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最後の直轄移住地イグアス,新たな展開の兆しが見える

2011-07-28 09:29:48 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイ日系移住地の話をしよう(5

日系移住地を訪れる旅も終わりに近づいた。エンカルナシオンから国道6号線を北東に進む。ピラポを過ぎてから国道の両側には大豆畑が広がり,放牧された牛が草をはみ,川が流れる低地には帯のように緑の木々が連なる。時々出現する市街地は,赤土にまみれた色を呈し,生活臭が満ちあふれている。国道に面して,ガソリンスタンド,食堂,生活用品を売る店が並び,農機具の販売や修理工場,電話や銀行の看板も見える。

 

トーマスロメロペレイラ,ナランヒト,サンタリタなどの町が時間をおいて姿をあらわす・・・。軽食やトイレタイムで,ガソリンスタンドに併設された食堂で休憩することが多いが,店の主人との会話から,この地帯の住民はブラジル系であることが分かる。

 

国道6号線は,エンカルナシオンから約3時間半で国道7号線に突き当たる。突き当たりを右に曲がればシウダデルエステ市,左に曲がってアスンシオン方向に走り7kmの所にイグアス移住地がある。中央公園では赤い鳥居が目に入る。日本旅館,ラーメン屋,カラオケ店もある。ここは,日本政府が推し進めた最後の直轄移住地,現在の日系人口は約930人(イグアス市約8,700人)。

 

◇イグアス移住地の歴史

海外移住振興株式会社は,日本・パラグアイ移住協定に基づき,1960年アルトパラナ県ブリネスク地区に90,000haの土地を購入し,1961年にはフラム地区から14家族を入植させ,指導的役割を担わせた。同年農協設立,翌1962年にはスペイン語学校を開設した。

 

1963年日本から6家族が移住し,日本学校,診療所も開設され,予定入植者2,000家族を目標に事業が展開されることになる。しかし,1960年代の日本は高度経済成長時代に入り雇用が拡大したこともあり,パラグアイへの移住は年間15家族程度にとどまる状況になった。一方,他の地に入った移住者の分家対策としてこの地に転住する家族が多く,入植者は増加して行く。

 

1972年,JICAはパラグアイ農業総合試験場(CETAPAR)を設立し,専門家を日本から派遣して農業生産を技術面でサポートした(2010年日系農協中央会に委譲された)。

 

イグアス移住地は当初,肉牛中心の牧畜を中心に据える計画であった。入植後の1960年代は,トマト・メロン・大豆・鶏卵など多様な生産物を生産販売していたが,1970年代には他の移住地と同じく大豆生産を主体にした畑作経営へと移行した。また,1970年代には日系企業のイグアス進出もみられている(肉牛4,000頭飼育のイグアス農牧,イグアス植林など)。

 

◇土地なし農民による不法占拠事件

1989年,ストロエスネル大統領が革命により失脚し,ロドリゲス大統領が農地改革を掲げると,それに呼応して土地なし農民がデモを繰り返し,入植地にもテントや掘立小屋を作り不法占拠する状態となった。不法占拠者665人が確認されたと記録にある。軍と警察の介入により排除され,不法占拠者は代替地に移住させたが,機材や費用を日本人会が負担せざるを得なかったという。

 

このような土地なし農民の不法占拠は,2000年代になってからも各地で問題になっている。2000年代の場合はGMO大豆の普及による雇用不足が主たる原因とされるが,国道6号線を走るたびによく見かけた風景である。広大な大豆畑の一角,国道に面して黒ビニールで雨除けした小屋,囲いをしただけのトイレ,子供らが裸で遊んでいる。直視しがたい。不法占拠した小屋群落には必ず国旗がたてられている。「俺たちも同じパラグアイ人,何故仕事がないのか」,風にはためく国旗が主張しているようにみえる。

 

不法占拠事件を教訓に,日本人会は日系人のみにとどまらず地域住民全体の利益追求を念頭に活動している。イグアス地域振興協会が進める「牛一頭運動」コミテイ育成事業など,パラグアイ人と共に生きようとする考えは現在も引き継がれている。

 

◇不耕起栽培はこの地から始まる

不耕起栽培はブラジルから導入された技術であるが,CETAPARの支援を受け深見明伸窪前勇等が中心となり導入したもので,現在では環境保全型の安定多収栽培法としてパラグアイ全土に定着している。農協前にその功績を称え,記念碑が建てられている。

 

また,JICAのプロジェクト(CRIA)で育成された大豆品種「Aurora」は,豆腐・油揚に適すると評価され,主にこの地で生産されたものが日本に輸出されている。「日系移住者が生産した大豆で造った豆腐を祖国日本人が食べる」,絵になる話ではないか。

 

◇新たな展開をめざして

1970年代に日系企業の進出があったと前述したが,19902000年代には日系企業によるキノコセンター,OISCAパラグアイ総局の「匠の里開発プロジェクト」や「エコロジー公園」プログラムが開始された。皇室や日本からの賓客訪問,旅の途中に滞在する日本人,テレビ取材など,日本との人の繋がりは移住地の中で最も多い。また,移住者の商・加工・サービス業への進出もめざましく,酪農家が集まりヨーグルトやチーズ製造の「EL SOL」開業,製粉工場の建設と「HARINA NIKKEI」の販売,マカダミアンナッツの生産販売など新たな展開がみられる。

 

この背景には,エステ空港(日本の資金協力で建設された)に近いこと,ブラジルとアルゼンチンに接する活性商業都市シウダデルエステ市に近いこと,さらには世界から観光客が訪れるイグアスの滝に近いことなどの理由があろう。この環境を活かして,移住地は大きく飛躍しようとしている。ただ,此処にも「若年層の流出による日系社会の空洞化」「少子高齢化」「日本人とパラグアイ人の経済格差拡大,治安問題」が潜在していることを忘れてはなるまい。

 

参照:パラグアイ日本人移住70年誌(2007

 

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