこと」と話していたと言うが、一連の作品はどれも作者の意図の結晶であるように見える。

  • 何故、画家になったのか。

奥伊豆の農家に生まれた恒吉(9人兄姉の末っ子)が画家になろうとした動機は一体何だったのだろう。10歳で上京したのは、絵を学びたいと思ったからなのか。尋常高等小学校を終える12歳で江戸琳派の大家野沢堤雨に入門したのは誰の勧めだったのか。病気で一時帰郷を余儀なくされるが、父と堤雨が逝去したのち再度上京する岳陵の背中を誰が押したのか。14歳で土佐派の先覚川辺御楯に師事した岳陵は同年の日本美術協会展で早くも入選を果たすなど、若くして技量の高さを見せている。

「中村岳陵の人と芸術」(金原宏行2001)の中に、「近所の絵凧を描く人が恒吉をかわいがり、絵が好きになった恒坊は毎日絵ばかり描いていた」との記述があるが、この幼少時体験が技量を高めたと想像できる。この時点で周りの人々も恒吉の絵心、才能を認めていたのではあるまいか。

  • 色彩画家と呼ばれる。

岳陵は色彩画家と呼ばれる。豊富な色を使いながら、落ち着いた、穏やかな色彩の作品が多い。美術評論家中村渓男氏(岳陵長男)は、下田を訪れた時の印象から「父岳陵が色彩画家と言われていたその原点は、すばらしい下田という郷里の色であった・・・兼ねがね私は父岳陵の絵に描かれた色彩の妙はどこから生まれて来るのか考えさせられていたが、それはあの南伊豆の和かい光線とそれによってかもし出される不思議な調和と言うハーモニー、これは矢張り南伊豆にさんさんと照る太陽の繊細な感覚があふれ出ている郷土色の特徴なのではなかろうか」(中村岳陵展2001)と述べている。

故郷の幼少時体験は作品の奥深い所に自然と滲み出る。絵画に限らず芸術作品とは作家の生き様なのだろう。

  • 人となり

大久保婦久子は、岳陵に会った時の印象を「非常に丹精で上品で、しかも大らかなお人柄」と述べている。また、金原宏行は岳陵について「人となりは、芯が強く、凛とした態度を保持し、いつでも真剣勝負で来いと言う風情で、澄んだ声の持ち主であった」と述べている。岳陵に会ったことはないが、写真から受ける印象は確かに丹精で、凛とした風に見える。幼少時から晩年まで一途に日本画の神髄を追い求める挑戦者の心を持っていた岳陵。一途さは矢張り伊豆人の証である。

◇ 大久保婦久子

大久保婦久子は、日本芸術院会員、文化功労者・勲三等瑞宝章及び文化勲章を受章した皮革工芸の第一人者であるが、その名前を知る人はそれほど多くないかも知れない。今でこそ、レザークラフト美術展が開催され各地のクラフト教室が賑わっているが、皮革工芸は日本ではマイノリテイな分野であった。

皮革工芸についてブリタニカ国際大百科事典は、「動物の皮革を基本材料とする工芸」と定義し、「制作基本技法には縫製、編み組、接着、成形などがあり、装飾技法には染色、彩絵、メッキ、型打ちなどがある。その歴史は人類の始原以来展開されてきたが、芸術としての皮革工芸品は、中世の南欧、近世のイタリア、ハンガリー、ボヘミアなどで、服飾品、家具、袋物、装丁などのすぐれたものが作られた」と説明している。肉食民族のヨーロッパに比べ日本の皮革利用が遅れたのは確かだが、わが国でも漆皮箱、武具、煙草入れなど精巧な作品が残されており、その技術は伝承されている。

<略歴>

大久保婦久子は大正8年(1919)1月19日下田町(現下田市)に生まれた。本名ふく。昭和6年(1931)下田尋常高等小学校を卒業し、静岡県立下田南高等女学校(現 県立下田高等学校)に入学。昭和10年(1935)同校を卒業して女子美術専門学校(現 女子美術大学)師範科西洋画部に入学。昭和14年(1939)同校を卒業。在学中に皮革染織を学んだことがきっかけで、皮革工芸制作を始める。昭和27年(1952)第8回社団法人日展第四科工芸部で「逍遥」が初入選、以後日展及び現代工芸美術家協会展を中心に活躍、昭和36年(1961)「うたげ」で日展北斗賞、昭和39年(1964)「まりも」で日展菊華賞を受賞。更に、昭和44年(1969)総合美術展「潮」を結成し、同展及び現代女流美術展、現代工芸展にも活躍の場を広げた。昭和62年(1987)には皮革造型グループ「ド・オーロ」を結成し代表に就く。

昭和56年(1981)第20回現代工芸展「折」で内閣総理大臣賞受賞。昭和57年(1982)第14回日展に「神話」を出品し、翌年この作品により第39回恩賜賞日本芸術院賞を受賞。昭和60年(1985)皮革工芸では初めて日本芸術院会員となる。昭和60年(1985)現代工芸美術家協会副会長、昭和61年(1986)日展常務理事の任に就く。平成7年(1995)文化功労者、平成12年(2000)文化勲章を受章した。11月3日皇居で文化勲章親授式に臨んだが、翌日に体調が悪くなり11月4日心不全のため急逝、受章の翌日だった。享年81歳。同年、故郷の下田市は名誉市民の称号を贈り、平成16年(2004)には大久保婦久子顕彰基金条例を制定した。また、母校の女子美術大学には奨励賞制度の一つとして大久保婦久子賞がある。なお、付表13に大久保婦久子年譜を示した。

<作品の特徴>

昭和33年(1958)7か月間、皮革工芸研究のためイタリアに滞在し、皮革装飾の技術を学ぶ。1950年代の作品は家具などの装飾に皮革を素材とした造型作品を用いたものが多かったが、1960年代に入ると皮革を素材とする造型作品自体を独立させるようになる。

1960年代後半には皮革表面を打つことによる凹凸の表現のみならず、編みこみ、張り込みなど多様な技法を用いるようになり、1970年代後半からは縄文など古代のモチーフに興味を抱き、縄目やうねりを作品に取り入れるようになった。このような歩みの中で、清新で格調高い独自の作風を確立した。江戸時代まで仏具、武具、煙草入れなどに持ちられていた日本の皮革工芸技術を、造型芸術作品に高めた先駆者でもあったと言えるだろう。代表作に総理大臣賞の「折」、日本芸術院恩賜賞の「神話」など、他にも「創生」「軌」など作品多数。モンゴル芸術大学名誉教授。

参照:(1)下田市中村岳陵展実行委員会「中村岳陵展」2001、(2)金原宏行「中村岳陵の人と芸術、凛として清純さを失わない画風」2001、(3)東京文化財研究所データベース2020、(4) ブリタニカ国際大百科事典、(5)日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」2004

 

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伊豆の人、今村伝四郎藤原正長

2020-08-07 14:59:50 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

昭和22年(1947)制定の下田小学校校歌(作 田中芳樹・土屋康雄・今成勝司)に「愛の正長 技の蓮杖 学の東里を育みて・・・」とその名を謳われる三名の人物。「技の蓮

杖」とはわが国写真術の開祖と呼ばれる下岡蓮杖、「学の東里」とは著名な陽明学者で清貧に生きた天才詩文家と称される中根東里のことである。二人とも下田生まれ、本書「伊豆の下田の歴史びと」ですでに紹介した。

もう一人の「愛の正長」とは誰か? 下田奉行今村伝四郎正長のことである。三河の人なのに、下田の人々から「愛の正長」と親しみを込めて呼ばれる正長とは一体どんな人物だったのか。

◇ 下田奉行今村伝四郎正長

今村家の遠祖は藤原鎌足に連なると言われる。相模国河村城の城主になった河村三郎義秀は源頼朝に仕えたが、その曽孫五郎秀村のとき河村城を捨て三河国今村郷に移り住み姓を今村に改め、郷士となった。その後幾代か経て、大永7年(1527)今村彦兵衛勝長が徳川家に仕えることになった。勝長は、徳川清康、弘忠、家康三代に仕え、数々の武勲をたてたことで知られる。

今村彦兵衛重長(初代下田奉行):勝長の嫡子。重長は家康、秀忠に仕え数々の武勲をたて、元和2年(1616)目付となり伊豆国に2,200石を知行、下田奉行に任じられる(初代下田奉行)が、老齢のため下田に赴任せず子の正長が職務を代行した。寛永4年(1627)逝去、勝長と同じ岡崎善立寺に眠る。

今村伝四郎正長(第二代下田奉行):18歳になった正長は直参旗本に取り立てられ、二代将軍秀忠の御書院番に選ばれる。25歳で旗本石川八左衛門の娘を妻に迎える。初陣大坂夏の陣で軍功あり1,300石を賜る。元和元年(1615)下田港警備を命じられ、騎馬武士10人と歩卒50人とともに下田へ赴き、遠見番所を設け警備に当たる。寛永4年(1627)第二代下田奉行を継ぐ。多くの治績(船番所の整備、町の区画整理、防風林の植林、社寺振興と下田太鼓祭りの開始、武ヶ浜波除け築堤など)を残したことで知られる。正長の知行は上総国で1,350石、下田知行地(下田、本郷、柿崎、須崎、大賀茂、下賀茂、青野、市之瀬など)2,200石を加え3,600石であった。正長は下田奉行職の傍ら、徳川家直参旗本として特命を受け目付、将軍随行、長崎奉行など諸行事に関わり務めを果たしている。正長の下田奉行職の在任期間は代行を含め37年間に及ぶ。承応2年(1653)下田で逝去。享年66歳。了仙寺に眠る。墓碑銘は今村伝四郎藤原正長(了智院法仙日泰霊位)とある。

なお、第三代下田奉行は正長と昵懇の石野八兵衛氏照が継ぎ、承応2年(1653)から16年間下田奉行を務めた。御番所の整備、七軒町から大浦に抜ける切通し工事、回船問屋の制度確立、隠居同心、火の番小屋の設置など、正長の理想を完成させた。切通し工事は入港の回船から帆一反につき銀一匁を納めさせ、住民には費用を一切負担させなかったと言う。住民に負担を掛けない方式は正長の波除築造の考えを継承している。

今村伝三郎正成(第四代下田奉行):正長の子正成は寛永8年(1668)下田奉行を継ぐ。正長、氏照の治世を継承したが、上水道の敷設は正成の特筆すべき事績と言えよう。井戸水の水質が悪く住民が困窮しているのを見て、中島の水源から道路の地下に木管を埋設して全町に水道を引いた。この上水道整備は時代を先取りする事業であった。在職10年江戸で逝去。享年68歳。了仙寺に葬られた。

・今村彦兵衛正信(第五代下田奉行):正成の子正信が延宝6年(1678)下田奉行を継いだ。在職5年、天和3年(1683)下田で逝去。享年43歳。了仙寺に眠る。正信には子が無かったため今村家は断絶。

この後、第六代下田奉行は服部久右衛門となった。久右衛門は、水道は不用として木管を掘り出しこれで辻木戸を作り、夜間は辻木戸を締め夜盗を防いだと下田歴史年表に記されている。享保6年(1721)御番所は江戸に近い浦賀に移転することになり下田奉行は廃止され、浦賀奉行所支配の浦方御用所が置かれた。

◇ 下田奉行

下田奉行は幕府直轄領に置かれた遠国奉行の一つである。下田奉行は開国の歴史に翻弄され設置、廃止が繰り返され、三つの時代がある。

・第一次:元和2年(1616)~享保5年(1720)

下田港が遠州灘と相模灘の追分にあって江戸~大坂航路の風待ち港として重要な地位を占めていたことから、港の整備、船舶の監督、貨物検査などが重要な仕事であった。今村家四代にわたる下田統治は下田の礎を築く時代であったと言えるだろう。

・第二次:天保13年(1842)~天保15年(弘化元年、1844)

天保13年12月には外国船の来航に備え、海防のため下田奉行が再設置された。小笠原加賀守長毅が浦賀奉行から下田奉行となり、須崎の洲左里崎、狼煙崎(鍋田浜と吉佐美の間)に御台場を築城したが、翌天保15年(弘化元年)2月には御台場廃止、同年5月下田奉行も二代土岐丹波守をもって廃止となった。

・第三次:嘉永7年(1854)~元延元年(1860)

嘉永7年3月に日米和親条約が神奈川で調印され、下田が箱館とともに開港と決まったため、下田奉行が再々設置され佐渡奉行都築駿河守峯重、浦賀奉行伊沢美作守摂津守政義が急遽初代下田奉行任命された。米使ペリー提督艦隊が下田に入港すると、林大学頭・井戸津島守・鵜殿民部少輔・松崎満太郎らと交渉にあたる。奉行所は宝福寺・稲田寺を仮事務所にしていたが、安政2年(1855)中村に奉行所を建設。欠乏所も設置された。伊沢美作守はロシア使節プチャーチンとの交渉に当たっていた筒井政憲・川路聖謨の補佐役にも従事。また、安政3年ハリスが駐日総領事として下田に来航すると下田奉行は岡田備後守忠養、井上信濃守清直(川路聖謨は実兄)、中村出羽守が就任した。安政6年(1859)日米通商条約が締結し横浜開港となると下田港は閉鎖、元延元年(1860)下田奉行も廃止となった。下田が歴史の表舞台に登場したのはこの第三次下田奉行が置かれた僅か七年間であった。

◇ 正長の治績

下田開国博物館編集「肥田実著作集、幕末開港の町下田」に正長の治績が詳細に述べられているので、その概略を紹介しよう。

(1)須崎の越瀬(おっせ)に遠見番所を設け警備にあたる。

元和元年(1615)下田港警備を命じられた正長は、同心50人で沖を通る船を見張り、追船で乗り付けては、女・子供・手負いなど怪しい者が乗っていないか改めたと言う。現在、越瀬に御番所址の石碑が残されている。

(2)下田船改番所の整備

嘉永13年(1636)須崎の遠見番所は大浦に移され、船改番所として整備された。また、鍋田に鎮座していた祠を大浦に移し鎌倉の鶴岡八幡宮を祀り祈願所とした。この年は参勤交代制が実施された翌年にあたり、船改番所の主目的はいわゆる「出女入鉄砲」監視であった。江戸に出入りする諸国の回船は下田船改番所に立ち寄り、宿手形,荷手形を示して船改めを受けなければならなかったのである(海の関所)。

一方、下田沖は海の難所で遭難する船も多く、海難処理も重要な仕事であった。与力や同心だけでは業務が処理しきれない状態になり、正長はかつての配下であった隠居同心28人に回船問屋を申し付け御番所の業務を補佐させた(回船問屋は63人まで逐次増員された)。問屋衆は下田特有の制度であったが、世襲制で、武士ではないが大半の者は名字帯刀が許されたと言う。なお、幕藩体制が固まり治安が安定してくると、享保6年(1721)御番所は浦賀に移され下田奉行は廃止、その後は浦賀奉行所出張所「浦方御用所」が置かれた(場所は澤村邸の辺り)。

(3)武ヶ浜波除けを築く

当時の下田は波浪が市街地に迫り暴風雨が来ると民家が流されるなど被害が大きく、また稲生沢川の河口は土砂が堆積し船の係留も出来なくなることが多かった。正長は港の西側に防波堤を築くことで被害を防ごうと計画、宰領には家臣の薦田景次、太田正次が当った。武山の山麓から切り出した石を運び、高さ2丈(約6m)、長さは直角に曲がった部分を含め6町半(約700m)、寛永20年(1643)から始めて3年目の天保2年(1646)8月8日に完成。この工事では、稲生沢川の先端部分を石堤で絞ることによって水流を強め、土砂を放出し川底が浅くなるのを防ぐ工夫も加えられていた。

この工事にあたり正長は幕府の補助を一切受けることなく、自らの俸禄と私財をなげうって成し遂げた。その後何回か洪水や津波によって破壊されるが、正長が幕府に申し立て、以降の修復は幕府の負担で行われている。長い年月を経て石堤の外側に土砂が寄り、更に埋め立てが行われ現在の武ヶ浜が出来上がった。

(4)城山などの植林

下田城の戦いの後、正長は松を植林。丹精を込めて管理した松はその後も幕府、明治政府、町有林として管理され、防風林及び魚付林として恩恵をもたらした。

(5)社寺の振興、太鼓祭り

正長は敬神の念篤く、大浦八幡宮建立、武山権現社修復、下田八幡神社の修復、了仙寺の開基、大安寺等多くの社寺に寄進するなどしている。人々の信仰も暑かった時代である。また、住民が心を一つにして取り組めるよう八幡神社の祭典を興した。各町が太鼓繰り出す住民総参加型の祭典は太鼓祭りとも呼ばれるが、その旋律は徳川方大阪城入場の陣太鼓を模したと言われている。

◇ 第二の故郷のために

下田奉行を37年間務めた今村伝四郎正長。多くの治績を残したが、私財を投じて行った武ヶ浜の波除け築堤は下田の将来を見据えたものであった。この事業には、住民に負担を掛けまいとする深い配慮があった。正長は下田を第二の故郷と思い、無私の心で工事を進めた。人々は正長の心に愛を感じたに違いない。町民は正長の偉業を称え武山権現社の境内に勒功碑を建てた(大正3年巳酉倶楽部により修復され現在地に移転)。関東大震災の折には、防波堤のお陰で下田は惨事を免れたと町民は「今村公彰徳碑」を建てた。

そして今もなお、下田小学校の子供らは校歌で正長の偉業を学び、「今村公を偲ぶ会」など正長の功績を語り継ぐ人々がいる。

参照:下田開国博物館編集「肥田実著作集、幕末開港の町下田」二〇〇七

 

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