十勝農業試験場の職員親睦会(緑親会)が発刊していた「十勝野」という冊子がある。既に廃刊となっているが、昭和47年(1972)創刊で三十数年発行された(手元に創刊号から、平成9年発行の31号まで揃っている)。農業試験場の公的なことは「年報」「事業成績書」「研究報告」 等に残されるが、そこで活動した職員の日常や生き様については読み取ることが出来ない。反面、この親睦団体の機関誌「十勝野」は当時の職員の生活が生き生きと描かれ、今ともなれば極めて貴重な資料と言えよう。
この稿では、「十勝野」に掲載されたアルゼンチン関連記事を引用する。
当時十勝農業試験場は、アルゼンチン共和国への専門家派遣、研修生受け入れを行っていた。この事業は、日本政府がアルゼンチン共和国からの要請を受け、昭和53年(1978)から昭和59年(1984)までの7年間「アルゼンチン国の大豆育種に対する研究協力」プロジェクト(国際協力事業団)として実施したもので、JICAの技術協力の中では成功例と称えられるプロジェクトであった。開始当時の場長は中山利彦氏、大豆育種科長は砂田喜與志氏、派遣専門家は酒井眞次と土屋武彦研究職員。後に、中西浩氏が加わった。プロジェクト推進に多大な苦労と尽力された中山利彦、砂田喜與志の両氏は今や鬼籍に入る。
3.アルゼンチン研修員のことなど
機内サービスのスコッチを飲みながら、成田空港で買った推理小説を読んでいると、
「その事件の犯人を知っています。教えましょうか?」
スチュワーデスが声をかける。そんな言葉にのるものか、犯人が分かってしまってはブエノス・アイレスまでの24時間が退屈してしまう。スコッチのお代わりをしながら、今回も又長いフライトに耐えることになった。1984年3月のことである。
雪の十勝から、ニューヨーク、マイアミ、リマ、サンチャゴを経由してブエノス・アイレスに到着すると、夏の太陽が容赦なく降り注ぐ。日本とは季節と昼夜が全く逆なこの国は、確かに地球上で一番遠い国である。
しかし、アルゼンチンから輸入されたソルガム等の飼料を十勝の牛が食べ、芽室のスーパーにアルゼンチン産のエビやイカが並べられているのを見ると、果たして遠い国なのかと思う。アルゼンチンの穀倉地帯が世界の食糧基地として今よりもさらに重要になったとき、日本にとってアルゼンチンがもっと近い国になることは想像に難くない。
アルゼンチン国に対する大豆育種技術協力は、本年度で終了することになった。この7年間に調査教義ミッションが3回延べ10名、育種専門家延べ8名、育種以外の短期専門家延べ11名が派遣され、研修員10名が訪日した。
この間、育種技術の協力、育種組織体制の確立、大豆研究計画の策定、新品種「カルカラニャ」の育成、育種材料の蓄積と有望系統の作出など一応の成果が得られたものと確信する。これも偏に、日本およびアルゼンチン両国関係者の努力の賜物である。
十勝農試を訪れた研修員に対しご指導いただき、かつ心からのご交友をいただいた緑親会の諸兄に、関係者の一人としてお礼申し上げる。と同時に、彼らはアルゼンチンでの大豆育種の推進者として活躍し、十勝での生活を何よりも懐かしんでいることをお伝えしたい。
(1) 日本人の心を理解したネストル・パドレス氏
帰国後、育種センターの大豆科長として活躍。育種の実践家。帰国後結婚して2児の父。退職して農業関係の会社を設立。
(2) 合理的理論家、スワレス氏
現在育種センターの大豆科長。アルゼンチン大豆育種の中心的存在。帰国後修士。アメリカ留学の話もある。
(3) 小麦の育種を担うニシ
大豆科が独立した後、小麦育種の専任者として残り、現在全国小麦研究プログラムの調整官。今も、大きな体を前後に揺らしながら話しています。
(4) 感性豊かな美人育種家ノラ・マンクーソ
大豆育種サブセンターのペルガミノ農試で、大豆育種を一人で担っています。一段とスマートになって、実力派のミス。
(5) おしゃれなソミリアーナ氏
北西部のサルタ農試で豆類の育種責任者。努力家で知識も豊富。
(6) 髭のトマソ氏
南部のボルデナーベ農試で、麦類と大豆の育種科長。この地帯への大豆導入に努力している。
(7) ミシオネスの大人オリベリ氏
パラグアイ、ブラジルに近いアルゼンチン北東部の厳しい条件下での大豆を担う。
(8) シャイな真面目人ルイス・サリーネス氏
若手の育種家。おっとり型。帰国後に結婚の予定。新居の完成も間近。
(9) 真摯な紳士ラタンシー氏
全国大豆研究プログラムの初代調整官。小麦・大豆の二毛作、不耕起栽培の第一人者。
(10) 英国型紳士カブリーニ前場長
帰国後、脳梗塞で倒れ一時言葉も不自由だったが、現在は回復。
以上が十勝農試を訪れた人々の近況である。
パンパの試験圃場に立って、この7年間に積み上げられてきた育種材料の広がりや、育成品種の生育を眺めながら思うのであった。これらの大豆は、広大な沃野に育まれ、生産物は世界に輸出されて行くだろう。世界の飢えたる民のためにも。
ちょうど十勝で大豆の作付けがどんどん減少していた10年前のころ、大豆の育種に携わりながら、十勝農民のために、世界の飢えたる民のためにと大豆育種に執着していた頃を思い出していた。
引用:土屋武彦1984、十勝農業試験場緑親会発行「十勝野」第18号p43-44
◆研修修了時の研修生挨拶と30年後の再会(Luis A. Salines)
(写真は2002年、INTA Marcos Juarez 大豆研究室の前でSalines室長と)
「十勝野」掲載のアルゼンチン関連記事
(1)中山利彦1977:アルゼンチン雑感、「十勝野」第11号p25-28
(2)砂田喜与志1977、地球の裏側の農業国アルゼンチン共和国への旅、「十勝野」第11号p28-31
(3)Nestor L. Padulles 1978、別れに際して、「十勝野」第12号p56
(4)土屋武彦1979、アルゼンチン雑感、「十勝野」第13号p66-69
(5)Jorje E. Nissi 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p72-73
(6)Juan C. Suares 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p74-75
(7)土屋武彦1980、アルゼンチンの人々、「十勝野」第14号p73-77
(8)Nora Mancuso 1980、研修を終えて、「十勝野」第14号p86-87
(9)砂田喜与志1981、真夜中(真昼)の国際電話、「十勝野」第15号p29-32
(10)中西浩1981、十勝農試の思い出、「十勝野」第15号p76
(11)酒井眞次1983、アルゼンチンにて、パラナ川氾濫、「十勝野」第17号p36-37
(12)Nestol J. Oliveri 1983、日本の印象、「十勝野」第17号p57-58
(13)Juan C. Tomaso 1983、親愛なる友人の皆様へ、「十勝野」第17号p57-58
(14)土屋武彦1984、アルゼンチン研修員のことなど、「十勝野」第18号p43-44
(15)Luis A. Salines 1984、日本の印象、「十勝野」第18号p43-44