豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

恵庭の碑-18 市役所前庭の「恵庭・テイマル姉妹都市締結10周年記念碑」

2018-07-26 09:23:59 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市役所前庭、国旗掲揚塔の脇に可愛らしい記念碑が建立された。ニュージランド国テイマル市との姉妹都市提携10周年を記念したものである。

プレートの上段に両国の国旗、下段にバラの花がデザインされ、

ENIWA-TIMARU

恵庭・テイマル姉妹都市締結10周年記念

COMMEMORATING THE 10TH ANNIVERSARY OF THE ESTABLISHMENT OF SISTER-CITY RELATIONSHIPS BETWEEN ENIWA AND TIMARU 2008-2018

2018年7月

と記された銘板がはめ込まれている(平成297月建立、恵庭市京町1)。

平成29(2018)、姉妹都市締結10周年記念事業を実施。両市の首長ら関係者が相互訪問して、テイマル市では219日、恵庭市では7月2日に記念式典を挙行、両市の市役所前庭に同形の記念碑を建立したものである。

〇姉妹都市(友好都市)

市町村が海外の国と姉妹都市を結ぶようになったのは第二次世界大戦後のことである。わが国で最初に姉妹都市を締結したのは長崎市で昭和30年(1995)のこと、相手はアメリカ合衆国ミネソタ州セントポール市であった。原爆被災から復興し平和都市への道を歩んでいる長崎市をセントポール市に国連事務局が斡旋したのが締結のきっかけだと言う。

北海道では、昭和34年(1959)札幌市がアメリカ合衆国オレゴン州ポートランド市と姉妹都市になったのが最初。両市とも開拓者によって開かれた都市であること、ほぼ同緯度で風土が似通っていること、そして札幌は開拓当時多くのアメリカ人の指導を受けて発展したこと、などが姉妹都市提携の理由だと言う。

道内市町村姉妹友好連携先一覧(北海道、平成2712月末日)によれば、道内の73市町村が海外116の都市と姉妹都市になっている。連携先として多いのは、カナダ25都市、アメリカ合衆国23都市、ロシア17都市、中国12都市、韓国、ニュージランド6都市、オーストラリア5都市などである。北海道と同緯度、気象条件が似通った北方圏の国が上位を占めていると言えよう。また、ニュージランドの都市と姉妹関係を結んでいるのは、道内では恵庭、湧別、清里、美幌、苫小牧、小樽市である。

姉妹都市提携のメリットは、(1)異文化交流の活性化、外国人教師派遣や交換留学、(2)文化交流によるグローバル教育などに象徴されるが、(3)経済交流のメリットも勿論考えられる。成果を上げるためには、長期的視野の下、地道な、継続した、市民参加型の人的交流を築くことにあるだろう。恵庭でも「恵庭ニュージランド協会(市民団体)」が平成15年に設立され活躍している。

私事になるが、ニュージランドを訪れたのは24年前のことだった。クライストチャーチ、オークランド、ロトルアなどに僅か数日の滞在であったが、ゴシック建築とガーデニング文化、マオリの文化、お会いした人々の笑顔を思い出している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵庭の碑-17 市役所前の「恵庭市民憲章碑」

2018-07-25 10:03:26 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市役所庁舎前に「恵庭市民憲章碑」がある。庁舎入り口に近いので、市役所を訪れた人はどなたも気づかれるだろう。題字は北海道知事堂垣内尚弘の書で、恵庭市民憲章碑と彫られている。

また、市民憲章全文を記した碑が添えられている。内容は以下のとおり。

〇恵庭市民憲章(昭和451119日制定)

わたくしたちは、恵庭岳のそびえる、恵庭の市民です。

わたくしたちは、漁と島松の川に広がるこの地に父祖の労苦をしのび、かおりたかい鈴らんにたがいの幸せをねがい、みんなの力でこのまちを発展させるため、ここに市民憲章をさだめます。

 ・自分の仕事を愛し、じょうぶなからだで働きましょう

・たがいに尊重しあい、なごやかな家庭をつくりましょう

・自然を愛し、緑の美しいまちをつくりましょう

・きまりをまもり、住みよいまちをつくりましょう

・知性をたかめ、かおりゆたかな文化のまちをつくりましょう 

〇市民憲章

三輪直之「市民憲章情報サイト」によると、全国にある813市のうち市民憲章を制定しているのは693市、制定率が85.1%だと言う(ちなみに北海道は100%、平成27年現在)。

市民憲章が制定されるようになったのは第二次世界大戦後のことで、昭和25年に広島市が「市民道徳」を制定、昭和31年に京都市が「市民憲章」を制定したのが最初とされる。北海道では札幌市が昭和38年に制定(昭和61年改正)したのが最初で、「わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です・・・」の文言は、道民の耳に馴染んでいる。

市民憲章の制定過程を考えると、憲章は市民の心構えを述べ、市政の進むべき道を示したものと言えるだろう。具体的には「住みやすいまち」「みどり豊かなまち」などという表現で理想とする都市像を述べ、「思いやり」「文化の香り」などという表現で心構えや方向を示している場合が多い。そして、市民憲章の理念をもとに、市の基本構想や総合計画などが策定される。同時に、市民憲章を拠り所として、市民への啓蒙活動・学習活動などが進められる。

更には、「子供憲章」「高齢者憲章」を制定した市町村も出てきている。

〇恵庭市民憲章について

恵庭市民憲章は昭和45年に制定された。内容は当時の社会情勢を反映したもので、至極当然なことを謳っている。最近、恵庭市が主催する式典などで唱和する機会も多いが、何故か記憶に残らない。どうして? と読み直してみると、「文章表現、文脈」「主語のあいまいさ」など日本語が気になりだした。

例えば、

(1)「恵庭岳のそびえる、恵庭の市民・・・」とあるが、”恵庭岳のそびえる“の後の句読点の是非、さらには「そびえる」の表現。恵庭岳山頂の帰属については恵庭と千歳の間で論争があったこと、国土地理院の地図でも境界を示していないのは承知の上だが、恵庭の真ん中に恵庭岳があるわけではないので「恵庭岳がそびえる恵庭」の表現は気になる。感覚としては、「恵庭岳をのぞむ(眺める)」と言う方が近い。恵庭岳の名前に拘ったのだろうが、昔は千歳嶽と呼んだこともあったそうだ。恵庭岳は果たして恵庭の象徴だろうか。境界論争を考慮して敢えて取り入れたのだろうか。

(2)「漁と島松の川に広がるこの地・・・」も気になる。言いたいことは分かるが、“川に広がるこの地“と言う表現は日本語として理解できない。

(3)「かおりたかい鈴らんにたがいの幸せをねがい・・・」。何故に鈴らんに互いの幸せを願わねばならぬのか。鈴らんが「市花」だとしても、此処に持ち出すことの意味が薄弱。

(4)前文の主語は「わたしたち」と明確だが、憲章の項目部分は「意思」「呼びかけ」が混在し曖昧である。例えば、「たがいに尊重しあうことにより、なごやかな家庭をつくる」のか、「たがいに尊重しあいましょう、なごやかな家庭をつくりましょう」なのか。

(5)「きまりをまもり、住みよいまちをつくりましょう」、「きまりをまもる」はそもそも憲章に入れるようなことなのか・・・。決まりを守れば住みよいまちが出来るのか、とへそ曲がりは考える。

恵庭市民憲章も制定後50年。もう一度、憲章を読み直してみようと思う方々が現れることを期待したい。

参考までに、平成19年に制定された北斗市の市民憲章。

わたしたちは 豊かな大地と歴史に結ばれた夢と希望をふくらませ ともに喜び感じるまちをつくる 北斗市民です

 ・仕事に誇りをもち 豊かで活力のある産業のまちをつくります

 ・健康で安心な 温もりのある福祉のまちをつくります

 ・豊かに息づく伝統を 高める文化のまちをつくります

 ・心豊かに 学び合う教育のまちをつくります

 ・美しい自然を 未来につなげる環境のまちをつくります

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晩成社「鈴木銃太郎・渡邊 勝・高橋利八のシブサラ入植」

2018-07-19 17:27:47 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

依田勉三ら晩成社一行が帯広の地に入植したのは、明治16年。入植後の数年はトノサマバッタの大発生や冷害に見舞われ作物の収穫は皆無、ついには所持する食糧を食べ尽くし相次いで逃げ出す移住者が出てくるほどの悲運な状況であった。最初に入植した16戸が明治20年には6戸に減少したのである。

しかし勉三はそれに失望せず、明治19年、意を決し当縁郡オイカマナイに牧場地の貸下げを願い、畜産と農業を一体化した経営で社礎を固めようとした(前述)。

一方、晩成社幹部の渡邊勝、鈴木銃太郎もこれを契機に自らの土地を拓くべく物色し、十勝川の少し上流にあたるシュブシャリ(シブサラ、現芽室町西士狩、アイヌ語でウグイが産卵する深い川の意。サラは葦のこと)に白羽の矢を立てた。この地は十勝川の沿岸で沖積土壌、肥沃な土地であった。明治19年、彼らは社員の高橋利八とともに密林をかき分けこの地に入り開墾の準備に入った。銃太郎は14号付近、勝は16号、利八は17号付近で、これが芽室に和人が入った始まりであった。当初は帯広からの出作であったが、明治21年にはこの地に定住している。近くにはシブサラチャシがあり、この辺りからメムオロブト(芽室太)にかけてアイヌも多かった。彼らは原住のアイヌの人々とも親しく付き合い、雇用し、農業指導や児童の教育にも力を注いでいる。銃太郎は明治17年にアイヌの娘を妻に迎え常盤と名付け、後年は「シブサラの親方」と呼ばれるほど大きな存在であった。

西士狩には、西士狩神社の近くに「西士狩開拓七拾年記念碑」「西士狩開拓百年之碑」「芽室町発祥の地」などの記念碑がある。また、入植場所を示す標石(石柱)が建てられている。

◇鈴木重太郎、渡辺勝、高橋利八の入植地(明治25年当時)

芽室町八十年史(昭和57年刊)24ページに掲載されているシブサラ地域の図。記念碑の位置を追加した。現在は、北5線道路が現在道道75号、西15号に沿って帯広広尾自動車道が走っている。当時の十勝川は狭くて深い川だったと言うが、改修された現在は幅広の一級河川となっている。

◇西士狩開拓七拾年記念碑

芽室町西士狩地区福祉会館の駐車場脇(小学校跡地)、西士狩神社の隣に「西士狩開拓七拾年記念碑」が建っている。明治321110日建立。碑の裏面には「・・・回顧すれば七十年前の明治196月シブサラ(西士狩)原野に渡邊勝、鈴木銃太郎、高橋利八(晩成社幹部)三氏始めて開墾の一鍬を打下したり 実に本町に於ける和人入地の最初にして 亦西士狩開拓の発祥なり・・・」と略歴が刻まれている。

 

◇西士狩開拓百年之碑

現在の道道75号に面して碑は建っている。昭和60年建立。

 

◇芽室町発祥の地

西士狩神社の隣に「芽室町発祥の地」記念碑がある。昭和54921日建立。

 

◇鈴木銃太郎、渡邊 勝、高橋利八の入植地

鈴木銃太郎は安政3年、鈴木親長の長男として江戸に生まれ、旧藩士の城下信州上田で少年期を過ごし、漢学を修め、剣術や槍術を学んだ。17歳の時上京してワッデル塾に入り、この時依田勉三や渡邊勝と知り合う。後に米国人経営の築地神学校卒業後キリスト教伝道師として布教にあたっていたが、勉三とともに北海道開拓を決意。帰農武士の典型で、長身偉丈夫、磊落な性格だったと伝えられている。

渡邊勝は安政元年名古屋藩の家中に生まれる。明治3年上京し、築地の英語学校で語学を学び、後にワッデル塾に入り依田勉三、鈴木銃太郎と知り合う。依田佐二平(勉三の兄)が開いた豆陽中学校で教鞭をとっていたが、晩成社の結成に参加し北海道へ渡る。出発に先立ち、銃太郎の妹カネと結婚。カネは横浜のミッションスクールで英語と音楽を学び、卒業後は教鞭をとっていた才媛であるが、入植後は開墾の鍬をふるう傍ら晩成社の子弟やアイヌの子供たちの教育に当たるなど、開拓の礎づくりに一生を捧げた。

高橋利八は賀茂郡小野村の農家に生まれた。晩成社の一員として北海道にわたり、開拓に励んだ。性格は温厚、質実剛健、営農に範を示した。大村壬作が小学教育を計画した際、教室として住宅を貸与するなど最大の協力者でもあったと言う。

 

2018年7月初め、この地を訪れた。今年は日照不足で湿害や冷害が予想されるような天候が続いたため、作物の生育はやや停滞気味に見えたが、開拓から130年余り沃野は拓け当時の面影を探すのは難しい。数十年ぶりに訪れたこの地で、記念碑を写真に収めた。

参照:拓聖依田勉三伝、芽室町八十年史

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

依田勉三の実験場、晩成社「当縁牧場跡地」

2018-07-17 18:00:27 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

20187月上旬、大樹町晩成の「晩成社跡地」を訪ねた。国道336号(ナウマン国道)の大樹町晩成地区から晩成温泉に向かう道路に入り、3kmほどの地点にある案内標識を左折する。しばらく進むと大樹町教育委員会が建てた案内板が飛び込んでくる。この一帯で依田勉三は十勝農業の夢を描いたのだ。今もこの地域には「晩成」の名前が残っている。

写真は、復元された依田勉三住宅と草を食む牛の群れを望む。

十勝の沿岸地帯は、太平洋からの風が強く海霧も発生しやすい。夏季は日照が少ないため気温が低く稲作や畑作には適さない。現在、帯広周辺が畑作で繁栄しているのに対し、十勝南部は冷涼な気象条件のもと牧草主体の酪農、畜産地帯になっている。今考えれば、十勝内陸に牧場適地はいくらでもあったと思うが、交通の要であった十勝川に近く、太平洋に面して広がる広大な土地、湧洞沼や生花苗沼、ホロカヤン沼などが魅力だったのかも知れない。

私事になるが、かつて「冷害防止実証試験」「大豆耐冷性現地選抜試験」で浜大樹と下大樹の農家の方にお世話になり、調査のため頻繁に通ったのでこの地域はことのほか懐かしい。現在は、近くの「ナウマン象発掘の地」「大樹航空宇宙実験場」の方が晩成社跡地よりも観光客に知られている。

写真は、①復元された依田勉三住宅(6坪の住宅は三分され、畳敷きの4畳と中央に土間、西側に風呂と物置がある)、②晩成社当時の地図、③大樹町教育委員会による説明板である。

  

◇晩成社当縁村牧場

晩成社一行がオベリベリ(帯広)に入植してからの開墾生活は辛苦を極めた。開墾した僅かな畑はバッタの来襲で壊滅、病に倒れる人も多かった。理想の地ではなかったのか? 社員の中には不満が渦巻き、離脱を考える者も出てきた。

依田勉三は一同の不満離散を見るにつけ期することがあった。当縁村に牧場を拓き畜産業を興し、その利益を帯広に還元できないかと考えた。入地から3年目の明治19511日、勉三は弟の文三郎と共に十勝川を下り、河口の大津から長節湖の西側を迂回して湧洞に出る。翌日は山に登り湧洞沼を視察、その後オイカマナイ(生花苗)を経て歴舟、豊似までを探査。516日にはオイカマナイ開墾着手届を戸長に提出。「オイカマナイを見て、沃地と思われる」の言葉が残されているが、この地当縁村生花苗を牧場適地と判断したのだろう。6月初めには開墾を開始、オイカマナイ沼を一周し牧地を検分、8月には陸奥から牝牛10頭、牡牛4頭を購入、プラオなど農機具の導入にも積極的であった。明治43年には当縁牧場1,600町歩、牛149頭、馬123頭飼育していた。

勉三はこの地に大正4年まで住み(同年、途別の水田所に入居)、幾多の事業に挑戦している。勉三にとってこの地は十勝開拓の実験場であった。当地での概要については大樹町教育委員会の資料(案内板)に譲ろう。彼は、帯広とこの地を頻繁に往復し、十勝の開拓・振興にかける夢を燃やし続けた。

写真は、④大樹町教育委員会による説明板、⑤サイロ跡、⑥佐藤米吉の墓、⑦祭牛の霊碑、⑧もみじひら歌碑である。

     

この地は、依田勉三が開墾に励んだ時代を感じることが出来る場所と言えよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

依田勉三翁之像(帯広市中島公園)

2018-07-16 14:24:48 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

帯広市東3条南2丁目に小さな広場(中島公園)がある

場所は、十勝総合振興局の東側、国道38号を挟んで向かい側には帯広神社・護国神社が祀られていると説明した方が分かり易いかも知れない。

 

この公園の中央に十勝開拓の祖、拓聖と称される依田勉三翁銅像が建っている。台座が大きく、像は見上げる高さにある。笠を負い、蓑をまとい、鍬を手にした勉三の像、その表情から弛まぬ開拓の決意がくみ取れる。銅像制作者は彫刻家田嶼碩朗(クラーク像の作者でもある)。当時、十勝商工會連合會頭であった中島武市の尽力により建設された。昭和16626日除幕式挙行。その後、戦火熾烈となり銅像は拠出され、昭和267月1日再建された。

因みに、中島武市(なかじまぶいち、1897-1978)は、岐阜県本巣郡土貴野村(現、本巣市)出身の実業家、政治家。シンガーソングライター中島みゆきは孫(武市の長男の第一子)。中島公園の名も由来する。

 

正面台座には「依田勉三翁之像」の文字、台座裏側には以下の「碑文」が刻まれているので、紹介しよう。碑文の一木喜徳郎は同郷、尾崎行雄は三田同門のよしみによる。また、佐藤昌介は札幌農学校の一期生にして北海道帝国大学初代総長、北海道農業の最高権威であった。

◇碑文(台座裏1)

功業不磨

咢堂題

依田勉三君ハ伊豆ノ人夙ニ北地開墾ノ志アリ明

治十五年晩成社ヲ組織シ自ラ一族ヲ率ヰテ此地

ニ移住ス凶歳相次キ飢寒身ニ迫ルト雖モ肯テ屈

撓セス移民ヲ慰撫激勵シテ原野ノ開拓ニ努メ更

ニ水田ヲ闢キ酪農事業ヲ興シ諸種ノ製造工業ヲ

試ムル等十勝國開發ノ翹楚トシテ克ク其範ヲ示

ス十勝國ノ今日在ルハ君ノ先見努力ノ賜ナリ岐

阜縣人中島武市此ノ勞效ヲ欽仰シ私財ヲ投シテ

之ヲ永遠ニ讚ヘントス誠ニ宜ナリト言フヘシ

紀元二千六百年二月十一日建立

  題  字 正二位勲一等 男爵  一木喜徳郎

  篆  額 正三位勲一等     尾崎行雄

  撰  文 従二位勲一等 男爵  佐藤昌介

  書  字 帯廣市長正六位勲五等 渡部守治

  銅像製作 東京市        田嶼碩朗

  建  設 帯廣市        中島武市

◇碑文(台座2)

賛辞

本日ここに十勝開拓の先人

依田勉三君の銅像除幕式が

擧行せらる誠に慶賀にたえ

ざるなり君の十勝開拓に志すや

終始一貫堂々としてたゆまず

あらゆる困苦欠乏にたえ初志の

貫徹に邁進すること四十有五年

今日十勝平野開發の基礎を

確立せるは洵に敬仰にたえず

今や食糧の生産確保に益々

飛躍進展を希求せらるる時機に

際し君が本道開拓の先覺としての

偉業を偲びその功績を永く後世に

傳えんがため十勝商工會連合

會頭中島武市君獨力で銅像の

建立をはかりここに建設をみたるは

蓋し機宜を得たるものというべく

世道人心の作興に資するところ

少なからざるべし

昭和十六年六月二十二日

農林大臣井野碩也

また、銅像の後方には「徳光皓」碑があり、以下の碑文が刻まれ、銅像再建に関わった方々の氏名が残されている(残念ながら)。

依田勉三翁は十勝国開拓の恩人たり即ち

明治十六年晩成社を司宰し郷里伊豆の国

より同志数十人を率ひ十勝原野に来住

千辛万苦幾多の凶荒に遭ふも屈撓せず遂

に農業十勝興隆の基礎を築きたり 中島

武市氏は夙に翁の功徳を敬慕し昭和十六

年独力よく晩成社開拓の地を卜して公園

を造成 翁の銅像を建設し 以て功績を

永く後世に伝えんとせり 然るに所謂大

東亜戦争熾烈となるや 銅像また之が犠

牲となり撤去せらる 時に昭和十八年十

二月八日なり 爾来春風秋雨実に七ヶ年

平和の春蘇り来れりと雖 放置されて顧

みられず我等深く遺憾とし 昭和二十五

年七月再建期成会を結成し債権の計画を

樹つるや翕然として大方諸彦の賛同を得

ていま再び翁の偉容に接する感激措く能は

ざるなり 茲に銅像の再建を記念し併せ

て本事業に参画せられた篤行の士を銘す

昭和二十五年文化の日

依田勉三翁銅像再建期成會長

帯広市長 佐藤亀太郎

20187月上旬、帯広の中島公園にある依田勉三翁銅像を訪ねた。奥伊豆で暮らしていた両親が、人生ただ一回の北海道旅行でやってきた折に案内して以来だから、おおよそ45年ぶりのことである。その時の写真はアルバムの片隅で色褪せたが、公園内の「勉三松」は大樹となっている。

参照:萩原実監修、田所武編著「拓聖依田勉三伝」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする