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恵庭の古道-7 「札幌本道(室蘭街道)」

2022-12-27 11:02:42 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

土木学会選奨土木遺産に選定された「弾丸道路」

恵庭の形成発展に欠かせない「札幌本道(室蘭街道)」も、恵庭の古道と言って良いだろう。明治6年(1873)に完成すると街道沿いに住宅や商店が集まり、次第に市街地が形成されて行った。

松浦武四郎が陸路探査で通ったのは安政5年(1858)、札幌本道が出来る前であったがほぼ同様のルートであった(勇払場所請負人山田屋文右衛門らが私費で札幌越え新道掘削)。

札幌本道が開通してからは、明治10年(1977)にクラーク博士が室蘭街道を経て帰国の途に就き、明治14年(1981)には明治天皇が北海道開拓状況と民情視察のため行幸されこの街道を通られた。

後に、札幌本道は国道36号線となるが、昭和27年(1952)に恵庭市街地で経路変更がなされたため当初の札幌本道を旧国道、改修された新道(弾丸道路)を国道と呼んでいた。現在、旧国道は市道恵庭線(クラーク博士通り、一部は 遊ingロード1番街)、当時の国道は道道46号江別恵庭線となっている。

さらに、平成8年(1996)に国道36号は南24号を迂回するバイパスとなった。そうなると、従来の国道を旧々国道、旧国道と呼ぶべきか悩ましく、新たな呼称を定着させた方がすっきりする。

この通りには、かつての札幌本道(室蘭街道)を偲ばせる「漁村帷宮碑」「御前水跡碑」があり、「松浦武四郎の歌碑」が建立された。豊栄神社、大安寺、敬念寺など神社仏閣も並び歴史を感じさせる。明珍鉄工所など開拓時代から続いた建物は消えつつあるが、「札幌本道(室蘭街道)」は歴史の道として保存する価値があろう。

◆札幌本道(室蘭街道)

明治6年(1873):ケプロンの献策により日本初の西洋式馬車道札幌~函館間が完成、「札幌本道」と定めた(太政官布告第364号、森~室蘭間は航路で繋がっていた)。札幌室蘭間は「室蘭街道」とも呼ばれた。クラーク博士が任期を終え帰国したのもこの街道。島松沢で見送りに来た学生たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と離別の言葉を残した。

明治18年(1885):「国道42号(東京より札幌県に達する路線)」に指定(内務省告示第6号、国道表)。

明治40年(1907):国道42号は倶知安・小樽経由にルートが変更され、国道43号(青森~室蘭~岩見沢~旭川、旭川の第七師団に達する路線)となる。その結果、苫小牧~札幌間は国道から外れ県道となった。

大正9年(1920):旧道路法が制定され旧43号は国道28号となるが、苫小牧~札幌間は県道のままであった。

昭和27年(1952):新道路法が制定され、札幌~室蘭間が「一級国道36号」に指定された。札幌・千歳間の舗装工事が始まり翌年には34.5kmの工事が完了、「弾丸道路」と呼ばれた(道幅7.5m、最高設計速度75km/h設定の高規格道路、旧室蘭街道は直線化された)。アスファルト舗装の採用は当時としては珍しく、日本の舗装歴史上特筆すべき事項だったと言われる。

昭和40年(1965):道路法改正により一級・二級の区別を廃止、「国道36号」となる。

平成8年(1996):「国道36号」は恵庭市街地の交通量増加に対処するため、恵庭バイパスとして南24号線に沿って市街を迂回する路線変更が行われた。

令和3年(2021):「弾丸道路(札幌・千歳間道路)」は土木学会選奨土木遺産に認定。

◇弾丸道路

北海道開発局「開局70年、北海道開発の歩み」によれば、国道36号「弾丸道路」完成秘話について以下のような記述がある。

・・・千歳空港と真駒内に置かれていた占領軍キャンプを結ぶ道で、舗装整備もされていなかったために、車両が通れば砂埃が巻き上げられ、冬季は凍結して春先に溶解して泥濘路になると有様であった。改修工事が行われた際に、当時コンクリート舗装が主流だった時代としては珍しく、アスファルト舗装が採用され、日本の舗装の歴史上で特筆するべき点となった。アスファルト舗装を採用した背景にはメンテナンスの容易さとコスト低減、北海道の舗装道路において悩みの種となっていた「凍上」(厳しい寒さによって地中の水分が凍って地面を盛り上げる現象。雪解け時に舗装を破損させる要因となっていた)対策が背景にあった。舗装下の凍土対策として、火山灰を抑制剤として使用し、工期短縮のため大規模な機械を取り入れて、細かな工区割りで作業が行われるという当時としては画期的だった方式で工事が実行され、寒冷地での道路建設のモデルケースになった。

延長34.5kmという大工事を、昭和27年10月の着工からわずか1年余りで完成させた。施工にあたったのは道内外の精鋭15社。総労働者数は約34万人に達し、ブルドーザやローラ、トラックなど約250台が投入された。

弾丸道路という名称の由来は、「米軍の弾丸運搬に使われた」「弾丸のような突貫工事だった」「弾丸のように早く走行できる」などの諸説がある・・・。

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恵庭の古道-6 「松園通り(中島通-松園線)」

2022-12-26 11:36:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

残したい歴史の道

明治29年版地図(長都1/50,000、大日本帝国陸地測量部)をみると、室蘭街道から茂漁川の北側、漁川左岸沿いを通る道路が描かれている。地図上に名前はないが、松園尋常小学校に通じる道路「松園通り(中島通-松園線)」である。

◇松園通り(中島通-松園線)

恵庭への最初の開拓移住者たちは漁川、茂漁川、島松川などの川岸に住まいを置き開墾を始めた。往来は河川を利用することが多かったが、次第に川沿いの陸路が生活路として定着して行く。明治6年(1873)、ケプロンの献策により札幌~函館間の「札幌本道」(森~室蘭間は航路)が開設されると街道沿いに集落が形成され、里道は街道と繋がるようになるが、松園通り(中島通-松園線)もその一つであった。

明治20年(1887)私立洞門尋常小学校が大安寺境内に開設、明治22年(1889)私立松園尋常小学校が漁川川沿い(現、恵庭開拓記念公園)に開設されると、「松園通り(中島通-松園線)」は子供らの通学路になった。また、明治30年(1897)漁外一箇村戸長役場が中央地区(松園尋常小学校の対岸)に設置され、恵庭村役場は昭和26年(1951)まで55年間この地にあったので、「松園通り(中島通-松園線)」は利用頻度の高い道路だったと思われる。

現在の地図と重ねてみよう。

道道46号線(江別恵庭線、旧室蘭街道)から恵央町地区を横切り、中島町4丁目と5丁目の境界に沿うように(若草小の北側)中島町地区を斜めに進み、国道36号線(バイパス)中島5丁目信号を渡り、花の拠点「はなふる」(庭園、道の駅がある)の北西側を漁川に沿って走る道路に重なる。道道46号線から国道36号線間の経路ははっきりしないが、花の拠点「はなふる」から恵庭開拓記念公園(松園小学校跡)北側に通じる道路(松園線)には「松園通り」の趣が残っている。現在、松園線は茂漁通に繋がる道路と位置付けられている。

「松園線」は茂漁川第三幹線用水路が道路脇地下を走り、桜並木「恵み野桜回廊」が美しい通りである。また、歩道の真ん中に楡の大木が残されているが、これは「恵庭の御神木」と噂されるもの。伐採しようとしたところ怪我人が出るなど祟りがあったとされる伝承の樹で(拙ブログ2022.4.30「松園通りのハルニレ」)、推定樹齢は160年。このハルニレは御神木と崇められる一方、開拓の歴史を語る記念樹とも言えるだろう。

恵庭開拓記念公園の記念碑や旧町役場跡など歴史地区に通じる「松園通り」は、残したい「歴史の道」。花の拠点「はなふる」から恵庭開拓記念公園に通じる案内板や標識設置、桜並木の花壇整備など、歴史を記憶に留め観光に資する試みがあっても良い。

  

◇私立松園尋常小学校

明治22年(1889):漁川の沿岸に入植した長州藩士族廻神美成によって私立松園尋常小学校開校。「松園」の名は吉田松陰に因んだものと言われる。

明治32年(1899):公立松園尋常小学校となる。

昭和46年(1971):統合により松恵小学校となり閉校。閉校跡地は恵庭開拓記念公園となる。

◇漁外一箇村戸長役場

明治13年(1880):千歳に千歳郡各村戸長役場設置。

明治30年(1897):漁村・嶋松村が千歳郡戸長役場から独立し「漁外一箇村戸長役場」設置。戸数143戸。

明治39年(1906):漁村、嶋松村を合わせ恵庭村になる。中央地区に恵庭村役場を開庁。

明治43年(1910):恵庭村役場全焼。再建。

大正15年(1926):恵庭村役場総改築。

昭和26年(1951):町政施行し恵庭町となる。

昭和27年(1952):町役場庁舎、中央から漁地区に移転新築。

昭和45年(1970):市制施行し恵庭市となる。

 

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恵庭の古道-5 「孵化場道路(牧場道路)」

2022-12-25 12:46:51 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

役目を終えた、古道

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図(長都1/50,000)に、室蘭街道の漁村市街地から山越えで南に延びる一本の道路(小路)があるが名前は書かれていない。時代が移り大正9年版の地図(漁1/50,000)になると、この道路は「孵化場道路」と記されている。漁(恵庭)から孵化場(千歳)に通じる道路という意味だろう。

  

  <図:明治29年版地図(長都1/50,000)と大正9年版の地図(漁1/50,000)>

◇孵化場道路

札幌本道(室蘭街道)を漁川第二幹線用水路が横切る辺り(帷宮碑の脇)を起点とし、当時の種畜場放牧場、上長都、学田を経て千歳市蘭越(千歳川)に抜ける道路。現在の地図に重ねると、旧々国道(市道恵庭線、クラーク博士通り)泉町から駒場町、恵庭公園、陸上自衛隊南恵庭駐屯地を抜け千歳市蘭越に至ることになる。現在このルートは通行できない。

千歳川(千歳市蘭越)に初の官営孵化場(現、北海道区水産研究所千歳さけます事業所)が設置されたのは、明治21年(1888)のことであった。この千歳の「さけます孵化場」に抜ける道路を「孵化場道路」と呼んだ。

なお、官営漁村放牧場は明治9年(1876)エドウィン・ダンの選定により、北海道開拓使が「真駒内牧牛場」を札幌郡平岸村(現、札幌市南区真駒内)に、漁村放牧場を現在の駒場町惠南地区に開設したことに始まる(真駒内放牧場の附属牧場。地図には種畜場出張所・種畜場牧場とある)。牧牛場は明治19年(1886)「種畜場」に名称変更、その後も「北海道庁種畜場」「北海道農業試験場畜産部」と名前を変え、昭和21年(1946)には用地が進駐軍に接収されたため新得町に移転した(新得へ移転後は「北海道立種畜場」「北海道立新得種畜場」「北海道立新得畜産試験場」「北海道立畜産試験場」「道総研畜産試験場」となり現在に至る)。

新千歳市史(平成31年)に詳細な記述がある。

・・・「躍進千歳の姿」に、当時の鮭鱒孵化場の思い出を収録した部分がある。「千歳孵化場からの交通としては、千歳市街地迄二里は荷馬車が辛うじて通る程度で夏季にでもなれば路傍の雑草が人の背丈にも伸びて、雨の時などは身体がヅブ濡れという始末、それでもタマに買物に出たり、或は山越して二里半の恵庭村に散髪に出るのは楽みの一つであった(当時千歳村には理髪店がなかった)。役所を退けてから散髪に行って髪を刈って帰れば馬で行っても帰りは夜の十時頃にもなった。かなり悩んだものである。」

この「山越して二里半」の道が孵化場道路である。もちろん孵化場の役人ばかりでなく、札幌から支笏湖へ行くルートとしても利用された。恵庭(漁)から孵化場までの道筋は、現在の恵庭駅前通りと江別恵庭線との交差点から千歳寄り漁川第二用水横を道なりに南下し、途中から恵庭公園内を陸上自衛隊南恵庭駐屯地の正門まで縦断する。正門からは駐屯地の中心道路を南下し、道央自動車道を跨ぎ演習場内を千歳の境界まで抜け、急な沢を渡り孵化場に至る経路である。漁村の行政区域内では牧場道路といわれていた。

この道は孵化場設置の明治21年(1888)以降に地図に現れる。実際この道路をいつ頃まで利用していたかは定かでない。大正時代にはこの道路沿いに、付近の炭焼きを営む者の子弟のために蘭越教授所があったと言われる。長都街道、釜加街道と同じく町村道として認定されなかった里道であったが、昭和14年の北海道庁道路課による「北海道道路図」にも示されている重要な生活道路であった。昭和29年前後にその道筋のほとんどが自衛隊(北千歳駐屯地及び南恵庭駐屯地)管理地に包含され、道路としての役目を失うことになった・・・(新千歳市史p719)。

 

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恵庭の古道-4 「恵庭街道」「盤尻街道」

2022-12-23 18:02:03 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

新恵庭市史(令和4年刊)に記載されている恵庭村主要道路は、前項の「釜加街道」「漁街道」の外に「恵庭街道」と「盤尻街道」がある。「恵庭街道」は現在の道道600号島松千歳線、「盤尻街道」は道道117号恵庭岳公園線。道路法改正に伴い起点終点など一部変更があったものの、現在も恵庭の主要道路ある。

現在の主要道路を古道と呼ぶのかとの異議はあるだろうが、これらの道路は明治時代から大正、昭和にかけて人々が「街道」の名前で親しんだ道路。古道と呼んでも差し支えあるまい。

◇恵庭街道

明治24年(1891)から始まった殖民地区画の測設によって引かれた区画道路を基本に整備されたもので、千歳と恵庭を結ぶ道路。入植が進み当該地域に住む人々が多くなると、この街道の利用頻度が高まり現在に至っている。現在の島松千歳線は起点が恵庭市島松(道道46号江別恵庭線交点、終点は千歳市北信濃(国道36号交点)の17.5kmである。

かつての「恵庭街道」について、新千歳市史から引用する。

・・・大正9年の道路認定台帳では祝梅94番地から釜加92番地までの(略)町村道となっている。千歳村管内図-管内道路網一覧図では、千歳由仁道路からネシコシ橋を渡り南26号を恵庭に向い東5線を南21号まで北進し島松につながる道の東三線までとなっている(注、東三線が千歳と恵庭村の境界)。その後、農村の幹線道路として重要度を増し、その経路を国道36号新富1丁目からの東9線から南26号で恵庭に向かう経路に変更となり、昭和43年に一般道道島松千歳線として認定された(新千歳市史p720)・・・とある。

現在は、「恵庭街道」と呼ぶことも無く一般道道600号島松千歳線として認識され、利用頻度が高い道路である。

◇盤尻街道

恵庭市街から盤尻地区に延びる道路。昭和57年(1982)道道339号光竜鉱山恵庭停車場線から名称変更して主要地方道(道道117号恵庭岳公園線)となった。現在の恵庭岳公園線の起点は恵庭市盤尻(国道453号交点)、終点が恵庭市本町(道道46号江別恵庭線交点)の29.3km。

かつての「盤尻街道」について新恵庭市史(令和4年)から引用する。

・・・盤尻地区の主要道路である道道117号恵庭岳公園線は「盤尻街道」と呼ばれ、茂漁から盤尻に入り漁川に沿って進む道で、当初は刈株だらけの細い路だった。途中に盤尻橋があるが、昔は川底が岩盤で流れが急なため、何度か流されてことがあったという。

盤尻小学校を過ぎると、道路は崖を避けて左側の台地に登る。ここにあった坂は、薩摩豊次郎が近くに住んでいたことから「薩摩の坂」と呼ばれ、馬車が登るには難所であった。「薩摩の坂」付近の分岐点から左へ進むと下り坂になるが、官有林の中を通っていた坂のため、「官林の坂」と呼ばれた。

明治41年には農作物の搬出のため、幅員九尺の漁農道が3,023間、大正3年に400間、計3,423間(6,162m)が開設された。左側の道路は「中道」と呼ばれ、約8kmで恵庭市街に下っていた。この道は下り一方であるため、いくつかの坂道がある盤尻街道に替わって一時盛んに利用されたという。千歳から紋別川への自動車道ができると、この方面の産物が千歳へ運ばれるようになり、ほとんど使われなくなった(新恵庭市史p213-214)・・・。とある。

 

盤尻の開拓は、官有地と御料との払い下げを受けた入植者によって、明治34年頃から始まった。盤尻は木材の切り出しや薪炭製造など山で働く人が多く集まり、また発電所建設や軌道施設工事などで一時期は大変な賑わいを見せた。道路が整備されてトラック輸送が主体になる昭和30年頃から盤尻を離れる人々も多く、盤尻小中学校も恵庭小学校に統合され廃校となってしまった。

現在、道道117号恵庭岳公園線は「えにわ湖」「恵庭渓谷、白扇の滝、三段の滝、ラルマナイの滝」など自然美豊かな場所で観光に訪れる人々が多く、支笏湖へ抜ける道程としても人気のコースとなっている。

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恵庭の古道-3 「長都街道」

2022-12-17 16:48:56 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

消えた「長都街道」

弘化3年(1846)松浦武四郎は二回目の蝦夷地探査の折、江別から舟で千歳川を遡った。再航蝦夷日誌にその時の詳細な記録を残している。再航蝦夷日誌によると、当時の交通は主に河川を利用していたが、イザリブト(漁太)からチトセ(千歳)までアイヌの人々が往き来する陸路(里道)があったとされる。

関連する部分を引用する。イザリブトの説明の中で「扨此処より公料のせつは、チトセ迄陸道有し由なれども今は其道絶たり。実におしきものぞと思うなり。凡そ陸にて五里半と聞けり」と記し、カマカの説明では「此処より小川を五、六も渡りてチトセへ行く道あるよし聞侍りけり」、チトセの説明では「イザリブト従り六里。此間寛政度には陸道有し由。今はわずかに存せる斗なり。夷人共は是を往来す。願はくば此道筋を開き置度事ぞ」とある(新千歳市史2019、大林千春「武四郎が見た恵庭」えにわ学講座2019)。

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図「長都1/50,000」、「胆振国千歳郡千歳原野区割図」(北海道庁、明治30年初刷)をみると、里道は「カマカと漁」「オサツと千歳」を結ぶ道路以外はない。前者は「釜加街道」、後者が「長都街道」と言うことになろうか。長都沼及び千歳川流域は多くが沼地・湿地帯であるが、漁太と千歳を結ぶ道路は何処を通っていたのだろうか。

 

◇長都街道

新千歳市史(平成31年)から「長都街道」解説文の一部を引用する。

・・・安政4年(1857)、当時の箱館奉行堀織部正は一行三十余名で函館を出発して蝦夷地巡検に向かった。・・・随行者の中に仙台藩士玉虫左太夫がいた。彼が蝦夷地で見聞きしたものを日記に書き記したものが「入北記」である。ユウフツからチトセを通ったときの記録の中で、当時の千歳とオサツの情景を表している部分がある。

・・・「千歳川ヲ渡リ、川筋通リ一丁斗リ行キテ平林トナリ、又行ク十丁斗ニシテ追分ノ杭アリ。左ハイシカリ境シママフ道新道ナリ右ハヲサツ道ト記シ置ク。(略)漸クヲサツニ至リケレバ同処ニ土人家八九戸アリテ至極幽栖ノ処ナリ。此処ニ川アリ。ヲサツ川ト云フ」(玉虫左太夫「入北記」1857)・・・

・・・「右ハヲサツ道」といわれたものが、千歳市街地からオサツを通ってイザリブトに通じる六里の道で「長都街道」として昭和末年頃まで人々の記憶にあった旧道である。(略)おそらくイザリブトからオサツまでの間は、利用目的の喪失や湿地帯という交通路としての利便の悪さから廃れたが、オサツから千歳までの間はアイヌの人たちの生活路として存続していたのだろう。(略)大正9年、千歳村が行った道路名認定作業で長都街道として道路台帳に記載された道は、東六線の直線道路であり斜めの道ではなかった。昭和10年頃の千歳村管内図-管内道路網一覧図では、地方費道、準地方費道や多くの村道が色分けされそれぞれに道路名が記載されている中で、認定前の「長都街道」には名称の表示がない。その経路は、現在の国道36号錦町四丁目付近から、北栄の高台の則面下に沿ってJR千歳線を越え、高台通(東十一線)沿いの道央農協千歳支所付近から末広小学校、富岡中学校方向へ斜めに長都まで続いている。長都街道は昭和五十五年の段階で地図上から消滅しているが、その傷痕をわずかにみることが出来る場所がある。そこは老人福祉施設暢寿園裏の雑木林内をふれあいセンターのゲートボール場に出る僅か10mほどと、その延長上の富岡中学校敷地までの間である・・・

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図「長都1/50,000」、「胆振国千歳郡千歳原野区割図(北海道庁、明治30年初刷)」に描かれているオサツと千歳を結ぶ道路が「長都街道」と呼ばれていたことは間違いない。

 

◇イザリブト(漁太)とオサツ(長都)を結ぶ陸路

ところで、イザリブトとオサツを結ぶ陸路は何処にあったのか。新千歳市史では「イザリブトからオサツまでの間は、利用目的の喪失や湿地帯という交通路としての利便の悪さから廃れた」と推察しているように地図上にも経路の痕跡はない。

再興蝦夷日誌には寛政の頃にはあったと書かれているので、松浦武四郎から遡ること50年ほど前(1,800年頃、11代将軍家斉の時代、伊能忠敬の蝦夷地測量が行われた頃)にはアイヌの人々が往来する里道が存在したのだろう。

イザリブトから千歳川沿いにオサツを通りチトセまでの距離を地図上で辿ると約14-17km(4里)、イザリブトから漁川沿いに上流へ向い、漁、戸磯を経てオサツに抜けると仮定した場合は約20-24km(5-6里)である。再興蝦夷日誌によるとイザリブトと千歳間の距離は5里半~6里(24-22km)とあるので、イザリブトからオサツに至る陸路は後者の可能性があるが、確証はない。

6里と言えば徒歩で凡そ6時間ほどかかる道程、どこかにその痕跡か記録が残されていないだろうか。

追記:2023.9.5

澁谷さん外数名の方から、恵庭駅から札幌方向約200mの踏切に「長都街道踏切32k805m」の標識があると教えられた。この標示によれば、長都街道はこの地点を抜け恵庭小学校の脇を通り漁市街へと通じていたことになる。この踏切から長都への経路は確定できないが、南26号(戸磯黄金通)か南25号(黄金中島通)沿いだったのだろうか。南26号だとすれば「漁街道」に重なってしまう。 

いずれにせよ、この踏切の場所は「釜加や長都」に通じる街道の道筋と言える。今も南北に通じる基幹用水路が残っている。

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恵庭の古道-2 「漁街道」

2022-12-15 14:14:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

オサツ(長都)と恵庭(漁)を結ぶ「漁街道」

カマカ(釜加)と恵庭(漁)を結ぶ生活路を「釜加街道」と呼んでいたと前項で述べた。同様に、オサツ(長都)と恵庭(漁)を結ぶ道は「漁街道」と呼んだ。オサツ(長都)はオサツ川とユカンボシ川が長都沼に注ぐ河口近くにできた集落で、アイヌ語のオ・サツ・ナイ(川尻が乾く川)から名付けられた。長都村と漁村は同じ生活圏を形成していたと考えられている。明治29年製版大日本帝国陸地測量部地図「長都1/50,000」に記載はないが、里道らしきものはあったに違いない。

◇漁街道

植民区画で基線・号線道路が整備されるに伴い、長都の人々は恵庭(漁)に向かう生活路として「南26号」道路を頻繁に使うようになったと考えられている。長都集落から南26号道路を経て現在の戸磯黄金通を進み、恵庭駅の北側を過ぎて鉄道を越え、恵庭小学校の横を通り漁市街に至る道路である。その後、漁街道の起点・終点は若干の変更があったようだが、南26号道路が主幹であった。そして今なお南26号線は国道36号線の裏街道として交通量が多い(漁街道とは呼ばないようだが)。

新恵庭市史の記述は新千歳市史(平成31年)を引用しているので、本項では新千歳市史から引用する。

「長都・釜加地区の人々が恵庭(漁)に通うもう一つの道が漁街道であった。この道は、南26号を恵庭に向い、東3線を越え恵庭駅の北側を通り鉄道を越え恵庭小学校の横を過ぎて漁市街地に通じていた。戦前は長都小学校に高等科が設置されておらず、長都・釜加地区の子で高等科進学を希望する者は恵庭小学校か松恵小学校の高等科を選択するしかなかった。長都の子の多くはこの道を恵庭小学校に通ったのである。

大正9年の町村道認定台帳では、現国道36号と東6線交点付近長都158番地を起点に長都62番地(注、東3線)までの1,111m(注、誤記か? 実際は4km強ある)となっているが、昭和34年には南26号道路と名称変更され、起点は長都の東10線、終点は長都の東3線となった」とある。

 

「漁街道」の名称は、長都・釜加など千歳に住む人々の命名だったのではないか。漁に住む人々から見れば長都街道と言う方が自然な発想だと思うが如何だろう(別に、長都と千歳を結ぶ長都街道と呼ばれる道路があった。この道が漁市街まで繋がっていた道筋は分からない)。

 

追記:2023.9.2 渋谷さんから新千歳市史引用の誤記(1,111m)を指摘された。地図上で測定したところ、およそ4,400mだった。ご指摘有難うございました。

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恵庭の古道-1 「釜加街道」

2022-12-14 17:13:30 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

カマカ(釜加)と恵庭(漁)を結ぶ「釜加街道」

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図「長都1/50,000」をみると、嶋松村、漁村、長都村、千歳村の当時の状況がよく分かる。長都沼及び千歳川流域は多くが沼地・湿地帯で道路がなく、陸地は落葉樹で覆われ農耕の形跡が見当たらない。

本地図に描かれている道路は少ない。明治6年(1873)に開通した札幌本道(室蘭街道)が北西から南東に延びていて、自札幌至函館道と記載されている(注釈に「大路」とある)。その「大路」に数本の「小路」が繋がっているが、名前は記載されていない。

その中の一つに、カマカ(釜加、現在の千歳市釜加地区)と漁市街(現在の恵庭市)を結ぶ道路がある。本道は明治、大正、昭和初期にかけて「釜加街道」と呼ばれた住民の生活路である。明治23年(1890)から始まった北海道植民区画制度により、千歳原野にも号線区画道路が引かれ耕地化が進むと本街道は次第に利用されなくなり、この古道の形跡は一部でしか見ることが出来ない(風防林が一部残っている)。

◇釜加街道

「釜加街道」は南20号・東5線のカマカ集落を起点とし、基線南24号地点まで斜めに横断し、漁墓地(現、恵庭ふるさと公園)の間を抜け、室蘭街道沿いの漁市街に通じる道路。漁村・釜加・長都地区住民の生活路であった。

明治23年(1890)から北海道植民区画制度により千歳原野でも測量が行われ基線・号線が引かれた(明治26年完成)が、その時の「胆振国千歳郡千歳原野区割図」(北海道庁、明治30年初刷)にも号線を斜めに横切る釜加街道が描かれている。この図面を現在の道路と重ね合わせると釜加街道の道筋を知ることが出来る。

大正から昭和にかけて道路整備と入植開墾が進むにつれ、釜加街道は一部の利用を残しながら次第に号線道路へ置き換わって行く。大正5年(1916)、昭和30年(1955)測図の地図をみると、その過程を知ることが出来て面白い。

なお、「新千歳市史(平成31年)」「新恵庭市史(令和4年)」に釜加街道の記載がある。新恵庭市史は新千歳市史からの引用なので、新千歳市史の概要を引用する。

「・・・起源は明らかでないが、アイヌの人たちが通行した里道であったと考えられる。近代に入ってからは、釜加地区の人々が恵庭(漁)に日常的に通うための道となった。明治27年印刷の北海道庁作成「胆振国千歳郡千歳原野区割図」には、南20号東五線の釜加集落を起点とし、号線で区画された原野を基線南24号地点まで斜めに横断し、当時の漁墓地の間を抜けて室蘭街道沿いの漁の街に通じる道路が記されている。

千歳と恵庭は成立過程や開拓移民の出身地など共通項が多い。ことに長都・釜加地区は行政区が接していることもあり親しみの度合いは深かった。明治31年に長都村と漁村の境界を東三線と定めるまで、両村の境はカリンバ川としていたことから釜加地区の一部が漁村に編入されていたなど両地域住民の生活は混然一体となっていた。・・・・また、用水組合が一緒だったり、小学校の高等科が長都になかったため恵庭小学校へ通ったり、冠婚葬祭を含め一つの生活共同体と言う意識だった(注:長都から千歳まで7km、恵庭まで4km)。この道は大正から昭和にかけての耕地整備や宅地化の進展により、昭和40年代までに地図上から消えた・・・」(新千歳市史通史編上巻p716-717)。

*カマカ(釜加)

千歳市釜加地区は千歳川長都大橋の下流左岸に広がる地域、現在の千歳市埋蔵文化財センター北側に位置し農耕地が広がっている。当時は南20号・東5線付近を中心に小さな集落があった。

河川が交通の主流だった時代には、この地に船着き場、番屋、弁天社があった。松浦武四郎が蝦夷地探査で二回目に訪れた弘化3年(1846)、江別から舟で千歳川を遡った折の記録(再航蝦夷日誌)には、シママップ(嶋松)、イザリブト(漁太)に次いでカマカ(釜加)の記述があるので引用する。

「カマカ、イザリブト番屋より三里と聞けり。此処湖水の侍にして茫々たる見通しなり。西南シコツ嶽、東北にユウバリ嶽見ゆる。湖水の岸皆川柳、蘆萩繁茂し番屋1軒あり。此処へ上陸し中飯するなり。弁天社あり。蔵あり。夷人小屋あり。土地肥沃にして野菜もの能く出来たり。・・・扨此辺鹿多きやらん。湖水え鹿の足を多く枹としてひたしありたり。皆食料に用ゆ。又夷人小屋の前に菱を莚に干したり。是また此処の食料か。熊、鷲を家毎かい、夷人皆鹿皮を着す。其形他場所の夷人と大いに異れり。此処より小川を五、六も渡りてチトセへ行く道あるよし聞侍りけり。」(大林千春「武四郎が見た恵庭」えにわ学講座)。

*北海道の殖民区画

北海道の開拓は明治2年(1869)の開拓使設置にはじまり、明治7年(1874)には屯田兵制度が導入されたが、明治19年(1886)の北海道庁設置により北海道開拓は新たな段階を迎えることになった。

北海道庁は入植地として適当な土地を調査し区画測設を行う殖民地選定事業(明治19年開始)を実施した。植民区画は先ず、基準となる南北方向の「基線」とこれに直交する「基号線」と呼ばれる道路を定め、そこから300間(546m)ごとに格子状の道路を造った。基線に並行して引かれた道路を「東〇線」などと呼び、基号線に並行して300間ごとに引かれた道路を「南〇号線」などと呼んだ。こうしてできた道路に囲まれた300間四方の画地30町歩(ha)をさらに150間×100間の小画6個に分け、この小区画5町歩(ha)を開拓農家営農の単位としたのである。

この制度は19世紀アメリカやカナダにおいて原野開拓の基礎となったタウンシップ制を真似たものと言われ、開拓使顧問のホーレス・ケプロンの指導による。札幌農学校一期生で土佐出身の内田瀞󠄀らが植民地選定・区画割に当った。

区画測設が行われ、道路、保存林、市街地、公共用地などの配置が決定されると1/2,5000の殖民地区画図が刊行され、これに基づいて移住者への土地の処分が行われた。北海道の郊外農村の道路が碁盤目に統一され、外国風景に似ているのは此の制度の結果と言えよう。

前述の「胆振国千歳郡千歳原野区割図」をみると、基線道路幅は10間、その他線号道路幅は8間と記されている。

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