豆の育種のマメな話

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恵庭の碑-30, 時計塔「昇華の刻」碑

2024-05-01 09:46:48 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

時計塔「昇華の刻」碑

 

写真は2014.10.4撮影

 

桜町多目的広場に立つ時計塔「昇華の刻」(写真)。平成22年(2010)恵庭三四会が創立34周年を記念して建立・寄贈したもの。大理石の偏四角錐がスチールの時計塔を支える様に置かれている。多目的広場でサッカーに興ずる子供らを見守っている。

正面台座には「昇華の刻」の文字、裏には「恵庭三四会34周年記念事業 平成二十二年七月 会員34名の名前」が刻まれている。「三四会」と「創立34周年」「34名の会員氏名」、何と洒落が効いていることか。

「昇華」とは、①個体が液体を経ず直接気体になること、②物事が一段上の状態に高められることなどの意。とすれば、「昇華の刻」とは「一段上の状態に高められる時刻」と言うことになろうか。子供らに高揚の刻を告げる時計塔。

恵庭市桜町界隈へは最近行っていないが、時計塔は今も健在也や?

 

*恵庭三四会は、昭和52年(1977)に恵庭市の30代、40代の経営者が集い、会員の連携・協調・資質向上を図ると共に恵庭市の発展に大いに貢献することを目的に発足した団体。毎年、納涼花火大会、少年野球大会、清掃活動、慈善事業など活動している。

*市民会館の前庭に立つ「平和の像」も恵庭三四会が寄贈した野外彫刻。会員の皆さんは、毎年彫像の清掃作業を行い、子供らの健やかな成長と恵庭市の発展、平和を願っている(参照:拙ブログ2014.10.17、恵庭の彫像-10 恵庭市民会館前庭の「平和の像」)

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恵庭の碑-29, 「花ロードえにわ」の小さな記念碑

2024-04-29 11:21:45 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

花ロードえにわ 

国道36号沿いに位置する道と川の駅「花ロードえにわ」。毎日多くの人で賑わっている。館内のカレー店、ベーカリー、TEAスタンド、売店、別棟の農畜産物直売所「かのな」、コーヒー店やおにぎりの店も人気があり、そして何より、隣接する花の拠点「はなふる」が四季の花々で疲れを癒してくれる。

食べるも良し、散策も良しの「花ロードえにわ」「はなふる」だが、此処にも小さな記念碑が建っている。さあ、探してみよう。

参考までに、「花ロードえにわ」の歩み

*平成17年(2005) 道の駅登録

*平成18年(2006) 道と川の駅花ロードえにわ(地域交流センター)オープン

*平成19年(2007) 農畜産物直売所「かのな(花野菜)」(多目的交流物産館)、多目的広場、ウォーターガーデン等オープン

*令和2年(2020)「花ロードえにわ」、農産物直売所「かのな」がリニュアルオープン。恵庭市花の拠点としてガーデンエリアが整備され、「はなふる」の愛称がつけられた。

 

 

◆「花ロードえにわ」オープン記念の碑

「道と川の駅花ロードえにわ」の正面入り口、向かって右寄りの芝生に可愛い記念碑がある。小さく佇む記念碑に気付く人もいない。誰もが足早に通り過ぎる。

碑には「花ロードえにわオープン記念 2006年7月1日 贈恵庭ニュージランド協会」の文字が刻まれている。道と川の駅開設を記念して建立されたことが分かる。さらに、「本記念石は、NZ・テイマルで採掘されたブルーストーンでつくられています」と説明されている。記念石は、青みがかった灰色、一部に黒色鉱物が模様を織りなしている。

何故「恵庭ニュージランド協会」なのか? 

道と川の駅「花ロードえにわ」は、ニュージランドのテイマル市と関係があったのだ。建物の中にはテイマル市の紋章も飾られている。

経緯を辿ってみる。

*平成12年(2000) 恵庭商工会議所は設立10周年記念事業(国際友好商工会議所締結事業)の相手として、「花を生かしたまちづくり」の先進地ニュージランドのテイマル市を選定。

*平成15年(2003) 「国際友好商工会議所」締結。民間有志による「恵庭ニュージランド協会」が設立され、セミナ開催、道と川の駅に「テイマルショップ」を開設。

*平成19年(2007) 恵庭市とテイマル市が「国際姉妹都市締結調印」。交換留学生、文化交流が現在も続いている。

 

◆恵庭三四会20周年記念植樹の碑

恵庭三四会創立20周年の記念植樹に添えられた記念碑である。「恵庭三四会20周年記念植樹 平成8年10月16日建立」と刻まれている。当初は、恵庭市保健センター(現、はなふるセンターハウス)の駐車場脇に建立されたが、令和2年(2020)花の拠点「はなふる」整備に伴いガーデンエリアに移設されている(記念樹も移転)。

なお、恵庭三四会は昭和52年(1977)に恵庭市の30代、40代の経営者が集い、会員の連携・協調・資質向上を図ると共に恵庭市の発展に貢献することを目的に発足した団体で、納涼花火大会・少年野球大会・清掃活動・慈善活動など地域への貢献活動を行っている。

碑の裏にはOB会員26名、現役会員34名の名前が刻まれている。

 

写真左上は2022年、写真右上は2024年4月、写真下は2016年10月撮影

 

◆消えた花時計

「道と川の駅花ロードえにわ」の西側にシンボルの花時計があり、たしか小さな記念碑が添えられていた。が、令和年2年の改修、農産物直売所「かのな」の移転で花時計は撤去されキッチンカー広場になった。ちょっと寂しい。

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恵庭の碑-28, 姉妹都市締結十周年記念碑と石灯篭

2024-04-27 07:58:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

 

◆妹都市締結十周年記念碑と石灯篭(寄贈 山口県和木町)

恵庭開拓記念公園に姉妹都市締結十周年を記念して山口県和木町から贈られた石灯籠と石碑がある。碑には「姉妹都市締結十周年記念 平成元年七月十日 山口県和木町」と刻まれている。姉妹都市十周年記念式典は恵庭で行われたので、その記念に贈られたものだろう。

石灯籠は鍾乳石製で、山口県のカルスト秋吉台、秋芳洞を思い起こさせる。自然石の記念碑も紋様が美しい。

平成元年(1989)に建立されてから35年が経過。雨に打たれた石灯籠は石灰分が溶出し、崩壊が始まったように見える。10年前の古い写真があることを思い出し比べて見ると、滑らかだった灯篭表面に幾条もの溝が出来ている。その差は明らかだ。

さらに、酸性雨や冬季の凍結が繰り返されることを考えると、崩壊を加速させるのではないかと気になる。

 写真は、2024年4月撮影(左)、2016年5月撮影(右

*恵庭開拓記念公園は、旧松園小学校の跡地1.1haを活用し市制施行10周年記念事業により整備、昭和54年(1979)の恵み野宅地開発に伴い造成された公園である。同年、公園の象徴となる開拓記念像「拓望の像」(竹中敏洋作)が建立されているが、この年は山口県和木町との姉妹都市締結調印の年でもある。恵庭開拓記念公園に和木町から贈られた石灯籠を置いた意味を納得する。

 

◆恵庭市総合体育館の玉石(寄贈 山口県和木町)

体育館ロビーの玉石(置物)恵庭開基88年を祝して姉妹都市和木町から贈呈された。「贈 開基八八年記念 姉妹都市和木町」の説明がある。昭和60年(1985)は恵庭市総合体育館がオープした年で、7月には「開基八十八年・市制施行十五年・総合体育館落成記念式典が行われた。これに合わせて姉妹都市和木町から贈られた。

鍾乳石(?)の台座に乗るこの玉石。縞模様が浮かぶ。記念品として贈られたのだから、きっと名のある石だろうと、恵庭市史、広報えにわ、北海道新聞、千歳民報など当時の記事を検索したが寄贈品の記述がない。市役所にも材質(石)名の記録がないと言う。

◆姉妹都市締結の経緯と交流

槌本貞一市長は、①恵庭の開拓は明治19年(1886)山口県岩国地方からの集団入植が先駆であった、②先人の苦労によって現在の恵庭市の基礎が築かれたとの思いから、岩国地方との交流を推進したいと考えた。昭和47年(1972)槌本市長は岩国地方からの移住者名簿を携え岩国市、和木町を訪れ姉妹都市提携を提案。これに応えた和木町と昭和54年(1979)7月に姉妹都市締結調印が行われた(浜垣実恵庭市長、松並正行和木町長ら和木町訪問)。以降、相互訪問、文化スポーツ交流、職員研修派遣、災害相互応援など交流が進められている。

*昭和47年(1972)槌本市長、移住者名簿を持参して岩国地方を訪問、提携を打診

*昭和54年(1979)和木町と姉妹都市締結調印、記念植樹(和木町役場にイチイ)。10月、恵庭市制施行10周年、市民会館落成式に和木町長ら来惠 

*昭和60年(1985)恵庭市総合体育館開館、和木町から開基88年記念品(総合体育館)、イチイとアカマツ記念植樹(総合体育館)

*平成元年(1989) 姉妹都市締結10周年記念式典、和木町長ら来惠。和木町から姉妹都市締結十周年記念品の石灯篭(恵庭開拓記念公園)

*平成11年(1999)姉妹都市締結20周年記念式典(和木町)

*平成21年(2009)姉妹都市締結30周年記念式典、イチイとエゾアカマツ記念植樹(恵庭開拓記念公園)

*令和元年(2019) 姉妹都市締結40周年記念式典(和木町)

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恵庭の碑-27, 恵庭開拓記念公園の園名石と碑文

2024-04-23 09:07:01 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭開拓公園の園名石

恵庭市郷土資料館(南島松157-2)東側に隣接して恵庭開拓記念公園がある。道道600号島松千歳線に面した公園の入口(表示はないが)を入ると、正面に園名石がドンと置かれている。この自然石には、開拓記念公園造成時の市長浜垣実揮毫による「開拓記念公園 恵庭市長 浜垣実 書」の文字が刻まれている。

園名石の隣には御影石の銘板があり、公園造成の謂れが記されている。

・・・本市開拓のむかしから幾多郷土の先陣をはぐくみ育てあげた松園小学校の跡地を恵庭開拓記念公園として整備し、拓けゆく本市を担う市民の散策と憩いのなかに静かに昔日を偲び未来を志向する希望と創造の園とするものであります。

昭和五十四年八月 恵庭市長 浜垣 実 ・・・

さらに、この園名石の裏側にはもう一つの銘板がはめ込まれている。内容は、開拓記念公園の造成計画に情熱を傾けながらも急逝した前任市長槌本貞一氏への思いを綴ったものである。

・・・恵庭岳 烈風作

 樽前岳噴煙立ちて今日も亦  支笏の湖底に影ぞ映ずる

 白雲棚引く恵庭の峰峡巖我を抱きて天に轟く

 神秘に輝く石狩の平原瑞穂の國ハ此の麓より発す

この詩は故名誉市民・恵庭市長槌本貞一氏が作詞し自らも愛吟されたものです。

故名誉市民・恵庭市長槌本貞一氏は父祖先人の方々のご労績を称えると共に、本市開拓の上に思いを馳せられて開拓記念公園の計画に着手されたものでありますが、その志半ばにして急逝されました。

この園名石は開拓記念公園の上にそそがれました故人のご遺志を表したいと云う願いの中で、ご子息槌本憲道氏ならびにご遺族さまからご寄贈をいただいたものであり、この園名石を通じ永く故人のご遺志を偲んで参りたいと存じます。

昭和五十四年八月一日 恵庭市長 浜垣 実・・・

 

槌本貞一氏は「烈風」と名乗っていたのか。槌本氏が名誉市民恵庭市長田中菊治治氏の跡を受けて、第12代恵庭市長に選出されたのは松園小学校廃校の年(昭和46)であった。槌本氏は恵庭市総合開発計画をスタートさせ(昭和48)、恵庭住宅団地第一次計画着工(昭和54)を目前にして急逝したが、恵庭開拓記念公園の造成もこの場所へと考えていたのだろう。

 

前述したように、この場所は松園小学校の廃校跡地である。園内には松園小学校門柱、二宮尊徳幼時の像が残され昔日を偲ぶことが出来る。松園校跡地記念碑には松園小学校の沿革が記されているので一部引用する。

・・・明治19年山口県岩国地方の団体移民65戸、ついで同20年同県長門の萩藩士45戸が漁川沿岸地帯に集団入植し、原始の森を伐りひらき、よし原を開墾し、部落草創の基礎固まり開拓緒につく。

しかれども子弟教育機関なくその必要性を痛感し、福本幸次郎氏、田中梅太郎氏、 村上勝太郎氏らの尽力実り、この地南島松に31坪の校舎を建て、萩藩士廻神美成氏を校長として明治22年12月18日付を以て設置許可となり、私立尋常小学校を開設するに至る。

校名「松園」は萩のいだいな教育者吉田松陰先生の名前にあやかって名付けたという。明治39年9月公立校となり同40年4月村内唯一の高等科併置校となり、役場所在地の学校として、教育文化の中心的機能を持ち、名実ともに中心校として人材の養成に当った。

時は移り世は流れ、82年にわたる輝かしい歴史と共に5,500有余の有為な卒業生を社会に輩出し、昭和46年2月20日学校統合のやむなきに至る(漢数字を変換)・・・

 

◆恵庭開拓記念公園の見どころ

松園校跡地記念碑

松園小学校門柱

二宮尊徳幼時の像

恵庭開拓記念像「拓望」

天野先生之碑

富山県人開拓之碑

姉妹都市締結十周年記念碑(山口県和木町)

恵庭市郷土資料館(企画展、カリンバ遺跡常設展など)

 

恵庭開拓記念公園は環境緑地保護地区に指定され、恵み野中央公園に連なる「緑の回廊」の北端に位置する。この公園に佇めば、静かに開拓の時代に思いを馳せることが出来るだろう。

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冊子「北条水軍の拠点・下田城」が面白い

2024-04-21 13:21:06 | 伊豆だより<里山を歩く>

友からの便り

今年(2024)七草粥の頃だったろうか、旧友から郵便小包が届いた。正月早々の贈物を開封すると冊子が入っていて、一冊は下田城の解説冊子「北条水軍の拠点・下田城」、もう一冊は横浜にあるエッセイ教室の同人誌で旧友の紀行文も掲載されている。能登半島地震や日航機の事故など衝撃の年明けに、懐かしき友からの便りは心温まるものがあった。友は下田北高校の同級生である。

早速、次のような礼状を書いた。

・・・この度は、冊子「北条水軍の拠点、下田城」「芽ぶき」等をご恵送賜り有難うございます。早速拝読、ご活躍に敬意を表します。下田城読本は写真や図もすばらしく、年代を問わず多くの方々に手に取って頂けることでしょう。小生も大変勉強にもなりました。貴兄が下田城保存推進会で頑張っておられることは承知していましたが、立派な冊子出版は同慶の至りです。関心が深まることを期待します・・・

◆冊子「北条水軍の拠点・下田城」について

発行:下田城の保存を推進する会、編集制作:碧水社、編集協力:外岡龍二、初版:令和5年10月23日発行、A4判30ページの冊子である。

目次から内容を追ってみよう。①下田城を歩く、②下田城の戦い、③下田城将・清水康秀、④北条早雲と戦国の伊豆、⑤小田原城を歩く、⑥海の関所・下田、の構成となっている。写真や図を豊富に取り入れ、読みやすい構成だ。

本書の出版背景と目的を理解するため、「はしがき」「あとがき」を抜粋しよう。

・・・(はしがき抜粋)私たちの町下田は、昔から海と深く関わってきました。戦国時代に伊豆に入国して、関東の覇者となった小田原北条氏によって、下田は海上交通の要となりました。下田城が築かれ、行き来する船の検査や監視を行い、海上の戦いになった場合には、水軍の基地になりました。1590(天正18)年、天下統一を目前にした豊臣秀吉がおおよそ20万の兵を率いて、小田原の北条氏目がけて押し寄せます。下田城は1万4000の豊臣水軍に取り囲まれましたが、わずか600余の守備兵で城を守って戦いました。50日後、城は開城しましたが、下田城は優れた海賊城としての力をいかんなく発揮したのでした。

下田城は1973(昭和48)年に下田市の史跡に指定されました。その後、下田城の保存を推進する会も創立されて、市民の間にも下田城址を守る動きが進んでいます。

この本では、下田城を舞台に戦われた海戦の有り様を復元CGによって紹介し、現在の下田城址を歩いて、代表的な海賊城である下田城の姿をたどります。また、伊豆の歴史と深い関わりをもつ北条早雲の活躍と、小田原北条氏の本城となった小田原城についても解説します・・・

・・・(あとがき抜粋)本書は我が郷土の「下田城」について、小学生から成人まで楽しく読んで、そして理解を深める格好の書と確信しております。同時に下田城を通して、戦国時代のロマンを感じていただけることと思います。

令和6年には当会発足15年を迎えますが、その記念事業として本書を発行することになりました。本書が皆様、特に若い人の下田城への関心を一層深める一助になれば、本会会員一同にとって、このうえない喜びです。令和5年9月吉日、下田城の保存を推進する会 会長 澤村紀一郎・・・

◆関連して

下田城についての詳しい解説書は他にも数多くあるが、本冊子は簡易明瞭でとても分かりやすい。伊豆旅に携え行けば、楽しみが深まること間違いない。

そして、蛇足ながら、拙ブログ2020.7.24「下田の城、深根城と下田城」、拙ブログ2021.4.2「一冊の本、伊豆の下田の歴史びと」、拙ブログ2021.4.3「一冊の本、伊豆下田 里山を歩く」もご覧頂ければ有難い。

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恵庭の古道-10 江戸後期「シコツ越え」の記録

2024-03-05 11:52:37 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

シコツ越え」した人々

江戸時代の蝦夷地、イシカリ(石狩、西蝦夷地)からユウフツ(勇払、東蝦夷地)へ内陸部を横断した人々の記録(例えば「夷諺俗話」「蝦夷日記」「東海参譚」「西蝦夷地日記」「東行漫筆」「再航蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」「観国録」「蝦夷地巡回日記」「協和私役」「入北記」など)が残っている。17世紀半ば以降寛政から安政年間にかけて、蝦夷地はロシア船の来航に悩まされるようになり、幕府は実態調査や北境警備の対応を迫られていた。

イシカリからユウフツに抜ける此の道は「シコツ越え」と呼ばれ、蝦夷地では唯一重要な内陸路。蝦夷地調査の幕吏らは、海岸線と併せこの道を通り記録に残した。私達はこれらの記録から、当時の様子(河川・沼・山・草木等の自然、交通手段、建物・鮭漁等アイヌの人々の暮らしなど)を知ることが出来る。本項では、シママップ、イザリの描写を中心に紹介する。「シコツ越え」した人々は恵庭の地をどのように見ていたのか?

 

写真はイザリブト番屋の図(再航蝦夷日誌)

 

1.串原正峯「夷諺俗話」寛政4(1792)

幕吏串原正峯は宗谷出張の帰途、シコツ越えを辿り旅の記録を「夷諺俗話」に残した。

「・・・ソウヤから松前への帰途、イシカリ川からアイヌの船で東蝦夷地シコツへ出た。イシカリを出発してその夜はトママタエに泊まる(この川筋宿はみなアイヌの小屋)。二日目イベチ(江別)という所へ着船。三日目シコツ(千歳)へ出る。それから山越えしてビビ(美々)という所から、アイヌの丸木舟でユウブツ(勇払)へ着いた。イシカリから川路山越えで三十六里余・・・シコツ川は鮭が多い。船中から川中を見ると背を揃えた鮭夥しく、例えようがないほどだ。アイヌたちはヤスで突漁する。この川続きシコツのヲサツトウ(長都沼)は差渡し一里ほど、此処も鮭が多い・・・鮭は干鮭にして交易荷物に出し、テンヒラ(ひらき)にし食糧としている。交易は米1俵(8升入り)当り鮭8束(20本詰め)の相場である・・・<抄訳>」

イシカリ(石狩)川、イベチ(江別)川、シコツ(千歳)川、ヲサツ(長都)沼、ユーブツ(勇払)川の状況、鮭漁の様子が伺える。

 

2.武藤勘蔵「蝦夷日記」寛政10(1798)

異国船到来状況の調査のため、勘定吟味役三橋成方に随行して西蝦夷地を宗谷まで見分した幕吏武藤勘蔵の日記。帰途シコツ越えしている。

「・・・七月二十五日、シコツ越えと言ってイシカリ川を船で登る道があり、この道を出発。トイシカリ(対雁)という所で船中に泊まる。二十六日、未明に出船。イザリ(漁)川といふ所で日が暮れ、また船中に泊まる。二夜とも大小便は上陸して山中へ通う。そのたびごとに蚤のような虫、股、膝頭の下、足の甲まで一面真黒にたかり、むさき事かぎりなし。山中には熊、兔など沢山居るとのこと。二十七日、夕方シコツ(千歳)に着く。二十八日、同所を出発、船路にて東蝦夷地ユウブツ(勇払)に着船し一日逗留した・・・<抄訳>」

一行は、六年前の串原正峯らとほぼ同じルートを通っているが、宿泊はいずれも船中だった。まだこのシコツ越え道には、宿泊施設は整っていなかったようだ。

 

3.東密元禛「東海参譚」文化3(1806)

西蝦夷地直轄予備調査のため幕府目付役遠山金四郎、勘定吟味役村垣左太夫一行が訪れた折の記録。

「・・・6月12日、川船にて遡りイベツ(江別)に入る。川の左右は沢で、川境がはっきりしない。ユウバリ川が合流しており、濁流。この辺りは川幅狭く、6-7間しかない。両岸には木や蔓が茂り、川の上で枝が交差し、僅かに陽がさすほど。大小の虻が船に入り刺す・・・シママップブドウ(シママッフ、松前藩領地の境)の辺りで日が暮れ、暗闇の中を数里進む。イサリに着いたのは三更(23時~午前1時頃)、両岸は千点もの篝火で白昼のようだった。13日、丸木舟で千歳川の会所に着く・・・<抄訳>」

この遠山金四郎(景晋)は、時代劇で有名な町奉行「遠山の金さん」(遠山金四郎景元)の父親。蝦夷地御用を命じられ蝦夷地出張3回、長崎・対馬出張3回など、江戸幕府の対外政策を担って東西奔走した能吏(ロシア船来航の際には、幕府の代表としてニコライ・レザノフと会談)。後に長崎奉行、勘定奉行を勤めた。

 

4.田草川伝次郎「西蝦夷地日記」文化4(1807)

幕府小人目付田草川伝次郎は西蝦夷地を巡検し「西蝦夷地日記」を遺した。帰途シコツ越えした様子を記している。

「・・・10月11日。明け方7時頃ツエシカリ(対雁)を出船、イベツブト(江別太)で夜が明け、シュママッケ辺りで日が入る。夜9時ごろ雨強く風も出る。アイヌ人が凍えて難儀していたので川岸に舟を繋ぎ、火を焚いて夜を過ごした。(中略)行程12-13里・・・10月12日。6時頃に出船し、暫く行くとイチャリブトの泊家から迎人が来た。昨夜は行き違いでシュママッケまで行って引返したと言う。5時過ぎイチャリブト(漁太)へ着き、泊家へ宿泊。会所から番人が来て管理しているが普段は空き家。泊家は玄関座敷も二間、次の間も三か所、勝手場も広く、道中本陣風の大層な造りである。

イチャリブトからユウブツ(勇払)、シコツ千年川とも言い川上はシコツ沼で凡そ2里の道程。シコツ(千歳)までは陸路があると石狩支配人が言っていたので番人に聞いたところ、谷地で水深くアイヌも往来していない。シコツ川尻迄は廻船で行き、そこからは川舟を用意してあると言う。イベツブトからイチャリブトまで、川筋に泊家もアイヌの家などない。イシカリからイチャリブトまで行程およそ25里・・・<抄訳>」。

 

5.山崎半蔵「宗谷詰合 山崎半蔵日記」文化4(1807)

宗谷警備に赴いた津軽藩士山崎半蔵の記録。イチャリブト、イチャリ、ムイチャリ記載。

 

6.荒井保惠「東行漫筆」文化6(1809)

蝦夷地第一次幕領期の松前奉行支配調役であった荒井保惠が、東蝦夷地御用のため箱館を出立してクナシリ島に赴く途中各地の状況を詳細に記した日記。イチャリ(漁川)、ムイシャリ(茂漁川)の漁獲量など、漁場としての重要性を記述している。

本書ユウフツ場所の項に次のような記載がある。「・・・文化5年、干鮭18,439束、アタツ(鮭を三枚におろし中骨と頭を取り干したもの)2,465束、計20,904束。内訳、干魚10,102束・アタツ1,585束(千歳川買い上)、干魚6,505束・アタツ875束(ムイシャリ出張買上)、干魚1,617束(サル出張買上)、干魚215束(トカチ出張買上)・・・<抄訳>」。

なお、サル出張買上はサル(沙流)アイヌが千歳川流域へ出漁した場合、自家消費以外の漁獲をサル、ユウフツの会所へ半分ずつ出荷する取り決めがあったと言う。

 

7.松浦武四郎「再航蝦夷日誌」弘化3(1846)

第二回蝦夷地探査。松前藩カラフト詰藩医の従者としてカラフト、ソウヤを見分後、シコツ越えで江差へ戻る。以下は、ツイシカリから千歳川を遡り、イザリブトで休憩した時の描写。

「・・・イサリブト ツイシカリより十一里。此処漠々たる広野にて処々此辺沼あり。支川も網を曳けり。沼は左右にあって至って湿深きところなり。此処に至り四面とも山と云は少しも見えることなし。蔵の屋根え上がらばシコツ山(注、恵庭岳)見ゆるなり。番屋大きく建てたり。弁天社、蔵々あり。千歳支配所なり。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土地肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人ども熊、鷲を多く飼えり。又鶴多きよし。夷人毎日臼にて沼菱を搗て是を平日の食糧とす。又鹿皮を多く着科にせり。もっとも肉を干して是も平日の食に当てるよし。

此処にて川二つに分る。一つは右の方本川にしてシコツ沼に及ぶよし。番屋前十間ばかりして枝川に上る。此巾十二三間。もっとも深き壱尋半より二尋。急流にして水至って清冷なり。本川はシコツ嶽、サッポロ嶽の間より落ち来る。本川幅十五六間。深凡そ二尋もあるよし聞けり・・・<抄訳>」

 

8.堀利煕、村垣範正「蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類」安政1(1854)

幕府は目付堀利煕、勘定吟味役村垣範正に命じ、蝦夷地実情調査。

 

9.石川和助、寺地強平、平山橋次郎「観国録」安政3(1856)

老中阿部伊勢守が石川和助・寺地強平・平山橋次郎に命じ、西蝦夷地、樺太、東蝦夷地沿岸踏査した2年間の記録。安政3年7月、樺太からの帰途、シコツ越えした折の記録。

「・・・7月13日、ツイシカリを出て、イサリブトに泊まる。行程11里ほど。(中略、ツイシカリ、シュママップの地勢、戸口、風俗、物産、土質、気候の記述がある)・・・7月14日、イザリブトを出発、ユウブツに泊まる。行程12里余。イザリブト番屋は大きな茅葺で周りに漁蔽、祠社、アイヌ小屋などが連なっているが、ツイシカリの荒廃した様子に比べ極めて整然としている。番屋は東南に向かって建ち、前にはイサリ川(幅7-8間)が南から流れ来て、イベツ川に合流している。二つの川の幅は40-50間の草叢で、中洲のようになっており板橋を渡し往来している。此処にも漁蔽、祠がある。番屋の後方は広々とした平原で所々に樹々が立ち、西南にはヲタルナイに連なる山々が見える・・・<抄訳>」

 

10.川地経延「蝦夷地巡回日記」安政4(1857)

箱館奉行の蝦夷島・カラフトの周回見分に参加した信州高遠藩士の旅日記。閏5月23日箱館を出立し長万部・室蘭・勇払を経由して石狩へ。石狩からは船で増毛・天塩・宗谷に立寄りカラフトの白主へ渡海。イザリブト番屋漁獲量の記述がある。

「・・・千歳会所から5里ほど下るとイザリブト番屋があり、40-50戸のアイヌ集落があり、8月から9月頃は鮭漁を行い大きな漁獲(3-4か月の間に12-13万本)があると言う・・・<抄訳>」。6,000本を100石としていたので、3,000-4,000石を箱館、松前及び諸国へ出荷していた。

 

11.須藤秀之助、窪田子蔵等「協和私役」安政4(1857)

堀田備中守正篤が派遣した家臣須藤秀之助、窪田子蔵等の記録。

「・・・7月6日、明け方クリ舟2艘を傭って千歳川を下る。舟はアイヌ人が製作したもので蝦夷舟と言う。センの木丸材をくり抜いて作るので丸木舟とも言う。古い船だった。〈中略〉千歳川が千歳番屋の傍を流れる。源はシコツトウでシコツ川と言ったが、今は改めて千歳と言う。良い言葉だ。アイヌ人は今もシコツ、シコツ川と呼んでいる。シコツトウは此処より7-8里ほど、タルマイ山の背にあり、周囲30里余の大湖である。(中略)また、イサリブトと言う所には番屋があり往来の官吏や旅人に備えている。アイヌの家4戸、20人が暮らしている。イサリブトは千歳から5里。此処から更に5里行くとシママップという所で、ユウブツと石狩の境となっている。番屋がある・・・<抄訳>」

 

12.玉蟲左太夫「入北記」安政4(1857)

箱館奉行堀織部正利煕、村垣淡路守範正の蝦夷地巡察に随行した近習玉蟲左太夫の記録。千歳~札幌への新道を通り、イサリ、シママップ付近の状況が記載されている。

「・・・9月9日、今日は鎮台(堀奉行)がイシカリを発ちハッサフへ着くことになっており、千歳会所に残っていた面々は鎮台より先にハッサフへ着いて出迎えるよう申し付けられていた。それ故、未明に千歳を出発したが、地面は霜で覆われ寒さ厳しく馬上にあって手足に鳥肌が立つほど、寒地とは言え未だ冬でもないのにこの寒さである。驚くばかりだ。千歳から半里ほどの所に追分の杭があり、そこを左折して10歩ほどで坂があり、少し険しい。坂を上ると平地で糀、ハンノキ生えている。林の中を2里半ほど行くとイカンブシと言う所で、小憩所があった。今日は急ぎの旅であるが寒さに耐えかね小憩して身体を温めた。

更に2里半ほどで坂になったが、馬で登るのが難しい程の険しさである。この坂を下りシママッフ川に着く。此処がイシカリ・ユウブツの境。昼食をとる。この川は千歳川に落ちている。この1里半ほど手前にあった川はイサリ川と言った。急流で幅7-8間、傍にアイヌの家1戸あり。この間にもう一つ小川がありムイサリ川と言う。どちらの川も千歳川に注ぎ、鮭鱒が上ってくると言う。この辺りは茅原、または林で平坦、柏樹が多く見える。

更に7-8丁進んだところに坂があり、折れ曲がった急坂は注意を怠れば転落する心配がある。坂を上ると平山となり多くは柏樹であるが栗、楢も見えた。これから先は大小の坂ばかり、歩行がままならず。新道のため道路が未だ固まらず、時折泥濘に難儀する所があった。シママッフ川から3里余でイナヲ坂があり、これまた険しく、馬上歩行が困難なほどであった。其処から2里ほどで豊平に着く・・・<抄訳>」

 

13.松浦武四郎「西蝦夷日誌」安政5(1858)

第六回蝦夷地探査。幕府御用で掘削されたばかりの札幌新道を陸路、銭函から札幌を経て千歳、勇払に至る。

「・・・山一つ越えウツ(輪厚川、深い沢の意)。坂を上ると眺望が良く、石狩川及び千歳一帯の湿原が見渡せる。九折の坂を14町ほど下るとシュママプベツ(島松川、川幅5-6間、橋あり、南に小休所あり)。川中を以て石狩と勇払の境としている。シュマヲマフとは岩があるとの意味で、源も全て平磐だと言う。少し上流で二股に別れ、左がニオベツ川、右が本流で滝がある。源は札幌岳で総じて峻々たる岸壁。魚は鮭、鱒、チライ、鯇(あめます)、桃花魚(うぐい)、杜父魚(かじか)、雑喉(ざこ)等が多い(乙名イワクランの言)・・・」

「・・・是より千歳領。九折の鼻をも突くばかりの険しい道を上ると平地がある。茅の原を過ぎ、ロロマップ川、そしてヘケレベ川があり、水底は砂地のため濁っていない。これらの川はシュママップ(島松)川に注ぐ。さらにルウサン川、アツシヤウシ川、モイザリ川(茂漁、川幅3間、橋あり)があり、これらはイザリ川の枝川である。傍に石狩土人(シリカンチウ、サンケハロ)の家があり、去年夕張に連れて行った者だったので、立ちよると妻が居て、私の名を聞いて大いに悦び、粟を二合と焼鱒を三匹ほど呉れた。私もお礼をして出発。この辺は畑が多い。かつて石狩領であった。 蝦夷人の/いさりの里に/たなつもの/穂浪よすとは/思ひかけきや ・・・<抄訳>」

 

参照1)新恵庭市史通史編2022、2)新札幌市史第1巻通史1、3)北海道大学北方資料データベース

*松浦武四郎については、拙ブログ2019.1.14「恵庭と松浦武四郎」、2018.11.4「恵庭に建立された松浦武四郎歌碑」、2018.8.26「はまなす砂丘(長沼町)に立つ」も参照されたい。

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恵庭の古道-9、元禄・宝暦絵図に見る「シコツ越え」道

2024-02-26 15:46:04 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

シコツ越え

明治6年(1873)に札幌本道が開通する以前、石狩(西蝦夷地)と勇払(東蝦夷地)を結ぶ内陸道は「シコツ越え」と呼ばれた。江戸時代末期には勇払場所請負人山田文右衛門らの尽力で荷馬車が通れるよう整備されたが、当初はイシカリから石狩川、千歳川を丸木舟で遡り、シコツ(千歳)を越えて再び美々川から舟を利用しアヅマに至る道筋だった。

「シコツ越え」道の様子は、「夷諺俗話」「蝦夷日記」「東海参譚」「西蝦夷地日記」「東行漫筆」「再航蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」「観国録」「蝦夷地巡回日記」「協和私役」「入北記」などによって垣間見ることが出来る。

本稿では、伊能忠敬が蝦夷地太平洋沿岸を測量(第一次測量)した寛政12年(1800)より100年前の絵図「元禄御国絵図中松前蝦夷図」、及び50年前の「飛騨屋久兵衛石狩伐木図」(宝暦)に描かれた「シコツ越え」道を辿ってみよう。今から遡ること220年前の道である。

写真は「元禄国絵図」(北海道大学北方資料データベース)から

1.元禄御国絵図中松前蝦夷図(元禄郷帳附図)

元禄国絵図は、元禄9年(1696)幕府によって作成が命ぜられ、同15年までにほぼ全国分が完成したと言われる。その中のひとつ「松前蝦夷図(元禄郷帳附図)」は元禄13年(1700)に作成された手書彩色 83×65cmの軸物。松前藩が幕府に提出した蝦夷地図である。

北大北方資料館が所蔵する当絵図は、東大図書館旧蔵原図(大正12年関東大震災で焼失)からの縮小模写図(大正7年)を借写したものとされるが、状態悪く閲覧不可となっている。この「元禄御国絵図中松前蝦夷図(元禄郷帳附図)」を昭和44年に模写したものが「元禄国絵図」(手書彩色 79×64cm)。北海道大学北方資料データベースで精細画像を見ることが出来る。

◆元禄国絵図に見る蝦夷地

絵図には「蝦夷地」と「からふと嶋」が描かれているが、絵図を見ただけでは北海道と想像できないほど、現在の形とはかけ離れている。海岸線に地名が記入されているが内陸部は空白。道南以外の相対面積が極めて小さい形だ。つい最近まで、函館人が森町以北を奥地と呼んでいたように、この時代の蝦夷地は南部の箱館、松前、江差が中心であった。

絵図には、文禄13年松前志摩守の署名、村数83ヶ所、蝦夷人居所140ヶ所、田地高無し等の記載がある。箱館から松前、江差、熊石までの海岸線沿いに朱線で描かれているのが道路だろう。その他の海岸線に道路はなく、いわゆる奥地へは船を利用する時代であった。

蝦夷地の中央部に大きな湖(沼)が描かれているのが目につく。内陸部に唯一描かれた朱線がこの沼を横切り、イシカリ~アヅマを結んでいる。これが「シコツ越え」道であろう。

◆元禄国絵図に見る「シコツ越え」道

絵図を拡大して「シコツ越え」道の道筋を辿ってみよう。

イシカリから石狩川を舟で遡る。ツイシカリ(対雁、江別市)で千歳川に入ると両側にシママップ(島松)、ツウメン(祝梅)等の地名がある。千歳川は四里四方と書かれた大きな浅い沼に到達する。この沼にはユウバリ川が注いでいるが、地形から見て後のオサツトー(長都沼)、マオイトー(馬追沼)となる沼地であろう。沼の傍にイチャリ(漁)、ヲサツ(長都)の地名がある。

この沼を舟で横断してから、陸路でツウサン(ろうさん、千歳市)、シコツ(支笏)、アツイシ(桂木)を越え、ヌマカシラ(植内)の沼に至る。この沼は美々川が注ぐウトナイ湖の辺り。更に、沼から川筋を下れば勇払川となり太平洋に至る。河口にはアヅマ(厚真)、イブリ(胆振)の名前がある。なお、現在の地図に重ねると、陸路は千歳川沿いの千歳市桂木から千歳神社、千歳空港内、美沢川を通り、美々川に至る2里の道程であったと推定される。

元禄年間の「シコツ越え」道は上記のように、舟~陸路~舟で結ばれていた。

写真は「元禄国絵図」一部(北海道大学北方資料データベース)から

2.飛騨屋久兵衛石狩伐木図(宝暦)

この絵図は、飛驒国出身の材木商飛驒屋久兵衛がイシカリ山の伐木を一手に請負った時の絵図と言われる(北海道大学北方資料データベース。手書彩色 107×90cm 軸物、武川久郎氏所蔵図の模写。要申請)。

絵図の左下に「享保十三戊申年ヨリ宝暦九己卯年マテ唐檜山一手請負伐出之場所」の説明がついているが、飛驒屋がイザリ川の上流空沼岳東山麓など石狩の山林でエゾ松の伐採を始めたのは宝暦年間(1751-63)のことなので、この絵図は宝暦年間の状況と考えられる。

絵図には、石狩川本流・支流、背後の山々とともに木材伐採場所が描かれている。朱線が道路で「山方道」と「川流シ道」の2種類があった。「山方道」は秈夫や人夫が荷物を背負って入山した道だろう。道路脇には「十文字小屋」「コメ倉」「中小屋」「秈小屋」「コメセホイ小屋」など作業関連施設が置かれている。一方、「川流し道」は木材を流送する河川に沿って作られ、「留場所」「イカダ繫場所」が示され小さな集落もある。写真は「飛騨屋久兵衛石狩伐木図」(北海道大学北方資料データベース)。

新札幌市史第1巻通史1を引用する。

・・・「山方道」の方は、ハッサム川を渡ったところで「川流シ道」と分かれ、サッポロ川に沿って遡り、「ヲシヨシ川(精進川か)」の手前で右から順に「アブ田道」、「米セホイ道」、「シコツ道」の三本に分かれる。一番右の「アブタ道」は、サッポロ川に沿って「テング山」方向に伸び、中央の「米セホイ道」は、「ヲシヨシ川」と「マコマ内川」の中間を通ってイザリ川上流へと出る。また、一番左の「シコツ道」は、「ヲシヨシ川」と平行して進み、「イザリ夷村」付近でイザリ川を横切り、さらにシコツ川を横切って、「ユウブツ」、「シコツ海」すなわち太平洋岸へとつながっている・・・

・・・一方、「川流シ道」の方は、エベツ川を遡り、シママップ川、イザリ川を遡って、シコツ山麓辺の「伐出場所」に通じている。伐出場所付近には元小屋、釜小屋、杣小屋(そまごや)、持子小屋、カジ小屋がみられ、「山方道」の途中の要所要所には、米セホイ小屋、米蔵、柾小屋などもある。また、「川流シ道」のエベツ川のイシカリ川への合流点には、「留場所」があって人家が集まっているように描かれており、その下流には「イカダ繫道」があって、河口の「木場」へと通じている・・・

本絵図の「シコツ道」が「シコツ越え」道であるとみて良いだろう。即ち、イシカリ(石狩)から石狩川、サッポロ川(豊平川)に沿って遡り、さらにヲシヨシ川(精進川か)沿いに進み、イザリ夷村付近でイザリ川(漁川)を横切り、さらにシコツ川(千歳川)を横切って、ユウブツ(勇払)、シコツ海(太平洋)岸へ至る経路である。

この時代、森林伐採作業のため道ができ人々の往来も増加した。「シコツ越え」道も川を遡る道(川の道)に加え陸路が可能になったと推察される。

 

参照1)新恵庭市史通史編2022、2)新札幌市史第1巻通史1、3)北海道大学北方資料データベース

*飛騨屋久兵衛については、拙ブログ2023.5.16「恵庭の歴史びと-1 飛騨屋久兵衛」を参照されたい。

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寒中お伺い申し上げます(令和6年)

2024-01-19 11:58:05 | さすらい考

皆様いかがお過ごしですか

寒波、大雪となった北海道ですが、皆様いかがお過ごしですか。

朝起きて除雪作業の毎日でしたが、来訪するカササギを見上げては癒されています。

昨年は、高温旱魃など異常な気象、ウクライナ、ガザ地区では悲惨な戦いが繰り返され、成す術もなく世界が分断化の方向に進みそうな状況です。また、裏金問題など政治家の傲慢さに対し、市民感覚からかけ離れた無策な対応にはウンザリでした。

今年こそ平和が訪れますようにと祈った元旦でしたが、能登半島地震、日航機炎上と痛ましい年明けとなりました。テレビの映像に言葉を失うほどの衝撃でしたが、日にちが経過し災害の状況が分かるにつれ、その甚大さに心が痛みます。

此のところ、地球沸騰化、災害、紛争拡大、政策活動費問題など課題が累積しています。崩れゆく時代が始まったかと心配になります。どれもこれも、人間の傲慢さ、無策ゆえの結末でしょうか。謙虚でありたいものです

昨年は伊豆下田へ二度出掛け、恵庭学講座で史跡探訪、日々散策など凡々と過ごしました。また、尋ね人で奔走しました。今年もその延長線上で・・・齢相応に動こうと考えています。

本年もよろしくお願いいたします。

厳寒の折から、どうぞお身体を大切にお過ごしください。

令和6年睦月

 

末尾になりますが、本ブログにお立ち寄りいただいた皆様に感謝申し上げます。

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カササギ(鵲)、恵庭の野鳥

2024-01-12 10:10:03 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

「恵み野」にもカササギ

北海道恵庭市恵み野の拙宅にカササギが時々飛来する。

最初に気付いたのは令和4年(2022)のことで、カラスがゴミを漁りにきたのかと視線を向けると、カラスに似て頭は黒いが肩から腹にかけて白い。あれ、カラスの変異種かと一瞬思ったが、よく見ればカラスより少し小柄で尾が長く、ツートンカラーのスマートな体型である。ヨーロッパ中世のナイト(騎士)のようではないか。空を飛ぶ姿も羽ばたくと言うよりふわふわと滑空する。

最初の年は何時も2羽(つがい)で行動していた。向かいの家の屋根や電柱から拙宅の屋根、芝生の庭にも下り立つ。また、ある時は恵み野旭小学校の前でカラスに交じって地面の餌を漁る姿を観た。昨年(令和5年、2023)秋には4~5羽の飛来を観察、若鳥を伴っての来訪だったのだろうか。恐らくこの近くに巣を作り、繁殖したのだろう。これまで恵庭ではこの鳥を見かけなかったので、新たな生息域となったのかも知れない。

そして、令和6年(2024)新年早々にもやって来て「カシャカシャ」と鳴いた。中国の故事(鵲喜じゃっき、良いことが起こる前兆)にあるように、今年こそ良いことが起こる前兆だと思いたい

写真に収めることは出来ていないが、鳥類図鑑等で調べると「カササギ」と思われる。散歩の途中、カササギの巣はないかと大きな樹を見上げる昨今だ。

 

*令和6年(2024)1月12日の北海道新聞投書欄に載った一枚の写真(「背中で一休み」恵庭市/竹尾さん)。背中に乗っている鳥はカササギに似ている。とすれば、この写真は何処で撮ったのだろう?

*令和6年(2024)1月16日の朝、カササギを写真に収めた。此のところ雪が降り続き除雪作業に追われる日々である。昨日と一昨日は除雪中に2羽を見かけたが、カメラを準備する暇もなく飛び去った。今朝は運よく4~5羽をカメラに捉えた(雪が舞う)。

**令和6年(2024)1月17日の朝、除雪をしていると鳴き声が聞こえたので見上げると1羽のカササギがいる。鳴き声に「キキキ」と返せば、「カシャカシャ」と応える。数回遊んだ後で写真を撮る(晴天)。

**令和6年(2024)3月16日、恵み野旭小学校の周辺で毎日のように見かける。大きな2羽、小型の4-6羽が近くに生息しているようだ。1月30日、隣家のゴミ箱をカラスが荒らした後にカササギがやってきて食べ物を漁った。また別の日に、街路樹の銀杏上部に巣の跡らしきものを見たが、カササギの巣だろうか。

  

 

◆カササギ(鵲、学名Pica pica、英名Magpie)

スズメ目カラス科に分類される鳥類(サギの仲間ではない)。佐賀県では鳴き声から「カチガラス」、福岡県では「コーライガラス(高麗烏)」とも呼ぶ。英語では「マグパイ」、賑やかな鳴き声から付けられた。中国には鵲喜(じゃっき、良いことが起こる前兆)という語があり、カササギの鳴き声は吉事の前兆とされている。

外見:カラスより一回り小さく、黒い頭と白い腹、青みを帯びた黒い尾が特徴。その羽毛は黒地に白い模様を持つ。

生態:雑食性。昆虫、ミミズ、貝類、魚類、カエル、果実類、穀物、豆類などを食べる。

人里を好み(山野には生息しない)、移動範囲が少なく同じ村に住み続ける。冬の間に大きな樹上(電柱など)に巣を作り、4~6月にかけて巣立ちする。若鳥は12月頃まで親と過ごすが、その後はツガイとなって縄張りをもつようになる。

脳の割合が大きく、鏡に映った姿を自分自身と認識できる能力(ミラーテストをクリア)を有すると言われる。

分布:北半球に広く分布しているが、日本では佐賀平野を中心とした狭い範囲に生息。地域を定めた国の天然記念物に制定され(大正12年佐賀県、福岡県)、佐賀県では県鳥(昭和40年)に指定し保護活動を進めている。佐賀県内に約9,000羽が確認されると言う。

近年、九州以外の北海道、新潟県、長野県、愛媛県などでも繁殖が記録されている。北海道では1984年に室蘭市や苫小牧市周辺で1~2羽が確認されて以降生息が確認された(堀本富宏2004「北海道胆振地域におけるカササギの記録」山科鳥類学雑誌36.1)。

人里を好み、山野には生息せず、移動範囲が少ないカササギの生息地域が何故拡大したのか。

酪農学園大学森さやか等は「九州のカササギのDNAは中国のものに近く、北海道のカササギDNAはロシアに生息するカササギDNAと一致」と解明した(2015)。カササギは、飛鳥時代に中国大陸から持ち込まれたという記録、17世紀に朝鮮半島から佐賀県に移入したと言われているが、北海道のカササギはロシアからの貨物船に乗って来たのではないかと推察されている。

*鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける (大伴家持、新古今和歌集、小倉百人一首)

 鵲の橋/天の川:中国の七夕伝説では、織姫と彦星を七夕の日に逢わせるため、沢山のカササギが翼を連ねて橋を作ったとされる。

 

写真は竹下信雄「日本の野鳥」から引用

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「ベニシタン(紅紫檀)」の赤い実を野鳥が啄ばむ、恵庭の花-36

2023-12-23 13:54:59 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

ベニシタンの赤い実

拙宅の庭の片隅にある夏椿の根元に、ベニシタン(紅紫檀)が根づいたのは何年前のことだったか。北国の師走、雪が降る頃になると、背丈の低いベニシタンの木は無数の赤い実を着ける。もともと植栽したものではない。夏椿を訪れた野鳥が何処かの庭から運んできた種子が芽生えたものだ。

背丈は低く、水平に枝を広げ、枝には小さな卵型の葉が整然と密生する。小さな花は目立たないが、多数の赤い実は人の眼を惹きつける。特に、雪が降り、辺りが白一色になるとベニシタンの赤い実は存在感を増す。

熟した実を摘まんでみると食用になるようなものではないが、野鳥が毎年やって来る。今年もヒヨドリが赤い実を啄ばんでいる。イチイの実はとっくに食べ尽くし、街路樹のナナカマドの実も食べ飽きてやって来たのだろうか。

   

◆ベニシタン(紅紫檀、チャボシャリントウ、コトネアスター、学名Cotoneaster horizontalis、英名Rockspray cotoneaster)

バラ科、シャリントウ属の常緑(半常緑、寒冷地では落葉する)広葉小低木。原産地は中国西部。樹高が低いわりに色鮮やかな実がなることから、庭木、盆栽、鉢物として広く普及。渡来したのは明治初期、赤い実が木を覆うようにできる様を、インド原産で紅色の染料となるシタン(紫檀)の木になぞらえ、ベニシタン(紅紫檀)と名付けられたと言う。

開花は5~6月、その年に伸びた葉の脇に咲く。直径4~6mmほどの両性花で、淡い紅色あるいは白い5枚の花弁がある。ただし、花弁は全開せずに直立するのみで、未熟な果実と見分けがつきにくい。萼筒から生じる軟毛が目立つ。

果実は直径5mmほどの楕円球で、秋(9~10月)になると濃い紅色に熟す。実は長持ちする。弓なりに伸びる枝に多数の赤い実がぶら下がる様子は人目を惹きやすく、野鳥もこれを食べに集まる。

葉は長さ5~15mmの小さな卵形。ツゲとよく似た感じで、枝から互い違いに整然と密生する。革質で表面は光沢のある濃緑色。裏面と葉柄には毛を生じる。常緑樹だが、寒冷地では秋に紅葉の後、落葉する。このため半常緑性あるいは落葉性とすることもある。

学名にあるhorizontalisは水平を意味し、枝は多数に分岐しながら横に広がる。樹高は最大1mほどで、かつてはグランドカバー的な使い方も多かった。

5月頃に花、10月以降に果実が鑑賞できるベニシタンの花言葉は「統一」「安定」「変わらぬ愛情」「童心」。主にその葉や果実の姿、冬になっても果実が残る様子などからイメージされたと言う。

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