1.道南から「豆の国十勝」へ,代表品種「大谷地2号」
北海道の原野に開拓の鍬が下ろされてから,140年余が経過した。この間,先人達の弛まぬ努力により厳しい気象や劣悪な土壌条件が克服され,北海道農業は今や,地域経済を支える重要な産業として発展し,生産性の高い専業的な経営を実現するまでに至った。大豆生産もまた,度重なる冷害や病虫害と闘い,環境や社会情勢の変化により大きく変動しながら,収量を開拓当初の2倍に高めるなど技術水準の向上を続け,現在に至っている。
北海道における大豆栽培は,主産地が形成された1907年頃から約50年間6~8万haの作付面積で推移したが,1961年の輸入自由化後急激に減少し,その後水田転作で一時増加したものの,1994年には最低の6,700haまで減少した。なお,近年生産振興が図られ約24,000ha栽培されているが,実需者の需要を満たすに十分な生産量が確保されているとは言い難い。
1)北海道大豆生産の歴史と時代の特徴
課題を把握するために,まず北海道における栽培の歴史を振り返ってみよう。時代は大きく①導入試作期(1870-1890),②生産拡大・主産地形成期(1891-1945),③戦後回復期(1946-1960),④国際競争対応・生産奨励期(1961-)に区分されよう。それぞれの時代には,当時の技術水準や社会情勢を反映したそれぞれの課題があった。
(1)道南地方で始まった大豆栽培
北海道における大豆栽培の記録は,永禄5年(1562)に渡島国亀田郡亀田村で栽培された五穀の中に大豆が含まれていたであろうとするのが最も古い。その後日高地方で寛政12年(1800),札幌で安政4年(1857),十勝で明治4年(1871)に試作されたという記録があるが,一般農家による大豆の栽培は明治初期の1870年頃から道南で始まっている。
1886年の統計資料によれば,栽培面積は全道で2,200haであり,この50%を道南の渡島および桧山で占めていた。その後本道内陸の開拓進行とともに,栽培面積は急激に増加を続け,1900年に29,000ha,1910年には77,000haに達した。栽培の中心は道南から道央を経て,道東の十勝地方へと移行し,1910年には十勝が全道の栽培面積の26%を占めた。以降,全道の大豆栽培は1961年の輸入自由化に至るまで約50年間,6~8万haの大きな面積を維持するとともに十勝が生産の中心として大きな役割を果たすことになる(なお,その後1971年に米の生産調整が開始されると,空知,上川の生産量が増加して主産地も移動するが,後で触れる)。
開拓の時代に大豆生産が増加した理由はいくつか考えられるが,日本豆類基金協会発行の「北海道における豆類の品種」の中で斎藤正隆氏はつぎの理由を上げている。①本道の気候風土,特に内陸的な気候にあう,②大面積経営の粗放栽培に適する,③土壌を選ばず施肥量および地力消耗が少ない,④雑草を抑制する,⑤貯蔵性と運搬性をもち商品として優れる。これらの技術的背景に加えて,大豆が味噌,醤油,豆腐,煮豆など私達の食生活や食文化に密接に結びついている点も見逃すことは出来ない。
一方,大豆に関する試験は,七重開墾場(渡島)で1873年に試作を行ったのを初めとして,1876年に創立された札幌農学校でも外国や府県からの導入作物の適否試験を行っている。1895年,十勝農事試作場が設置されるとともに,上川農事試作場と連携して品種比較試験を開始したが,この試験を北海道における本格的な大豆育種の始まりと見ることができよう。
1901年には北海道農事試験場が設置され,1907年以降北見,渡島支場,および各地の試作場や分場でも品種比較試験に取り組み,品種比較試験が開始された1895年から1928年までの34年間に18の優良品種が普及に移されている。
(2)主産地の形成,豆の国十勝
大豆の栽培面積が増加し,主産地が形成されるにつれ,優良品種開発への強い期待が示されるようになる。十勝支場では,1914年から純系分離育種を,1926年から交配育種を開始した。純系分離育種で選抜された品種の中で,代表品種は「大谷地2号」であろう。 「大谷地2号」は,中生の中粒,渇目種で,耐冷性が強く,味噌,醤油,納豆など加工適性が高く,また味の良いことから枝豆にも使われ,1945年頃まで基幹品種の地位を占めた。また,交配母本としても多く使われ,その遺伝形質は後の「北見白」,「キタムスメ」などに受け継がれている。ちなみに,在来種の「大谷地」は,1892年渡島国南尻別村字大谷地(現蘭越町)の苫米地金次郎が移住の際携帯した秋田大豆から選出したもので,秋田大豆銘柄の基礎となった品種である。
一方,大豆の作付けが増加するにつれ,マメシンクイガの被害が大きな問題となった。「中生裸」「早生裸」など被害の少ない無毛茸の品種が,他品種と比べ収量が劣っているにもかかわらず全道に栽培され,マメシンクイガ被害の重要性を物語っている。また,十勝支場は1926年に交配育種を開始しているが,最初の5年間の24組合せ中18組合せの片親が無毛茸品種であり,マメシンクイガ虫食率を低下させるための耐虫性が大きな育種目標であり,被害の解決が当時の大豆生産の大きな課題であったことを示している。
2.戦後復興期に活躍した多収品種「十勝長葉」
1)戦後の回復期,夢の多収品種「十勝長葉」の誕生
1947年育成された「十勝長葉」は中生の晩,小粒,渇目で,既存の基幹品種である「大谷地2号」に比較して大幅な多収を示すとともに,耐倒伏性が強く,またマメシンクイガの被害が著しく少なかったので,育成直後から急速に普及し,1954年まで全道の大豆栽培面積の約50%を占めた。戦後の復興期にタイミング良く発表された多収品種であるが,その育成には1932年から10年にかけて多収を目標に「本育65号」などを交配し,1935年から戦後の1946年まで交配を中止しながらも戦時下に交配材料の選抜を続けた育種家の努力を見逃す訳にはいかない。
「十勝長葉」は,言葉のとおり小葉が長葉で,いわゆる柳葉型を呈するのが著しい特徴である。一莢粒数が多く多収であり,強茎で耐倒伏性に優れる。北海道の収量水準を飛躍的に引き上げたばかりでなく,東北地方の各県でも奨励品種に採用された。また交配母本としても広く利用され,後代に多くの優れた品種を産出している。張國棟氏によれば中国黒龍江省でもその利用例が多くみられるという。「十勝長葉」に戦後復興の夢を得た生産者は,1952年「十勝長葉育成者頌徳碑」を十勝支場に建設し,育成者の努力を讃えた(注:現在は,道総研十勝農業試験場の前庭にある)。
2)頻発する冷害と線虫被害への対応
十勝支場では,1947年以降「十勝長葉」を片親とし,「十勝長葉」の強茎,多収を維持しながら,早生化,大粒化,耐冷性向上などを目標に人工交配を再開した。これらの組合せから,「北見白」(1956),「イスズ」(1957),「カリカチ」(1959)などを育成した。「十勝長葉」は主産地の十勝では晩熟に過ぎたので,1953,54,56年と連続した冷害の被害を受け,これら耐冷性品種へと急速に置き換わった。中でも「北見白」は,中生,中粒渇目で,強茎,多収であり,耐冷性が強く作りやすいことが評価され,1960年頃から10年間にわたり,全道大豆栽培面積の40~50%を占めた。作り易いという農業総合特性を育種家に印象づけた最初の品種でもある。
一方,主産地の十勝では長年にわたり豆類の作付けが50%以上と過作が続いたため,1950年代以降ダイズシストセンチュウの発生および被害が顕著となった。十勝支場では1953年から,「黒莢三本木」「ゲデンシラズ一号」など東北地方の品種を抵抗性母本として,ダイズシストセンチュウ抵抗性を導入する育種を開始し,1966年に抵抗性の「トヨスズ」を育成した。
3.輸入自由化後,大粒白目の良質で国際競争に勝った「とよまさり」ブランド
◇良質で国際競争に勝った
「トヨスズ」(1966)は短稈,耐倒伏性で作りやすく,かつ大粒白目の良質性が高く評価され,育成直後から急速に普及し,1975年以降は全道作付面積の50%以上を占めた。特に煮豆としての評価が高く,「トヨスズ」銘柄で取り引きされ,輸入自由化により作付けが著しく減少した時代の大豆生産を支えた。「下田不知系」に由来するダイズシストセンチュウ抵抗性品種は,「トヨスズ」より熟期が早く多収の「トヨムスメ」(1986),「トヨムスメ」より早生の「トヨコマチ」(1989)や「ユキホマレ」(2004)が育成され,これらは現在の基幹品種となっている。
◇稲作転換への対応と生産奨励
一方,稲作転換政策の中で大豆生産が奨励され,本道でも道央部の上川,石狩,空知地方での作付けが増加した。この時代,上川地方では秋冷,降雪が早いことから早生の良質品種が求められ,中粒白目の「キタコマチ」(1978),「ユキホマレ」(2004)が普及し,この地方の安定生産に貢献した。また,石狩,空知地方では多収品種の「キタホマレ」(1980)が普及し,石狩地方の平均収量が連続して300kgを超える原動力となった。さらに,この時代からダイズわい化病の発生と被害が増加し,その対策が重要な課題となっている。
◇競争力強化が求められる
農家戸数の減少,高齢化が進み,また畑作経営の中に野菜や花きなど高収益な園芸作物が導入されるにつれ,農業労働力の不足が深刻化し,一層の省力化が求められる情勢となった。大豆作の機械化は必須の条件となり,収穫作業の機械化が要望されていた。十勝農試での一連の研究から1991年には初めて機械化適性品種の「カリユタカ」が開発された。その後,「ハヤヒカリ」(1998),「ユキホマレ」(2001),「トヨハルカ」(2005)など機械収穫に適した品種開発が進み,コンバインの改良もなされた結果,大豆収穫体系はほぼ確立したと言えるまでになった。
◇残された課題
耐冷,多収育種は「十勝長葉」の早生化,耐冷性向上に始まり,「北見白」「カリカチ」を経由して「キタムスメ」および「キタホマレ」へと発展し,さらに最近は「ユキホマレ」など白目品種の耐冷性も一段と向上している。線虫抵抗性育種は,「下田不知系」の抵抗性を導入した「トヨスズ」の育成と普及により大きな成果を上げ,さらに多収化した「トヨムスメ」,早生化した「トヨコマチ」「ユキホマレ」,線虫レース1,3に抵抗性の「ユキホマレR」などが開発された。この育種では,単に線虫抵抗性の導入だけでなく,大粒白目の兼備により道産大豆の品質向上に大きく貢献した。ダイズわい化病抵抗性育種は,不完全な抵抗性ではあるが中国産母本を用いて「ツルコガネ」「ツルムスメ」を育成した。またアメリカ産品種の難裂莢性を導入した機械化栽培向き品種第1号の「カリユタカ」を育成し,その後も品種開発は成果を上げている。以上のように,戦後70年北海道のダイズ育種は着実な進歩を果たし,またダイズシストセンチュウやダイズわい化病など防除技術の確立,さらには施肥技術の改善や機械の改良など大豆生産技術の進歩は大きい。
また最近,DNAマーカーを利用した選抜も効果を上げているが,現状の大豆生産環境を見るとき,重要特性を総合的に兼備する品種の育成や省力化に向けた栽培面での取り組みなど,まだまだやることがあると言わざるをえない。
4.納豆,枝豆用品種の開発が地域を支える
国産大豆は豆腐や煮豆など主として食用に供されるが,納豆,枝豆,きなこ,もやし等への活用もある。ここでは,納豆,枝豆,黒豆,極大粒種について触れよう。
1)納豆
納豆の由来として「源義家が後三年の役(1083)で奥州に向かう途中,馬の飼料である煮豆の残りから納豆ができた」という伝説で語られるように,我が国では「水戸納豆」が有名である。その特徴は,品種「地塚」のように極小粒である。極小粒種は粒の表面積が大きいため,納豆菌の着きが良く美味しい納豆ができる,ご飯と一緒に食べて口触りが良いなどのメリットがある。
ただ,極小粒種が納豆に使われたのは,この地方の土壌と気象条件が大粒種の生産に適さず,小粒の「生娘」「小娘」「地塚」等の種類を栽培せざるを得なかったこと,これらの極小粒の大豆は,豆腐,味噌等の製造には不適当で,納豆用にしか適用できず,貧しい農民がやむにやまれぬ状況の元に改良した大豆が,今日の茨城の小粒大豆であるという。
北海道では,秋田大豆銘柄(中粒褐目)の品種が,味が良いとの理由で,納豆に使われることが多かった。茨城県での大豆栽培が減少する中で,「納豆小粒のような品種が,北海道にないのか」と実需者からの声が大きくなった。
これに応えて,北海道立十勝農業試験場では「スズヒメ」(1980育成,PI84751×コガネジロ)を世に出した。この品種は,ダイズシスト線虫強度抵抗性を保持していたこともあり,帯広市川西農協,幕別農協でその後20年間生産された。また,北海道立中央農業試験場が育成した「スズマル」(1988育成,十育153号×納豆小粒)は,道央の空知,石狩地方を中心に今なお2,000haを超える作付けが見られる。ちなみに,現在の水戸納豆には,北海道の「スズマル」も利用されている。
その後,十勝農試では,納豆加工適性の高い「ユキシズカ」(2002,吉林15号×スズヒメ)を開発した。この品種は,「スズヒメ」に替わって生産が順調に増えている。また,黒豆や青豆を使って納豆を製造販売する業者も現れている。
2)枝豆
枝豆用品種の開発は主として種苗会社(北海道でも雪印種苗など)が担っている。これまで,公的機関が育種目標に設定した歴史はないが,煮豆や菓子用に開発した品種が枝豆として使われている場面は多い。古くは,「鶴の子」(1905),「大谷地2号」(1914),「奥原1号」(1939),「早生緑」(1954)やその系列品種が,枝豆に使用されていた。冷凍技術が発展するにつれ,枝豆が保持しなければならない特性として,本来の味の良さに加え,冷凍さやの色や毛色(白毛望ましい)が重要だと指摘されている。
十勝農試が開発した「大袖の舞」(1992,十育186号×トヨスズ)が,枝豆用として注目されている。JA中札内村では,フランス製の大型コンバイン3台をフル活動させ,「畑から調理加工まで4時間」のスローガンで,液体窒素を利用した瞬間冷凍技術により品質の良い製品を製造し,高い評価を得ている。これまで,色々な品種を試みてきたが,今では「大袖の舞」に絞ったという。
「なぜ大袖の舞ですか」
「味も良いが,何より冷凍した時のさやの色が良い。それと,北海道の優良品種であるため,種子生産が安定しているし,コスト面でも安価である」
「1品種で対応できるのか」
「4月から6月まで播種期をかえる。畑も地域ブロック制でコントロールしている」
平成20年実績で,作付面積350ha,生産額3億4千万円。
この農協の強みは,組合長が率先して職員の意識改革に努め,製品開発と販売戦略を重視していることにある。十勝地方の,小さな村の小さな農協がいま輝いている。「大袖の舞」育成者の一人として,この現場もうれしいスポットである。
3)黒豆
黒豆はお節料理の煮豆として使われる。「丹波黒」と北海道の「光黒」が双璧で,「光黒」は種皮に光沢があるのが特徴である。「中生光黒」(1933)と「晩生光黒」(1933)は長く栽培されていたが,北海道では晩生のため,しばしば冷害に遭い,生産が不安定のため投機的に栽培されることが多かった。十勝農試では早生化を目指し「トカチクロ」(1985)を開発,中央農試も「いわいくろ」(1998)を育成した。現在はこれら2品種が主に栽培されている。
2012年には,黒豆としては最初のダイズシストセンチュウ抵抗性(レース3)を有する「つぶらくろ」が開発された。
4)極大粒種
北海道には,古くから「鶴の子」銘柄で取引される晩生の白目極大粒種がある。主として道南地方で栽培され,煮豆や大粒納豆として利用されている特産品種である。
現在は,僅かに栽培が残る「白鶴の子」(1934)のほか,「ツルムスメ」(1990)及び「ユウヅル」(1971)が主として栽培されている。近年さらに極大粒(百粒重が60gを超える)の「タマフクラ」(2007),ダイズシストセンチュウ抵抗性(レース3)を付与した「ゆめのつる」(2011)が開発され,普及に移された。
参照-土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報10、加筆(2011)、加筆(2013)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/4b/3d43ac03c8e6e5f413876d0cfa3758d9.jpg)