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下田の「ペリー艦隊来航記念碑」と「日米友好の灯」

2018-11-24 11:40:05 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

2018年(平成30年)11月、下田の「ペリー艦隊来航記念碑」を訪れた。場所は下田公園(城山公園、鵜島城址)下、当公園入口近くである。幼少時の記憶を辿れば、この辺りは船の建造修理を行うドックがあったような気もするが確かではない。

下田港湾を背景に「ペリー艦隊来航記念碑」、モニュメント「日米友好の灯」が建っている。まさに下田港に手が届く場所である。先ずは、写真をご覧いただこう。中央にペリー提督胸像の記念碑と錨、左にモニュメント「日米友好の灯」、右に説明板がある。

   

◆ペリー艦隊来航記念碑

ペリー提督胸像が置かれた大理石製台座正面には「ペリー艦隊来航記念碑 The Monument for the Arrival of U.S.N. Commodore Perry’s Squadron」と刻まれ、背面には「昭和41年10月28日建之 Erected. October 28, 1966 下田町 ペリー艦隊来航記念碑建設委員会会長鈴木貞夫 臼井房吉 章夫刻」、横面には「M.C. ペリー提督は日米友好の先駆者である 1854年4月18日艦隊7隻を率いて入港 この辺に上陸し 6月17日了仙寺において 日米和親の下田条約を締結した これより下田は日本最初の開港場となった ペリー提督は今下田町の姉妹都市である米国R.I. ニューポート市の出生である 錨は米国海軍寄贈」と刻まれているのが読み取れる。

隣接する説明板には「ペリー上陸の碑」建設の由来が和文、英文で記され、下方に2枚の写真が添えられている。写真は、ウイルヘルム・ハイネ(同行したドイツ人画家)の「ペリー上陸の図」と「下田の船着き場」と題するものである。裏面には「ペリー艦隊停泊図」が描かれており、ペリー艦隊ポーハタン号以下、ミシシッピ、マセドニア、バンダリア、サザンプトン、レキシントン、サプライの7隻について、停泊位置と各艦の大きさ、乗組員数が描かれている。

 

説明板には「下田歴史の散歩道-9 ペリー上陸の碑 嘉永七年(安政元年1854) 再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満している点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、「ペリー上陸の碑」が建てられた。この記念碑のペリー像は故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨はアメリカ海軍から寄贈されたものである。(英文略)」とある。

◆移設される前のペリー像

大理石製の台座とペリー提督胸像は見覚えがあるが、「どこか周りの雰囲気が違う」と記憶をたどってみると、20年ほど前(1999年12月)に「ペリー提督上陸の地」碑を訪ねた時の写真が出てきた。雰囲気が異なると感じたのは、設置場所が変わったことによるものだろう。かつて、このペリー提督胸像は海岸道路をさらに進んだ場所にあった。現在地への移設は2002年(平成14年)、ペリー来航150周年に合わせて整備されたと考えて良いだろうか?

 

このペリー提督胸像は実に穏やかな表情である。ペリー来航に係る記念碑は下田の他に、横須賀市久里浜の「ペリー上陸記念碑」、函館元町公園のペリー像があるが、函館のペリー像と比べると表情に格段の差がある。函館の像はペリーの生誕地ニューポート市にあるペリー全身像をモデルにしたと言うが、威厳に満ちた姿で表情も厳しい(拙ブログ2018.5.22)。作者の村田徳次郎は何を思って、このペリー胸像を創ったのだろうか?

村田徳次郎(1899-1973)は大正・昭和期の彫刻家。 出生地は大阪市。京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、日本美術院に所属、東京芸大講師として美術部基礎実技塑像担当。粲々会結成に参画。「女座像」「小児像」「肘つける少女」「足を組む」「親鸞聖人像」「オーナー正力氏像」「長島選手」など作品が多い。形よりも内面性追究に重きをおいた作家と言われる。

◆モニュメント「日米友好の灯」

赤い炎はモニュメントの中で揺れていた。点火してから消えることなく灯り続けている。モニュメントの下部には建設の由来が、天板にはジョージ・ブッシュ大統領の「日米交流150周年に寄せるメッセージ」が記されている。

 

「日米友好の灯 この灯は、平成15年7月、日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う第20回ニューポート黒船祭のおり「NEW! わかふじ国体」の炬火リレーに使用するため採火されたものです。ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカロードアイランド州ニューポート市から空輸し、「日米友好の灯」と名付けられました。

炬火リレーとして利用後、平成16年3月31日、下田開港150周年の際にこのモニュメントに点火され、日米友好のシンボルとして灯り続けています。(英文略)」

「日米友好の灯宣言 下田市は、日米友好の灯を灯し、日本、アメリカ合衆国両民の永久の友好と親善を願い、両国民の交流に貢献することを宣言します。(英文略)」

そして、ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージは以下の通り綴られている。

「Message from President George Bush to the City of Shimoda on the Occasion of the 150th  Anniversary of U.S. – Japan Relations

This 150th anniversary of the 1854 signing of the U.S. – Japan Treaty of Peace and Amity is a time to celebrate the strong relations between our two great nations. Today, we are building on our strong relationship and partnership and promoting peace and economic prosperity. America is grateful to the people of Japan for our deep and enduring friendship.

George Bush

March 31, 2004

日米交流150周年によせて ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ 1854年の日米和親条約調印から150周年にあたるこの年は、日米両国の強い関係を祝う時である。1853年にマシュー・ペリー提督は、偉大な我々二国間に通商関係を樹立するため日本に向け出港した。今日、日米両国はゆるぎない関係とパートナーシップを確立、平和と繁栄を促進している。アメリカは深く永続的な友好に対し日本国民に感謝するものである アメリカ合衆国大統領 ジョージ・ブッシュ 2004年3月31日」

この地を訪れる観光客は多い。この地からペリーロードを歩いて了仙寺まで。或いは城山公園を散策して開港の歴史を偲んでいる。

 

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恵庭の碑-20 茂漁川河川緑地の「モニュメント翠光(すいこう)」

2018-11-06 17:05:58 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市西方の大地(自衛隊北海道大演習場、えこりん村)に源を発し、恵庭市街を東に向かって流れ、漁川(石狩川水系千歳川支流)に注ぐ一級河川の「茂漁川」。この茂漁川が旧国道36号(元札幌本道)と交差する河川緑地(柏木町4丁目、新茂漁橋のたもと)に「モニュメント翠光(すいこう)」がある。

モニュメントは、石を重ねた石柱の上に「川の流れと小鳥の造形」。石柱にはめ込まれた説明板には「樹木の翠(みどり)と茂漁川のせせらぎが美しいこの水辺で翡翠(カワセミ)が舞う姿を表現したものです」とある。見上げると4羽のカワセミが置かれ、餌を狙う姿、小魚を嘴にくわえた姿が目に付く。右端の2羽はオスがメスに獲物をプレゼントする求愛給餌の姿なのだろうか。

台座には、「この茂漁川水辺空間の新しいシンボル“モニュメント翠光”は宝くじの普及宣伝事業として整備されたものです 平成93月 恵庭市 寄贈財団法人リバーフロント整備センター(注、現公益財団法人リバーフロント研究所) 協賛財団法人日本宝くじ協会」と書かれたプレートがはめ込まれている。

 

茂漁川は漁川と共に恵庭市民のいのちと暮らしを育んできた「母なる川」、市民に愛される河川である。古来より鮭が遡上する清らかな河川として知られていたが、戦後の河川工事で自然が破壊されたことから、1990年に「ふるさとの川モデル事業」で川底に自然の土や石を戻し、水際に柳を植えるなど緑化護岸を行い、茂漁川は緑豊かな河川に生まれ変わっている。両岸には遊歩道が整備され、今では市民の散策コースの一つとなり、バイカモの群生地、カワセミの観察できる環境として高い評価を得ている。

このモニュメントは、整備事業の完成後に水、水辺、生態系を守り、自然と調和した防災まちづくりを目指すリバーフロント整備センターが市に寄贈したもの。モチーフは恵庭市の「市の鳥」であるカワセミである。

カワセミ(翡翠、川蟬、学名Alcedo atthis)は、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ属に属する鳥。水辺に生息。鮮やかな水色の体と長いくちばしが特徴。全長は17 cmほどで、長いくちばし(嘴峰長3.3-4.3 cm)のため体はスズメほどの大きさ。頭、頬、背中は青く、頭は鱗のような模様がある。喉と耳の辺りが白く、胸と腹と眼の前後は橙色。足は赤い。カワセミの青色は色素によるものではなく、羽毛にある微細構造により光の加減で青く見える(構造色、シャボン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理)のだと言う。この美しい外見から「渓流の宝石」などと呼ばれる。ヒスイと同じ漢字を書く。

恵庭市の「市の鳥」と書いたが、カワセミを市の鳥に指定している市町村は全国で40を数える(北海道では恵庭市のみ)。

11月上旬、茂漁川川辺のドウダンツツジは真っ赤に紅葉し、バイカモが揺れる川面には数羽の鴨が遊んでいた。

  

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恵庭の碑-19 恵庭に建立された「松浦武四郎歌碑」

2018-11-04 17:05:28 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」前庭(恵庭市大町1-5)に、「松浦武四郎の歌碑」が建立された(建立2018年)。大きさは高さ128cm、幅72cm、厚さ24cmの石碑である。碑面には「蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや」の句と「安政5年(1858年)に伊勢国(現三重県)出身の松浦武四郎が蝦夷地調査途中恵庭を経過する際に詠んだ歌が西蝦夷日誌に残されております」と説明文が刻まれている。また、裏面には「北海道命名150年記念 平成30年(2018年)11月 21世紀恵庭新ふるさと創りの会 発起人代表永山伸治 田中和紀 施工(有)鈴木石材工業」とある。

恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」は恵庭市大町1-5-7、旧国道36号(札幌新道、室蘭街道)沿いにあり、石碑は施設の前庭に道路に面している。茂漁川の近く、新茂漁橋の手前(南)と言った方が分かり易いかも知れない。

 

碑の建立は、武四郎が最後に蝦夷地を訪れた際(6回目)、開削されたばかりの札幌越え新道を陸路で銭函から発寒、札幌を経て千歳、勇払に至る踏査を行い、「茂漁」でこの歌を詠んだことに由来する。

「・・・是より千歳領なり。九折鼻をもつくばかりの峻を上がり、上に平地あり。茅野過ぎてロロマップ(小川)、名義、第一上の枝川と云儀。過てヘケレベ(橋有)、名義、明き川なり、水底燒砂にて濁らざるなり。是迄の川皆シュママップ(島松)に落。併てルウサン(小川)、アツシヤウシ(小川)モイザリ(茂漁、川幅三間、はし有)、是イザリの枝なり。小さきイザリとの儀。傍に石狩土人の家あり(シリカンチウ、サンケハロ)。是は去年夕張に連行し者故、立ちよりしに妻計居て、余が名を聞大に悦び、粟を二合計と焼鱒を三匹ほど呉ぬ。余も是に却禮して出立。此邊畑多し。元は石狩領なり。

蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや ・・・(西蝦夷日誌)」

武四郎がこの地を訪れ、アワやヒエが豊かに実っている様子に驚き感銘を受けた様子が詠まれている。アイヌは狩猟民族と言われているが、「皆畑作をなす。惣じてよく出来たり・・・」と西蝦夷日誌に記載されていることからみても、この時代のアイヌの人々は狩猟・漁に加え既に農耕を営んでいた。

数多くある武四郎碑の中で最も新しい建立(2018年現在)。碑前に立って思いを馳せるもよし。近くの茂漁川河川緑地を散策すれば、カワセミの舞う姿やバイカモの川面に揺れる白い花を見ることが出来るだろう。心が癒されること間違いない。

なお、平成30年(2018112日に記念碑の除幕式、恵庭市への贈呈式が挙行された。

松浦武四郎1818-1888

江戸末期の探検家。伊勢の人。17歳のころから諸国を巡歴し、弘化2年(1845)、28歳の時はじめて蝦夷地を踏査。以来、6回の蝦夷、樺太、千島を探検し、貴重な記録や地図を残している。明治政府から開拓判官に任じられ、蝦夷地を「北海道」と命名したことでも知られる。蝦夷地の発展とアイヌの生活改善を願って就いた判官の職であったが、思うようにならず途中で職を辞している。

松浦武四郎の足跡を記念して建てられた記念碑や説明板の数は多い。松浦武四郎研究会や専門家の資料によると、武四郎本人が主役の記念碑と説明板は全道で77点(宗谷4、留萌6、上川20、空知11、石狩1、オホーツク8、根室1、釧路9、十勝4、日高7、胆振6)、武四郎の文献などを引用した記念碑や説明板を加えると北海道におよそ120点存在すると言う。足跡を訪ねてみるのも楽しみである。

◆イザリブト番屋の図

恵庭市内にはこの他に武四郎ゆかりの地「イザリブト番屋と船着き場、史跡表示板」がある。場所は恵庭市林田の恵庭神社遥拝所跡。松浦武四郎著「再航蝦夷日誌」から引用した「イサリブト番屋の図」説明板が建てられている。

この説明板は、武四郎2回目の蝦夷地踏査の際、千歳川を遡り漁太の様子を記録に残しているが、その場所を特定した記念板である。当時、この付近で千歳川と漁川が合流し、傍らに番屋があり、アイヌの人々の家が立ち並んでいた。

「・・・イサリブト ツイシカリより十一里。此処漠漠たる広野にして処々此の辺沼あり。又支川も網を曳けり。沼は左右にあって至って湿深きところなり。此処に至り四面とも山と云は少しも見えることなし。蔵の屋根え上がらばシコツ山見ゆるなり。番屋大きく建てたり。弁天社、蔵々あり。千歳支配所なり。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土地肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人ども熊、鷲を多く飼えり。又鶴多きよし。夷人毎日臼にて沼菱を搗て是を平日の食糧とす。又鹿皮を多く着科にせり。もっとも肉を干して是も平日の食に当てるよし。・・・此処にて川二つに分る。一つは右の方本川にしてシコツ沼に及ぶよし。番屋前十間ばかりして枝川に上る。此巾十二三間。もっとも深き壱尋半より二尋。急流にして水至って清冷なり。本川はシコツ嶽、サッポロ嶽の間より落ち来る。本川幅十五六間。深凡そ二尋もあるよし聞けり・・・(松浦武四郎「再航蝦夷日誌」1846)」とある。 

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