土木学会選奨土木遺産に選定された「弾丸道路」
恵庭の形成発展に欠かせない「札幌本道(室蘭街道)」も、恵庭の古道と言って良いだろう。明治6年(1873)に完成すると街道沿いに住宅や商店が集まり、次第に市街地が形成されて行った。
松浦武四郎が陸路探査で通ったのは安政5年(1858)、札幌本道が出来る前であったがほぼ同様のルートであった(勇払場所請負人山田屋文右衛門らが私費で札幌越え新道掘削)。
札幌本道が開通してからは、明治10年(1977)にクラーク博士が室蘭街道を経て帰国の途に就き、明治14年(1981)には明治天皇が北海道開拓状況と民情視察のため行幸されこの街道を通られた。
後に、札幌本道は国道36号線となるが、昭和27年(1952)に恵庭市街地で経路変更がなされたため当初の札幌本道を旧国道、改修された新道(弾丸道路)を国道と呼んでいた。現在、旧国道は市道恵庭線(クラーク博士通り、一部は 遊ingロード1番街)、当時の国道は道道46号江別恵庭線となっている。
さらに、平成8年(1996)に国道36号は南24号を迂回するバイパスとなった。そうなると、従来の国道を旧々国道、旧国道と呼ぶべきか悩ましく、新たな呼称を定着させた方がすっきりする。
この通りには、かつての札幌本道(室蘭街道)を偲ばせる「漁村帷宮碑」「御前水跡碑」があり、「松浦武四郎の歌碑」が建立された。豊栄神社、大安寺、敬念寺など神社仏閣も並び歴史を感じさせる。明珍鉄工所など開拓時代から続いた建物は消えつつあるが、「札幌本道(室蘭街道)」は歴史の道として保存する価値があろう。
◆札幌本道(室蘭街道)
明治6年(1873):ケプロンの献策により日本初の西洋式馬車道札幌~函館間が完成、「札幌本道」と定めた(太政官布告第364号、森~室蘭間は航路で繋がっていた)。札幌室蘭間は「室蘭街道」とも呼ばれた。クラーク博士が任期を終え帰国したのもこの街道。島松沢で見送りに来た学生たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と離別の言葉を残した。
明治18年(1885):「国道42号(東京より札幌県に達する路線)」に指定(内務省告示第6号、国道表)。
明治40年(1907):国道42号は倶知安・小樽経由にルートが変更され、国道43号(青森~室蘭~岩見沢~旭川、旭川の第七師団に達する路線)となる。その結果、苫小牧~札幌間は国道から外れ県道となった。
大正9年(1920):旧道路法が制定され旧43号は国道28号となるが、苫小牧~札幌間は県道のままであった。
昭和27年(1952):新道路法が制定され、札幌~室蘭間が「一級国道36号」に指定された。札幌・千歳間の舗装工事が始まり翌年には34.5kmの工事が完了、「弾丸道路」と呼ばれた(道幅7.5m、最高設計速度75km/h設定の高規格道路、旧室蘭街道は直線化された)。アスファルト舗装の採用は当時としては珍しく、日本の舗装歴史上特筆すべき事項だったと言われる。
昭和40年(1965):道路法改正により一級・二級の区別を廃止、「国道36号」となる。
平成8年(1996):「国道36号」は恵庭市街地の交通量増加に対処するため、恵庭バイパスとして南24号線に沿って市街を迂回する路線変更が行われた。
令和3年(2021):「弾丸道路(札幌・千歳間道路)」は土木学会選奨土木遺産に認定。
◇弾丸道路
北海道開発局「開局70年、北海道開発の歩み」によれば、国道36号「弾丸道路」完成秘話について以下のような記述がある。
・・・千歳空港と真駒内に置かれていた占領軍キャンプを結ぶ道で、舗装整備もされていなかったために、車両が通れば砂埃が巻き上げられ、冬季は凍結して春先に溶解して泥濘路になると有様であった。改修工事が行われた際に、当時コンクリート舗装が主流だった時代としては珍しく、アスファルト舗装が採用され、日本の舗装の歴史上で特筆するべき点となった。アスファルト舗装を採用した背景にはメンテナンスの容易さとコスト低減、北海道の舗装道路において悩みの種となっていた「凍上」(厳しい寒さによって地中の水分が凍って地面を盛り上げる現象。雪解け時に舗装を破損させる要因となっていた)対策が背景にあった。舗装下の凍土対策として、火山灰を抑制剤として使用し、工期短縮のため大規模な機械を取り入れて、細かな工区割りで作業が行われるという当時としては画期的だった方式で工事が実行され、寒冷地での道路建設のモデルケースになった。
延長34.5kmという大工事を、昭和27年10月の着工からわずか1年余りで完成させた。施工にあたったのは道内外の精鋭15社。総労働者数は約34万人に達し、ブルドーザやローラ、トラックなど約250台が投入された。
弾丸道路という名称の由来は、「米軍の弾丸運搬に使われた」「弾丸のような突貫工事だった」「弾丸のように早く走行できる」などの諸説がある・・・。