豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

「あじさい」の花変化、恵庭の花-38

2024-10-22 10:45:41 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

アジサイの老化現象?

アジサイの名前を知ったのは子供の頃だったと思う。生家が奥伊豆の山奥にあったので、子供の頃は野山を駆け巡っていた。「これは何という花?」自然の中で子供の興味は尽きることを知らない。そんな子供に、「アジサイだよ」誰もが親切に教えてくれた。いま思えば、それは「ガクアジサイ」であるが、天城山系には野山のあちこちに自生していた。

時を経て学生の頃、「シーボルトは日本植物誌の中で、アジサイに妻(楠本 滝Otaksan)の名前を付けて学名Hydrangea otaksa と紹介している」と、植物学の教授から聞いた。いや、朋友羽柴兄の蘊蓄だったかも知れない。アジサイを見るたびにこの逸話を思い出す。牧野富太郎がこのことを不快に感じたとしても、シーボルトとお滝さんの悲しいロマンスと解釈しようがどちらでも良い。

そして、今から20年ほど前になるが、北海道で家裏に3株の「あじさい」を植えた。早生、中生、晩生の苗木を選んだが、品種名は覚えていない。

「アジサイは梅雨のころ咲く」と雨に濡れたイメージが強かったが、北海道では開花が8月になってしまう。「梅雨にアジサイ」の映像は儚く崩れてしまった。中でも晩生種は十分花を着けない年があったのと生育領域が大きくなったため掘り起こして淘汰した。現在は2株のみだが、花後の剪定と数年おきの切り戻しで毎年大きな手毬のような花を着ける。

拙宅アジサイの花色は薄青色だが、秋になると次第に赤みを帯びて来る。しかし今年は特別で、9月末から10月に入ると濃い赤紫色に変化した。花が終わったら例年のごとく剪定で切り詰めようと計画しているが、切るのが忍びなくてまだ花を眺めている。

アジサイは土壌のpHによって花色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われていることは知っていたが、今年は初めて見る濃赤紫色に変化した。従来の概念とは、どうも違う現象ではないか。

 (写真は2024.10.10撮影)

◆花の老化?

調べていたら、「花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていく。さらに日が経つと有機酸が蓄積されて行くため、青色の花も赤味を帯びるようになる。これは花の老化によるものであり・・・」(武田幸1996)とあるではないか。

老化、老化・・・・なるほどと我が身を振り返った。

今年、初雪の声を聴く頃になってもアジサイが健在なのは、夏が長かったからだろう。秋咲きの菊の開花も遅れている。

 

◆アジサイ(紫陽花、学名 Hydrangea macrophylla

アジサイ(紫陽花、学名 Hydrangea macrophylla)は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木(樹木図鑑や北海道の森林植物図鑑ではユキノシタ科アジサイ属)。一般に見られるのは原種ガクアジサイから改良した園芸品種で、6~7月にかけて開花し、白、青、紫または赤色の萼が大きく発達した両性花(飾り花)をもつ。ガクアジサイではこれが花序の周辺部を縁取るように並ぶが、改良種は飾り花が手毬のようになったものが多い。わが家のアジサイも花序が球形の「手まり咲き」アジサイである。

ガクアジサイの自生地は、房総半島・伊豆半島・伊豆諸島の沿岸など。ところが北海道にも、鮮やかな瑠璃色の花が美しい「エゾアジサイ」が生育しているそうだ(北海道の森林植物図鑑1976)。

下田公園(下田城址)には約15万株、大阪府民の森、神戸市立森林植物園、舞鶴自然文化園に約5万株のアジサイが植えられていると言う。下田市の花。

紫陽花に 雫あつめて 朝日かな  加賀千代女

紫陽花や 雨に化けたる 雨上がり  正岡子規

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遠目には霞か煙か?「スモークツリー」、恵庭の花-37

2024-10-20 13:24:36 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

庭木にも、運命と言うか夫々の歴史がある。

拙宅の「スモークツリー」は、「苗木を買って帰ったら、主人にこんなもの何処に植えるのだと反対されたので、貰ってくれませんか」との経緯で、わが家にやって来た。10年位前のことだったろうか。

「スモークツリー」、初めて聞く名前だった。

 (写真上:2015撮影)

 

◆スモークツリー和名:ハグマノキ、ケムリノキ、カスミノキ、学名:Cotinus coggygria

スモークツリーは英名Smoke treeで、和名は「ハグマノキ(白熊の木)」「ケムリノキ」「カスミノキ」など。学名はCotinus coggygria、ウルシ科ハグマノキ属の落葉高木。樹高3~8m、開花期は6~8月(初夏になると小さな花を咲かせ、花後に花柄がスモーク状にのびる)、分布地は南ヨーロッパ、ヒマラヤ、中国だと言う。

雌雄異株で、雌木の枝先につく花序は長さ約20cmで多数枝分かれし、花後に伸びた花柄が遠くからは煙がくすぶっているように見える(雄木は花序が短く、煙状にはならない)。

花の咲いた後の花柄が糸状に伸び、これが遠目に霞や煙のように見えることから英名のスモークツリーの名で親しまれている。ハグマ(白熊)とはヤクのことで、和名は花後の姿をヤクの白い毛でつくる払子(ホッス、仏具)に見立てたもの、とある。秋には紅葉する。(参照:鈴木庸夫「樹木図鑑/日本文芸社」など)

 

 (写真上:2024..10.11撮影、写真下:2024.11.20撮影)

◆毎年刈り込む

拙宅の庭には高木を育てる程の空間がない。隣家の迷惑にならぬよう樹高を抑える管理をしている。雪の降る前に枝元の芽を一つ残して切り戻す。地表に這いつくばった樹形になり、翌年は新梢が1m位伸びるが伸びすぎるのは選定して抑える。

枝を切ると白い汁が出て香りが漂う。葉表は光沢のある紫がかった濃緑、裏は白っぽい。新梢の先端が赤みを帯びている。

◆10月初めまで花柄を楽しむ

初夏に咲く花木の代表と教科書にあるが、10月になっても花後の赤い花柄が風に揺れて美しい(写真は10月11日撮影)。最低気温が5℃前後になって、恵み野でも落葉樹が紅葉し、落ち葉が風に舞い始める頃、スモークツリーも紅葉が始まった。赤みの花柄も色が褪せて(写真は10月20日撮影)、枯れたものは風に吹かれ地表を転がって行く。

 

拙宅のスモークツリーは、花柄の赤い園芸品種だったのだ(緑がかった白色以外に、ピンクや赤の園芸種がある)。赤い花柄なれどもハグマ(白熊)と呼んで良いのかな?

ある日突然やって来た「スモークツリー」だが、今ではすっかり根づいて、わがもの顔にテリトリーを広げている。

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恵庭市長寿大学公開講座を聴講する

2024-10-18 13:10:11 | 講演会、学成り難し・・・

大塚宜明「物言わぬ石のカケラから知る北海道の歴史」

10月の或る日、標記講座を聴講。講師は札幌学院大学人文学部特任講師。

講師は、「考古学とは何か?」と総論から始め、次いで北海道の続縄文文化から擦文文化、オホーツク文化、アイヌ文化時代まで狩猟具や加工具として使われた十勝石(黒耀石)をテーマに話された。十勝石は現在もペンダントなど装飾品として加工販売され、黒く光り輝く石として知られる身近な存在である。

講演のポイントは、以下の三点

(1)北海道は黒耀石の宝庫

「白滝」「置戸」「十勝(上士幌・美蔓)」「赤井川」が主な産出地。石狩低地帯の遺跡からも発掘されているが、産地は遠く離れている。このことは当時既に人的交流があったことの証しであると解説。

(2)蛍光X線分析で黒耀石産地を推定

産地ごとに化学成分の違いがあることを利用して、黒耀石の流通形態を解明した。北海道内だけでなく、東北地方やサハリンまでの広がりがあった。

(3)黒耀石の利用方法が変化

旧石器~擦文までは「狩猟具、加工具」としての利用だったが、続縄文後半、擦文、アイヌ文化期の間に利用方法が大きく変化する。アイヌ文化期に入ると、女性墓副葬品など儀式利用が多い(背景には鉄器の導入)。

黒耀石の利用方法の変化が、時代や社会情勢に応じた人類の歴史の大きな変動を映し出していると結んだ。物言わぬ石のカケラからも北海道の歴史を知ることが出来る、これが考古学研究の醍醐味。何気ない自然の物証にも目を向けてほしいと言いたいのだろう。

講演後、内容はむしろ「十勝石(黒耀石)が語る北海道の歴史」だな、と勝手に思った。

 

◆さて、十勝石(黒耀石)であるが、

黒耀石は、流紋岩質マグマが噴出した時に、急激に冷やされガラス質になることで生じるのだと言う。従って、急冷される特定の条件を供える場所でしか産出しない。北海道の産出地は今でも冷涼な地域、当時はもっと寒冷だったのだろう。勿論この条件は北海道だけではないので、黒耀石は世界各地で産出する。

日本では、北海道以外にも長野県霧ヶ峰周辺、静岡県伊豆天城、熱海市上多賀、神奈川県箱根、伊豆諸島、隠岐島、大分県・佐賀県・長崎県などの産地が知られている。

アステカ文明時代にも武器や祭祀用ナイフとして使われていた。アステカ帝国が黒耀石鉱脈を掌握していたことが帝国興隆の一要因だったと言う説もある。

講師は、アイヌ文化期に「何故女性にのみ黒耀石が副葬されたのか」と疑問を提示し、アイヌ語で「入れ墨=アンチビリ」とも偶に言うが、「アンチ、ビリ=黒耀石、傷」なので関係があるのではとの説(松村2004、児玉・伊藤1939)を紹介した。成人女性の入れ墨施術に十勝石を使ったのか、十勝石を装飾品として崇めたのか、いずれにせよ単純なものではあるまい。

帰宅後、「アイヌ語小辞典、アイヌ語集」(さんおん文学会1972)を紐解くと、「入れ墨=パシpash」「入れ墨する=ヌイエnuye」「黒耀石=アンチanchi」とあった。

 

◆拙宅の十勝石は何処へ行った

十勝で暮らした頃、上士幌町の農家圃場を借用して耐冷性現地選抜試験を実施していた折に、試験圃や居辺川から拾った十勝石が何処かにあったはずだと探し、玄関脇犬走の十勝石を写真に収めた。

この十勝石原石は、引っ越しの都度リンゴ箱に入れ持ち歩いた。太古の時代と同じように人類によって移動された石のカケラとなるのだろうか。

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(13)市民会館周辺(裏)

2024-10-12 13:15:25 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「山口県人恵庭開拓記念碑」「森林鉄道跡」「恵庭小学校開校百年碑」

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

 

今回は「市民会館周辺(裏)

恵庭市役所・市民会館裏の通りは「恵庭大通り」ですが、多くの人々は道路中央分離帯があることから通称「グリーンベルト」と呼びます。このグリーンベルトに立つのが、「山口県人恵庭開拓記念碑」です。

(1)山口県人恵庭開拓記念碑

山口県岩国和木地方から入植した人々は、明治44年に先人の苦労を偲び、偉業を称えて「厳国開墾記念碑」を上山口の天融寺境内に建立しました。その後、経年による損傷著しくなったため昭和31年現在地に再建し、「山口県人恵庭開拓記念碑」としたものです。碑名は岸信介による揮毫。また、昭和60年改修では、入植者氏名が刻まれた旧記念碑の台石を基礎石として取り入れています。

(2)森林鉄道跡

恵庭を森林鉄道が走っていました。恵庭小学校傍の斜めの道路がその痕跡です。昭和30年頃まで、戦中戦後の復興を支える木材需要に対応して漁川上流から木材を搬出ししたのですね。上流には、インクライン装置があったそうです(インクラインの滝の名を遺す)。

漁川上流は江戸中期宝暦年間に飛騨屋久兵衛が伐採事業を請け負ったことでも知られています。林業は恵庭発展に寄与した産業だったと言えます。

(3)恵庭小学校「開校百年」碑

正門を入った右側、櫟や桜に囲まれて「開校百年」碑(開校百年記念事業協賛会)があります。大安寺境内に9坪の校舎を建設(私立洞門小学校)したのが、恵庭小学校の創始であったと刻まれています。

(4)電子基準点

正門を入って記念碑の反対側(駐車場脇)に国土地理院が管理する全球測位システムGlobal Navigation Satellite System が置かれています(全国約1,700ヶ所、道内174ヶ所のひとつ)。三角点としても利用されています。

基本電子基準点No.960522 電子基準点は、地上約2万kmの高さを周回するGPS衛星が発信する電波を受信し、この地点の位置を観測するためのものです。受信データは、つくば市にある国土地理院に毎日転送しています。この受信データは、土地の測量・地図の作成、地震・火山噴火予知の基礎資料に利用されます。国土地理院」の説明プレートが付いています。衛星はUSAの「GPS」、日本の「みちびき」などを活用。システムは平成5年(1993)に活用が始まり、平成14年からは基準点の1秒ごとのデータが解放されています。4衛星からのデータを解析することで100万分の1(10kmで1cm)の誤差だと言うから驚きです。 

隣接する基準点は千歳市の支笏湖小学校にありますよ。

明治時代に開校した恵庭小学校の一隅に、新旧のシンボルが存在することは面白いですね。貴方は、恵庭の基準点(高さ5mの電波塔)が此処にあることを知っていましたか? 見たことがありますか?

 

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の碑-1,先人の偉業を讃える「開拓の碑」2014.11.15

*恵庭の森林鉄道(歴史の道散策会2019 えにわ)2019.6.20

*恵庭の碑-12,恵庭小「開校百年の碑」と恵庭北高「拓学の碑」2015.9,25

*恵庭の歴史びと-1「飛騨屋久兵衛」2023.5.16

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(12)本田明二の「道標-けものを背負う男」

2024-10-11 10:38:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

めぐみの森公園で本田明二の「道標-けものを背負う男」に出会う。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

 

今回は、恵み野北6丁目にある「めぐみの森公園

「めぐみの森公園」(恵庭市恵み野北6丁目3-3)は、閑静な住宅地の中に在る恵庭市街区公園のひとつで(*市内には87ヶ所あり、子供らの遊具が置いてある場合が多い)、樹木が多く静寂感漂う小さな公園です。そんな街中の小さな公園に本田明二の代表作とも言える彫刻「道標-けものを背負う男」が置かれています。

彫像には「M. HONDA ‘86」のサインがあり、本田明二が昭和61年(1986)制作した作品であることが分かります。

長身の逞しい男が仔馬とみえる「けもの」をかつぎ、遠い視線で立っています。荒々しくもあり一見武骨な彫像にみえますが、実に技巧的で繊細です。本田明二は晩年の10年間、「けものと男」をモチーフにバリエーションある作品を多数制作していますが、これはその中のひとつ、本田明二の真骨頂とも言える作品です。

近くの住民でも作品の存在に気付かない方が多いのではないでしょうか。是非、この小さな公園を探し求めて足を運び、作品の前で足を止めて欲しい。地域住民の小さな生活空間に芸術性高い作品が密かに佇んでいるなんて、なんと素晴らしいことではありませんか。

芸術の森や湖畔の美術彫刻群も良いですが、住宅街の小さな公園にそっと彫像が置かれている。そんな街に暮らしたいですね

ちなみに、今回のシリーズで訪れた島松沢の「寒地稲作この地に始まる碑」(中山久蔵の肖像と稲穂をもった三人の農家女性像が刻まれたレリーフ)も本田明二の制作です。

 

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の彫像-12,本田明二の「道標―けものを背負う男」 2014.11.18

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(11)恵庭市立図書館

2024-10-09 09:45:30 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

図書館で「鈴木吾郎」「中村矢一」「山名常人」作品に触れる。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「恵庭市立図書館

恵み野中央公園の一角にある、恵庭市立図書館にやって来ました。半円形型鉄筋コンクリート造一部2階建の特徴ある建物です。平成4年(1992)に完成・開館した本館は、「北海道赤レンガ建築賞」「日本図書館協会建築賞」「公共建築賞北海道地区優秀賞」など受賞している機能を備えた図書館です。この建物は「読書のまち恵庭」の中心的な役割を果たしていて、多くの市民が利用しています。

恵庭市は平成12年(2000)全国に先駆けて「ブックスタート」を開始しました。ブックスタートとは、赤ちゃんとその保護者に絵本を贈り、絵本を介して心ふれあうひとときを持つきっかけをつくる活動で(発案者は絵本コンサルタントのWendy Cooling)、現在は全国自治体の約60%が実施しているそうです。その他にも、ボランテイアによる「読み聞かせ」「本のリサイクル」「各種イベント」が実施されるなど、読書のまちづくりが進んでいます。

ちなみに、恵庭市のカントリーサインは「恵庭のシンボル恵庭岳を背景に、色鮮やかな花に囲まれながら本を読んでいる女の子」がデザインされたものですね(写真)。

さて今回は、図書館に来たついでに図書館中庭まで足を延ばしてみましょう。芝生の中庭には、鈴木吾郎の若い女性像「Yuka17」「ふえ」、中村矢一の鉄製モニュメント「望」が燦燦とした陽光を受け立っています。また、駐車場脇に立つ山名常人の彫刻「進取の像」にも足を止めてみましょう。

その他にも、鈴木吾郎の「Yuka」「女・風髪」や中村矢一の「はるかぜ」が設置されています。何処にあるか探してみませんか。こんな芸術作品が図書館にあったのだと驚くかもしれません。

また、時間があれば、図書館脇にある恵み野中央公園の小山に登ってみて下さい。そこで貴方は「三角点」を発見するでしょう。

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の彫像-2,恵庭市立図書館にある「鈴木吾郎」4作品 2014.10.6

*恵庭の彫像-3,恵庭市立図書館にある山名常人「進取の像」と「中村矢一」彫金2点2014.10.7

*恵庭の「三角点」探訪(恵み野編) 2016.5.8

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(10)大安寺の「金剛力士像」「皇軍戦没者招魂供養之碑」

2024-10-08 11:41:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭開拓所縁の古刹、天瑞山大安寺に立ち寄る。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「恵庭の古刹、天瑞山大安寺」です。

島松沢から札幌新道(室蘭街道、旧旧国道36号)を下り市街地に入る。茂漁川を渡り少し進むと、右手に「豊栄神社」第一鳥居、左手に「豊栄神社」山門が目に入ります。「豊栄神社」「大安寺」とも開拓者たちが開創・開山したもので、この界隈は最初に形成された市街地だったのでしょう。

今回立ち寄る大安寺は禅宗(曹洞宗)の寺。入植者の「子弟教育」「心の拠り所」として建立されました。明治20年に中山久蔵が用地を寄付し、苫小牧中央院の加藤金翎師が寺小屋を建て教育にあたったのが始まりです(私立洞門小学校、恵庭小学校の前身)。明治21年には山森丹宮、中山久蔵から境内地の寄進を受け、苫小牧中央院の漁村出張説教所として開山、現在に至ります。

ちなみに、日本曹洞宗祖師は道元、教義は「只管打坐」(しかんたざ)、ひたすら座禅することが修行であるとしています。

 

先ずは山門の「金剛力士像

像容は上半身裸形で、筋骨隆々の木彫です。門に向って右の阿形像(あぎょう、開口の像)は怒りの表情を顕わにし、左の吽形像(うんぎょう、口を結んだ像)は怒りを内に秘めた表情をしています。手に持っているのは金剛杵(こんごうしょ)。

抑制のきいた表情ながら逞しく、圧倒されるような作品。作者は不明ですが、大事に保管してほしい恵庭の彫像の一つと言えます。

ちなみに、「阿」は口を開いて出す音声、「吽」は口を閉じて出す音声。梵字(梵語サンスクリット語は古代インド・アーリア語)の12字母の初めと終わり(万物の初めと終わり、万物の全てを象徴する)に由来するのこと。「阿吽の呼吸」と言う言葉がありますよね。

 

山門を潜ると右手に「皇軍戦没者招魂供養之碑」が建っています。

上位に五芒星、中央に「皇軍戦没者招魂供養の碑」の文字、下端に錨と鎖が刻まれています。第七師団長 陸軍中将 佐藤子之助の書。五芒星は旧日本陸軍、錨は海軍の象徴。太平洋戦争敗戦でこの種のマークは削られることが多かったが、この碑では原形をとどめています。建立主催者(郷軍第一班、大安寺)、後援(柏木青年分団、漁青年分団)、建設奉賛会(総裁会長菊池政之、副会長高野俊治、理事林愛助、福田幸雄、会計中村作蔵、ほか委員29名)、特別賛助者(林愛助ら15名)、賛助者(中村恒三郎ら23名)、正会員(福田幸雄ら66名)の氏名が刻まれています。

碑の建立は昭和9年。時は、満州事変(S6~)、犬養首相暗殺(5.15事件 S7)、国際連盟脱退(S8)と連なる激動との時代。日本は、日中戦争・第二次世界大戦への流れの中にありました。

 

狭い境内ですが、「開山勅特賜性海慈船禅師大休悟由大和尚之碑」「開創月海良光大和尚之碑」「開基山森丹宮の墓碑」「六地蔵」などがあり、一瞬の静寂に浸ることが来ます。ああ此処から、恵庭の初等教育が始まったのかと思いを巡らしながら、本堂前の老樹を見上げるのでした。

 

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の寺-2,恵庭の古刹,禅宗(曹洞宗)の寺 「天瑞山大安寺」2015.2.23

*恵庭の彫像-14,大安寺山門に立つ「金剛力士像」2015.4.13

*恵庭の碑-5,日清・日露戦争の戦没者を祀る供養塔「忠魂碑」2014.12.9

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(9)島松沢から札幌本道を行く

2024-10-06 11:08:26 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

島松沢から札幌本道(旧旧国道)を大安寺まで

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「島松沢から札幌本道を行く」です。

島松沢で「旧島松駅逓所(国指定史跡)」「寒地稲作この地に始まる碑」「クラーク博士記念碑」「駐蹕處碑」「中山久蔵翁頌徳記念碑」を訪れ、駅逓所裏道のトンネルを抜けると「島松軟石採掘所跡」が観られます(恵庭側にも採石所跡があります。

島松軟石は4万年前の支笏カルデラで発生した大規模火砕流による溶結凝灰岩で、明治から昭和初期まで納屋、牛舎、サイロなどの建材として使われました。島松軟石はピンク色の軽石を含むのに対し、札幌軟石は白い軽石を含むそうです。

 

さて、島松沢の両岸は急峻で九十九折の道だったと松浦武四郎「西蝦夷日誌」などに記されています。現在は国道や高速道路で掘削されていますが、古くは山越えであったようでその面影が偲ばれます。

島松川の右岸にあった「六里標」を出発点とし、山越えを想像しながら坂を上り、「札幌本道(室蘭街道、旧旧国道)」に沿って恵庭市街地へ進むことにしましょう。

道すがら、「聖蹟記念碑(後方記念碑)」「七里標跡(現存しない)」「モニュメント翠光」「松浦武四郎歌碑」などを見ることが出来ます。

また、恵庭橋欄干に「クラーク博士通り」「青年よ大志をいだけ」のプレートを見つけ、貴方はきっと驚かれることでしょう。クラーク博士の馬上姿を想い感傷に浸ることが出来ます。

 

以下の拙ブログが参考になるでしょう。

*恵庭の古道-7 札幌本道(室蘭街道)2022.12.27

*恵庭の碑-25 茂漁川「モニュメント翠光」の作者は、誰? 2022.3.5

*恵庭の「クラーク博士通り」2022.2.17

*恵庭の碑-20 茂漁川河川緑地の「モニュメント翠光(すいこう)」2018.11.6

*恵庭の碑-19 恵庭に建立された「松浦武四郎歌碑」2018.11.4

*恵庭の古地図-1 室蘭街道の「七里標」「八里標」と「恵庭村道路元標」2015.8.18

*恵庭の碑-8 行幸記念の碑 2014.12.22

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(8)旧島松駅逓所

2024-10-05 13:48:23 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

陸の玄関口、島松沢を訪れる。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「旧島松駅逓所」(島松沢)です。

国道36号線から島松沢へ降りてみましょう。島松川の左岸に「旧島松駅逓所(国指定史跡)」、中山久蔵翁を讃える「寒地稲作この地に始まる碑」、クラーク博士別離の地を示す「クラーク博士記念碑」、「島松軟石採石場跡」などを見ることが出来ます。また、島松川右岸は最初に島松駅逓が置かれた場所ですが現在は民家が建ち、明治18年建立の「馬頭観音 中山氏」等から当時を偲ぶことが出来ます。

この地は札幌から6里(約24km)、中山久蔵が入植し水稲「赤毛」の栽培に成功した場所として知られています。また、札幌本道開通後は交通の要所でした。恵庭にとっては陸の玄関口と言える場所、松浦武四郎やクラーク博士が通過した歴史の道でもあります。

クラーク博士が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の言葉を残したのは此の地。それは、北広島か恵庭か? 拙ブログ2023.7.22「恵庭の歴史びと-3 中山久蔵」に整理したので、興味ある方は参照下さい。

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

   

参照 1)恵庭の歴史びと-3「中山久蔵」(拙ブログ2023.7.22)

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恵庭の碑-30, 時計塔「昇華の刻」碑

2024-05-01 09:46:48 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

時計塔「昇華の刻」碑

 

写真は2014.10.4撮影

 

桜町多目的広場に立つ時計塔「昇華の刻」(写真)。平成22年(2010)恵庭三四会が創立34周年を記念して建立・寄贈したもの。大理石の偏四角錐がスチールの時計塔を支える様に置かれている。多目的広場でサッカーに興ずる子供らを見守っている。

正面台座には「昇華の刻」の文字、裏には「恵庭三四会34周年記念事業 平成二十二年七月 会員34名の名前」が刻まれている。「三四会」と「創立34周年」「34名の会員氏名」、何と洒落が効いていることか。

「昇華」とは、①個体が液体を経ず直接気体になること、②物事が一段上の状態に高められることなどの意。とすれば、「昇華の刻」とは「一段上の状態に高められる時刻」と言うことになろうか。子供らに高揚の刻を告げる時計塔。

恵庭市桜町界隈へは最近行っていないが、時計塔は今も健在也や?

 

*恵庭三四会は、昭和52年(1977)に恵庭市の30代、40代の経営者が集い、会員の連携・協調・資質向上を図ると共に恵庭市の発展に大いに貢献することを目的に発足した団体。毎年、納涼花火大会、少年野球大会、清掃活動、慈善事業など活動している。

*市民会館の前庭に立つ「平和の像」も恵庭三四会が寄贈した野外彫刻。会員の皆さんは、毎年彫像の清掃作業を行い、子供らの健やかな成長と恵庭市の発展、平和を願っている(参照:拙ブログ2014.10.17、恵庭の彫像-10 恵庭市民会館前庭の「平和の像」)

コメント (2)
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