豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

チチエン・イッツア,森に埋もれるマヤ遺跡

2011-09-28 09:16:10 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

ツアーのバスはホテルで客をピックアップしながら,カンクン市街地を抜けて,ユカタン州の州都メリダに通じる高速道路を西に走る。国道脇の草原風景は森に変わり,森を切り開くように国道が走る。陽射しが強い。目指すチチエン・イッツア(Chichén Itzá)遺跡は,ピステで高速を降り森に入る。この辺りに水を集めて流れる河が見あたらない。この森一帯は石灰岩に覆われ,雨水は地下に浸透,地下を流れる。所々に大きな穴があり,泉・井戸となっている。現地の住民はこの井戸の周辺に集落を作ったのだろう。チチエン・イッツアとはマヤの言葉で「泉のほとりのイッツア人」の意味だという。このようなセノーテ(聖なる泉Cenote Sagrado)は宗教的にも極めて重要で,願いを込めて或いは吉凶を占うため,水神に人身御供が捧げられ,宝物が投じられた。マヤ学の権威であるアメリカ人エリック・トンプソンの湖底調査に依れば,チチエン・イッツア遺跡のセノーテからも人骨や財宝が見付かっている。

 

遺跡の手前で,地底深くえぐられた泉に降りる。観光客が岩肌をしたたる水に濡れながら,涼に浸る。元気なアメリカンが泳いでいる。周辺の森の中には,洗濯物を干している現地の家々が眺められる。

 

遺跡のエントランスを入ると,ガイドがツアー客を英語グループかスペイン語グループに分けている。

「どちらにする?」

「スペイン語グループがいいわ」

 

スペイン語の案内人について歩く。直ぐ脇を,日本人の一団が日本語の説明を聞きながらせかせかと急ぎ足で通り過ぎて行く

 

最初に目に入る遺跡がククルカンの神殿(マヤの最高神ククルカン:羽毛のある蛇の姿の神,カステイジョ),9段の階層からなり,4面に各91段の急な階段があり(91×4364),最上段の祭壇を加えて3651年の日数になるのだという。また,1面の階層9段は階段で分けられるので18段となり,マヤ暦の1年(18ヶ月365日)を表している。北面の階段の最下段にはククルカン東部の彫刻があり,春分の日,秋分の日の太陽が沈むとき,階段の西側にククルカンの胴体(蛇に羽が生えたように影を作る)が現れ,ククルカンの降臨と呼ばれている。

 

北西側には,戦士の神殿,周辺を石柱群が取り囲み,3層からなる(神殿内部にもう一つの神殿)。頂上には生け贄の心臓を献げたチャック・モール石像がある。さらに,セノーテ(泉)に立ち寄り,球戯場へと回る。球戯場の隣には頭蓋骨の台座(生贄の骸骨を大衆にさらした)があり,壁一面に多くの髑髏が掘られている。また,球戯場の東壁にはジャガーの神殿。ジャガーは強さのシンボルであった。球戯は豊穣の神に祈りをささげる宗教儀式で,戦いで勝利したチームの長は栄光を担い,自らの身体を神に捧げる習いがあっと言われる(負けた方ではないのか?)。斬首され,血潮が7筋の蛇となってほとばしり,その先から植物が芽を出している。

 

此処までの遺跡はトルテイカ文明と融合した新チチエン・イッツア,神殿の反対に回り込むように進むと旧チチエン・イッツアの遺跡がある地帯になる。天文台(El Caracol),尼僧院,高僧の墳墓・・等がある。マヤの文明には数字があり,ゼロの概念をヨーロッパより早い時期に所有し,天体観測の精度は高く,太陽暦の1年を365.2420日と計算していたという。カタツムリ型の天文台で観測した暦により,農耕を行い,遷都を繰り返していたのだという。

 

メキシコ南東部からグアテマラ,ベリーズに栄えたマヤ文明は,金属器を持たなかった,生贄の儀式が盛んであった,家畜を飼育しなかった,トウモロコシやラモンの実(BreadnutMaya nutBrosimum alicastrum)が主食,高度な数学やマヤ文字を使用,正確な暦,河川でなく天然の泉を中心に発展した,などの特徴を有する。トウモロコシやカカオの栽培は,焼き畑農業で段々畑を作り,湿地帯では高畦栽培が行われていた。

 

この遺跡はいつも観光客で賑わっているが,周辺は熱帯雨林。マヤの遺跡は今なお森に埋もれている。カンクンで砂浜に遊ぶも良いが,足を伸ばして,森の遺跡に古を偲んでみたら如何だろう。

 

高度に発展した古代文明が,何故滅びたのだろうか?」

「疫病説もあるが,人口増による食糧難と部族間の争いが主原因だろう。イースター島の例もあるし・・・」

 

歴史は繰り返す・・・ということか。人口増加,食糧,資源,宗教,環境の問題が脳裏をよぎる

 

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カンクン,一度は訪れたいカリブ海のリゾート

2011-09-27 18:44:52 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

メキシコシテイのベニート・ファレス国際空港を10:40に飛び立ったアエロメキシコ航空AM907便は,12:45カンクン国際空港に到着した。機首が下がるにつれ,森が開け,湿地帯を思わせる草原にヤシの木が生えているのが見えてくる。その先には紺碧のカリブ海白い砂浜が広がる。空港からのコレクテイボはカンクン・セントロに寄らずに,高級ホテルが立ち並ぶ細長い洲のエリアに入る。ユカタン半島の突端,カリブ海とラグーンに挟まれたビーチエリア,白浜とコバルトブルーのカリブ海,零れ落ちる太陽。ビーチに並ぶ豪華なホテル。

パラグアイのMoriyaさんが,「メキシコへ行くなら,是非カンクンへ行きなさい。あのような美しい海岸は見たことがない」と語り続け,「行ってみないことには話にならない」と長い話を終えた。Moriyaさんもアメリカ人のようなことを言うものだ。カンクンにはアメリカ人旅行者が多い。私のカンクンについての予備知識は,日本からもカップルがハネムーンで訪れる世界屈指のリゾート地という程度であったが,確かに20kmにも及ぶ細長い洲には,名の知れた大型ホテルが延々と並んでいる。こんな高級ホテルに日本の若者が泊まるのか,何か不釣り合いな印象を抱きながら,カンクン岬の近くのホテル(4星)に宿をとる。ツインで98ドル+朝食18ドル/人であった。

今回の旅の目的は,開発されたリゾートで遊ぶことを主としていない。森林に眠るマヤの遺跡を訪れること。早速,現地の旅行代理店でチチエン・イッツアの終日ツアーを予約する。片道3時間だという。終日のツアーになるな・・・

ホテルのプライベイトビーチで休み,夕食はカリブの海に沈む夕日を眺めながら楽しむ。

「ご注文は?」

「今日は肉にしようか。タンビケニャを」

「で,飲み物は何にします?」

「セルベッサを,そうそうコロナを。それとアグア・コンガスをセニョーラに」 

この町は夜が遅い。マリアッチやフォルクローレで夜が更け行く

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メヒコの旅,君は「国立人類学博物館」を訪れたか

2011-09-24 16:52:53 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

その土地の博物館や美術館を訪れるのは,旅の楽しみの一つでもある。メキシコシテイでは,国立人類学博物館(Museo Nacional de Antoropologia)を是非訪れたい。テオテイワカン,マヤ,アステカなどの遺跡の発掘品が選りすぐって陳列されている。メキシコ古代文明を集大成した,世界有数の規模を誇る博物館である。

市街地西方のチャプルテペック公園の一角にあり,メトロ7号線でのアクセスが便利。エントランスを入ると,シャワーの塔が入場者を歓迎。シャワー越しに眺めると,パピルスの池を中心にした中庭があり,中庭を取り囲むように展示室が配置されている。

 中央正面の部屋は,メキシコ考古学上最も有名な太陽の石(アステカ暦)が飾られたアステカ文明を紹介する部屋であるが,右手の第5室テオテイワカンから,第6室トルテイカ,第7室アステカ,第8室オアハカ,第9室メキシコ湾岸,第10室マヤと順を追って見学するのが良いだろう。その他にも,西部,北部遺跡の部屋,民族学フロアなどある。

 第5室から第10室まで一気に回るのは大変である。カフェテリアで休憩,或いは昼食をとって午前と午後にかけて見学するほどのボリュームがある。正直なところ前知識のない見学者にとっては陳列品を十分理解できないだろう。この博物館で予習してから遺跡を訪ね,遺跡巡りの後資料を紐解き,博物館を再訪する。そのくらいにして初めて,メキシコ古代文明の一端が理解できるのではないかと思う。見応えのある博物館である。

 

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広報-カレンダーの絵となる

2011-09-21 18:10:54 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

2007年カレンダーの絵となった

JICAパラグアイ支部の広報担当者がカメラマンを伴ってCRIAを訪れた。進行中のプロジェクトを題材に,JICA事業をパラグアイ国内に広く紹介したいとの意図である。

「ところで,どんな写真がご希望ですか」

「いつもの様子,自然な雰囲気で」

「ただ時期が悪いですよ,この冬の季節,試験畑に作物がありませんよ」

とは言え,ガラス室でF1の大豆を手にとりながら,カウンターパート(Fatima Krug, Anibal Morel Yurenka)に育種手法の話をする。

その後,完成したのがこの写真。2007年カレンダーの絵となった

カレンダーは広報の一環として活用され,パラグアイで広く配布された。

公開デーの行事や,農業誌,新聞,テレビを通じて,技術協力の成果をこまめに発信することにより,日本が実施している事業および日本の貢献についての理解が深まる。両国の信頼関係も向上する。自己PRがあまり上手でない世代の我々も,こうやって顔を出す時代になったのだろう。

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北海道における大豆生産の挑戦(4)実需要求に応えているか?

2011-09-21 17:47:35 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

加工適性

北海道における2010年の大豆種類別作付けは,大中粒白目が64%と主体をなし,中粒渇目の秋田大豆が減少し(2%),納豆用の極小粒(20%)や黒大豆青大豆(12%)の比率の高まりが観察される。輸入自由化後良質の白目大粒が主体を占め,また納豆適性の高い極小粒の「スズヒメ」(1980),「スズマル」(1988),「ユキシズカ」(2002)が育成され需要に応えられるようになったことから,小粒大豆の作付け比率が高まり,また一定の需要がある黒大豆や青大豆の比率は総体面積の減少にともない,高まっていると考えられる。

 

実需要求に応えているか

2010年,北海道の大豆作付面積は24,000haであり,品種別作付面積の順位は,第1位「ユキホマレ」,第2位「スズマル」,第3位「トヨムスメ」,第4位「いわいくろ」,第5位「ユキシズカ」となっている。

 

「ユキホマレ」「トヨムスメ」などの中大粒の白目品種は,「ユキホマレ」が10年間,「トヨムスメ」が20年間にわたり基幹品種の地位を占めている。これからも白目中大粒種は北海道を代表する種類となることから,改良に当たっては煮豆および豆腐加工適性の向上をこれまでにも増して念頭におくべきだろう。一方,「キタムスメ」など中粒渇目の秋田大豆銘柄は栽培が減少しているが,古くから味噌や煮豆など美味しいとの評価があり,しかも耐冷性も概して強いことから,今後も一定の需要が見込まれるだろう。

 

極小粒の納豆用の「スズマル」(1988)は,納豆業者から北海道に「スズマル」有りとの評価を得て,既に20年近く栽培されている。「ユキシズカ」(2002)は納豆加工適性の評価が高く,ある納豆業者の製品が農林大臣賞を得るなど,道東地方で順調に生産を増やしている。

 

黒大豆は煮豆用として「中生光黒」(1935),「晩生光黒」(1935)が使われてきたが,これらの早生化を図った「トカチクロ」(1984),生産安定性を高めた「いわいくろ」(1998)が現在は主流となっている。さらに,古くは緑肥用として栽培されたことのある子葉緑の小粒黒大豆「早生黒千石」(1941,子実の中が緑)が,ポリフェノール含量が多いと言われ,一部の地域で栽培が試みられている。

 

あお大豆は,「早生緑」(1954),「アサミドリ」(1962),「音更大袖」(1991),「大袖の舞」(1992)が栽培されているが,製菓や枝豆としての利用が多い。また一方では,黒大豆,あお大豆を豆腐や納豆など差別化商品して利用する試みが増え,興味深い。

 

また,北海道の極大粒種は「鶴の子銘柄」として道南地方を中心に晩生の「白鶴の子」(1934)などが栽培されてきたが,中央農試ではこの品種の早生化を図り「ユウヅル」(1971),「ユウヒメ」(1979)「ツルムスメ」(1990)を育成し,さらに極大粒種「タマフクラ」(2008)を開発した。「タマフクラ」は何しろ大粒,100粒重が64gもある。世界一の大きさであろう。この品種は大粒ゆえに発芽障害を起こしやすいが,その大粒性は実需者サイドから大きな興味がもたれている。

 

これら品種は,実需者の要求に応えようとした育種家の苦労の末に生まれた傑作。それぞれの品種に関った育種家の顔が浮かんでくる。

 

生産者に求められるのは,北海道で生産された大豆は品質がよいとの評価に甘えることなく,加工適性を意識した良品質の生産を心掛け,安定供給への努力を図るべきだろう。生産者みずからが,実需者や消費者の要求に応えているかと自問しながら,生産に取り組む時代である。

 

多様な需要に対応するために,育種家の腕が試される

 

参照土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報 10,9-21に加筆

 

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北海道における大豆生産の挑戦(3)省力機械化への対応

2011-09-13 18:48:01 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

遅れていた機械化

北海道の農家戸数は,1965年の20万戸から2009年の45,000戸まで,45年間でおよそ22%にまで減少し,減少傾向はなお続いている。また,高齢化も急速に進み,大豆生産において機械化,省力化が必須の条件となってきた。

北海道における大豆の10a当たり投下労働時間は,15年前には17時間で,てん菜の19時間に比べればやや少ないものの,馬鈴薯の9時間より多く,小麦の3時間に比べれば極めて多い状況にあった。平成22年の10a当たり投下労働時間をみると,大豆で8.09時間まで半減していて,かなり機械化が進んだことを示している(因みに,てん菜14.91時間,ばれいしょ8.33時間,小麦3.68時間)。当時の作業体系では,収穫脱穀調製作業に45%,除草作業に35%を要する点が特徴であり,収穫脱穀調製作業の軽減を第1の目標として挑戦した。

コンバイン収穫への歩み

わが国の大豆は,耐裂莢性が易であり,点播のため最下着莢位置が低く収穫作業のネックになる点が多いこと,大粒で流通上外観品質が重要視されていることなどが機械化を遅らせた要因と考えられる。しかし,秋が遅く寒い時期に,腰を屈めて実施するニオ積み作業はつらく,埃まみれになって行う脱穀作業は,大豆の作付け意欲を減退させる大きな要因であった。

1961年にはビーカッタ,1968年にはビーンハーベスタが開発され,ビーンハーベスタは急速に普及が進んだ。1980年代後半には7075%の普及率である。しかし,この時代のビーンハーベスタによる収穫は,裂莢損失を裂けるため,朝露の残る早朝に作業をしていた。この頃,コンバインの導入も始まったが普及は2%前後で試行錯誤の時代であった。その後,クリーナなど調製機械,機械化適応性品種の開発,機械収穫を前提とした条播密植栽培技術の確立などが進み,コンバインの普及率は1995年で27%まで増加した。

十勝農試の成果 「カリユタカ」から「ハヤヒカリ」「ユキホマレ」「トヨハルカ」

大豆の機械収穫のために重要な特性は,耐裂莢性,最下着莢位置,耐倒伏性,密植適応性,枯れ上がりの良さなどが考えられる。耐裂莢性は,コンバイン収穫時の衝撃による子実の飛散損失に影響し,最下着莢位置と耐倒伏性は刈残し損失に影響する。

十勝農業試験場では,1975年から機械収穫向き品種の育成を目標に品種改良に取り組んだ。北海道の白目大粒の良質品種に,東南アジア,アメリカ合衆国および中国品種から難裂莢性因子を取り組むことを当面の目標にした。難裂莢性の導入品種は小粒,晩熟,無限伸育で耐倒伏性が劣るなど難点があり,難裂莢性の導入は必ずしも容易でなかったが,1991年「カリユタカ」を育成することができた。しかし,「カリユタカ」はまだ耐冷性,耐病性が不十分であり,さらに改良の余地を残していた。

その後十勝農業試験場では,耐冷性の褐目中粒種「ハヤヒカリ」(1998,十系679号×キタホマレ),早生の白目中粒種「ユキホマレ」(2001,十系783号×十系780号),耐冷性の主茎型・大粒種「トヨハルカ」(2005,十系739号×十交6225)などコンバイン収穫適性の高い品種を順次開発した。中でも,「ユキホマレ」は早熟性が生産者に好まれ普及が進み,北海道の主幹品種として貢献している。

省力化の目標値は10a当たり3.7時間

機械化による省力化,軽労働化は,今後の大豆生産振興にとって極めて重要な課題である。道立農業試験場では「21世紀初頭における技術的課題と展望」1994で省力化の目標を検討したが,コンバイン収穫の導入と手取り除草省略のための狭畦幅栽培によって,10a当たりの投下労働時間を小麦に近い3.7時間と推定している。この目標値は現行の45%強で,まだ目標値に達していないが,小麦のように大豆をつくるという畑作農家の夢は実現しつつある。

参照:土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報 10,9-21に加筆 

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鼓琴の悲

2011-09-13 18:37:07 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

中国の「世説新語」に鼓琴の悲しみという言葉がある。琴をこよなく愛した顧彦先が死んだ時,家人は故人が愛用した琴を霊前に置いた。そこへやってきた友人の帳季鷹は悲しみの余り,その琴で一曲ひき,「顧彦先は再びこれを弾じることはないのだ」と言い,泣きながら,家人に挨拶もせず帰ったという故事に基づく。ここに掲げた故人は,どなたも十勝農業試験場での在任中に交際を頂いた方々である。故人らの愛した,自然,人と酒,仕事に,琴の調べを奏でたいと思う。

◇泥臭いまでの育種家

谷村さんは,十勝農試大豆育種の3年先輩で,19676月に創設なって間もない中央農試大豆育種指定試験地へ異動になった。その時,筆者は2年目を迎えたばかりであったが,彼が分担していた育種材料を全部引き継いだという因縁がある。その後彼は,中央農試でダイズわい化病抵抗性育種に情熱を傾け,さらに植物遺伝資源センターでは種子生産と遺伝資源収集に力を注いだ。退職後はパラグアイの地で,種子生産の専門家として活躍した(1993-95)。

育種家には,系統を維持し続ける愚鈍なまでの頑なさと,系統の廃棄を決断する時に求められる大らかさが合わせ要求されるとすれば,谷村さんはまさに泥臭いまでの育種家であったのかも知れない。彼の野帳に選抜の系譜を辿りながら,ふと思うのであった。

 人を愛することから育種は始まる

十勝農試へ着任した時,犬塚さんは隣の研究室にいた。インゲン豆の育種担当であった彼は,若い研究者達に育種の何たるかをいつも語りかけていたように思う。人を愛することから育種は始まるのだと。

作物は生きている。生産物は人が食べるもの。だから,育種において誤魔化しはいけない。畑を歩け,草を取れ,作物と語れ,と常に諭されていたように思う。彼は,「銀手亡」「福粒中長」「福白金時」「北海金時」など菜豆の育種を担当した後,作物科長として小麦や蕎麦の試験に取り組んだ。その後,彼は上川農試の専門技術員として異動するが,この試験場でまた一緒になるという巡り合わせであった。研究室は違ったけれども,同じ屋根の下での18年である。

十勝農試職員の親睦会誌「十勝野」に掲載された,後木さんの紹介記事によれば「曲がったことが大嫌い。耐アルコール性やや強。飲むほどに声量が増し,時と場合によっては酋長の娘が踊りとなって飛び出す」とある。頑ななまでに貫いた正義感。併せ持つ陽気で柔和な顔。それは,人を愛し,育種に賭けた男の生き方だったのだろうか。

◇確かな記録は武器になる

背が低く,色白であるが,体躯はがっちりした男。柔和な顔と物静かな語り。元気な頃の松崎君である。彼は,1967十勝農試へ就職し,甜菜の試験研究に従事する。私とは1年前後しての研究生活スタートであり,約20年間一緒に十勝農試で過ごすことになる。しかし,彼は働き盛りに,志半ばにして病魔に見舞われる。彼の強い意志は繰り返される治療に耐え,小康を保つかに見えたが,医療の効果もなく長い闘病生活に入ることになる。中央農試験勤務になり,久しぶりに再会した彼は,もはや私を識別できるような状況でなかった。そして,19941112日帰らざる人となった。享年50才。

研究者にとって,新しい発想や工夫が大事であることは言うまでもないが,設計を綿密にし,確かな記録を残し,理論的な解析を進める事も極めて重要である。のデータ収集,整理の緻密さは際だっていた。不明な点は彼に問合せるのが最善と,何度お世話になったことか。また,彼のアイデア,確かな記録が多くの場面で役立った。パソコンが普及していなかった時代に,彼が示した情報収集と整理の努力を,いま我々は見習うべきでないだろうか。精度の良い試験があって,正確なデータを示せるからこそ,いつの世にも研究者は信頼を得ているのだから。

マラソン大会でも静かなスタートを切り,後方からヒタヒタと追いつき,いつの間にか真っ先にゴールしていた君の姿を思い出す。

◇緑の地平線の会

成河さんが現役を退いてからのことである。時折,北海道へきては昔の仲間と集まり,「作物の遺伝資源に関わる話題」「DNAと形質発現の距離」「導入遺伝資源の放生について」「DNAと形質発現の距離」「人と自然との共生について」「海外農業事情」など,勝手に話をしては酒を飲む機会を作っていた。その集まりは,高橋先生の門下生で氏に年齢が近い者達からなり,「緑の地平線の会」と称した。

成河さんは,十勝農試に入った時の大豆育種研究室の先輩であるが,十勝農試では低温研究や小豆・インゲン育種でも成果を上げ,その後農水省の北海道農業試験場や野菜茶業試験場で活躍した。氏の周辺には多くの仲間が自然と集まるような,奇特な人柄であったように思える。十勝農試を離れるころには癌の治療を受けていたが,苦しみを顔に出さなかった。その病も快癒し,退職後は仏門に入り長円寺(愛知県西尾市)住職を務め,正法眼蔵を研究するなど,才能豊かな生き様であった。

緑の地平線の会が4年目を迎えるころ,体調すぐれず車椅子の生活を送っていたが,「車椅子でも北海道へ行けるよね」と会への参加を心待ちにしていたという。2006年逝去。

手元には,氏の短編小説「シャルウイテイー」が残された。成河さん,聞こえますか,「緑の地平線の会」を今年も開催しましたよ・・・。

参照:土屋武彦2000「豆の育種のマメな話」北海道協同組合通信社 240p. (追補2011) 

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北海道における大豆生産の挑戦(2)ダイズシストセンチュウは克服されたか?

2011-09-12 18:03:08 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

シストセンチュウへの挑戦

農作物有害動植物発生予察事業年報によると,大豆作付面積が68ha前後であった戦後15年は,発生面積および被害面積が次第に増加し,発生面積率が13%から32%,被害面積率は10%前後となっている。この数値は大豆と小豆を込みにした数字であり,被害の主体が大豆であることを考えるとさらに大きな被害であったと推察される。

その後,大豆の作付面積が12haに減少した198690年にかけては,発生面積率約20%,被害面積率が5%前後である。輪作体系が確立するとともに,抵抗性品種「トヨスズ」が育成され普及が進んだことによる。さらに,「トヨムスメ」「トヨコマチ」「ユキホマレ」など抵抗性品種が普及し,最近の被害面積率は2%前後と低下しているが,その危険性はなお顕在化していると考えられる。輪作体系が確立し豆作頻度が減ってきた十勝では被害が少なくなっているが,上川,空知,胆振地方などの転換畑大豆で被害が目立ってきた現実がある。シスト線虫対策は,抵抗性品種の導入,非寄生作物との輪作体系確立,線虫抑制効果のあるクリーニング作物(クロタラリア等)導入など多様に総合的に行わなければならないが,生産者の意識が大事であることを,この現実は示している。同時に技術指導者の責任も問われよう。

北海道には,ダイズシストセンチュウのレース135の分布が確認されており,最も広く分布するレース3に対しては,1995年代から精力的に抵抗性育種が進められ,「トヨスズ」「トヨムスメ」「トヨコマチ」「ユキホマレ」など成果は顕著である。一部で発生の見られるレース1に対しては,より強度の「Peking」系抵抗性を有する「スズヒメ」が育成された。なお,最近の道央道南地帯の調査によれば,「ゲデンシラズ1号」由来レース3抵抗性品種の導入が有効な圃場が52%(R3)であること,レース13抵抗性品種でのみ有効な圃場が43%(R3g+R3p+Rgp)であること,レース13抵抗性品種で対応できない圃場が4%あることが示されている(田中ら2007)。

また,ダイズシストセンチュウ抵抗性レース13に対するDNAマーカーが実用化され,育種事業の中に組み込まれ,効率的な選抜が可能になってきている。DNAマーカーを利用した抵抗性選抜と戻し交雑により,レース13双方に抵抗性を有する「ユキホマレR」(2010)が優良品種として登録された。

以上のように,シストセンチュウについては抵抗性品種の開発が進み,輪作体系の意義が認識されているが,引き続き優良品種にレースを考慮した抵抗性を必須形質として付与しなければならない。また今後は,線虫抵抗性に加え耐冷性,わい化病抵抗性,機械化適性などを複合的に備えた総合特性改善を目指すべきだろう。

ダイズわい化病への挑戦

わい化病は,いま対策を求められる課題の一つである。わい化病の発生と技術対策の経過を振り返ってみると,1952年道南地方で原因不明の萎縮症状が観察されてから,全道各地に発生が広まり,1973年には発生面積率59%,被害面積率24%を超える状況であった。また,東北地方へも被害は拡大している。この間,本病はジャガイモヒゲナガアブラムシによって媒介される新ウイルス病であることが判明し,1968年にはわい化病と命名され,1973年には殺虫剤の土壌施用など防除技術が確立され普及に移された。

これら防除技術は一定の成果をおさめ,その後被害面積率は5%前後に減少するが,発生の多い年には被害面積率が10%を超えることも珍しくない。特に,1990年以降初期感染するケースが多く,殺虫剤の播種時に播溝施用するだけでは不十分で,発生予察により殺虫剤の茎葉散布を組み合わせるなど防除体系が再構築された。

一方,抵抗性品種の開発は,中央農業試験場が中心に取り組み,「黄宝珠」「Adams」など圃場抵抗性品種の探索を進めるとともに,それらを交配して抵抗性品種「ツルコガネ」「ツルムスメ」を育成した。抵抗性品種の探索は,これまで3,000を超える品種について検討しているが,20余りの圃場抵抗性品種が見いだされているものの,真性抵抗性品種は見つかっていない。

育成された抵抗性2品種の作付けシェアはわずか2%であり,抵抗性品種の開発を急ぐ必要がある。現在,中央および十勝農業試験場の両育種場所では重点育種目標に位置づけ抵抗性品種の開発を進めているが,さらに植物遺伝資源センターでは豆類基金協会の支援を得て高度抵抗性変異体の作出を目指し,中央農業試験場生物工学部でも農水省の支援でDNAマーカーによる選抜法の開発を進めるなど組織が一体となって取り組んでいる。

植物遺伝資源センターは,遺伝資源の中からより高度な抵抗性をもつ「WILIS」(インドネシア)を見出し,中間母本「植系32号」を育成した。また,抵抗性品種「Adams」の生体上でジャガイモヒゲナガアブラムシの生育が阻害されることを認め,この性質を「アブラムシ抵抗性」と名付けた。アブラムシ抵抗性は「黄宝珠」には認められないことから,抵抗性にはアブラムシ繁殖抑制と感染ウイルスの増殖抑制の2要因が関与することが示唆され,両抑制因子を集積することで抵抗性の強化を図る試みが行われている。

しかしなお,生産現場からは,コンバイン収穫を行う場合,わい化病の罹病株があると茎水分の減少が遅いため,汚粒が発生するとの指摘があり,解決を要している。

参照:土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報 10,9-21に加筆

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アステカ神殿の上に立つ大聖堂,メヒコの旅の始まり

2011-09-10 12:00:01 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

日本と南米を何回か往復したが,どの旅でも当地での生活品を詰め込んだ荷物をいくつも携行するため,通常はサンパウロかブエノスアイレスへの直行便を利用することになる。飛行機は成田から12時間,USAのニューヨーク等でトランジットして更に1012時間,地球を回り込むようにして南米にたどり着く。ちょうど地球の反対側,旅程は単純だがとにかく長い。途中で降りて旅をする気力もなかなか出て来ない。

その代わりにと言うことでもないが,南米での暮らしの合間にペルーやボリビアなどインカの遺跡に触れ,或いはまたチリやアルゼンチン北部のアンデス地帯,南部のパタゴニア,イースター島などを訪れた。これらの旅では,スペイン人がこの地の原住民と戦い,キリスト教の文化と生活(ヨーロッパ)をこの地に浸透させた歴史に,興味をかき立てられた。ご存じのように中南米では,ヨーロッパ文化が侵略してくる前に,アンデスを南下してきた原住民モンゴロイドが暮らし,インカ,テオテイワカン,マヤなどに代表される文明を築き,巨大な遺跡を残して消えたのである。これら消えた帝国の物語は,遺跡の発掘による考古学研究が進むにつれ次第に明らかになっている。

「今度の旅はメヒコにしようか」食事中の会話からこの旅は始まった

メキシコのベニート・ファレス国際空港に降り立ったのは20079月,独立記念日の2日後,雨季も終わりに近づいた緑濃い季節であった。アルゼンチンのエセイサ空港を前日夜中の23時に発ち,アエロメキシコ029便は655分に到着。メキシコシテイは中央高原地帯に広がり,霞んで見える都市であった。人が溢れる細長い空港。当時は,滑走路にJALの機影も見えた。

メキシコシテイではソナ・ロッサのホテルに宿をとった。ツインルーム朝食付きで76ドル。この地区には中クラスのホテルや飲食店が多く,新市街のレフォルマ通りには徒歩で行けるし,地下鉄で歴史地区を訪れることもできる。国立人類学博物館もゆっくり見学しよう。さらに,このホテルを拠点にして,テオテイワカン遺跡やタスコを訪れ,プエブラへも足を延ばそう。また,カンクーンではマヤ遺跡チチエン・イツアーを訪れよう。

 

◆アステカ神殿の上に立つ教会本殿

メキシコの首都メキシコシテイは,人口860万人,都市圏まで含めると2,000万人の大都市である。コロンブスによって発見された新大陸は,あたかもそれ以後が歴史のように語られるが,発見前から独自の高い文明をもった民族が住んでいた。このメキシコシテイは先住民のアステカ時代に,湖上に浮かぶ大都市であったという。アステカ帝国を滅ぼしたコステカ率いるスペイン兵士は,その繁栄を目にして「夢幻の世界とはこれか」と驚愕した様を記している。

金塊を求めて新大陸に向かったスペインは,アステカ帝国の神殿や宮殿を壊し,その石材でスペイン風の街を作った。巨大な遺跡の上に今の都会がある。中南米に開花していた文明が,ヨーロッパ文明によって覆い尽くされた歴史の現実を,メキシコでは体感することになる。

地下鉄でソカロに向かう。広場に面して,北側にはメトロポリタン・カテドラル,1563年に着工し100年以上の歳月をかけて完成した大きく重みのある歴史を感じさせる建物で,内部も重厚なバロック様式で飾られている。メキシコにある教会の総本山。また,カテドラルの裏から東側にかけてアステカ帝国の中央神殿跡テンプロ・マジョールが連なる。実は,このカテドラルはアステカ時代の中央神殿の上に建設されていたのである。

広場の東側にはメキシコ独立の舞台となった国立宮殿がある。ここはアステカ時代にモクテスマ2世が居城としていた建物を,コステスが破壊し植民地の本拠として宮殿を建てたものだという。当時のままに保存された議事堂を見学し,回廊の壁を埋め尽くした「メキシコの歴史」を描いた壁画(ヂエゴ・リベラ作)を鑑賞する。周辺には歴史を感じさせる古い建物が連なる。観光客に混じって,征服の歴史に思いをはせ,庶民の生活を覗きながらそぞろ歩くも楽しい。

◆東洋の理念と違う

前述したように,アメリカの歴史では,アステカ神殿の上に立つ教会のごとく,在来の街(宗教)を壊して新たな都市(宗教)を建設するように,自己を主張することが当たり前に行われてきた。ヨーロッパでもキリスト教とイスラム教の相克が歴史に刻まれている。スペインのメスキータをご覧になった方は,両文化の歴史を感じることができるだろう。バーミヤンの磨崖仏と石窟など彫刻破壊の事件も生々しい。

それに反して,日本に仏教が入ったとき,神社が壊されただろうか。日本にキリスト教が入ったとき,神社仏閣が破壊され教会に変わったのか。浅学にしてその例を知らない。植民地にされたことのない国ということなのか。それだけではあるまい。日本人のDNAには,神様も仏様も併せのむ寛容さ,お互いの幸せを思い遣るがあるのではないか。コーヒーや紅茶が入ってきても緑茶を忘れない。ワインやビールが入ってきても日本酒と横並びにして,お互いの良さを認める。

だが近頃わが国では,アメリカ的な(グローバルともいう)一律化した考え方,規制,効率化,数量化,マルかバツかの理念が幅を利かしているが,もう一度本来の姿を思い出してみたらどうだろう。 

 

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北海道における大豆生産の挑戦(1)冷害は克服されたか?

2011-09-08 08:29:48 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

冷害は克服されたか

寒地北海道はしばしば冷涼な気象に見舞われることから,耐冷性の強化が重要な課題であった。高品質な商品を安定的に供給するとの視点からみても,冷害は第1の障壁である。冷害年には,生産量が減少し農家経済への影響が大きいのみならず,商品としての品質劣化を起こし問題となる。

冷害は4年に1度やってくる

統計資料から収量が平年収量の85%以下となった年次を冷害年として拾ってみると110年中27年あり,その比率は25%,まさに4年に1回の頻度で冷害を受けていることになる。主産地が道東へ移行してからの昭和初~中期には冷害が頻発し,192635年は全道平均収量が86kg193645年には93kgと低収を示している。また,第二次世界大戦後も1954566466年など著しい被害を受け,最近では199320032009年の冷害が記憶に新しい。また,近年の事例では異常気象と呼ばれるように,気象の変動幅が大きく,局地的な豪雨もしばしば発生している。

耐冷性品種と栽培技術で冷害に勝つ

品種改良の面では,冷害頻発を契機として「大谷地2号」の普及が進み,戦後は耐冷性品種「北見白」「キタムスメ」の開発および普及など冷害の発生を契機として耐冷性は向上してきた。また,大豆の冷害研究は,1964年の大冷害を契機に本格的にスタートし,北海道農業試験場および道立十勝農業試験場(指定試験地)に低温実験室が整備され,低温生理研究と低温抵抗性品種の選抜検定が開始された。

大豆の冷害のタイプは,生育不良型,障害型,遅延型に分類され,被害は低温に遭遇する時期によって異なるが,実際には複合して起こることが多い。冷涼地に設置した現地選抜圃での選抜も合わせて行い,これまで渇毛の「キタムスメ」(1968),「キタホマレ」(1980),白毛の「トヨホマレ」(1986),「ユキホマレ」(2004)など耐冷性強の品種が育成され,安定生産に貢献している。しかし,1993年の冷害は100年に1度の異常気象と形容されるが,現在の品種の抵抗性ではまだ不十分であり,更に抵抗性の向上が重要である。

この間,低温年における初期生育の重要性が認識され燐酸施用による初期生育向上技術,低温寡照年に発生の多い豆類菌核病の防除技術の確立など,栽培面からの冷害回避技術の普及も冷害回避に大きな効果をあげている。

多収の可能性,平均収量が300kgを超えた

全道平均収量の推移を導入試作期の187595年の平均収量を100としてみると,戦前まではほぼ同等から低めに推移しているが,第二次世界大戦後は向上しており,198695年は182%,214kgの多収(全国平均162)となった。支庁単位の平均収量記録は,空知,石狩支庁で326kgの値を3年も記録しており,単収300350kgの指針(道産豆類地帯別栽培指針)は妥当なものであろう。多収となった要因には,耐冷多収性(空知石狩では多収品種キタホマレの導入が成功した),耐病多収性(十勝ではトヨムスメの導入が成功した)など品種の開発,豆作率の低下と輪作の確立,栽培技術の改善などが考えられるが,多収穫記録の裏には地域全体での熱心な取り組みのあることを忘れてはならない。

大豆の多収穫記録を示したが,全国豆類改善共励会では624kg1984),十勝増収記録会では536kg1994)の記録が達成されていることを考えると,大豆の収量水準はまだまだ高めることが可能であろう。

しかし,最近の統計をみると,収量水準の伸びが停滞しているように思える。生産環境の問題が多々あろうが,研究者も生産者もこの事実を謙虚にとらえるべきだろう。

白目品種がもたらしたもの

白目大粒で良質の品種が輸入自由化後のわが国大豆生産を支えてきたのは間違いないが,白目品種の普及が冷害の被害を増大したのではないかとの議論がる。秋田大豆は耐冷性であるが,白目大粒の「トヨスズ」は耐冷性が弱く着莢障害をおこし,しばしば品質劣化を起こした。「トヨスズ」は開花期間が短く一斉に開花するので,開花時の低温を回避出来ないとの指摘もあった。確かに耐冷性検定試験の中で,渇目品種が概して耐冷性が強く(勿論全部ではない),白目品種は開花後の低温で臍およびその周辺に褐色の着色を生じ,品質を大きく阻害することが頻繁に発生した。また,開花期間の長い小豆は無限伸育の特性をうまく活かし冷害を回避したことがあるのも事実である。

このような議論を背景に,白目大豆に耐冷性を付与すること,また着色被害の発生しない品種を早期に開発することが,緊急かつ大きな命題となった。その後,十勝農業試験場は「トヨスズ」の早生化,耐冷性向上を目指し,成果を上げている。「トヨムスメ」は熟期が早まり良質多収で黒根病や茎疫病にも抵抗性が付与され,リーデイングバラエテイの地位を占め,「トヨコマチ」「ユキホマレ」は着色被害の少ない早生種として普及が進んだ。また,「トヨホマレ」は渇目の耐冷性品種「キタホマレ」から耐冷性遺伝子を引き継いだ初の白目品種であり,着色被害も少ない。毛茸色を支配する遺伝子あるいはこれに強く連鎖した遺伝子が耐冷性に関係するとの報告(高橋1996)があるが,「トヨホマレ」「ユキホマレ」はこの困難を一歩踏み越えることに成功した事例であり,さらに今後の品種開発の進展が期待される。

参照:土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報 10,9-21に加筆

写真 豆類研究者OBたち(20119月十勝農試)

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