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廃刊になった機関誌「十勝野」から、アルゼンチン追憶(その3)

2018-08-27 09:45:38 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

十勝農業試験場の職員親睦会(緑親会)が発刊していた「十勝野」という冊子がある。既に廃刊となっているが、昭和47年(1972)創刊で三十数年発行された(手元に創刊号から、平成9年発行の31号まで揃っている)。農業試験場の公的なことは「年報」「事業成績書」「研究報告」 等に残されるが、そこで活動した職員の日常や生き様については読み取ることが出来ない。反面、この親睦団体の機関誌「十勝野」は当時の職員の生活が生き生きと描かれ、今ともなれば極めて貴重な資料と言えよう。

この稿では、「十勝野」に掲載されたアルゼンチン関連記事を引用する。

当時十勝農業試験場は、アルゼンチン共和国への専門家派遣、研修生受け入れを行っていた。この事業は、日本政府がアルゼンチン共和国からの要請を受け、昭和53年(1978)から昭和59年(1984)までの7年間「アルゼンチン国の大豆育種に対する研究協力」プロジェクト(国際協力事業団)として実施したもので、JICAの技術協力の中では成功例と称えられるプロジェクトであった。開始当時の場長は中山利彦氏、大豆育種科長は砂田喜與志氏、派遣専門家は酒井眞次と土屋武彦研究職員。後に、中西浩氏が加わった。プロジェクト推進に多大な苦労と尽力された中山利彦、砂田喜與志の両氏は今や鬼籍に入る。

 

3.アルゼンチン研修員のことなど

機内サービスのスコッチを飲みながら、成田空港で買った推理小説を読んでいると、

「その事件の犯人を知っています。教えましょうか?」

スチュワーデスが声をかける。そんな言葉にのるものか、犯人が分かってしまってはブエノス・アイレスまでの24時間が退屈してしまう。スコッチのお代わりをしながら、今回も又長いフライトに耐えることになった。1984年3月のことである。

雪の十勝から、ニューヨーク、マイアミ、リマ、サンチャゴを経由してブエノス・アイレスに到着すると、夏の太陽が容赦なく降り注ぐ。日本とは季節と昼夜が全く逆なこの国は、確かに地球上で一番遠い国である。

しかし、アルゼンチンから輸入されたソルガム等の飼料を十勝の牛が食べ、芽室のスーパーにアルゼンチン産のエビやイカが並べられているのを見ると、果たして遠い国なのかと思う。アルゼンチンの穀倉地帯が世界の食糧基地として今よりもさらに重要になったとき、日本にとってアルゼンチンがもっと近い国になることは想像に難くない。

アルゼンチン国に対する大豆育種技術協力は、本年度で終了することになった。この7年間に調査教義ミッションが3回延べ10名、育種専門家延べ8名、育種以外の短期専門家延べ11名が派遣され、研修員10名が訪日した。

この間、育種技術の協力、育種組織体制の確立、大豆研究計画の策定、新品種「カルカラニャ」の育成、育種材料の蓄積と有望系統の作出など一応の成果が得られたものと確信する。これも偏に、日本およびアルゼンチン両国関係者の努力の賜物である。

十勝農試を訪れた研修員に対しご指導いただき、かつ心からのご交友をいただいた緑親会の諸兄に、関係者の一人としてお礼申し上げる。と同時に、彼らはアルゼンチンでの大豆育種の推進者として活躍し、十勝での生活を何よりも懐かしんでいることをお伝えしたい。

(1) 日本人の心を理解したネストル・パドレス氏

帰国後、育種センターの大豆科長として活躍。育種の実践家。帰国後結婚して2児の父。退職して農業関係の会社を設立。

(2) 合理的理論家、スワレス氏

現在育種センターの大豆科長。アルゼンチン大豆育種の中心的存在。帰国後修士。アメリカ留学の話もある。

(3) 小麦の育種を担うニシ

大豆科が独立した後、小麦育種の専任者として残り、現在全国小麦研究プログラムの調整官。今も、大きな体を前後に揺らしながら話しています。

(4) 感性豊かな美人育種家ノラ・マンクーソ

大豆育種サブセンターのペルガミノ農試で、大豆育種を一人で担っています。一段とスマートになって、実力派のミス。

(5) おしゃれなソミリアーナ氏

北西部のサルタ農試で豆類の育種責任者。努力家で知識も豊富。

(6) 髭のトマソ氏

南部のボルデナーベ農試で、麦類と大豆の育種科長。この地帯への大豆導入に努力している。

(7) ミシオネスの大人オリベリ氏

パラグアイ、ブラジルに近いアルゼンチン北東部の厳しい条件下での大豆を担う。

(8) シャイな真面目人ルイス・サリーネス氏

若手の育種家。おっとり型。帰国後に結婚の予定。新居の完成も間近。

(9) 真摯な紳士ラタンシー氏

全国大豆研究プログラムの初代調整官。小麦・大豆の二毛作、不耕起栽培の第一人者。

(10) 英国型紳士カブリーニ前場長

帰国後、脳梗塞で倒れ一時言葉も不自由だったが、現在は回復。

以上が十勝農試を訪れた人々の近況である。

パンパの試験圃場に立って、この7年間に積み上げられてきた育種材料の広がりや、育成品種の生育を眺めながら思うのであった。これらの大豆は、広大な沃野に育まれ、生産物は世界に輸出されて行くだろう。世界の飢えたる民のためにも。

ちょうど十勝で大豆の作付けがどんどん減少していた10年前のころ、大豆の育種に携わりながら、十勝農民のために、世界の飢えたる民のためにと大豆育種に執着していた頃を思い出していた。

引用:土屋武彦1984、十勝農業試験場緑親会発行「十勝野」第18号p43-44

 

◆研修修了時の研修生挨拶と30年後の再会(Luis A. Salines)

 

(写真は2002年、INTA Marcos Juarez 大豆研究室の前でSalines室長と)

 

「十勝野」掲載のアルゼンチン関連記事

(1)中山利彦1977:アルゼンチン雑感、「十勝野」第11号p25-28

(2)砂田喜与志1977、地球の裏側の農業国アルゼンチン共和国への旅、「十勝野」第11号p28-31

(3)Nestor L. Padulles 1978、別れに際して、「十勝野」第12号p56

(4)土屋武彦1979、アルゼンチン雑感、「十勝野」第13号p66-69

(5)Jorje E. Nissi 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p72-73

(6)Juan C. Suares 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p74-75

(7)土屋武彦1980、アルゼンチンの人々、「十勝野」第14号p73-77

(8)Nora Mancuso 1980、研修を終えて、「十勝野」第14号p86-87

(9)砂田喜与志1981、真夜中(真昼)の国際電話、「十勝野」第15号p29-32

(10)中西浩1981、十勝農試の思い出、「十勝野」第15号p76

(11)酒井眞次1983、アルゼンチンにて、パラナ川氾濫、「十勝野」第17号p36-37

(12)Nestol J. Oliveri 1983、日本の印象、「十勝野」第17号p57-58

(13)Juan C. Tomaso 1983、親愛なる友人の皆様へ、「十勝野」第17号p57-58

(14)土屋武彦1984、アルゼンチン研修員のことなど、「十勝野」第18号p43-44

(15)Luis A. Salines 1984、日本の印象、「十勝野」第18号p43-44

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えにわ学講座「武四郎と往く」、はまなす砂丘(長沼町)に立つ

2018-08-26 14:48:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

平成308月某日、えにわ学講座「武四郎と往く」(北海道150年 松浦武四郎の足跡を巡る、主催:恵庭市教育委員会)が開催された。講師は恵庭市郷土資料館学芸員大林千春氏。講師の解説を聞きながら松浦武四郎紀行足跡之碑(長沼町)、はまなす砂丘(長沼町)、イザリブト番屋(恵庭市)、茂漁川河川緑地(恵庭市)をバスで巡る行程であった。

台風20号が熱帯低気圧に変わり北海道を通過した余韻の雨が降る中、多くの参加者が長靴姿で、武四郎の蝦夷地踏査に思いを馳せた。本稿では、はまなす砂丘(長沼町)について触れる。

 

◆はまなす砂丘(長沼町)について

日本海の石狩湾から太平洋の苫小牧に広がる石狩低地帯(別名、札幌・苫小牧低地帯)は、今からおよそ1万年前には海の底であった。その後、海底火山などにより陸地が形成され、現在に至っている。このような内陸部に砂丘が存在するのは、海が次第に埋まり(海の後退)陸になって行く過程で砂丘が残された(残留砂丘、古砂丘)と考えられ、長沼町の「はまなす砂丘」もその一つであり、ハマナスなど海浜植物が多い。

長沼町では、市街地の南東にあたる長沼町東十線南十番地の古砂丘地帯約1haを貴重な自然遺産として保存している(郷土名所遺跡、平成3年指定)。保存されている土地はほぼ直角三角形で、雑木林と春先には冠水する低地(古砂丘の西側が湿地)がある。

はまなす砂丘(長沼町)の植物相については、五十嵐 博、長野 満、渡辺久昭、矢沢敬三郎氏らの詳細な調査報告があり(北方山草)、数百種の種類が確認されている。海浜植物、海岸草原植物、湿地植物など多様な植生が特徴的であるが、周囲が水田や畑地化されたことからオオハンゴンソウなど外来植物が群生化し、早急に対処が必要との指摘もある(松井 洋)。今回の訪問は植生観察が目的ではないので詳しくは観察していないが、ハマナス群落近くのオオアワダチソウ、セイタカアワダチソウの旺盛な群生は気にかかる。

◆武四郎上陸の地

さて、この場所は、陸地測量部(国土地理院)明治29年製版の「長都」(五万分の一)に重ねるとマオイトー(馬追沼)の東縁にあたる。武四郎の夕張日誌に「マオイトー(周囲三里余)に入り、左方ツカベツ(川口)を過ぎ水平(ヤムワッカヒラ)に至り清水あり。上陸す。」とあるが、江別から千歳川を遡ってきた武四郎が上陸した地点はこの場所ではないかと考えられている。武四郎は付近の木に、帰りの食糧を吊り下げて置き、陸路夕張方面を探索、数日後に此処へ戻って一泊し、和歌を詠んだのではないかと言う。

◆はまなす砂丘の「ハリギリ(針桐)、センノキ(栓の木)」

雨のため砂地を観察する余裕はなかったが、ハマナスは既に赤い実をつけていた。ハマナス群落の中に小さな案内標識が建っている。目についたのは標識脇の大木(写真)。カエデのような形の光沢ある葉が雨に濡れ、多数の白い花が目を引く。

「何という木ですか?」

一行の中に樹名を知る人はいなかった。

帰宅して、北海道の森林植物図鑑(北海道林務部監修1976)を開く。ハリギリ(センノキ)とある。ウツギ科の落葉、広葉、高木で、高さ25m、胸高直径1mにもなり、枝や幹に鋭いとげをつけ、成木になると樹皮は著しく縦裂する。葉は長さ、幅とも10-30cmあり、10-25cmの長柄をもち掌状に5-9裂し、裂片には荒い鋸歯がある。花序は当年生枝の先につき、花柄が数個ないし10数個あり、各々に径5mmの多数の花をつける。果実は径4-5mmの球形で、熟すと黒くなる。学名はKalopanax pictus Nakaiと記されている。

葉の形が天狗の団扇のような形をしているのでテングウチワと呼ばれることもあるらしい。日本各地(特に北海道)、中国、朝鮮、樺太、南千島に分布。材は適度な硬さで光沢があり、加工が容易なため家具などの加工に使用されている。また、若芽はタラの芽のように旬菜として食されると言う。

ハリギリは肥えた土地に自生するので、開拓時代にはこの木が開墾適地の目印だったとの言い伝えもある。アイヌ語ではアイウシニ(とげの多い木)と呼ばれ、丸木舟を作るのによく使われたらしい。

ハマナス砂丘にはカシワの木が多い。武四郎はカシワの木に帰路の食糧を吊るしておいたのか。それよりもハリギリの方が目立つ存在でなかったのか。ハリギリの大樹にその思いを込めて案内標識を建てたのではないかと、根拠もない要らぬ想像が膨らんだ。

見渡せばカシワ林の様相は原始の森というより第二次自然林。このハリギリも武四郎時代のものではないだろうと思いつつ・・・。

 

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廃刊になった機関誌「十勝野」から、アルゼンチン追憶(その2)

2018-08-25 13:14:40 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

十勝農業試験場の職員親睦会(緑親会)が発刊していた「十勝野」という冊子がある。既に廃刊となっているが、昭和47年(1972)創刊で三十数年発行された(手元に創刊号から、平成9年発行の31号まで揃っている)。農業試験場の公的なことは「年報」や「事業成績書」等資料に残されるが、そこで活動した職員の日常や生き様については読み取ることが出来ない。反面、この親睦団体の機関誌「十勝野」は当時の職員の生活が生き生きと描かれ、今ともなれば極めて貴重な資料と言えよう。

本稿では、「十勝野」に掲載されたアルゼンチン関連記事を引用する。

当時十勝農業試験場は、アルゼンチン共和国への専門家派遣、研修生受け入れを行っていた。この事業は、日本政府がアルゼンチン共和国からの要請を受け、昭和53年(1978)から昭和59年(1984)までの7年間「アルゼンチン国の大豆育種に対する研究協力」プロジェクト(国際協力事業団)として実施され、JICAの技術協力の中では成功例と称えられるプロジェクトであった。開始当時の場長は中山利彦氏、大豆育種科長は砂田喜與志氏、派遣専門家は酒井眞次と土屋武彦研究職員。後に、中西浩氏が加わった。プロジェクト推進に多大な苦労と尽力された中山利彦、砂田喜與志の両氏は今や鬼籍に入る。

 

2.アルゼンチンの人々

 アルゼンチンと言えば、一般的にはタンゴの国として、或いはまた限りなく広がるパンパ平原の国として思い出されるようである。事実、3年前の小生の認識もその域を出ていなかった。

 日本にとってアルゼンチンは何よりも遠く、彼の国で何が起ころうと地球の反対側に位置する我々には痛くもかゆくもないし、騒音に悩まされることもなかった。政府だって、頭を寄せ合って石油の輸入や自動車の輸出について論議するようなこともなかったし、ただお互いに挨拶を交わし、お天気の話でもすればよい間柄であった。

だから、アルゼンチンの姿が余り多く知られていなかったのも無理からぬことであるが、アルゼンチンはタンゴとパンパだけの国ではなかった。

 住んでいる人々は、南アメリカ特有の陽気さと暢気さを持つが、同時にヨーロッパ的な優雅さと高い知性を有していたし、人間の尊厳や精神の自由の尊さをよく認識した国民性を有するように思われた。

 アルゼンチンの2年間の生活で、多くの友人を得たことは何にもまして喜びである。

◆セニョリータ・モッシのこと

 彼女は大柄なイタリー系美人教師である。髪の毛は黒く、鼻が高く、肌はあくまで白かった。赤いコートの裾をひるがえして、車の運転席から降り立っては、わが家のブザーを押した。

「お元気?」

日本酒も緑茶も好きになって、わが家の息子たちのことを

「ヒデ!カツ!」「チャオ!インデイオ」「チャオ!ネグロ」と呼んだ。日焼けして真っ黒になった姿に愛情をこめて呼びかける。

マルコス・フアレスを離れるとき、彼女は試験場牧草地の滑走路まで見送りに来て、泣き腫れた瞳から大粒の涙を落した。包み込むような長い抱擁のあとつぶやいた。

「是非一度日本へ行ってみたい。またいつかきっと会えるわね。子供たちだけでも、もう一度アルゼンチンへ寄こしてね」

セスナ機の窓から、滑走路の脇にたつ彼女の赤いコートが、大勢の子供たちに囲まれていつまでも動かない姿が眺められた。旋回するセスナ機の窓を通して、白いハンカチが目に残った。

息子たちは2年間毎日、午前10時から12時まで彼女の家に通った。アルファベットの読み方も書き方も全く知らなかった子供たちが、スペイン語を書き、話、現地校の事業を受け、アルゼンチンの子供たちと同じように試験を受けたり、通知箋をもらったりするまでになったのも、全て彼女の力によるところが大きい。彼女との邂逅は、私たち家族にとって最大の宝である。

因みに、彼女は国立小学校の教師。ミセスであるが、教師に対しては全てセニョリータと呼ぶ。彼女の本名はマリア・イネス・モッシ。

◆レアーレ家の人々

隣町にレオネスという小さな落ち着いた町がある。私たちが住んでいたマルコス・フアレスから約17キロしか離れていない。レオネスは「小麦のまち」と呼ばれ、毎年全国小麦祭りが開催される。この小麦祭りでは、小麦の新品種や栽培法を紹介する研究発表会、農機具展示会、ミス小麦の選出、音楽祭など種々の催しが行われ、大統領の出席も見られる。街の入り口には小麦をかたどったアーチが建っていて、「ようこそ、レオネスへ」と書かれている。

このアーチより1区画ほど入ったところにレアーレ家がある。美しい長女のリリイさんは、ロサリオ大学で哲学を専攻しており、日本語がとても達者である。

「日本のお茶わんに塗るために、牛の骨粉を日本へ輸出しているのよ。あれ、知らなかった?」なんて、甘い声で話す。

アルゼンチンの若者たちの基準ではどうか分からないが、日本人の感覚では非常にきれいな可愛いお嬢さんである。彼女は1年間浜松の女子高校に留学した経験がある。

「1年間で、どうしてそんなに日本語が上手になったの?」

「うん、まだ上手でない。だけど、浜松では学校から帰ると毎日テレビを見ていたの。それで、これ何?これ何?と、テレビで覚える」

レオネス市と浜松市は交換留学生の制度があり、今年も日本の高校生がレアーレ家に寄寓している。

ご家族はご夫妻とお嬢さん2人、ご子息1人。大の日本贔屓である。子息のマルコ君は子供たちのサッカー仲間であったし、妻は奥様からエンパナーダの料理法を教授されていた。妹さんは来年度、マルコ君は四年後に留学の予定という。日本での再会を喜びたい人々である。

◆ナッチョ、ホセ、ギジェとパチャ

アルゼンチンの人々は、親しくなれば通常苗字や敬称を使わず、名前の呼び捨てか愛称で呼び合う。だから至る所で、「デブ」「ヤセッポ」「ハゲ」「ハナペチャ」などの言葉が氾濫する。前述のモッシ家でも、奥さんが旦那を

「フラッコー(ヤセッポさん)」と呼ぶ。

しかし、ご主人は頭髪が薄くなった恰幅の良い紳士だから

「どうして、ヤセッポさんなのですか?」と聞けば

「昔はもっとスマートだったのよ」ということになる。

昨年十勝農試へ研修に来ていたニシ室長の場合、ニシという姓でなくホルヘという名前で呼ぶ。秘書のマリア・マルタが

「ホルヘ!テレフォノ(電話ですよ)」

と呼ぶ。これを日本でやったらどうなるか。勇気ある緑親会の諸姉、上司に試みられたい。

また、話は少し違うが、挨拶の時お互いに相手の名前を呼ぶのは良いことだと思う。

「おはよう、ルイス!」

「元気かい、ジュデイ!」

なんとなく親しみを感じるではありませんか。

冒頭のナッチョ、ホセ、ギジェとパチャはわが家に頻繁に出入りしていた息子の友達である。ナッチョは息子たちより頭一つ大きく、大人の風格をしていた。教室では隣どうしで、宿題の面倒まで見てもらっていたらしい。

「ナッチョの答えを写しているのだろう?」と息子に言えば

「数学ではナッチョが俺の答えを写しているよ」

と澄ましたもの。彼は農業高校へ進学し、農業試験場へ勤務するのだと言う。彼の祖父はペルガミノ農試で小麦研究のコーデイネーターをしている。

ホセは顔立ちの整った子供だった。学校の近くに家があり、子供たちの集合場所のようになっていた。落ち着いていて大人の会話が出来る、面倒見の良いボスであった。魚釣りやサッカー、凧作りの先生である。

パチャは音楽教師の息子さんで、冬でも半ズボンを穿いていた。友達の少ない子供のようだったが、良く遊びに来ていた。郵便切手を集めているのを知って、今でも送ってくる。別れるとき、大きな声で泣いていた。

ギジエは眼をくりくりさせて、いつもおどけていた。下の息子が一番気を許していた友達の一人である。「教師の日」の先生への贈り物をする幹事役を一緒にやっていたのを思い出す。

その他にも多くの子供たちとの出会いがあった。サッカーの友達、プールでの友達、喧嘩した友達、このような多くの人との出会いが、子供たちの心の糧になったことだろうと信じたい。

◆スーテル神父

マルコス・フアレス市で日本語を話せる唯一のアルゼンチン人であった。大阪で13年間暮らしたそうだが、丁寧で静かな日本語を話す。

ワインの銘柄に「スーテル」という1級品があって、

「ワインはスーテルを飲みなさい」と言って、笑わしている。来年度の休暇には訪日の予定とのこと、十勝ワインを飲む機会がきっとあるだろう。

◆隣の人々のこと

右隣はスーパーマーケットのご主人。頭が禿げ上がった老紳士。毎日セーターを取り換えておしゃれを楽しんでいる。家の前に立って、道行く人々を眺めていた。弟が近くで電気器具と家具類を販売しており、こちらも頭が輝いていた。子供たちは彼らの事を「朝日」「夕日」と呼んでいた。

左隣には芸術学校と称する古い建物があり、管理人の老夫婦が住んでいる。老婦人は腰の曲がった小柄な感じで、ひっそりと暮らしていた。食事時にはトントンと肉をたたく音が聞こえてきた。その音は、「ああ今日もミラネッサ」と料理のメニューをうかがわせた。そして、土曜日と日曜日は劇団の仲間が集まって賑わいを見せていた。

道路を隔てた向かい側には、農場主のご家族が住んでいた。主人や奥さんは頻繁に農場へ出向いていたが、年寄夫婦は優雅な生活をしていた。老婦人は白髪で上品な顔立ち、清楚な婦人であった。

「日本はとても美しい国ですね。日本に関する本を読んでいるんですよ」

と話しかけてくる。日本旅行をしている友達から届いた絵葉書を私たちに見せながら、

「なんて素晴らしいんだろう。大変美しい」

と、金閣寺の写真を示す。

この町の人口は18,000人、芽室町と同じくらいの町だが、休暇に日本旅行を楽しんできたと言う人々に度々話しかけられた。経済大国と呼ばれる日本だが、長期休暇を取って南米まで旅行する人が何人いるだろう。生活に対する心のゆとりと経済のゆとりはまだ我々にない。

日本人がアルゼンチンを知る以上に、この国の人々は日本の事を知っている。それは、店頭に氾濫するカメラや電気製品、時計、オートバイや自動車の力が大きいのは確かだが、原爆記念日にはその映像をテレビに流し戦争の悲惨さを伝えるようなマスコミの力もある。そしてまた、異文化を抵抗なく取り入れようとする度量もある。さらに付け加えれば、数こそ少ないものの、日本人への信用を築き上げてきた移住者の方々の努力を忘れることは出来ない。

日本の38倍もの農用地を有するアルゼンチンは、世界の食糧基地としての地位を今後ますます高めることだろう。今後も日本とアルゼンチンの友好関係が続くことを期待したい。いつの日か、多くのアミーゴたちとの再会を願いつつ。

引用:土屋武彦1980、十勝農業試験場緑親会発行「十勝野」第14号p73-77)

 

 

「十勝野」掲載のアルゼンチン関連記事

(1)中山利彦1977:アルゼンチン雑感、「十勝野」第11号p25-28

(2)砂田喜与志1977、地球の裏側の農業国アルゼンチン共和国への旅、「十勝野」第11号p28-31

(3)Nestor L. Padulles 1978、別れに際して、「十勝野」第12号p56

(4)土屋武彦1979、アルゼンチン雑感、「十勝野」第13号p66-69

(5)Jorje E. Nissi 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p72-73

(6)Juan C. Suares 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p74-75

(7)土屋武彦1980、アルゼンチンの人々、「十勝野」第14号p73-77

(8)Nora Mancuso 1980、研修を終えて、「十勝野」第14号p86-87

(9)砂田喜与志1981、真夜中(真昼)の国際電話、「十勝野」第15号p29-32

(10)中西浩1981、十勝農試の思い出、「十勝野」第15号p76

(11)酒井眞次1983、アルゼンチンにて、パラナ川氾濫、「十勝野」第17号p36-37

(12)Nestol J. Oliveri 1983、日本の印象、「十勝野」第17号p57-58

(13)Juan C. Tomaso 1983、親愛なる友人の皆様へ、「十勝野」第17号p57-58

(14)土屋武彦1984、アルゼンチン研修員のことなど、「十勝野」第18号p43-44

(15)Luis A. Salines 1984、日本の印象、「十勝野」第18号p43-44

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廃刊になった機関誌「十勝野」から、アルゼンチン追憶(その1)

2018-08-24 10:55:44 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

十勝農業試験場の職員親睦会(緑親会)が発刊していた「十勝野」という冊子がある。既に廃刊となっているが、昭和47年(1972)創刊で三十数年発行された(手元に創刊号から、平成9年発行の31号まで揃っている)。農業試験場の公的なことは「年報」や「事業成績書」等資料に残されるが、そこで活動した職員の日常や生き様については読み取ることが出来ない。反面、この親睦団体の機関誌「十勝野」は当時の職員の生活が生き生きと描かれ、今ともなれば極めて貴重な資料と言えよう。

本稿では、「十勝野」に掲載されたアルゼンチン関連記事の中から一部を引用する。四十数年前の状況を垣間見ることが出来る。

当時十勝農業試験場は、アルゼンチン共和国への専門家派遣、研修生受け入れを行っていた。この事業は、日本政府がアルゼンチン共和国からの要請を受け、昭和53年(1978)から昭和59年(1984)までの7年間「アルゼンチン国の大豆育種に対する研究協力」プロジェクト(国際協力事業団)として実施され、JICAの技術協力の中では成功例と称えられたプロジェクトである。開始当時の場長は中山利彦氏、大豆育種科長は砂田喜與志氏、派遣専門家は酒井眞次と土屋武彦研究職員。後半は中西 浩が加わった。プロジェクト推進にあたり多大な苦労と尽力された中山利彦、砂田喜與志の両氏は今や鬼籍に入る。

 

1.アルゼンチン雑感

ビデラ・アルゼンチン大統領が訪日した時、大平首相が大統領に「貴国はガウチョの国と言われますが、ガウチョの義理・人情は、我が国のサムライの精神と通じるものがありますな、アーウー」と言ったかどうか定かでないけれども、アルゼンチンの人々の心の中に日本人の心を見る機会が非常に多い。アルゼンチンに来て1年余りが過ぎ去ったが、その間、当地の人々から多くの親切・多くの交友を賜った。それら交友の根底にあるものは、日本人と共通する義理・人情の世界であった。私は、この世界を大切にしたいと考えている。

緑親会の諸姉・諸兄には、すっかりご無沙汰の極みであったので、その失礼を深謝し、地球の反対側から愛をこめてご挨拶申し上げる次第である。

◆アサードとビノのこと

アルゼンチンのビールは泥臭くて、全く美味しくない。ウイスキーも安っぽい単純な味でしかない。それに引き換え、ワインは種類も豊富であり、美味しいものが多い。従って、専らワインを愛飲することになる。

牛の焼き肉が主食のようなお国柄でもあるので、ワインはこの食生活に極めてマッチする。夕食は勿論のこと昼食から、食堂に行けば「飲み物は何にするか?」と来るワインとソーダを注文しておいて、おもむろに、スープは、前菜は、肉は、デザートはと考える。昼食なら少し軽く、臓物を焼いたものか鶏肉にして、夕食なら厚いステーキを取るのも良い。

この国の人々にとって、食事は重要な日課のひとつのように思われる。十分時間をかけて、歓談をたのしむ。昼食の時間も正午から2時間余り。仕出し弁当やかけそば一杯の日本とはあまりにも対照的である。夕食は9時・10時から夜半に及ぶ。パーテイーでは、ギターに合わせて歌って、踊って騒ぐ。しかし、酔っ払いや陰険に絡んでいる人の姿を見たことはない。

豚肉や鶏肉に比較して牛肉は豊富であり、確かに安いが、残念ながら日本には持ち込めない。アルゼンチンからの輸入は禁止されている。

◆セニョリータたち

アルゼンチンの開拓の歴史は非常に血生臭い。ヨーロッパから渡ってきた白人たちは、原住民のインデイオを徹底的に追い払い、抵抗する原住民を殺戮しながら白人国家を創り上げた。蒙古斑を有し、東洋人と似た骨格のインデイオたちは、現在北部の辺境にわずか残るに過ぎない。

アルゼンチンは、スペイン、イタリア、ドイツ系の移民が多い。それら混血の結果、神はこの国に美しきセニョリータたちを創り賜った。顔立ちは7歳から10歳くらいまでの少女が美しい。カフェテリアに座って、そぞろ歩くセニョリータたちの後姿を眺めるなら、十代後半から二十代前半ということになるだろう。特に、腰から脚の線がいい。

アルゼンチンの旅から帰った友の便りによれば、自宅の玄関を開けた時、日本女性の骨格を改めて見直さざるを得なかったという。彼の美しき奥さんにして然りである。

しかし、アルゼンチンの女性の多くは、年齢とともに巨大化する。花の命はアルゼンチンの方が短そうである。また、肌の美しさは日本女性にかなわない。これは統計的な見解である。

◆サッカーのこと

テニス、バスケットボール、バレーボール、水泳、ゴルフなど多くのスポーツが行われているが、その人気・盛大さにおいてサッカーに勝るものはない。サッカーはアルゼンチンの国技である。

昨年度は世界選手権で優勝し、本年度は東京でのユースのチャンピオンになった。ソビエトとの優勝決定戦が行われた日、三千万の国民が7時からのテレビ・ラジオの中継にくぎ付けになった。逆転の勝利となった瞬間、路上のタクシーも自家用車も警笛を連打し、高層ビルの窓から紙吹雪が舞い、人々は路上に出て国旗を振って喜びに呼応した。ブエノス・アイレスでは、フロリダ街は言うに及ばず、コリエンテス通りも人の波に埋もれ、市内の車は至る所で立ち往生。その車の間を縫って国旗を売り歩く人、スクラムを組んで喜びを表す少年たち、バルコニーから群衆に挨拶する大統領。市役所も会社も半日は全く仕事にならない状態であった。

マルコス・フアレスのような小さな町でも同様で、わが家でも国旗を出して祝すれば、家の前に車は列をなし、ギターを抱えた人々を中心に人が群れての大合唱。学校では、アルゼンチンの国旗と日の丸を先頭に、学校の周囲を何回も群れを成して走り、歌い、喜びを表したと言う。

このような力がどこに潜んでいるのか、のんびりとした仕事ぶりからは想像もつかない。しかし、情熱的にしかもしらけずに喜びを表現する方法を、日本人は忘れてしまったのではないだろうか。

◆生活リズム

24時間の空の旅を終えてブエノス・アイレスに到着すると、日本との時差が12時間、季節が全く逆と言う世界に入る。数日は、昼食をとる頃から極めて眠くなり、夜中に目が覚める。人間の体内時計は、そう簡単に調整が出来るものではない。また、夏が過ぎて、これから冬に入ると言う体調が、再び夏を迎えるわけである。

さらに、一日の生活リズムが日本と異なる。例を試験場の勤務時間にとってみると、午前7時~12時、午後3時~午後7時が勤務時間である。朝が早く、夜が遅い。夏の暑い日中は、家に帰り昼寝する慣習である。

日本のように娯楽が豊富なわけではない。勿論、パチンコや麻雀があるわけでない。夜は家族単位、恋人同士の行動が主体である。日本のようなバーやキャバレーの存在は皆無に近い。

したがって、アルゼンチンではまだ映画が全盛である。土曜日の夜など、映画の終了する零時半ごろから再びカフェテリアが満席になり、若いカップルは一杯のコーヒーに顔を寄せ合い、話が尽きない。週末の真夜中のこの賑わいは、一瞬時間の感覚を失うものである。

彼らは、子供のころからこの生活リズムに対応しているためだろうか。それとも食生活の故なのか。体力のあるのに驚く。

◆貧富の差

貧富の差が大きい。富める人々は市の中心街に豪華な住宅を有し、避暑地に華麗な別荘を持つのに対し、貧しき人々は駅裏の市街にバラック住まいをする。前者が夏の休暇は地中海かマイアミかと語るとき、後者は1時間の労働で1キロのパンを稼ぐ。

インフレが極めて激しいので、農場主、工場主、商店主らは一般に裕福であり、労働者とくに未組織の労働者は惨めである。公務員の給与が3か月ごとに40%ベースアップするほどのインフレーションである。

履きさらしの穴の開いた子供靴を捨てたところが、すぐに拾われ、翌日には別の誰かが「お前は誰それに子供の靴をやったそうだが俺にもくれないか」と訪ねてくるほどの貧しさである。しかし、貧しさゆえの暗さはない。八百屋にトマト1個、人参1本と買いに来る人々も陽気である。貧しい身なりで、宝くじや菓子を売り歩く子供たちも屈託がない。

資源豊富なこの国の人々にしてみれば、何をあくせく働くのか、何をそんなに急ぐ必要があるのかということなのだろう。貧富の差こそあれ、社会保障制度は日本より進んでいると言われる。

ブエノス・アイレスから所在地のマルコス・フアレスまで450キロ、山の影すら見えない。この地帯はアルゼンチンの主要な穀倉地帯で、小麦、とうもろこし、大豆、ソルガムなどの畑が延々と広がる。草を食む牛の群れ、ひまわりの黄金の畑、水をくみ上げる水車、砂埃を上げて走り回る大型トラクタ、農薬散布中の軽飛行機、強烈な太陽、アルゼンチンパンパの景観である。

元来、樹木のなかったパンパに植林されたのはユウカリ。そして今、大農場の周囲に、国道の脇にこの常緑の並木は大きな陰を落としている。以下にもヨーロッパ的に、しかも単調に。

引用:土屋武彦1979、十勝農業試験場緑親会発行「十勝野」第13号p66-69

 

◆研修修了時のことば(Jorje E. Nissi、Juan C. Suares

 

 

「十勝野」掲載のアルゼンチン関連記事

(1)中山利彦1977:アルゼンチン雑感、「十勝野」第11号p25-28

(2)砂田喜与志1977、地球の裏側の農業国アルゼンチン共和国への旅、「十勝野」第11号p28-31

(3)Nestor L. Padulles 1978、別れに際して、「十勝野」第12号p56

(4)土屋武彦1979、アルゼンチン雑感、「十勝野」第13号p66-69

(5)Jorje E. Nissi 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p72-73

(6)Juan C. Suares 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p74-75

(7)土屋武彦1980、アルゼンチンの人々、「十勝野」第14号p73-77

(8)Nora Mancuso 1980、研修を終えて、「十勝野」第14号p86-87

(9)砂田喜与志1981、真夜中(真昼)の国際電話、「十勝野」第15号p29-32

(10)中西浩1981、十勝農試の思い出、「十勝野」第15号p76

(11)酒井眞次1983、アルゼンチンにて、パラナ川氾濫、「十勝野」第17号p36-37

(12)Nestol J. Oliveri 1983、日本の印象、「十勝野」第17号p57-58

(13)Juan C. Tomaso 1983、親愛なる友人の皆様へ、「十勝野」第17号p57-58

(14)土屋武彦1984、アルゼンチン研修員のことなど、「十勝野」第18号p43-44

(15)Luis A. Salines 1984、日本の印象、「十勝野」第18号p43-44

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