豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

ガウデイとサグラダ・ファミリア聖堂(スペインの旅-1)

2011-11-28 18:05:58 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

スペインの旅-1

17世紀に中南米で覇権を握ったスペインとは,どんな国なのか。メキシコから,ペルー,ボリビア,チリ,アルゼンチンまでアンデスに連なる国々を訪れインカやマヤの遺跡に触れるとき,いつも頭を過ぎるのであった。

 そんな訳で,南米での滞在を終えて帰国してからスペインへの旅を思い立った。20096月初めの僅か8日間の駆け足ツアーであったが,バルセロナ,バレンシア,グラナダ,セビーリャ,コルドバ,マドリードを巡った。

 

 

◇アントニ・ガウデイ

ガウデイ(Antonio Gaudí)の名前は,バルセロナにある世界遺産サグラダ・ファミリアの建設に精力を注いだ建築家としか知らなかった。そして,この教会が建築着工後もうすぐ128年を経ようとしているのに,まだなお建築中であるという。なにか計り知れない敬虔さを秘めた教会を最後の仕事場としたガウデイとは何者なのだ・・・と。調べてみると,彼は1852年スペインのカタルーニャ州タラゴナで生まれ,バルセロナで活躍している。

 

さてバルセロナであるが,フランスとピレネ山脈で国境を接するカタルーニャ州の州都で,人口180万,スペイン第二の都市である。1992年オリンピックが開催されたことでも知られる。独自の歴史と文化を育み,日本からの観光ツアーも必ずこの地を訪れる。今回の旅ではパリ経由,夕方遅くにバルセロナに到着し,ゴシック地区カテドラル近くの古いホテルに宿をとった。

 

翌日は,オリンピック主会場となったモンジュイックの丘から,グラシア通りを経てガウデイ建築のバトリョ邸(Casa Batlló),ミラ邸(Casa Milá)を車窓から眺め,グエル公園(Park Gúell)を見学し,サグラダ・ファミリア聖堂(Tenple de la Sagrada Familia)を訪れた。いずれも,ガウデイが設計建築に関わり,世界遺産に指定されている。

バトリョ邸は外壁にガラスモザイクを埋め込んで海をテーマに,ミラ邸はゆがんだ曲線を主調に山をテーマにしているという。また,グエル公園は中央広場へ続く正面の大階段,列柱廊,広場を取り囲むタイルのベンチが有名。タイルで装飾されたベンチに腰を下ろし,観光客の誰もがするように記念撮影をした。これらの建造物は,いずれも不定型な曲線と陽に映えるタイルが特徴であり,当時の市民には衝撃的なほど新鮮に映ったことだろう。

これらガウデイの作品は,富豪グエル氏の支援によって建設されている。19世紀から20世紀にかけてバルセロナを中心に起こった芸術運動モデルニスモ(アール・ヌーボー,この運動は強い経済力を背景にカタルーニャ独自の文化を創ろうとした)を代表する作品群といえる。ゴシック様式に見られる壮大厳粛さは陰を薄め,風変わりで奇を狙ったようにも見え,あまり好きにもなれない建築様式であるが,財を成したパトロンと芸術家によるヌーボー作品と考えれば納得もいく(才気に満ちたガウデイ建築の芸術性を否定するものではない)。

そして,ガウデイが後半生をかけ全精力を注いだのが,サグラダ・ファミリア聖堂の建設である。この聖堂は前期のヌーボー作品とは異質に見える。何故なのだろうと思っていたが,建設の歴史を知ると納得がいった。聖堂は1882年,バルセロナ建築学校の教授であるロザーノに基本設計を依頼し,ネオ・ゴチック様式の教会を建てることで始まった。しかし,建築工事が始まった翌年に,建築家と教会の間で建築強度と経済面での対立がありロザーノは辞任し,助手として働いていた31歳のガウデイが後任に抜擢されたのである。

建築主任に抜擢されてからの十年間はガウデイの絶頂期であったろう。「形式はラテン十字を構成するバシリカ形式,東,西,南に降誕,受難,栄光の門を配し,それぞれ四本の塔がたち,合計十二本の塔が十二使徒を表す」壮大な計画が進められた。名声を聞いて訪れた教皇使節枢機卿が,「建築界のダンテ」と評したほどであった。

しかし建築年数がかかるにつれ寄付金が集まらなくなり,ガウデイは他の仕事で得た金を聖堂の建設資金につぎ込むなどしたが十分な資金が得られず,晩年は聖堂工事現場の小部屋に泊まり込んで建築に関わっている。ガウデイは192667日市電に撥ねられて生涯を終えたが,その遺体は浮浪者と間違えられ,2日間も放置されたと語られている。晩年のガウデイは,仕事を終えると夕方にはサン・フェリッペ・ネリ教会までミサに出かけるのを日課にしていたという。若い頃から罹っていたリュウマチの悪化,視力の衰え,誰が見ても身寄りのない老人とみえる身なり,事故の一件を見ただけでもその孤独な姿は想像がつく。サグラダ・ファミリア聖堂の建設に関わった44年。晩年のガウデイは何を思ったのか。

ガウデイの生涯については岩根圀和著「物語スペインの歴史人物編」に詳しいので,ここでは多くは触れない。

それにしても

サグラダ・ファミリア聖堂は,歴史を知り聖書を読まないと理解できない。ヨーロッパの芸術に触れるとき,いつもそんな気持ちが残る。

 

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ダイズシスト線虫の初発生と対応(パラグアイの事例)

2011-11-26 13:45:16 | 南米の大豆<豆の育種のマメな話>

ダイズシストセンチュウHeterodera glycines Ichinohe)は,世界各地で発生が確認されている大豆の最も重要な有害線虫である。南アメリカでは1992年にブラジル,1997年にアルゼンチン,2003年にパラグアイで初発生が確認された。

パラグアイで発生が確認された頃,ちょうどJICAプロジェクトの専門家として当国に滞在し線虫対策に関わったので,対応の経緯を取りまとめておこう。パラグアイは南米の田舎と称され,のんびりした国柄ではあるが,線虫害に対する反応は早かった。

パラグアイにおけるダイズシスト線虫対策に対して,日本専門家の貢献が大きい。

 1. 発生確認と発生分布調査に貢献したJIRCAS研究員

 2. 抵抗性品種開発に貢献したJICAプロジェクト専門家

パラグアイにおけるダイズシスト線虫対策年表

 1992:ブラジルでシスト線虫発生を確認(Mendes and Machando, 1992

 1994:ブラジルでの発生を受け,パラグアイでモニタリング調査開始(CETAPARDDV,ただし2001年まで発生は確認できなかった)。国立地域農業研究センター(CRIA)でシスト線虫抵抗性遺伝資源の導入と交配を試みる(JICA主要穀物生産強化計画)。

 1997:将来の発生を予想して, CRIAでシスト線虫抵抗性育種を開始(JICA大豆生産技術研究計画)

 1998:アルゼンチンでシスト線虫発生を確認(Baigorri et al., 1998

 1999CRIAの育種材料をブラジルで検定(JICA大豆生産技術研究計画,2002年までに計54組合せ1,930系統を検定し,446抵抗性系統を得た)。

 2001RAPD法による抵抗性選抜を試みる(JICA大豆生産技術研究計画)。

 2002.12.4:パラグアイのカアグアス県でシスト線虫発生を確認(JICAパラグアイ農業総合研究センター(CETAPAR))

 2003.1.21CETAPARから農牧省植物防疫局(DDV-MAG)宛,シスト線虫発生確認の文書提出

2003.2.13:農牧省(MAG)決議第79/03号:植物検疫地域の宣言し,立ち入り移動を制限。以下発令事項(MAG決定第1号:検疫地域を宣言した第79/03号決議を有効に執行するために。MAG決定第2号:検疫地域の管理を有効に行うために。MAG決定第3号:シスト線虫の予防と管理に係る技術チーム・メンバーの指名)

 2003.2.14:新聞報道(abc紙,Economia 20面)

 2003.2.17:新聞報道(Noticias紙,Economia 16面)。DDV-MAG検疫対策の実施(検疫と検疫管理に関する通達)

 2003.2.25:緊急モニタリングの開始(DDV),カアグアス県で調査圃場の17.6%が汚染を確認

 2003.2.26:新聞報道(abc紙,Rural 4面)

 2003.3.6:検疫地域の取消し

 2003.4.1:提言<JICA専門家;シスト線虫被害拡大を防ぐために抵抗性育種体制の早期確立を>

 2003.10.29:農牧省とJIRCASの共同研究プロジェクト開始(IANを研究サイトに線虫研究)

 2003.11.3:シスト線虫発生地域情報(農牧省植物防疫局病害虫防除部)

 2004.2.6:学会報告(日本線虫学会誌 34-1

 2005.5.3:シスト線虫発生分布情報(JIRCASIAN-MAG

 2006.2.16:シスト線虫及びさび病抵抗性品種の育成プロジェクト開始(JICA,CRIA-MAG

 2006Yjhovy(カニンデジュ県)に抵抗性検定圃を設置(JICA,CRIA-MAG 1,455系統検定)

 2007Yjhovy(カニンデジュ県)抵抗性検定圃で検定継続(JICA,CRIA-MAG

 2008:シスト線虫抵抗性の新品種LCM167育成:CRIA-6(Yjhovy)として登録公表。シスト線虫抵抗性の新品種候補LCM168育成(JICA,CRIA-MAG

 

*JICA主要穀物生産強化計画1990-1997

 *JICA大豆生産技術研究計画1997-2002,専門家(橋本鋼二,丹羽勝,古明地通孝,土屋武彦)

 *JICA大豆生産技術研究計画のF/U2003.02-08,専門家(土屋武彦)

 *JICAシスト線虫・さび病抵抗性品種の育成FENIX 2006.02-2008.02,専門家(土屋武彦)

 *JIRCAS南米大豆研究,研究員(清水啓,佐野善一)

参照:1) Takehiko Tsuchiya 2007「Mejoramiento Genetico para la Resistencia al NQS en el Paraguay」 2) 土屋武彦2008「ダイズシストセンチュウ抵抗性大豆新品種候補LCM167, LCM168」JICA-MAG

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冊子「十勝野」創刊の頃

2011-11-24 16:12:42 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

先の「十勝長葉育成功労者頌徳碑」の顛末では,桑原武司さんの詞を「十勝野」から引用した。が,この冊子について知る人は極めて少ないと思われるので,創刊に至った経緯を少し説明しておこう

 

「十勝野」は十勝農業試験場の親睦会である「緑親会」の機関誌である。1969年(昭和44)に創刊され,手元に31号まであるのでかなり長く続いたと思われるが,その後廃刊になったと聞く。

 

「十勝野」創刊

昭和40年代,緑親会活動の黄金期といわれた時代があった。1967-68年(昭和42-43)と2年続けて会長職にあった赤井さんは,職員の親睦に心を砕き多くのスポーツ関係の行事を企画していた。そんな折,幹事の高島さんがやってきて,「文芸誌を作ろう」という。「同人誌を作ってもすぐに廃刊になるよ」と反対して具体化はしなかった。

 

年が変わって,1969年(昭和44)緑親会の役員となった,会長の山坂さん,幹事の土屋,松川,関谷は,これまでの行事を継続し更に新規事業として,機関誌(同人誌でなく機関誌にすれば,毎年役員が交代するのでしばらく継続するだろうとの意図)の発行と文化祭,マラソン大会を計画した。総会で事業計画の承認を経て,機関誌については名前を公募することから始めた。

 

ビラ1:模造紙に誌名募集の張り紙を出す「本会の内容を暗示し,健全で革新的,品位豊かであること。機関誌名として適切な語で,表紙にデザインしたとき芸術的に優れるもの。 ・・・当選誌名発案者には商品として一級酒1本またはコーラ1ダース・・・」。応募誌名は71点と多数。

 

ビラ2:機関誌名の投票について「推薦誌名2誌にプラス点,好ましくないものにマイナス点をつけて投票する。上位5誌について編集委員会が第二次選考し決定する」

 

ビラ3:誌名は「十勝野」に決定。

 

山坂さんが表紙を飾る誌名を書くことになった。「達筆に過ぎず,味わいのある字体に・・・」と,何回かやり取りして,完成したのが表紙の題字(写真)。この題字はずっと継続されることになる。

 

創刊号と第2号の編集を土屋が担当した。創刊号には「緑親会史をひもとく」「緑親会行事の記録」「新人紹介」「各科人物誌」「創作,随筆,詩文など」39名が執筆,第2号には「緑親会創設者からのたより」「十勝農試職員の二十四時間」「各科紹介」「普及員研修雑感」「行事の記録」「十勝農試番付表」「ヨーロッパ雑感」「創作,随筆,詩文など」多彩に40名が執筆している。当時の会員総数が83名であることを考えると,会員全体で作り上げた意義ある冊子であることがわかる。

 

ところで,「緑親会」の始まりは?

緑親会の始まりに関する資料を探していたとき,斎藤さんから嶋山さんを紹介された。早速便りをすると、懇切な返事を頂いた。さらに,「十勝野」への執筆をお願いしたところ,第2号に「緑親会」初代庶務幹事の大島喜四郎さんから「回想録」,名付け親の嶋山〇(金偏に甲)二さんから「懐古談」,併せて緑親会発足時の会則と会員名の資料が寄せられた。それによると,緑親会発足は1938年(昭和1341日,会員は玉山豊(支場長)ほか13名(幸震高丘地試験地職員2名を含む)。会則によれば,運動,雑誌回覧,歓送迎会,播きつけ祝,結婚・入営・死去に対する慶弔が事業として定められている。

嶋山氏は,「作物に休みがあるかと,日曜祭日なしで年中働くばかりで,場員お互いの親睦を図る機会が全くなかった訳で,斯かる理由から緑親会が誕生した」と述べている。当時の会則には,会費が月50銭,出張旅費や昇給の一部,その他の寄付条項等が定められている。

 

◆裏の年報,貴重な資料

農業試験場では,毎年の試験成績,事業実績などを「年報」として公開している。これはいわゆる公的な記録(資料)として残る。

 

一方,親睦会の機関誌「十勝野」には,会員が仕事の合間に楽しんだ行事など生活そのものが記録されている。例えば,行事の記録(スケート大会,テニス大会,ソフトボール大会,バレーボール大会,運動会,旅行会,マラソン大会,文化祭,忘年会など),クラブ活動の記録(山の会,野球部など),文芸,特集記事(10年後を考える,忘れえぬ一冊の本,会員番付表など),海外旅行便り,研修員の印象記,旧会員からの便り,各科紹介等々である。そして,農試10大ニュースを選んで(候補を募集し,投票で決める),結果を「十勝野」に掲載し,忘年会を仕切れば幹事の役目から解放される。

 

「十勝野」には,その年そこで暮らした人間の顔が鮮明に残されているのである。冊子は,発刊の年には職員の親睦に使われるが,半世紀近くの時が過ぎてみれば農業試験場の裏年報,貴重な資料となっている。事実,「十勝野」がなかったら「十勝長葉育成功労者頌徳碑」の顛末を知る機会もなかったろう。

 

今の世に,このように多彩な事業が組まれた親睦会があったら,廃止すべきと仕分けされるだろうか。忙しい時代に暇はないと個の世界に籠るだろうか。当時の賑わいは,仕事の合間の息抜きとして活力を生んでいたように思うのだが・・・。

 

 

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第二次世界大戦中も育種の種子は引き継がれ,「十勝長葉」が誕生した

2011-11-20 15:37:16 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

十勝長葉育成功労者頌徳碑除幕式における式辞から

再び,十勝農業試験場親睦団体の機関誌「十勝野*」第5号(1971,昭和46)に,桑原武司さん(元支場長)が寄稿している文書から引用する。十勝長葉育成功労者頌徳碑除幕式における式辞の抜粋であるが,「十勝長葉」育成の状況が読み取れる。

・・・十勝支場では早くから豆類の品種改良を行っていましたが,昭和二年にはじめて本格的育種事業に着手することとなり,その担当者として藤根,嶋山の両氏が任命され,次いで四年十月,上川支場より赴任されました玉山支場長はこの仕事に関し殊のほか熱心に指導監督の任に当たられたのであります。

 その後昭和八年には新たに人工交配を始めましたが,それが本日の盛典をもたらすに至った,「十勝長葉」を産む機縁となったのであります。この年交配によって結実したのは,僅か十二粒足らずでありましたが,この収穫をおえて翌十年一月に藤根氏は産まれた子の行く末を案じつつ本場へ栄転されました。

 今当時を回顧しますと,三十度を超える炎天の大豆畑にボロ傘でようやく暑さを避けながら桟俵の上に腰をおろし流れ出る汗を拭きふき,細い針の先で小さな花を調べたり袋をかけたりする仕事は,一見のんびりしたものに見えるが,当の本人にしてみれば,眼は疲れ,暑さのために倒れそうになることも日に幾度かあったとのことです。

 一日がかりで五,六十の花の交配をなんとか終えて家へ帰るころは疲れ果てて,しばし呆然とする辛さは,けだしこれを経験したものでなくては,想像できないものであります。また秋には霜をおそれて畑に寒冷紗をかぶせたり,いよいよとなると燻煙に夜を徹したことも幾度かあったと聞きますが,やがて新品種が世に出る時のことを思えば,その苦労の中にもまた何とも言えぬ楽しみがあったことでしょう。

 藤根氏の転任後は嶋山氏が専らこの仕事に当たり,爾来系統選抜と生産力検定を経て,十五年から従来の品種と比較する段階にまできましたが,この年五月同氏は樺太庁中央試験所へ転出したのであります。嶋山氏の後は金森氏に引き継がれ,各系統に十育番号をつけ,もっぱら品種間の比較に主力を注いだのであります。この間絶えず前記三名の仕事に対し,懇切な指導をしておられた玉山支場長は,十七年四月北海道農事試験場長に栄転されました。玉山支場長の後任として上田氏が赴任され,さらに翌十八年四月には貝塚氏が育種担当者として迎えられ,金森氏より本事業を引き継がれました。

貝塚氏は上田支場長の指導の下に苦心を重ねた末,有望系統十育五十五号に個体選抜を加え,これらをもとにして,熟期その他の特性より新たに優良な四系統を育成することに成功したのであります。然し同氏が十勝長葉誕生の日を目前にして二十一年三月帯広畜産大学へ転出されたのは,御本人としても誠に心残りであったと思います。

貝塚氏のあとは再び金森氏がこれを引き継ぎ,先に選抜した四系統の中からついに待望の多収良質の一系統を選出し,これを二十二年春の本支場長協議会に提出審議の結果,優良品種と決定,「十勝長葉」と命名されたのであります。

 

この育成に要した年数は交配以来実に十四年,玉山,上田両支場長の下で,担当者のかわること五回にして今回の成果を得ましたことは,本事業に対する両支場長の深い理解に満ちた御指導によることは勿論でありますが,最初これに手をつけられた藤根氏が,交配材料の母親として,「本育六十五号」を選び出し,これを我が子以上の愛情をもって育てられた努力と,先輩藤根氏の残した事業を後継者が忠実に受け継ぎ各々その責任を果たした賜であります。

藤根氏はその後倶知安農学校長に栄転され,農業教育に専念されましたが,十勝長葉の完成を見ぬまま十九年に生徒の勤労作業監督中,不慮の災難にあわれて殉職されましたことは誠にお気の毒であり残念で御座います。

また玉山氏は本場長を退職後も北海道種苗会社社長として,更に精魂を育種事業に傾注しておられましたが,二十二年永眠されたため,御二人とも本日の盛典に御臨席いただけないことは,返す返すも遺憾の極みであります。なお十勝長葉育成の陰には,ここに名をとどめていない数多くの方々の御協力があったことは申すまでもありません。この席を借り深く感謝の意を表します。

 

以上十勝長葉育成の経過について御説明申し上げましたが,育成功労者にこのような盛儀をもって報いて下さいました農民同盟並びに大豆栽培農家の方々の御厚意に対し,衷心より御礼申し上げます。昭和二十七年六月十日,十勝長葉大豆育成功労者表彰記念式典協議会長,十勝支場長,桑原武司・・・(式辞抜粋)

 

桑原さんの式辞にあるように「十勝長葉」の開発は,玉山豊支場長と上田秋光支場長の指導の下,藤根吉雄(十勝支場勤務T15.6.17-S10.1.24),嶋山〇(金偏に甲)二(同T14.5.7-S15.4.30S21.3.1-S33.4.1),金森泰次郎(同S10.3.5-S29.3.15),貝塚久夫(同S18-S21.3,十勝農試の開設80周年・100周年記念誌の旧職員名簿から漏れている)の担当者によって進められた。藤根が交配と初期世代の個体選抜,嶋山が中期世代の系統選抜,金森・貝塚が系統評価を主として実施したことになる。(昭和8)の交配後,個体選抜・系等選抜を経てF7代から「十育55号」の系統名で生産力検定試験を実施し,またF11代には系統内の変異を認め4系統(十育55-14)を作出して試験を継続している。この4系統の中から「十育55-1」が「十勝長葉」,「十育55-3」が「北見長葉」として優良品種に認定されている。

 

系統の最終評価である生産力検定試験の時期は,第二次世界大戦と重なる。十勝支場・北見支場・幸震高丘地試験地・士幌村・御影村で地域適応性を評価する試験を実施したのは終戦の昭和20年から混乱の昭和21年。苦労は並大抵のことだはなかったろう。この時期に系統の種子が引き継がれたことに,「育種は継続なり」と感慨を覚える。

 

「北農」第14巻第81ページに,貝塚久夫・金森泰次郎は「大豆新優良品種十勝長葉の特性」を紹介している。

 

写真は日本マメ類基金協会「北海道における豆類の品種」68pから引用

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大豆一升運動で建設された,「十勝長葉」育成功労者頌徳碑

2011-11-19 13:45:05 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

「十勝長葉」育成功労者頌徳碑

 

北海道芽室町にある北海道立総合研究機構十勝農業試験場の前庭に,「十勝長葉育成功労者頌徳碑」が東を向いて建っている

作物品種の育成者を讃える碑は全国にいくつかあるが,大豆ではおそらくこれが唯一のものだろう。何故この碑が此処にあるのか。その顛末を記録しておこう。

 

◆十勝長葉育成功労者頌徳碑の建設

十勝農業試験場親睦団体の機関誌「十勝野」第5号(1971,昭和46)に,桑原武司さん(元支場長)が寄稿している文書を引用する。

 

・・・昭和二十七年六月十日,新緑が初夏の日差しに映える帯広市で,豆の国にふさわしく,十勝長葉祭が盛大に繰り広げられた。同じこの日農試の前では,頌徳碑除幕式が厳粛にとり行われていた。この碑はその後芽室へ移り,新庁舎中庭の一角に,ほぼ当時と同じ型でたっている。しかしこの頌徳碑が建立されるまでの経緯を詳しく知る人はきわめて少ないので,ここにその時のあらましを記録し,先輩の労苦を知る縁ともしたい。

 

頌徳碑建立の動機は,昭和二十六年九月四日,十勝地区農民同盟第十回執行委員会の席上,豊頃村の美馬耕一氏が「十勝の農民は「十勝長葉」によって莫大な利益を得ることができたが,品種の育成者に対して何ら報いていないのは誠に遺憾である」との緊急提案に端を発している。

協議の結果,報恩の資金とするため,まず管内の盟友一人当たり大豆一升を持ち寄ることとしたが,この企てに感動した一般農民も協力することなり,二十七年の春には早くも目標額の三十万円を達成した。そこで碑石には仙台石を運び,碑の題字は当時達筆で名の高かった広川農林大臣に揮毫を依頼することとした。なお大臣からは式典当日功労者全員に色紙の揮毫も頂くことにした。碑の工事一切は農試職員と同盟青年部有志の勤労奉仕によって,五月二十八日無事完了したのである。

 

式当日農林大臣はじめ多数の祝辞の中で,高倉代議士がいみじくも述べられた次の言葉に,頌徳碑建立の経緯をよく物語るものがあって感慨深かった。「十勝農民同盟といえば,常に農民のために政治活動と闘争に邁進してきたのであるが,この政治活動とは別に,今回病虫害に強い,しかも反収の多い新品種の出現が,十勝農業経済に大きく貢献したことに想いを致し,育成者の功績を永久にたたえるため,頌徳碑を由緒ある農試の一角に建設せられたことは,全国稀にみる壮挙であり感謝に堪えない」・・・

 

なお,育成者の嶋山二らは,1956年(昭和31)「十勝長葉」「北見長葉」の育成功績により農林大臣賞を受賞している。

 

◆頌徳碑の移設

 文中にもあるように,帯広で建立された頌徳碑は農業試験場の芽室町移転にともない,1960年(昭和35)十勝農業試験場の中庭に移転され,帯広時代の旧庁舎(移転後,図書館・陳列館・講堂として使われていた)と並んで,図書館と陳列館の間に西を向いて建てられていた。

 

その後,この場所に管理科の事務所を建設することになり,頌徳碑は前庭(現在地)に移設することになる。移設に当たり関係者で移設地鎮祭を行うこととし,芽室神社の宮司にお願いするとともに,町のフードセンターまで供物の調達に走ったことを思い出す。1985年(昭和60)のことであった。

 

◆「十勝長葉」という品種

 「十勝長葉」は北海道農事試験場十勝支場において,1933年(昭和8)「本育65号」を母「大豆本第326号」を父として交配を行い育成したもので,1947年(昭和22)優良品種に決定した。第二次世界大戦をまたいで開発が続けられた品種である。

 

小葉は長葉で,いわゆる柳葉形を呈する。花色は赤紫,毛茸は多く褐色,熟莢色は褐色,1莢内粒数が多い(ほとんど3粒,稀に4粒)。百粒重は20g程度の小粒で,種皮は黄色,臍色は褐色である。伸育型は有限で直立型,倒伏は少ない。成熟期が10月上~中旬で,十勝では晩生種に属する。栽培品種であった「大谷地2号」や「石狩白1号」に比較し,マメシンクイガ被害が少ないことも特性として挙げられている。これは,「十勝長葉」が多莢で小粒であったためと被害回避されたことによると推測されるが・・・。

 

第二次世界大戦後で食糧増産が求められ,しかも生産資材は不十分,中国からの大豆輸入が途絶えたこの時代,「十勝長葉」は多収性と耐倒伏性が好まれ急速に普及し,195254年(昭和2729)に普及率は50%(約50,000haと推定される)を超えた。しかし,1954年(昭和29),1956年(昭和31)と相次ぐ冷害で晩生の「十勝長葉」は打撃を受け,作付けの主体は早・中生種の「北見長葉」「鈴成」「北見白」へ移った。「十勝長葉」が生産現場で活躍したのは10年ほどであったが,本品種は交配母本としても優れたところがあり,北海道のみならず東北地方や中国北部でも,その後代に優れた品種を誕生させている。

 

十勝農業試験場で大豆育種に携わっていた頃,農家の老人から「十勝長葉」を懐かしむ声をよく聞いた。「多収の品種だった・・・」と。この言葉と頌徳碑は,当時の仕事の励みでもあった。

 

ところで今,農家の庭先で若い研究者に語りかける(期待を込めて)老人はいるだろうか? 研究者諸氏は現場に足を運んでいるだろうか?

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文芸同人誌「だむだむ」

2011-11-16 18:24:19 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

先日,北海道大学新聞が休刊になったという話を北海道新聞の記事で知った。同紙は,学生文化部の一つである北海道大学新聞会が発行していた。報道によれば,部員が集まらず,一人で編集など頑張っていたが・・・休刊のやむなきに至ったということである。学生だった頃を振り返ってみると,大学新聞は当時の学生にとってオピニオンリーダー的役割を担っていたように思うのだが。

この大学新聞と深い関わりがあったわけではないが,休刊とのニュースに恵迪寮の生活やエルムのキャンパスが思い出された。金はないのに酒を飲み,青臭い議論を楽しんでいた頃のこと,大学に文芸同人誌の一つもないと聞いて天邪鬼な仲間と作った同人誌がこの新聞紙上で評され,切り刻まれた,苦い思い出も同時に蘇った。

 

書架を探したら,古い同人誌に挟まれた大学新聞が出てきた。茶色に変色しているが,読むことはできる。北海道大学新聞第546号(昭和40410日)である。

 

・・・「だむだむ」2号 文芸同人誌

三人の詩,一編のSF?メルヘンと二編の創作。一号もそうであったが,この暇つぶしのような多様さ,無定形さは確かに習作誌的な強烈さがある。・・・「片隅の赤い円」は四章までまとまりと連続性がある。とにかく筋が理解できる。二章までは二人の男(詩人の腐れたのと俗人)と一人の女性(若いきれいなのにきまっている)の位置が良く定まっている。しかし,組織矛盾についての人間の具体性になると三章では油絵と党と自己献身の虚しさがある。当然,残りかすの情熱は死への情熱とセックスの情熱である。しかも「吉本」は自殺する女性の傍観者であり,女性の身体を視線でなめる男だ。マゾヒストどころか,彼は殺人もしないし,強姦もしない。四章は愚劣。若者はどうのこうのと言うことはない。四章の最後がいい。ただ,永久に敗北しないことを自覚している彼なら。・・・

 

同紙の一面には,「日高山系の融雪を待ち再捜査,山岳部六名の遭難を確認」の記事がある。

 

また,第561号(昭和41110日)には,・・・文芸同人誌「だむだむ」も第4号で創刊一周年を迎えた。この一年間に「だむだむ」は内容的に一足飛びの発展をとげ,とりわけこの4号はずっしりとした重量感を読む者に与える。管見によれば,「かくも退屈な」(土屋武彦),「黎屍様」(多架尾正)が珠玉。

 

「かくも退屈な」は(ぼく)という留学生たる人物を設定し,そこに作者自身を投入するという形式をとった作品である。自分の身を位置すべき場所を見いだせず,退屈をまぎらわし,そこに位置すれば何かが起こるかもしれない(何も起こりえないことは十分知りながら)という幻想にかられ,騒々しい喫茶店に投じた,あまりにも喜劇的な諦念に捉われてしまっている一学生を設定する。・・・とある。

 

ニュースは,突然やってきて昔を偲ばせる。

 

この同人誌は6,7合併号で廃刊。既にその残骸すら世に残っていないだろうメンバーから作家や詩人が出たとの噂も聞こえない。ただ間違いなく,青春の1ページではあった。

 

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北海道で栽培された緑肥用大豆,「茶小粒」「早生黒千石」

2011-11-16 18:05:13 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道で緑肥用大豆が栽培されたことがある。優良品種に登録されていたのは,「茶小粒」「早生黒千石」の2品種。いずれも晩生で小粒なため,子実収量は低いが,総体の乾物重は多かった。しかし,その後豆作比率が高まるにつれ,線虫被害が拡大するなどの理由から大豆の緑肥栽培はほとんどなくなった。だが,今後の状況次第で,利用する場面が出てくるかもしれない。

茶小粒北海道農事試験場本場が収集した在来種で,1926年(大正15)に緑肥用大豆として優良品種に決定し栽培されたが,1984年(昭和59)に優良品種から除かれた。現在,栽培はなく,種子は独立行政法人農業生物資源研究所及び地方独立行政法人北海道総合研究機構等に,遺伝資源として保存されている。

 葉形は円葉,花は赤紫色,毛は褐色で,莢は小さく黒褐色,子実は扁球形で,種皮色は褐色,百粒重が78gと極小粒である。主茎長は160cm前後と高く,茎葉の繁茂が旺盛で生育収量が多い。極晩生である。「茶小粒」は青刈り飼料用として使用されたこともあったが,ムギなどの間作緑肥として一時かなり普及した。熟期が遅いため,北海道では道南地方でないと採種できない。

 

早生黒千石道内の種苗会社が「黒千石」という名前で販売していたものを,北海道農事試験場十勝支場(現,十勝農業試験場)が収集し,1941年(昭和16)暫定優良品種に決定した。栽培実態がなくなったため,1959年(昭和34)に優良品種から除かれた。現在,種子は独立行政法人農業生物資源研究所及び地方独立行政法人北海道総合研究機構等で,遺伝資源として保存されている。

葉形は円葉,花は赤紫色,毛は褐色で,莢は小さく黒褐色,子実は球形で,種皮色は黒くやや光沢があり,百粒重が1011gと小粒,子葉色(種皮を剥いだ子実の中身,発芽のとき子葉として展開する)は緑である。主茎長は95cm内外と高く,十勝地方で開花期は8月中旬,成熟期は10月中旬となり極晩生である。(参照:北海道における豆類の品種,豆類基金協会)

 

ところで,最近になって北海道では「黒千石」大豆の栽培がみられ,加工食品の開発,販売が行われている。「黒千石」大豆は,その特性から判断して,上記の「早生黒千石」と同類の品種であろう。

 

「黒千石」大豆が注目されたのは,北海道大学遺伝子病制御研究所の田中沙智,西村孝司教授等の研究論文が端緒である。2008年に北海道大学遺伝子病制御研究所により免疫を担うリンパ球が刺激されて感染抵抗力やがんへの免疫を高め,アレルギー症状を抑えるインターフェロンγの生成を促す物質が発見された。新たな豆のパワーの発見である。他の黒大豆や豆類に同様の効果が認められる物質は発見されていないという。

 

また,2007年と2006年に日本食品分析センターが行った機能性成分分析結果では,他の黒大豆よりも「黒千石」のイソフラボンおよびポリフェノールの値が高かった。小粒のため,同量で比較すると黒色子実の表面積が大きく,また子葉の緑であることも関係しているかもしれないが。これを機に,道内各地で「黒千石」大豆への関心が高まり,事業運営母体として設立した黒千石事業協同組合などにより,安定供給が可能な生産体制の整備が進められている。 

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南米における大豆育種,展望

2011-11-03 15:20:39 | 南米の大豆<豆の育種のマメな話>

南米の大豆生産はこれまで飛躍的な拡大を続け,経済的にも重要な産業として定着した。世界の大豆需要が増加するなか,広大な耕地を抱える南米は今後も重要な生産地であり続けるだろう。大豆育種研究も引き続き発展が期待される。

多収・安定性,適応性

 ブラジルとアルゼンチンの大豆平均単収の推移をみると,大豆試作期である1960年代は1.2t/ha,導入品種選定期の1970年代は1.5t/ha,育成品種普及期の198090年代は2.0t/ha,不耕起栽培が定着しグリホサート耐性品種が普及し始めた2000年代(GM品種普及期)は2.5t/haに増加している。この増加要因は,品種改良と栽培技術改善の効果である。特に,導入品種から育成品種への転換,低緯度地帯および高緯度地帯へ拡大する大豆栽培に対応した品種開発,病害抵抗性の付与,冬作との輪作を有効にした早播適応性の向上など育種の貢献が大きい。

 

現在,生産現場で3.54.0t/haの単収はめずらしくない。2010年代には各地域に適応する熟期群の品種能力が向上し,平均単収でも3.03.5t/haを超える水準になるだろう。

 

病虫害抵抗性

 茎かいよう病や斑点病が抵抗性品種の開発と導入によって抑制されたように,今後も病害虫抵抗性は育種の重要な柱である。また,1990年代になって発生が確認されたダイズシストセンチュウについては,汚染圃場のモニタリング,レースの判定,抵抗性品種の開発など迅速な対応がとられたが,今後も汚染拡大が懸念されるので継続した対応が求められる。

 

現在,南米ではダイズさび病被害が最も大きく,ブラジルでは2006/07作期の大豆で267,000tの損失があったとされる。各国の研究者はプロジェクトを組み,アメリカ合衆国や日本の研究者も参加して精力的な対応が進んでいるので,成果は近いだろう。

 

食品・加工適性

 ブラジルのEmbrapa大豆研究所で食品・加工用の品種が開発され,アルゼンチンのINTAでも研究が開始された。消費者の間でも大豆の栄養性,機能性に対する興味が高まっているので,進展が期待される分野である。南米各地のスーパーを覗いてみると,何処でも紙パックの豆乳が出回っている。醤油も人気の調味料となり,日本レストランも賑わいを見せている。

 

遺伝子組換え品種

 グリホサート耐性を示す遺伝子組換え大豆(GM品種)が栽培されるようになってから10年が経過した。アルゼンチンでは1976年に導入された後,急速に広まり,現在98%が耐性品種と推定される。パラグアイとブラジルでは導入に対して賛否の議論が長く続き,2004年と2005年になってようやく認可された。しかし,この間も生産者の耐性品種に対する要望は強く,非合法な流入が多く見られた。当初は適応性評価が不十分なため旱魃被害や低収など混乱したが,2000年代後半には各地に適応する品種も増え収量は安定してきた。2007年現在パラグアイでは75%が耐性品種と推定され,ブラジルでも急速に増加している。

 

特に南米では,1戸当りの栽培面積が大きいこと,不耕起栽培が定着したこと,大豆価格高騰に伴い放牧地を畑地化する動きが加速されたことなどから,除草剤耐性は欠かせない特性になってきた。

 

課題

 栽培地帯の拡大:大豆需要の増大・価格高騰の影響を受けて低緯度地帯や高緯度地帯へ栽培地域が拡大したため,適応性の向上と安定性が求められている。また,頻繁に発生する旱魃被害や土壌劣化への対応は今後の課題である。一方,耕作地の急激な拡大については,環境保護の観点から反対意見が高まっている。今後は環境に調和した大豆生産に配慮する必要があろう。

 

 生育障害対策:南米畑作地帯の作付け体系は「大豆(夏作)―小麦(冬作)」が主体で,大豆の作付け頻度が高いため,新病害の発生など病虫害の被害が常に問題となる。近年,農薬の投入量も増加しているので,抵抗性品種の開発は引き続き重要な課題である。同時に,緑肥作物の導入,輪作体系の確立など病害対策に加え,地力保持対策も検討されなければならない。

 

 用途の拡大:南米の大豆は輸出を目的とした大規模な油糧作物として生産されてきた。今後もこの位置づけは変わらないが,貧困層を多く抱える南米諸国にとって,新たに食品・加工用へのアプローチもひとつの課題であろう。

 

 育種体制:種子会社の競争原理に基づく興隆は大変結構なことであるが,民間育種が強い国ほど公的育種無用論が出てくる。しかし,大豆生産が国家を支える重要産業となった南米諸国(BAPB)では,育種研究場面でも国家が果たすべき役割は大きい。パラグアイで大豆育種研究技術協力に携わったとき,いつも「Por qué se realize el mejoramiento de la soja en Paraguay」と投げかけていた。

 

参照:土屋武彦2010「南米におけるダイズ育種の現状と展望」大豆のすべて(分担執筆)サイエンスフォーラムを一部加筆,詳しくは本書をご覧下さい。

  

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南米における大豆育種は規模が大きく,省力仕様

2011-11-01 18:17:12 | 南米の大豆<豆の育種のマメな話>

南米の育種機関をわが国に比べると,育種規模が大きく,測定項目はかなり単純化され,育種システムは省力化が進んでいる

育種法

育種法は,選抜の効果を高めるため育種場所によって工夫が施されているが,人工交配による変異作出と栽培環境に対応するための早期選抜が基本となっている。すなわち,ガラス室内での交配,中米や温室を利用した冬季世代促進,F2F4世代を単一種子法や集団採種で進め,F4またはF5世代で個体選抜,F5またはF6世代で系統選抜を行い,分離系統は廃棄し固定系統のみを系統集団として世代を進めるなど作業を単純化している。選抜系統は環境の異なる数か所の試験地を利用して生産力検定予備試験を実施するなど,固定系統の早期評価が特徴である。

一般的な育種の流れをモデルとして図示した(図)。育種規模は,年に400800組合せの交配を実施するなど,わが国に比べて規模が大きい。また,測定項目はかなり単純化され,育種システムは省力化が進んでいる。

耐病性の検定および選抜は隔離室での接種検定が主体で,系統選抜段階で実施される。また,DNAマーカー選抜も,病害虫抵抗性検定を主体に一部取り入れられており,今後さらに増加するだろう。品質に関する選抜および評価は近赤外線分析計など簡易測定機器の利用が多い。病理や品質の専門研究者が育種チームに入り分担協力している。

比較考

南米大豆育種における規模の大きさを述べたが,「それがどうなの?」と言われそうな気がする。

はたして,規模が大きいことは良いことか?

育種の基本手順は,変異を作り出しその中から希望個体を見つけ出すことに尽きるので,規模が大きいことは含まれる希望個体の頻度が高まるメリットがある。しかし,規模が大きいと希望個体を選抜するための観察や調査に労力を要し,調査項目も簡素化せざるを得ない。また,必然的に系統観察がおろそかになり易い。

一方,わが国のように試験圃場面積に制限がある場合は,比較的早い世代から系統を作り,多くの特性を綿密に調査観察しながら希望個体に近づく努力をする。この場合は,規模が小さいため,観察はよく行き渡るが希望個体が網から漏れることがある。

前者では少ないデータからの判断,後者ではやたら多い数値を取捨選択しながらの判断,どちらにしても「育種家の目」と呼ばれる経験が大事になってくる。経験則からすれば,わが国ではもう少しシンプルに,南米ではもう少し綿密にということになろうか。

種子増殖と普及

各国とも,種子の増殖・配布,種子の検査に関する法律が制定され,担当機関が設置されている。種子については,水分,発芽率,病害の有無,異種や雑草種子の混入など,国際基準に準じた規則が定められている。

新品種の普及については,新品種発表のセレモニー(圃場参観),生産者向けパンフレット,各地に設置した品種展示圃(写真)など,極めて活発な普及戦略がとられている。大豆栽培面積が大きいこれらの国では,種子販売が直接収益に結びつくため,品種の普及戦略はわが国に比べより重要な位置づけにある。

品種保護

南米諸国では多くの国が国境を接し言語が共通ないしは類似しているため,情報や品種の流れが容易である。大豆栽培が急激に拡大する時代には隣国の品種が国境を越えて無法に流入することも多かったが,近年各国とも育成者の権利保護に係る法的な整備が進み,種子の生産・増殖,販売については育成者の許諾が必要な行為と認識されるようになった。

1961年に育成品種の保護を目的として採択されたUPOV条約(植物新品種保護国際連盟)には,アルゼンチンとウルグアイが1994年,チリが1996年,パラグアイが1997年,ブラジルとボリビアが1999年に加入している(1978年条約を批准)。

なお,各国農牧省の「品種保護登録簿」へ登録された大豆品種は,2008年現在ブラジル374品種,アルゼンチン446品種,パラグアイ159品種である。各国の登録品種,登録機関などの情報は公開されている。

参照:土屋武彦2010「南米におけるダイズ育種の現状と展望」大豆のすべて(分担執筆)サイエンスフォーラムを一部加筆,詳しくは本書をご覧下さい。

 

 

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