8月に咲く
残暑の候と言うが,8月上旬は今年も暑い日が続いた。
そして北海道では一転して,お盆を過ぎる頃から秋の気配が風に乗ってやって来る。恵み野の街角には,夏の花に混ざって秋の花が咲き始める。
8月に咲く
残暑の候と言うが,8月上旬は今年も暑い日が続いた。
そして北海道では一転して,お盆を過ぎる頃から秋の気配が風に乗ってやって来る。恵み野の街角には,夏の花に混ざって秋の花が咲き始める。
恵庭散歩-古地図の章
古地図から歴史が映像となって蘇る。
手元にある恵庭の古地図「漁」は,大日本帝国測量部が大正5年に測図した旧版図(二万五千分の一,大正7年6月25日印刷)謄本で,定価7銭5厘の価格がついている。国土地理院が保管する同縮尺地図としては,最も古いものであろう(因みに,五万分の一の旧版図としては明治29年製版「長都」が存在する)。
最初に目につくのが,地図の左上(北西)から右下(南東)に延びる直線道路「室蘭街道」で,上端は至札幌・経輪厚,下端が至美々・経千歳とある。この道路は,後の「国道36号」になるが,当時から恵庭を通る基幹道路であったことが伺える(道路区分は県道)。この道路にクロスして蛇行するのが「漁川」「茂漁川」,恵庭の市街地はまだ形成されておらず,家々は道路の両側に並んでいる。基線や東三線,南二十号や南二十四号等の「里道」は図面上に定規で引いた直線のままに書き込まれている。
この「室蘭街道」にも多くの変遷があった。各種資料から,その歴史を整理しておこう。
◆「室蘭街道」の歴史
北海道開拓時代初期:鹿道と呼ばれる狩猟の道が,月寒から福住を経て千歳に至っていた。
1873(明治6)年:札幌~函館間に新道が完成。同年11月5日太政官布告第364号で「札幌本道」と定められた。「札幌本道」は函館から札幌まで(ただし,森~室蘭間は航路)繋がっていた。1877(明治10)年札幌農学校のクラーク博士が任期を終え,札幌から帰国の途につき島松沢で,見送りに来た学生たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と離別の言葉を残したのは,この街道でした。
1885(明治18)年:「国道42号,東京より札幌県に達する路線」に指定された(内務省告示第6号「国道表」)。
1907(明治40)年5月13日:国道42号は倶知安・小樽経由にルートが変更され,国道43号が青森~室蘭~岩見沢~旭川(旭川の第七師団に達する路線)に変更された。その結果,苫小牧~札幌間は国道から外れ県道となった。
1920(大正9)年:旧道路法が制定され,旧43号は国道28号に認定されたが,苫小牧~札幌間は県道のままであった。
1952(昭和27)年12月4日:新道路法が制定され,札幌~室蘭間が「一級国道36号」に指定された。同年10月から札幌・千歳間の舗装工事が始まり,翌年の11月2日に34.5kmの工事が完了。道幅7.5m,最高設計速度を時速75kmに設定した高規格道路基準で建設され,「弾丸道路」と呼ばれたと言う。国土地理院の昭和30年測量地図に重ねると,恵庭市内で旧室蘭街道から恵庭バイパスが出来る前の国道36号にルート変更され,ルルマップ川や長都川の辺りは直線化されたことが分かる。また,アスファルト舗装の採用は当時としては珍しく,日本の舗装歴史上特筆すべき事項だったと言われている。
1965(昭和40)年4月1日:道路法改正により一級・二級の区別が廃止され,「国道36号」となった。
1996(平成8)年10月:恵庭市街地の交通量増加に対処するため,恵庭バイパスとして南二十四号に沿って市街を迂回する路線変更が行われた。
道路の整備や変更によって人の流れが変わり,交通事故の発生頻度や商業地の盛衰にも少なからず影響があった。しかし,そこに住む人々は歴史を保存しながら暮らし,頑張っている。旅人には,古地図を片手に古道を歩めば,新たな喜びが発見できるだろう
再び,古地図に話を戻そう。
室蘭街道を辿っていると,「七里標」「八里標」の記載があるのに気づく。「七里標」は室蘭街道に里道(至江別・経中之澤)が交差する点,現在の地図に重ねると「道道46号江別恵庭線」と「旧国道36号」の交点(北東角,柏陽町3丁目信号の場所)にあたる。現在,その痕跡は見だせない。
また,「八里標」は室蘭街道がユカンボシ川と交差する点から350mほど南の地点にある。現在の地図では恵南10丁目,山崎製パン(株)札幌工場の敷地内になるだろうか。
明治政府は1873(明治6)年「札幌本道」の新設に合わせ,札幌の創成橋の東側(南1条と創成川の交差点)に「北海道里程元標」を建て,道路調査を行うとともに「里程標」を置き,旅人の便宜を図ることにした。即ち,札幌街道で恵庭は七里(約27.5km)及び八里(約31.4km)の距離で二つの里程標が置かれている(因みに島松沢に「六里標」があった)。「北海道里程元標」は木製であったとされるので,それぞれの里標も木製だったに違いない。今や朽ちて,その姿を残していないのも当然である。
札幌市の「北海道里程元標」は2011(平成23)年に再建され,モニュメントが建っている。恵庭市でも歴史遺産として残す(記憶に留める)運動が起こらないものかと期待している。
さて,「道路元標」の歴史は古く,海外でも「マイルストーン」が設置されている例がある。以下に道路元標の歴史を整理しておこう。
◆「道路元標」の歴史
平安時代末期:奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を建てた。「一里塚」である。
江戸時代:1604年3月4日(慶長9年2月4日)江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道(東海道,中山道,甲州街道,日光街道,奥州街道)に「一里塚」設置の令を出した。大久保長安の指揮のもと,10年ほどで完了したとされる。東海道は124か所,甲州街道53か所等々で,いくつかはその姿を現在に留めている。道路の側に土盛りし(塚を造り),榎を植え標識を建て,旅行者の目印としたものである。本来は街道の両側にあったと言う。
1873(明治6)年12月20日:明治政府は太政官日誌で,各府県「里程元標」を設け,陸地の道程調査を命じた。「北海道里程元標」は,創成橋の東側(南1条と創成川の交差点)に建てられた。標柱は1尺(約30cm)角,高さ1丈2尺(363cm)の檜または椴松製だった(平成23年3月再建されている)。元標の東面には「・・・島松駅五里弐拾七丁三十間」と書かれ,西面には「篠路駅三里拾丁弐拾間,銭函駅五里拾丁三拾間」とあった。同時に各街道には,「北海道里程元標」からの距離が「里標」として置かれた。古地図「漁」に残る,「七里標」「八里標」等はこの名残である。
1919(大正8)年:旧道路法が制定され(法律第58号),各市町村に「道路元標」を設置することになった。これにより,北海道の道路起点は北海道庁前(来た3条西6丁目)に移され,現在もこの地に「札幌市道路元標」(昭和3年設置,昭和57年再建)がある。なお,「恵庭村道路元標」は昭和7年に設置され,恵庭市中恵庭出張所敷地内の道路に面した櫟の陰にある(大正9年3月の北海道庁告示220号によれば元標位置は漁村551番地先とある)。
その存在を知る恵庭市民は極めて少ないのではあるまいか。除雪の重機でいつ壊されても不思議でない状況に置かれている。損壊してはもったいない。恵庭散歩の途中に,是非探し訪ねて欲しい。そして,保全の声を上げて欲しい。
1952(昭和27)年6月10日:現行の「道路法」(法律第180号)が制定され,道路の起終点は道路元表とは無関係に定められることになった。そのため,歴史遺産とも言うべき道路元標が取り壊された事例は少なくない。そのような中,「歴史遺産」として保全を進める動きが各地で起きている。恵庭においても,朽ち果てる前の保全,消えた歴史の復権(再建)を願うものである。
◆その他の「距離標」
「道路元標」と言う概念は,世界中に存在する。日本橋中央には「日本国道路元標」,合衆国ホワイトハウス近くの「Zero Milestone」,モスクワ赤の広場(マネージュ広場)の「ゼロ・キロメートル標識」,北京天安門広場の「中国公路零公里」,マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場(熊と山桃の像が知られる)の「ゼロ・キロメートル標識」などである。
かつて,南米の田舎を車で旅しているとき,「国道○号の○○km地点から左に入って・・・」と言うような表現をよく聞いた。国道には進行方向に沿った道路脇に「Milestone」があり,非常に参考になったことを思い出す。
その後,我が国の主要道路では,距離標識(キロポスト)で表示されるようになった。高速道路で「○○まで○km」の標識を見掛ける「案内標識」の形態だ。
さらに,鉄道にも起点を示す「ゼロ・キロポスト」が置かれている。また,河川では河口または合流点を起点にして,距離を表示する標識が堤防法肩に設置されているという。これは,あまり気づいたことが無い。
猛暑日が続いた8月上旬,伊豆の田舎にいた。
お盆の前に墓地を掃除し,家の周りの片づけや草刈りもしなければと出掛けたのだが,北海道の暮らしに慣れた身には何しろ暑い。早朝の涼しいうちに作業をしなければと取り掛るが,10分も経たぬうちに汗が背中や腹部を流れる。額の汗で眼鏡が滑り落ちる。
熱中症で倒れたとニュースになるのも嫌なので,頻繁に水分を補給し,小休止する。木陰に腰を下ろすと,僅かな風にも汗が体温を冷やしてくれる。冷たくなった下着を換える。「ジージー」と蝉の声が降り注ぐ。合間に鶯が鳴く。
鶯と言えば「春告げ鳥」と呼ばれるように春の印象が強い。夏のこの季節に鶯の囀りが聞こえるのに一瞬「おや?」と思った。しかも,朝から昼過ぎまで一日中,「ホーホケキョ,ホーホケキョ,ケキョ,ケキョ・・・」だ。時折,「チャ,チャ・・・」と地鳴きも入れる。その声は賑やかでヒステリックでさえある。鶯は春先に里へ下りてきて「ホーホケキョ」と春を告げるので春鳥のイメージが強いが,実は夏の時期に山林の低木林や藪で繁殖し,囀りは2月初旬から8月下旬頃まで年中聞かれるのだと言う。山里に人間が突然現れて,自然の静けさを刈払機のエンジン音で妨害するのだから,鶯も頭に来ようと言うものだ。縄張り宣言と外敵への威嚇を繰り返す。
因みに,鶯はスズメ目,ウグイス科,ウグイス属,ウグイス種で,学名はHoromis diphoneである。体長が16cm(雄)~14cm(雌)で,オリーブ褐色の背と腹部は白色の全体的には地味な小鳥であるが,鳴き声は日本3鳴鳥に数えられる(他にオオルリ,コマドリ)。東アジアが生息地帯で,渡り区分は留鳥に分類されている。英名はBush Warbler(藪で囀る鳥),藪の中で姿は見つけにくいが鳴き声はよく通る。我が家も,そして小休止している場所もまさに奥伊豆の谷間の藪に囲まれた環境にある。
鶯の語源は,「春になると山奥から出てくる」(奥出づ)が転じたとの説がある。「奥伊豆」に繋がるなあと,暑さに火照った頭で勝手に考えた。
しばらくして身体の熱が冷めると,小川のせせらぎに気づく。水辺に小さな蝶が舞っている。
しかし,作業を済ました後方を振り返れば,強い陽射しを受けた灼熱の空間があり,刈払ったばかりの茅は見る間に乾き牧草の香りを漂わせている。江戸時代からこの近くの川沿いは「茅原野」と呼ばれていた。茅の多い浅薄な地域であったのだろう。耕作を止めた田畑は数年で茅原に変貌してしまう。子供の頃の記憶を辿れば,この谷間の棚田には多くの人々の営みがあり,美しい景色を誇っていたが,離農が進みいまはその姿が無い。
山村の高齢化が進み,離農に拍車がかかったもう一つの要因に「猪害」など鳥獣被害がある。
我が家の裏山に棲息している猪一家も,夜になると活発に行動し,畑を掘り返し,水が残る水田跡地で泥浴びをし,家に通じる農道脇の球根(山百合など)を漁り,軒下まで夜ごとやって来る。彼らは石垣を崩し,崖を上り下りするコースは崩れて獣道と化す。彼らが縦横無尽に生き,人間は彼らが崩した石垣を補修して回る。野生動物の天国である。此処で農耕を続けるためには,電牧柵など対策が必須であるが,これら防御法も万全ではない。共生共存の理屈だけで農業を存続させることは出来ない。「地方創生」の掛け声は大きく地方自治体も細やかな取り組みはしているものの,農政から見れば多くの里山は既に切り捨て対象地域になっているのではあるまいか。
子供の頃,年に数回であったが,猪猟から戻った猟師が分けてくれた猪肉を長葱と煮て食べたことが思い出される。肉など滅多に食べられない戦後のことで,「こんなに美味しい食べ物が世の中にはあるのだ」と思った時代が懐かしい。裏山の猪一家は,勿論そんな昔のことを知る由もない。
アルゼンチンとパラグアイで暮らしていた頃のことである。
日本のニュースを伝えることなど滅多にない両国のメデイアが,「ヒロシマ」「ナガサキ」報道だけは決して忘れること無く,毎年「原爆の日」特集を組んでいた。南米諸国にとって日本は遠い国で,「トヨタ」「キャノン」「ソニー」等は知っていても,日本のニュースが日常生活に直接関わるような事象は少ない。が,「原爆」の実戦使用については例外で,自分たちの問題として捉えている。また,学校でも「ヒロシマ」「ナガサキ」については時間を割いている。「これが,この国の日本に対するスタンスなのだ」「なるほど,これが南米の教育なのだ」と,妙に納得したものだった。
8月のこの時期になると,かつて彼の国で見聞した,スペイン語新聞の紙面やテレビ画面に繰り返し流された原爆投下の映像を思い出す。
70年前の8月6日広島に,同9日長崎に原爆が投下された。
1945年8月6日午前8時15分,広島上空で爆発し一個の原子爆弾(ウラン)は一瞬にして市内を焦土と化した。その威力は,TNT火薬2万トンを上回り既存爆弾の2,000倍とされる。実戦で使われた最初の核兵器であり,爆心地周辺の地表面温度が3,000~4,000℃,被爆から2~4か月で9~16万人余が死亡した(当時の人口35万人中)とされている。さらに,今年の「原爆の日」には,この1年間で死亡が確認された5,359人を加え,総数29万7,684人が原爆死没者名簿に記載され慰霊碑に納められたと報道された。
1945年8月9日午前11時2分には,長崎に原子爆弾(プルトニウム,NTN火薬換算2万2千トン)が投下され,7万4千人余が被爆死している(人口24万人中)。今年の「原爆の日」平和祈念式典には,この1年間で死亡が確認された3,373人を加え,総計16万8,767人が原爆死没者名簿に記載され慰霊碑に納められたと報道された。
これ等の数値から理解できるように,原爆の特徴は,瞬時の大量破壊,無差別大量殺りく,放射線障害が長期に人々を苦しめる点にある。恐ろしいのは,70年を経た今なお原爆死没者が増え続けている事であろう。原爆廃絶に向けた不断の努力は当然のことながら,「原爆の日」には私たち個々人が70年前に思いを致し,核兵器廃絶と不戦の誓いを確認する気持ちが必要ではないだろうか。
「広島原爆の日」原爆犠牲者慰霊平和祈念式典には100か国の代表が,「長崎原爆の日」式典には76か国代表が参列して,原爆死没者の冥福を祈り平和宣言で不戦を誓ったと言う。恐らく同じ日に,地球の反対側にある南米諸国のメデイアも「原爆特集」を組んでいることだろう。
一方,わが国の「原爆記念日」報道番組で,街角インタビューに応える若者たちの姿は何と屈託の無いことか。「原爆の日? 知らない,9月だっけ・・・」「終戦記念日? いつだった・・・,第二次世界大戦の同盟国? アメリカじゃないの・・・」。これは,ほんの一部であると信じたい。平和を祈念して千羽鶴を折る子供等も多数存在するのだから。
7月に咲く
花の街「恵庭」,ここ「恵み野」の7月は夏の緑がひときわ濃くなるが,花の季節でもある。花ロード界隈の庭々は多様な花々に埋め尽くされ,燦々と降り注ぐ太陽に自己主張しているかのようだ。
また,家庭菜園のキュウリが生り,トマトが色づき始める季節でもある。勿論,昆虫たちの動きは活発になっている。