豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

恵庭の彫像-16 鈴木吾郎作品38点が恵庭市に寄贈される

2025-03-15 11:36:38 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

鈴木吾郎講演会「彫刻人生60年」を聴講する

彫刻家鈴木吾郎、北海道を代表する彫刻家の一人。恵庭大橋や市立図書館に立つ少女像を通じて多くの市民が身近に感じる作家である。この度、作品38点が恵庭市に寄贈されることになり、2025年3月12日寄贈セレモニーと講演会が開催されたので参加した(主催恵庭市教育委員会)。

寄贈作品の内訳は、「少女ASURA」などブロンズ12点、「少女頭像T」などテラコッタ15点、18歳」などFRP作品6点、石膏・デッサン等5点である。

写真左は「講演会栞から引用」

 

◆鈴木吾郎

栞の紹介記事から引用する。

昭和14年芦別村にて生誕、すぐに月潟村へ移住し中学2年まで過ごし、札幌市へ。札幌西髙を経て北海道学芸大学札幌分校(現北海道教育大学)特美1期を卒業後、恵北中学(恵庭市)に赴任し11年間勤務する。

道展会員、日彫展会員、個展は札幌・東京・フランス・中国等で35回開催、記念碑は国内に60数基。著作は「彫刻60年鈴木吾郎悠久を舞う」他3冊、執筆は高校美術教科書「自然から学ぶ」、北海道教育史、他多数。小樽商科大学非常勤講師17年間。

主な受賞歴:第40回道展新人賞1965、第43回道展会友賞1968、日展入選1976、道展常任委員1983-1988、恵庭市善行賞(図書館へ作品寄贈)1992、紺綬褒章2013。

◆彫刻人生60年を語る

記念講演で氏は恵北中学教師時代の想い出から語り始め、作家活動で考えていたこと、展示会でのエピソードなど熱く話した。

「感じるものを表現する」「作品は生き様を反映する」「芸術は貴賤老若を問わない」「稚心の美、老いて初心に戻る」などの言葉が体幹から滲み出るようだった。

◆作品寄贈記念 鈴木吾郎展

夢創館で2025年5月30日~6月15日、お披露目展覧会が計画されている。

その後、何処に保管展示されるのか公表されていないが、市民が気軽に目にできる場所(施設)であって欲しい。文化都市を標榜する恵庭市には是非、施設整備など対応を期待したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私立洞門小学校(恵庭小学校の前身)の名称由来考、「洞門」とは?

2025-01-04 11:48:42 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

私立洞門小学校の「洞門」とは?

恵庭小学校の前身は、明治20年(1887)に苫小牧曹洞宗中央院説教所(現在の天瑞山大安寺、恵庭市福住町)内に設置された「私立洞門小学校」である。

ところで、学校名の「洞門」とは何だろう? 何故「洞門」と名付けたのだろう?

 

◆地名(地形)から

講談社日本語大辞典をみると、「洞門」とは「ほら穴の入口」「通り抜けの洞穴、トンネル」とある。また、箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)で「函嶺洞門(箱根町)」の名前をよく耳にしていたこともあり、此の「洞門」も地名(地形)から名付けられたのだろうと勝手に思い込んだ。

気になって、大日本帝国陸地測量部大正5年測図「漁 1/25,000」を広げてみる。漁川は大きく蛇行し川岸が崖になっている。大安寺の辺りも旧川筋が大きく蛇行した形跡があり、ほら穴があったとしても不思議でないが、その形跡は確認できない。この地域を「洞門」と呼んでいたとの確証も無い。

かつてウェブ地図で、市民会館裏の通りが「会瀬洞門通り」となっているのを見た記憶があるが、何処が「会瀬」で何処が「洞門」なのか確認できず、此の通称が事実であったのかも確かめようがない(現在は消えている)。

◆曹洞宗の開祖 洞山良价禅師から

地名でないとすれば、「寺」に関係するのか。

天瑞山大安寺のHPによれば、

「当山は明治20年(1887)1月に仏事執行と布教活動のために、漁村山森丹宮氏より畑地弐反八畝拾歩、中山久蔵氏より畑地弐反六畝拾五歩の境内地の寄進を受けて、苫小牧中央院の千歳郡漁村出張説教所として設置された。中央院は、明治12年4月8日に札幌中央寺の前身である曹洞宗中教院(当時曹洞宗北海道宗務事務執行)に曹洞宗説教所公称を出願し、開拓使の許可を得て、曹洞宗第二説教所として設置されたが、その2世住職として加藤金翎師が任にあたっていた。・・・当時、漁村には山口県団体の移住があったが小学校がなく子弟の教育を憂慮している折柄、加藤金翎師は小学校を私設し、私立洞門尋常小学校(恵庭小学校の前身)と称し、その校主兼教員となって子弟の教育に当たった。この寺子屋が恵庭における教育施設の最初となるものである。・・・同21年5月より同30年5月まで私立洞門小学校に教員として奉職していた松樹良光師が・・・」とある。

これから判断すれば、「洞門小学校」の名称は曹洞宗加藤金翎住職が名付けたと考えて良いだろう。

日本の曹洞宗は道元禅師(1200 - 1253)を開祖(中国から導入)とする禅宗の一つで、専ら坐禅に徹する黙照禅を特徴とする。さらに元を辿れば、曹洞宗は中国禅宗の祖である達磨(5-6世紀)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓慧能(638-713)から4代下った洞山良价(807-869)によって創宗された宗派である。

日本禅宗では、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。一方、中国曹洞宗は洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840-901)を祖とし、曹洞宗となったというのが定説。いずれにせよ、洞山良价が曹洞宗の開祖であるのは間違いない。

 

加藤金翎師が私立洞門小学校と称したのは、「曹洞宗の開祖 洞山良价から一字を得て洞門と名付けた」、或いは「曹洞宗仏門内の学問處の意味で洞門と名付けた」と考えられないか。寺小屋の名前としては此方の方が的を射ているかも知れない。が、記録を確認するに至っていない。

 

さて、どちらだろう? 或いは別の意味があるのかな。宿題が一つ増えた。

 

写真上:天瑞山大安寺、写真下:恵庭小学校「開校百年記念碑」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「西島松5遺跡出土品」重要文化財指定記念講演会を聴講する

2024-12-22 10:46:38 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

西島松5遺跡出土品

恵庭市内の「西島松5遺跡出土品218点」が国の重要文化財に指定され(2024.8.27)、記念講演会が12月7日市民会館で開催された。講師は北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授簑島栄紀氏、演題は「西島松5遺跡の意義とその背景」である。

重要文化財新指定のニュースは「北海道新聞2024.3.16」「広報えにわ2024.10」「郷土資料館広報No.67」等で情報提供され、郷土資料館でも企画展「重要文化財指定記念写真展」「重要文化財指定記念出土品展」を行うなど広報に務めたので、この講演会には市民多数の参加があった。この記念講演会も大きな意味があったものと思う。

講師は、①「西島松5遺跡とは」「西島松5遺跡出土品」について説明し、②その時代背景を解説、その特異性について考察を加えた。

*西島松5遺跡は縄文から擦文文化期にかけての遺跡で、土器や多数の刀剣など鉄製品が出土している(同時期の他遺跡に比較しても、質量ともに群を抜く)。また、他遺跡では基本的に一遺跡に一基の墓から刀剣が出土されるが、西島松5遺跡では12基の墓に24点、3~4振の刀剣が集中して副葬されている例がある。

*鉄製品の出土は交易の証しである。7世紀の墓で刀剣の出土が多いことは、当時から本土と往来があったことを示す。蝦夷地からはヒグマ皮、アザラシ皮が貴重産物として搬出され、権力集中への財として活用されていた。7世紀の余市沿岸遺跡でも刀剣類の出土があることから、恵庭・余市の二つの地域集団が北海道の交流拠点であったと考えられる。

*さらに、8~9世紀にかけて恵庭や江別集団と日本古代国家との交流が発展する。当時の恵庭は、大陸を背景に持つオホーツク文化と奈良・平安文化を結ぶ、北方世界の物流集散地(いわば十字路)だったのではないかと推察した。

*「カリンバ」に次いで、新たに国重要文化財に指定された「西島松5遺跡出土品」は恵庭市郷土資料館に保管、展示されている。

 

◆参考「北海道歴史年表」

*北海道の歴史年表は以下の区分(1)が通説。一方、子供の頃の記憶によれば、教科書で習った日本歴史は以下のような区分(2)だった。

(1)旧石器文化(時代)/3万年前頃から→縄文文化/1万5千年前から→続縄文文化/前4世紀~6世紀頃→擦文文化/7-12世紀頃(オホーツク文化/5-9世紀頃)→アイヌ文化/13世紀から近代・・・

(2)原始時代(旧石器→縄文/1万6千年前から→弥生/前4世紀~3世紀→大和・古墳/4-6世紀)→古代(飛鳥/7世紀頃→奈良/8世紀頃→平安/9-12世紀)→中世(鎌倉/13世紀頃→南北朝/14世紀頃→室町/15世紀頃→安土桃山/16世紀頃)→近世(江戸/17-19世紀)→近代(明治→大正・・・)

*区分名称の違いに最初は戸惑うが、「歴史はそれぞれの地域のもの、文化は地域独自のもの」と捉えれば納得がいく。西島松5遺跡出土品の時代は、日本史区分で言えば古代飛鳥時代。中国大陸は「隋~唐」、朝鮮半島は「百済・高句麗~新羅」の時代であった。西島松5遺跡出土品の時代7世紀は、国を越えた交流が進み、律令・仏教文化が花開いた時代である。年表を重ねると歴史絵巻が見えて来る。

 

◆ルルマップ川の意味

本論から外れるが、「ルルマップ」のアイヌ語意味は「ル(道)・オ(そこから)・オマ(ある)・ㇷ゚(もの・ところ)」ではないかとする解釈が示され、気になった。

ルルマップ川上流、現在のルルマップの段丘地は、後に「シコツ越え」「札幌本道」となる小径(陸路)があった處、此処から陸路が始まる地点ルルマップと言うことだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カリンバ土曜講座2024」を聴講する

2024-12-01 16:37:01 | 講演会、学成り難し・・・

カリンバ土曜講座 2024

恵庭市郷土資料館は「市民に開かれた資料館」「顔の見える学芸員」を目指して多様な教育普及事業を実施しているが、「カリンバ土曜講座」もその一環。毎年、4名の学芸員が各専門領域に沿ったテーマを取り上げ、解説する地道な事業である。

令和6年度は以下の4講座が開催され、聴講した。講座は小学4年生以上の市民対象(定員35名)で、各回とも盛会だった。何時ものことながら、参加することで恵庭の歴史や文化に関する再発見がある。取り組みに敬意を表したい。

 

1.鈴木将太「恵庭の遺跡と発掘調査~ユカンボシ川流域の遺跡を中心に~」(2024.4.20)

ユカンボシE1遺跡発掘調査の令和3年度調査(6回目調査)結果を中心に解説。遺跡の場所は、恵庭公園内に発するユカンボシ川の750m下流の段丘地。縄文時代の遺構で、調査面積270㎡から縄文土器、石器、土偶など多数(約128,400点)が高密度で出土している。さらに、「遺跡発掘に関する基本用語」「遺跡はどうやって見つける?」「どうして発掘調査をするのか?」「発掘調査報告書ってなに?」と、素人向けの解説もうれしい。

 

2.長町章弘「令和4年度に行われた柏木川9遺跡の発掘調査について」(2024.6.15)

柏木川9遺跡の発掘状況、遺構、出土品(土器)、時代考証とその歴史的意義について解説。恵庭には138の遺跡があるが、その内60遺跡が柏木川に沿って存在する。千歳川、漁川本流より枝川に沿って遺跡が発掘されるのは、大きな川は洪水氾濫が頻繁にあった証左かもしれない。

 

3.大林千春「昭和11年恵庭村民の大演習」(2024.9.28)

陸軍特別大演習は2個以上の師団が参加する大規模演習で、天皇が統監する。明治25年(1882)から34回実施され、昭和11年(1936)の北海道島松演習場が最後となった。北海道が選ばれたのは、満州事変以降の情勢を背景に満州地方と地形や気候が似ていることによる。

統監部発行「昭和11年特別大演習写真帳」の写真や資料から、北軍(第七師団)・南軍(第八師団)3万人による演習状況、天皇陛下行幸日程等を解説。さらに恵庭村記録から、本演習に対応した恵庭村民の動向(予算、土木工事、警備衛生、奉送迎、接待、兵事、経理、奉仕、天覧品、記念行事、報道記事など)について解説。また、郷土資料館が所蔵する資料や記念品(絵葉書、カード、文鎮、木盃、煙草盆など)の紹介があった。

当時の人口8千5百に過ぎない恵庭を舞台にした大演習。当時の村民にとって総出のイベントであったが、時代は世界恐慌、満州事変、満州国建設、五・一五事件、国際連盟脱退、二・二六事件、日中事変へと転がるような歴史の流れの中にあったのだ。なんとも切ない。

 

4.杉浦正和「恵庭市内の石碑と保存について」(2024.11.30)

①市内の石碑を紹介:市内に約50基の石碑がある(開拓・信仰・生活関連など)。②自然災害伝承碑について紹介:津波災害伝承碑(岩手県宮古市など)。恵庭にはこの種の碑がない。③石碑の記録保存:石碑の劣化要因として、物理的、科学的、生物的作用を解説。記録保存方法として、「拓本」「ひかり拓本」がある。④隣接する開拓記念公園で、ひかり拓本の作成法を実際にやってみる(ひかり拓本アプリ、奈良文化財研究所2023)。

一昨年の講座で「金属製品と保存科学の世界」を聴講したことがあるので、今回は「劣化した記念碑の修復保存法と課題」がテーマかと予想したが、「拓本による記録保存」が主題であった。「ひかり拓本アプリ」の情報は今回の収穫だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あじさい」の花変化、恵庭の花-38

2024-10-22 10:45:41 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

アジサイの老化現象?

アジサイの名前を知ったのは子供の頃だったと思う。生家が奥伊豆の山奥にあったので、子供の頃は野山を駆け巡っていた。「これは何という花?」自然の中で子供の興味は尽きることを知らない。そんな子供に、「アジサイだよ」誰もが親切に教えてくれた。いま思えば、それは「ガクアジサイ」であるが、天城山系には野山のあちこちに自生していた。

時を経て学生の頃、「シーボルトは日本植物誌の中で、アジサイに妻(楠本 滝Otaksan)の名前を付けて学名Hydrangea otaksa と紹介している」と、植物学の教授から聞いた。いや、朋友羽柴兄の蘊蓄だったかも知れない。アジサイを見るたびにこの逸話を思い出す。牧野富太郎がこのことを不快に感じたとしても、シーボルトとお滝さんの悲しいロマンスと解釈しようがどちらでも良い。

そして、今から20年ほど前になるが、北海道で家裏に3株の「あじさい」を植えた。早生、中生、晩生の苗木を選んだが、品種名は覚えていない。

「アジサイは梅雨のころ咲く」と雨に濡れたイメージが強かったが、北海道では開花が8月になってしまう。「梅雨にアジサイ」の映像は儚く崩れてしまった。中でも晩生種は十分花を着けない年があったのと生育領域が大きくなったため掘り起こして淘汰した。現在は2株のみだが、花後の剪定と数年おきの切り戻しで毎年大きな手毬のような花を着ける。

拙宅アジサイの花色は薄青色だが、秋になると次第に赤みを帯びて来る。しかし今年は特別で、9月末から10月に入ると濃い赤紫色に変化した。花が終わったら例年のごとく剪定で切り詰めようと計画しているが、切るのが忍びなくてまだ花を眺めている。

アジサイは土壌のpHによって花色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われていることは知っていたが、今年は初めて見る濃赤紫色に変化した。従来の概念とは、どうも違う現象ではないか。

 (写真は2024.10.10撮影)

◆花の老化?

調べていたら、「花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていく。さらに日が経つと有機酸が蓄積されて行くため、青色の花も赤味を帯びるようになる。これは花の老化によるものであり・・・」(武田幸1996)とあるではないか。

老化、老化・・・・なるほどと我が身を振り返った。

今年、初雪の声を聴く頃になってもアジサイが健在なのは、夏が長かったからだろう。秋咲きの菊の開花も遅れている。

 

◆アジサイ(紫陽花、学名 Hydrangea macrophylla

アジサイ(紫陽花、学名 Hydrangea macrophylla)は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木(樹木図鑑や北海道の森林植物図鑑ではユキノシタ科アジサイ属)。一般に見られるのは原種ガクアジサイから改良した園芸品種で、6~7月にかけて開花し、白、青、紫または赤色の萼が大きく発達した両性花(飾り花)をもつ。ガクアジサイではこれが花序の周辺部を縁取るように並ぶが、改良種は飾り花が手毬のようになったものが多い。わが家のアジサイも花序が球形の「手まり咲き」アジサイである。

ガクアジサイの自生地は、房総半島・伊豆半島・伊豆諸島の沿岸など。ところが北海道にも、鮮やかな瑠璃色の花が美しい「エゾアジサイ」が生育しているそうだ(北海道の森林植物図鑑1976)。

下田公園(下田城址)には約15万株、大阪府民の森、神戸市立森林植物園、舞鶴自然文化園に約5万株のアジサイが植えられていると言う。下田市の花。

紫陽花に 雫あつめて 朝日かな  加賀千代女

紫陽花や 雨に化けたる 雨上がり  正岡子規

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠目には霞か煙か?「スモークツリー」、恵庭の花-37

2024-10-20 13:24:36 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

庭木にも、運命と言うか夫々の歴史がある。

拙宅の「スモークツリー」は、「苗木を買って帰ったら、主人にこんなもの何処に植えるのだと反対されたので、貰ってくれませんか」との経緯で、わが家にやって来た。10年位前のことだったろうか。

「スモークツリー」、初めて聞く名前だった。

 (写真上:2015撮影)

 

◆スモークツリー和名:ハグマノキ、ケムリノキ、カスミノキ、学名:Cotinus coggygria

スモークツリーは英名Smoke treeで、和名は「ハグマノキ(白熊の木)」「ケムリノキ」「カスミノキ」など。学名はCotinus coggygria、ウルシ科ハグマノキ属の落葉高木。樹高3~8m、開花期は6~8月(初夏になると小さな花を咲かせ、花後に花柄がスモーク状にのびる)、分布地は南ヨーロッパ、ヒマラヤ、中国だと言う。

雌雄異株で、雌木の枝先につく花序は長さ約20cmで多数枝分かれし、花後に伸びた花柄が遠くからは煙がくすぶっているように見える(雄木は花序が短く、煙状にはならない)。

花の咲いた後の花柄が糸状に伸び、これが遠目に霞や煙のように見えることから英名のスモークツリーの名で親しまれている。ハグマ(白熊)とはヤクのことで、和名は花後の姿をヤクの白い毛でつくる払子(ホッス、仏具)に見立てたもの、とある。秋には紅葉する。(参照:鈴木庸夫「樹木図鑑/日本文芸社」など)

 

 (写真上:2024..10.11撮影、写真下:2024.11.20撮影)

◆毎年刈り込む

拙宅の庭には高木を育てる程の空間がない。隣家の迷惑にならぬよう樹高を抑える管理をしている。雪の降る前に枝元の芽を一つ残して切り戻す。地表に這いつくばった樹形になり、翌年は新梢が1m位伸びるが伸びすぎるのは選定して抑える。

枝を切ると白い汁が出て香りが漂う。葉表は光沢のある紫がかった濃緑、裏は白っぽい。新梢の先端が赤みを帯びている。

◆10月初めまで花柄を楽しむ

初夏に咲く花木の代表と教科書にあるが、10月になっても花後の赤い花柄が風に揺れて美しい(写真は10月11日撮影)。最低気温が5℃前後になって、恵み野でも落葉樹が紅葉し、落ち葉が風に舞い始める頃、スモークツリーも紅葉が始まった。赤みの花柄も色が褪せて(写真は10月20日撮影)、枯れたものは風に吹かれ地表を転がって行く。

 

拙宅のスモークツリーは、花柄の赤い園芸品種だったのだ(緑がかった白色以外に、ピンクや赤の園芸種がある)。赤い花柄なれどもハグマ(白熊)と呼んで良いのかな?

ある日突然やって来た「スモークツリー」だが、今ではすっかり根づいて、わがもの顔にテリトリーを広げている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵庭市長寿大学公開講座を聴講する

2024-10-18 13:10:11 | 講演会、学成り難し・・・

大塚宜明「物言わぬ石のカケラから知る北海道の歴史」

10月の或る日、標記講座を聴講。講師は札幌学院大学人文学部特任講師。

講師は、「考古学とは何か?」と総論から始め、次いで北海道の続縄文文化から擦文文化、オホーツク文化、アイヌ文化時代まで狩猟具や加工具として使われた十勝石(黒耀石)をテーマに話された。十勝石は現在もペンダントなど装飾品として加工販売され、黒く光り輝く石として知られる身近な存在である。

講演のポイントは、以下の三点

(1)北海道は黒耀石の宝庫

「白滝」「置戸」「十勝(上士幌・美蔓)」「赤井川」が主な産出地。石狩低地帯の遺跡からも発掘されているが、産地は遠く離れている。このことは当時既に人的交流があったことの証しであると解説。

(2)蛍光X線分析で黒耀石産地を推定

産地ごとに化学成分の違いがあることを利用して、黒耀石の流通形態を解明した。北海道内だけでなく、東北地方やサハリンまでの広がりがあった。

(3)黒耀石の利用方法が変化

旧石器~擦文までは「狩猟具、加工具」としての利用だったが、続縄文後半、擦文、アイヌ文化期の間に利用方法が大きく変化する。アイヌ文化期に入ると、女性墓副葬品など儀式利用が多い(背景には鉄器の導入)。

黒耀石の利用方法の変化が、時代や社会情勢に応じた人類の歴史の大きな変動を映し出していると結んだ。物言わぬ石のカケラからも北海道の歴史を知ることが出来る、これが考古学研究の醍醐味。何気ない自然の物証にも目を向けてほしいと言いたいのだろう。

講演後、内容はむしろ「十勝石(黒耀石)が語る北海道の歴史」だな、と勝手に思った。

 

◆さて、十勝石(黒耀石)であるが、

黒耀石は、流紋岩質マグマが噴出した時に、急激に冷やされガラス質になることで生じるのだと言う。従って、急冷される特定の条件を供える場所でしか産出しない。北海道の産出地は今でも冷涼な地域、当時はもっと寒冷だったのだろう。勿論この条件は北海道だけではないので、黒耀石は世界各地で産出する。

日本では、北海道以外にも長野県霧ヶ峰周辺、静岡県伊豆天城、熱海市上多賀、神奈川県箱根、伊豆諸島、隠岐島、大分県・佐賀県・長崎県などの産地が知られている。

アステカ文明時代にも武器や祭祀用ナイフとして使われていた。アステカ帝国が黒耀石鉱脈を掌握していたことが帝国興隆の一要因だったと言う説もある。

講師は、アイヌ文化期に「何故女性にのみ黒耀石が副葬されたのか」と疑問を提示し、アイヌ語で「入れ墨=アンチビリ」とも偶に言うが、「アンチ、ビリ=黒耀石、傷」なので関係があるのではとの説(松村2004、児玉・伊藤1939)を紹介した。成人女性の入れ墨施術に十勝石を使ったのか、十勝石を装飾品として崇めたのか、いずれにせよ単純なものではあるまい。

帰宅後、「アイヌ語小辞典、アイヌ語集」(さんおん文学会1972)を紐解くと、「入れ墨=パシpash」「入れ墨する=ヌイエnuye」「黒耀石=アンチanchi」とあった。

 

◆拙宅の十勝石は何処へ行った

十勝で暮らした頃、上士幌町の農家圃場を借用して耐冷性現地選抜試験を実施していた折に、試験圃や居辺川から拾った十勝石が何処かにあったはずだと探し、玄関脇犬走の十勝石を写真に収めた。

この十勝石原石は、引っ越しの都度リンゴ箱に入れ持ち歩いた。太古の時代と同じように人類によって移動された石のカケラとなるのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょこっと散歩で恵庭再発見、(13)市民会館周辺(裏)

2024-10-12 13:15:25 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「山口県人恵庭開拓記念碑」「森林鉄道跡」「恵庭小学校開校百年碑」

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

 

今回は「市民会館周辺(裏)

恵庭市役所・市民会館裏の通りは「恵庭大通り」ですが、多くの人々は道路中央分離帯があることから通称「グリーンベルト」と呼びます。このグリーンベルトに立つのが、「山口県人恵庭開拓記念碑」です。

(1)山口県人恵庭開拓記念碑

山口県岩国和木地方から入植した人々は、明治44年に先人の苦労を偲び、偉業を称えて「厳国開墾記念碑」を上山口の天融寺境内に建立しました。その後、経年による損傷著しくなったため昭和31年現在地に再建し、「山口県人恵庭開拓記念碑」としたものです。碑名は岸信介による揮毫。また、昭和60年改修では、入植者氏名が刻まれた旧記念碑の台石を基礎石として取り入れています。

(2)森林鉄道跡

恵庭を森林鉄道が走っていました。恵庭小学校傍の斜めの道路がその痕跡です。昭和30年頃まで、戦中戦後の復興を支える木材需要に対応して漁川上流から木材を搬出ししたのですね。上流には、インクライン装置があったそうです(インクラインの滝の名を遺す)。

漁川上流は江戸中期宝暦年間に飛騨屋久兵衛が伐採事業を請け負ったことでも知られています。林業は恵庭発展に寄与した産業だったと言えます。

(3)恵庭小学校「開校百年」碑

正門を入った右側、櫟や桜に囲まれて「開校百年」碑(開校百年記念事業協賛会)があります。大安寺境内に9坪の校舎を建設(私立洞門小学校)したのが、恵庭小学校の創始であったと刻まれています。

(4)電子基準点

正門を入って記念碑の反対側(駐車場脇)に国土地理院が管理する全球測位システムGlobal Navigation Satellite System が置かれています(全国約1,700ヶ所、道内174ヶ所のひとつ)。三角点としても利用されています。

基本電子基準点No.960522 電子基準点は、地上約2万kmの高さを周回するGPS衛星が発信する電波を受信し、この地点の位置を観測するためのものです。受信データは、つくば市にある国土地理院に毎日転送しています。この受信データは、土地の測量・地図の作成、地震・火山噴火予知の基礎資料に利用されます。国土地理院」の説明プレートが付いています。衛星はUSAの「GPS」、日本の「みちびき」などを活用。システムは平成5年(1993)に活用が始まり、平成14年からは基準点の1秒ごとのデータが解放されています。4衛星からのデータを解析することで100万分の1(10kmで1cm)の誤差だと言うから驚きです。 

隣接する基準点は千歳市の支笏湖小学校にありますよ。

明治時代に開校した恵庭小学校の一隅に、新旧のシンボルが存在することは面白いですね。貴方は、恵庭の基準点(高さ5mの電波塔)が此処にあることを知っていましたか? 見たことがありますか?

 

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の碑-1,先人の偉業を讃える「開拓の碑」2014.11.15

*恵庭の森林鉄道(歴史の道散策会2019 えにわ)2019.6.20

*恵庭の碑-12,恵庭小「開校百年の碑」と恵庭北高「拓学の碑」2015.9,25

*恵庭の歴史びと-1「飛騨屋久兵衛」2023.5.16

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょこっと散歩で恵庭再発見、(12)本田明二の「道標-けものを背負う男」

2024-10-11 10:38:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

めぐみの森公園で本田明二の「道標-けものを背負う男」に出会う。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

 

今回は、恵み野北6丁目にある「めぐみの森公園

「めぐみの森公園」(恵庭市恵み野北6丁目3-3)は、閑静な住宅地の中に在る恵庭市街区公園のひとつで(*市内には87ヶ所あり、子供らの遊具が置いてある場合が多い)、樹木が多く静寂感漂う小さな公園です。そんな街中の小さな公園に本田明二の代表作とも言える彫刻「道標-けものを背負う男」が置かれています。

彫像には「M. HONDA ‘86」のサインがあり、本田明二が昭和61年(1986)制作した作品であることが分かります。

長身の逞しい男が仔馬とみえる「けもの」をかつぎ、遠い視線で立っています。荒々しくもあり一見武骨な彫像にみえますが、実に技巧的で繊細です。本田明二は晩年の10年間、「けものと男」をモチーフにバリエーションある作品を多数制作していますが、これはその中のひとつ、本田明二の真骨頂とも言える作品です。

近くの住民でも作品の存在に気付かない方が多いのではないでしょうか。是非、この小さな公園を探し求めて足を運び、作品の前で足を止めて欲しい。地域住民の小さな生活空間に芸術性高い作品が密かに佇んでいるなんて、なんと素晴らしいことではありませんか。

芸術の森や湖畔の美術彫刻群も良いですが、住宅街の小さな公園にそっと彫像が置かれている。そんな街に暮らしたいですね

ちなみに、今回のシリーズで訪れた島松沢の「寒地稲作この地に始まる碑」(中山久蔵の肖像と稲穂をもった三人の農家女性像が刻まれたレリーフ)も本田明二の制作です。

 

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の彫像-12,本田明二の「道標―けものを背負う男」 2014.11.18

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょこっと散歩で恵庭再発見、(11)恵庭市立図書館

2024-10-09 09:45:30 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

図書館で「鈴木吾郎」「中村矢一」「山名常人」作品に触れる。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「恵庭市立図書館

恵み野中央公園の一角にある、恵庭市立図書館にやって来ました。半円形型鉄筋コンクリート造一部2階建の特徴ある建物です。平成4年(1992)に完成・開館した本館は、「北海道赤レンガ建築賞」「日本図書館協会建築賞」「公共建築賞北海道地区優秀賞」など受賞している機能を備えた図書館です。この建物は「読書のまち恵庭」の中心的な役割を果たしていて、多くの市民が利用しています。

恵庭市は平成12年(2000)全国に先駆けて「ブックスタート」を開始しました。ブックスタートとは、赤ちゃんとその保護者に絵本を贈り、絵本を介して心ふれあうひとときを持つきっかけをつくる活動で(発案者は絵本コンサルタントのWendy Cooling)、現在は全国自治体の約60%が実施しているそうです。その他にも、ボランテイアによる「読み聞かせ」「本のリサイクル」「各種イベント」が実施されるなど、読書のまちづくりが進んでいます。

ちなみに、恵庭市のカントリーサインは「恵庭のシンボル恵庭岳を背景に、色鮮やかな花に囲まれながら本を読んでいる女の子」がデザインされたものですね(写真)。

さて今回は、図書館に来たついでに図書館中庭まで足を延ばしてみましょう。芝生の中庭には、鈴木吾郎の若い女性像「Yuka17」「ふえ」、中村矢一の鉄製モニュメント「望」が燦燦とした陽光を受け立っています。また、駐車場脇に立つ山名常人の彫刻「進取の像」にも足を止めてみましょう。

その他にも、鈴木吾郎の「Yuka」「女・風髪」や中村矢一の「はるかぜ」が設置されています。何処にあるか探してみませんか。こんな芸術作品が図書館にあったのだと驚くかもしれません。

また、時間があれば、図書館脇にある恵み野中央公園の小山に登ってみて下さい。そこで貴方は「三角点」を発見するでしょう。

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の彫像-2,恵庭市立図書館にある「鈴木吾郎」4作品 2014.10.6

*恵庭の彫像-3,恵庭市立図書館にある山名常人「進取の像」と「中村矢一」彫金2点2014.10.7

*恵庭の「三角点」探訪(恵み野編) 2016.5.8

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする