豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

一冊の本「伊豆の下田の歴史びと」

2021-04-02 11:08:19 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

新型コロナウイルス(COVID-19)がなかなか収束しない。外出自粛で生まれた時間の活用法はいろいろあるだろうが、冊子の編纂もその一つ。ここに紹介する「伊豆の下田の歴史びと」(土屋武彦著、A5版232ページ、2021年6月1日発行)もコロナ禍の中で誕生したと言えるだろう。著者は伊豆下田生まれ、北海道在住。

本書の「はしがき」「目次」「あとがき」を引用する。

◇はじめに

嘉永7年(1854)日米和親条約が締結されると、伊豆の下田は日本外交の表舞台で脚光を浴びるようになる。ペリー提督率いるアメリカ艦隊入港、米国総領事館の設置、下田条約並びに日米通商条約の締結、ロシア使節プチャーチン提督の入港と日露和親条約批准など、この間わずか数年間であるが日本の方向性を左右するような大きな交渉とドラマが下田を舞台に繰り広げられた。奥伊豆下田で暮らす人々にとっても、この時代は刺激的で激動の時代であったと言えるだろう。

勿論、伊豆の歴史はこれだけで語り尽くせるものではない。須崎の爪木崎遺跡や田牛の上の原遺跡のように今からおよそ八千年前の縄文時代早期の土器を出土する遺跡があり、日本書紀に伊豆の名前が初見されるなど古くから大和との交流があった。しかし、伊豆は海人山人が暮らす里、遠く離れた流刑の地として知られていたにすぎない。海人は黒潮文化の担い手として操船、造船技術に優れ、山人は天城の山ひだに分け入って採鉱技術を発揮し土地を拓いていた。この海人山人の世界は、時には頼朝や早雲が活躍する舞台となった。江戸時代には重要な風待ち湊下田が江戸幕府の直轄地として、伊豆石・伊豆炭・海産物の積み出し港となり、金山・銀山では採掘が行われた。これら歴史の隅々で伊豆人は逞しく生きて来た。

この様に伊豆は歴史の宝庫としてどの時代も興味深いが、本書では開国の時代を中心に江戸~明治時代の事象と人物を取り上げた。気の向くままに拾い上げたので、全てを網羅するものでも学術的歴史書でもない。伊豆を訪れる人々が旅の途中で出逢い興味を懐くような事象を、落穂ひろいのごとく拾い集め解説したので気楽にご笑覧願いたい。

お読み頂ければ、本書の登場人物には共通する伊豆人気質とでも言えるような生き様があることを感じ取って頂けるに違いない。それは、人が好く無私な心、一途で頑固な生き方・・・伊豆人に共通する性格とでも言えようか。伊豆の自然とここに暮らす人々の人情が人を育て、歴史を創っているのだろう。

本書が伊豆下田をご理解頂く一助になれば、故郷を愛する筆者にとって望外の喜びである。なお、本書は拙著「伊豆下田、里山を歩く」の姉妹編であることを付け加えさせて頂く。

 

◇目次

はじめに

目 次

第一章 開国の舞台「下田」

1  風待ち船で賑わった下田港      

2  伊豆下田の「打ちこわし騒動」 

3  入会地をめぐる紛争「茅場争い」 

4  黒船艦隊が下田から持ち帰った植物 

5  黒船艦隊が箱館から持ち帰った植物 

6  ペリー艦隊が下田で手に入れた二つの「大豆」 

7  ワシントン記念塔の「伊豆石」 

8  ペリー艦隊来航記念碑と日米友好の灯 

9  ペリー提督来航記念碑、函館の「ペリー提督像」を訪ねる 

10  ハリスと牛乳のはなし「開国の舞台、玉泉寺」 

11  ハリス江戸出府の道程、「ヒュースケン日本日記」から 

12  村山滝蔵と西山助蔵、ハリスに仕えた二少年 

13  タウンゼンド・ハリス、教育と外交にかけた生涯 

14  日露交渉の真っ最中、下田を襲った「安政の大津波」 

15  プチャーチン、日本を愛したロシア人がいた 

16  橘 耕斎、幕末の伊豆戸田港からロシアに密出国した男 

17  「宝島」の作者ステイーヴンソンと「吉田松陰伝」   

第二章 伊豆下田の歴史人  

1  「伊豆の長八」と呼ばれた男 

2  新選組隊士となった加納通広(鷲尾) 

3  中根東里、伊豆下田生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家

4  中根東里と伊豆人気質 

5  石井縄斎(中村縄斎)、伊豆下田生まれの儒者 

6  篠田雲鳳、開拓使仮学校(札幌農学校前身)女学校で教えた女流詩人 

7  下岡蓮杖、写真術の開祖 

8  写真師鈴木真一と晩成社出立時の記念写真 

9  横浜馬車道にある写真師下岡蓮杖顕彰碑 

10  依田勉三、奥伊豆の里から何故「北海道十勝開拓」だったのか? 

11  三余塾、奥伊豆生まれの碩学、土屋宗三郎(三余) 

12  渡瀬寅次郎、依田勉三の十勝入植に異を唱えた同郷の官吏 

13  井上壽著、加藤公夫編「依田勉三と晩成社」に思う 

14  晩成社の開拓は成功したのか? 農事試作場としての視点 

15  晩成社の山本金蔵と松平毅太郎、札幌農学校農芸伝習科に学ぶ 

16  依田勉三翁之像(帯広市中島公園) 

17  依田勉三の実験場、晩成社「当縁牧場跡地」 

18  晩成社、鈴木銃太郎・渡邊 勝・高橋利八のシブサラ入植 

19  新渡戸稲造は何故「お吉地蔵」を建立したのだろうか

20  韮山反射炉再訪 

21  韮山代官、江川太郎左衛門英龍(坦庵) 

22  今村伝四郎藤原正長、「愛の正長」と校歌に謳われる 

23  下田市名誉市民、中村岳陵と大久保婦久子 

24 下田生まれの性格女優、浦辺粂子 

付表1 伊豆下田歴史年表/付表2 黒船艦隊が下田から持ち帰った植物標本/付表3 黒船艦隊が箱館から持ち帰った植物標本/付表4 伊豆下田歴史年表(開国の時代)/付表5 ハリス江戸出府の道程/付表6 ハリスに仕えた二少年/付表7 プチャーチン関連年表/付表8 下岡蓮杖関連年表/付表9 鈴木真一関連年表/付表10韮山反射炉年表/付表11江川太郎左衛門年表/付表12中村岳陵年譜/付表13大久保婦久子年譜/付表14浦辺粂子年譜

あとがき 

 

◇あとがき

伊豆の下田、私の生誕地である。原戸籍によれば出生地が賀茂郡稲梓村須原××番地とあるので、正確には稲梓村、まだ下田には含まれていなかった。稲梓村は下田の北部に位置する山村で、昭和30年に近隣6町村が合併し下田町となり、昭和46年に市制が施行され下田市となっている。

生家は山奥の小さな百姓だったので、子供時代は家の手伝いもしたが山野を駆け回って遊び暮らした。太平洋戦争突入から敗戦に至る時代で、戦後の暮らしの変貌も、子供ながらにこの田舎で体験した。誰もが貧しい時代だった。学校は須原小学校から稲梓中学校を経て、下田北高等学校で学んだ。小・中学時代は家から学校まで遠かったので、道草しながら歩いて登校し、勉学よりも遊びに費やした彼是ばかりが印象に残っている。高校はバス通学だったので部活動で汗を流した記憶は少なく、本ばかり読んでいたような気がする。

高校卒業後に北海道へ渡り、札幌で大学生活を送った後は、十勝、上川、道南、南米アルゼンチン・パラグアイと仕事の関係で各地に暮らした。現在は恵庭市に居を構えているが、下田を離れてから既に60年が過ぎ去ろうとしている。この間、毎年のように帰省していたが、仕事があるうちは親の元気な顔を見ればすぐに戻るのが常だった。また、両親亡きあとは墓参と空き家の管理のため年に数回は訪れているが、慌ただしく往来している。

そのような中、ふるさと応援団として何が出来るだろうかと考え、「開国の舞台下田」のこと、歴史に名を遺す「下田生まれの歴史びと」のこと、「里山」のこと、「幼少時の記憶」のことなどを少しずつ紡ぎ、拙ブログ「豆の育種のマメな話」の中で情報発信してきた。このたび書籍化を思い立ち、編纂作業を進める過程で伊豆の歴史や自然を再認識し、陽だまりの里(伊豆)の長閑さや人の良さを振り返ることが出来たのは嬉しいことだった。

令和2年(2020)新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、日本でも外出自粛を余儀なくされた。この機会を利用して本書の編集作業を進めた。完成度は必ずしも高くないが手作りの私家本完成と言うことで先ずは満足している。足りない所はいつの日か補完することにしたい。

2021年6月1日                             恵庭市恵み野草庵にて 著者〇〇

 

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下田生まれの性格女優「浦辺粂子」

2020-09-07 12:52:56 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆下田生まれの女優として思い出されるのは、桜町弘子と浦辺粂子である。桜町弘子はほぼ同年代であるが、ご健在で今もトークショーなどご活躍だと聞く。下田北高に入学した年だったと思うが、同級生が「南高に可愛い子がいて、東映に入ったって。お前知っているか」と聞かれたことがあった。「親は旅館(映画館?)をやっていて、ロケに来ていた監督にスカウトされた」など、田舎者には全く分からない情報を提供してくれる。当時下田には二つの高校(普通科の下田北高と商業科の下田南高、前者は男子9割、後者は女子9割)があり、交流は殆ど無かったが意識し合う存在だったのだろう。

桜町弘子(本名 臼井真琴)は東映ニューフェイス第3期生(里見浩太朗、大川恵子らが同期)となり、翌年から東映の三人娘(丘さとみ、大川恵子、桜町弘子)として活躍。主に時代劇中心だったが任侠映画・現代劇にも出演し、町娘役から汚れ役まで幅広い役を一途に演じ、中村錦之助や鶴田浩二の相手役としても熱演している。映画産業が隆盛を極めた昭和時代に130本以上の映画やテレビドラマで活躍した女優である。「三人娘の中で美人度は大川恵子かも知れないが、演技力は桜町弘子が頭一つ群を抜いていた」と語る人がいた。美人の尺度は個人の好みがあるので何とも言えないが、演技派と言う評価は納得する。

桜町弘子については別の機会に譲り、本項では浦辺粂子について諸資料を参考に整理しておこう。

 

◇ 浦辺粂子

浦辺粂子のイメージは、少し腰を曲げ、顎を突き出すようにして語る「浦辺粂子でございますウ~」の姿。映像とともに声まで蘇える。何故か、印象に残っているのは老け役ばかり。晩年のテレビ出演、バラエティ番組の影響が強いのだろうか。

粂子は4冊の著書があり、彼女の経歴や出演作品はそれらから知ることが出来る(「映画女優の半生」東京演芸通信社1925、「映画わずらい(共著)」六芸書房1966、「浦辺粂子のあたしゃ女優ですよ」四海書房1985、「映画道中無我夢中 浦辺粂子の女優一代記」河出書房新社1985)。いずれも古書でしか手に入らないが、「映画女優の半生」は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことが出来る。以下に、略歴を示す(付表12参照)。

粂子は、浅草オペラや旅回りの一座を経て日活京都撮影所に入り、「清作の妻」「塵境」「お澄と母」などに主演し性格女優として人気を博した。その後は日本を代表する老け役として活躍し、60年以上の女優生活の中で300本以上の映画に出演。晩年は、おばあちゃんアイドルとしてテレビのバラエティ番組にも多く出演した。昭和27年(1952)大映賞、昭和41年(1966)紫綬褒章、昭和52年(1977)第1回山路ふみ子映画賞 映画功労賞、昭和59年(1984)ゆうもあ大賞を授賞している。

  • 生い立ち、女優の道へ

明治35年(1902)10月5日、静岡県賀茂郡下田町(現下田市)で生まれる。本名は木村くめ。父は長松山泰平寺住職。父の異動(泰平寺→陰了寺→常照寺)で、明治42年(1909)河津町見高高入谷尋常小学校に入学、大正3年(1914)には愛鷹山麓の沼津金岡尋常高等小学校に転校。大正6年(1917)高等科卒業後、私立沼津女学校に進学。海や山に魅せられ情感豊かに育った粂子は、この頃から女優を夢見るようになる。

大正8年(1919)、女学校を中退して(*著書「映画女優の半生」には友人たちと「歌劇女優なろうとする会」を結成し、大正8年の卒業式で喜歌劇を演じ、卒業後に友人Fと上京し本郷で下宿した旨記されている)女優になろうと決意するが、厳格な父に猛反対される。父には内緒で母を口説き20円の金を借りて家出。沼津に来ていた奇術の松旭斎天外一座に加わって「遠山みどり」の芸名で一座とともに全国を巡業する。大正10年(1921)春、一座を抜けて上京。日活向島撮影所を訪ねるが門前払いされ、浅草の根岸歌劇団金龍館に採用されコーラスガールとして舞台に立つ。6か月を過ぎたころ、音楽部員外山千里の口利きで大阪の浪華少女歌劇団に移り「遠山ちどり」の芸名でお伽劇や舞踊劇に出演。

大正11年(1922)歌劇団を退団し、平和祈念東京博覧会歌劇団に入り「静浦ちどり」の芸名で舞台に立つ。博覧会が終わると、ここで仲間となった杉寛ことオペラ歌手杉山寛治に誘われ、旅回りの新派一座と合同のオペレッタ一座に加わる。横須賀へ巡業した際、新派の女優に活動写真出演を誘われ、高田馬場にあった小松商会に入社。演技の勉強するため新派一座玉椿道場にも出演する。

大正12年(1923)小松商会撮影所が解散すると、京都で旗揚げした沢モリノ一座に入り、新派の筒井徳二郎一座と合同公演をする。筒井一座の娘役が急病で倒れその代役に立ったところ座長に認められ、名古屋公演に同行。この頃から新聞の演芸欄に名前が載るようになる。

  • 日活時代

同年8月、日活装置部にいた波多野安正の薦めで女優採用試験を受け、日活京都撮影所に入社する。池永浩久撮影所長から「ちどり(千鳥)なんて、波間に漂っている宿無し鳥で縁起が悪い。静浦の浦を残して浦辺、それに本名のくめは縁起がいいから、子をつけて粂子」と改名を言渡され、芸名を「浦辺粂子」とした。同年公開の尾上松之助主演「馬子唄」がデビュー作。同年11月、日活向島撮影所が閉鎖され京都撮影所に合流し第二部の名称で現代劇部が設立されると、粂子も第二部へ移る。

大正13年(1924)、村田実監督の「お光と清三郎」、細山喜代松監督の「街の物語」に端役でテスト出演して合格し、村田監督・吉田絃二郎原作の「清作の妻」でヒロインお兼役に起用される。映画経験も浅く無名だった粂子はこの難役を見事に演じきり、一躍性格女優として注目を浴びた。続いて溝口健二監督の「塵境」に出演し古川緑波に絶賛され、演技派スターとしての地位を決定づけた。

  • 結婚・日活退社

その後も粂子は村田監督の「金色夜叉」、溝口監督の「曲馬団の女王」「乃木大将と熊さん」、三枝源次郎監督の「愛の岐路」「吉岡大佐」、阿部豊監督の「人形の家」などに出演。性格女優としてだけでなく、人気スターとしても酒井米子・沢村春子に次ぐ存在となる。

昭和3年(1928)京都の資産家の息子上野興一と結婚、日活を退社する。しかし、夫婦で競馬狂いになり結婚生活は1年で破綻。昭和5年(1930)離婚し日活に再入社。復社初出演は入江たか子主演の「未果てぬ夢」。溝口監督の「唐人お吉」「しかも我等は行く」では心理的表現の巧みさを評価された。

昭和6年(1931)日活大争議が発生し伊藤大輔、内田吐夢ら「七人組」が退社。村田監督に従って日活を退社し、入江ぷろだくしょんに入社。阿部監督の「光・罪と共に」「須磨の仇浪」などに助演し、溝口監督の「瀧の白糸」ではお銀という悪女を演じ本領を発揮する。

昭和8年(1933)新興キネマ太秦撮影所に入社し多数の作品に助演、やがて東京撮影所の作品にも出演する。昭和17年(1942)新興キネマが戦時下の企業統合で大映となり、粂子も大映所属となった。

  • 戦後の映画全盛期で活躍(大映所属、フリー)

戦後の映画全盛期には、確かな演技力を買われて他社の作品にも多く出演。老け役女優として活躍する。成瀬監督の「あにいもうと」「ひき逃げ」「乱れ雲」、豊田四郎監督の「雁」、市川崑監督の「私は二歳」、川頭義郎監督の「青空よいつまでも」、黒澤明監督の「生きる」、五所平之助監督の「煙突の見える場所」、木下惠介監督の「野菊の如き君なりき」、小津安二郎監督の「早春」「浮草」、溝口監督の「赤線地帯」、市川監督の「日本橋」、伊藤大輔監督の「切られ与三郎」、豊田監督の「恍惚の人」など脇役で好演する。昭和46年(1971)大映が倒産してからはフリーとなる。また、テレビドラマ制作が始まると出演が増え、活躍の場を広げた。

  • おばあちゃんアイドル

1980年代、粂子も80代となった。バラエティ番組出演が増え、彼女の明るいキャラクターは「おばあちゃんアイドル」として人気を博した。タレントの片岡鶴太郎がモノマネした影響があるのかもしれない。「ネタがすぐバレル手品」は有名だった。「ライオンのいただきます」では塩沢ときらとゲスト出演(準レギュラー)。森永製菓「つくしんこ」などのコマーシャルにも出ている。昭和59年(1984)「わたし歌手になりましたよ」で歌手デビューも果たす(当時、最高齢レコードデビュー記録であった)。

  • 不慮の事故・逝去

昭和61年(1986)には自宅の階段で脚を踏み外して転落する事故を起こしたが、一人暮らしで仕事がオフだったため、近隣の住民に発見されたのは3日後だったと言う。足腰が弱っていたこともあり、事務所関係者は老人ホームへの入院を勧めたが粂子はこれを拒み続けていた(週に何度かは家政婦が自宅を訪問)。

平成元年(1989)10月25日、渋谷の自宅で湯を沸かそうとした際に着物の袂にコンロの火が引火。火だるまとなり全身に大火傷を負って自宅前の道路で倒れている姿を発見され病院へと緊急搬送されたが、翌日東京医科大学病院で多臓器不全のため死去。享年87歳。全身の約70%にやけどを負っていたと言う。

◇ 一途に生きる

・伊豆の海や山を舞台に育った幼少期体験、早逝した三つ歳上の姉への思いが、一途な性格形成に役立ったのだろうか。粂子は少女時代からずっと夢を追いかけ続けて生きている。著書「映画女優の半生」序文の中で村田監督は「常にあまり多くを語らない、むしろ無口で温順しい浦辺君が、かくもだいたんな熱烈な抱負と熱情の詞を以て、この著があろうとは・・・」と述べている。物静かな夢追い人は秘めたる熱情の塊だったのだろう。

・趣味は競輪、麻雀、手品と語る。競輪は小津安二郎から手ほどきを受けてのめりこみ、競輪場では「顔パス」だったと言う。手品は出演するバラエティ番組で披露することもあったが、その仕草はコメデイを演じているようだった。

・紫綬褒章授賞式で、本名で呼ばれたとき「この賞は浦辺粂子がもらったものです」と怒りを露わに挨拶したと言うが、この逸話も粂子らしい。この拘りには伊豆人の不器用な一徹さが見える。粂子は女優「浦辺粂子」として生き、芸名を誇りにしていた。

・老け役女優としては北林谷栄の名前を挙げる人が多いかも知れない。また、近年では樹木希林など味のある名優が思い出されるが、浦辺粂子は飄々、淡々、どっしりと構えた真摯な演技で見る人を虜にしていた。何故か、笑いの中にも一途に生きる人間性を感じさせる魅力があった。

・家事は殆どせず出来たのは「コンロでの湯沸かし」だけだったと言うが、湯沸かし中にコンロの火が着物に燃え移ったために大火傷を負ったことが死因となった。何と皮肉なことだろう。浅香光代は「階段から落ちて大けがをした時に “私の家に来ませんか?” と勧めてみたが、かたくなに拒否されました。 “人間生まれる時もひとり、死ぬ時もひとり” が口癖でした」と語っている。頑なさは最期まで健在であった。

下田の田舎を歩いていると、「浦辺粂子でございますウ~」と言う独特な節回しの声が今も聞こえて来るような気がする。街角で粂子に出会っても、何の違和感もないなあ。

参照:浦辺粂子「映画女優の半生」東京演芸通信社1925ほか

(2021.1.8コメントを頂き、誤字訂正。ご指摘有難うございました)

コメント (1)
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下田生まれの日本画家「中村岳陵」と皮革工芸家「大久保婦久子」

2020-08-25 13:17:42 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田市が名誉市(町)民の称号を贈った人物はこれまで二人存在する。日本画家中村岳陵と皮革工芸家大久保婦久子の二人で、双方とも下田生まれである。中村岳陵は昭和37年 (1962)名誉町民の称号を、大久保婦久子は平成12年(2000)名誉市民の称号を贈られた。

因みに、名誉市民の称号は欧米で始められた制度で、主に公共福祉、学術、芸術、産業等に業績ある人に対して賞賛と尊敬の念を示す目的で贈られる。日本では、昭和24年(1949)仙台市が志賀潔、土井晩翠、本多光太郎らに名誉市民の称号を贈ったのが最初だと言う。

◇ 中村岳陵

中村岳陵が文化勲章を受章した日本画家であることは知っていたが、作品についての知識は乏しかった。書棚の片隅にあった冊子「郷土が生んだ日本画の巨匠 中村岳陵展」を参考に、岳陵の生き様を辿ってみよう。この冊子は下田市中村岳陵展実行委員会が平成13年(2001)「ベイ・ステージ下田」の開設に併せて開催した展覧会の資料であるが、十数年前「道の駅 開国下田みなと」に立ち寄った時、「岳陵も下田生まれだったのか」と購入したものである。

<略歴>

中村岳陵は明治23年(1890)3月10日、静岡県賀茂郡岡方村字岩下(現 下田市6丁目)で父中村筆助、母俊の三男(九人兄姉の末弟)として生まれた。本名は恒吉。下田尋常高等小学校四学年を終えた10歳のとき上京し、実姉コウの嫁ぎ先であった医師の家に寄宿しながら本所表町の明徳尋常高等小学校に入学し、12歳で池田孤邨門下の野沢堤雨について琳派を学んだ。慣れぬ都会暮らしで脚気を患い一時帰郷を余儀なくされるが、14歳のとき再び上京し土佐派の川辺御楯に師事して大和絵を学び、伝統的な武者絵を描く。同年の日本美術協会展では「名和長年船上山に登るの図」が入選。三年続けて日本美術協会展に出品し褒状を受けるなど画家としての一歩を踏み出す。15歳のとき師の御楯が死去、御楯の別号「花陵」から一字を譲り受けた画号「岳陵」を使い始める。

明治41年(1908)東京美術学校日本画科選科に入学。寺崎広業教授、結城素明助教授について学び、横山大観の知遇を得る。一方で革新的な日本画家の団体紅児会に入会し西欧絵画に触れ、ゴッホ、ルソーなど後期印象派の画風を取り入れた作品を描くようになる。在学中は東京美術学校学期全級合同競技などで優秀な成績を収め、飛級して首席で卒業。

明治45年(1912)第6回文部省美術展覧会(文展)に「乳糜供養」を出品し、初の官展入選を果たす。以降、再興日本美術院展(再興院展)を活躍の場として、「緑蔭の饗莚」「薄暮」「輪廻物語」「浮舟」「竹取物語」「貴妃賜浴」など古典的題材に取材した作品を出品。三十代には「婉膩水韻」「都会女性職譜」「砂丘」「砂丘」「緑影」など、都会的風俗を描いたものや現代風の作品を描く。院展同人として活躍する一方、大正3年(1914)に今村紫紅らと赤耀会を創立、昭和5年(1930)には福田平八郎、山口蓬春、洋画家中川紀元、牧野虎雄らと六潮会を設立して、それぞれの展覧会にも出品。この間、昭和3年(1928)日本美術学校日本画主任教授、昭和10年(1935)多摩美術学校日本画主任教授、同年帝国美術院参与、昭和十五年(1940)法隆寺金堂壁画模写主任を務める。

第二次大戦後は日本美術展覧会(日展)を中心に、さらには広く彩交会などでも活躍を続け、79才で没するまで制作意欲の衰えることはなかった。昭和22年(1947)帝国芸術院会員(日本芸術院会員)、昭和24年(1949)日展運営会理事、昭和33年(1958)日展運営会常務理事。昭和34年(1959)に大阪四天王寺金堂壁画を制作し、昭和36年(1961)朝日文化賞、毎日芸術賞を受賞。昭和37(1962)文化勲章受章、文化功労者に列せられ、下田町名誉町民の称号を贈られた。現代日本画壇の重鎮として、華やかな足跡を残したと言えよう。昭和44年(1969)11月20日逝去。享年79才。岳陵年譜を付表12に示したので参照されたい。

なお、「富士山の絵」「女性画」の2点が母校の下田市立下田小学校に寄贈されている。

<作品の特徴>

  • 功績

岳陵は歴史画、人物画、宗教画、風俗画、風景画、花鳥画など、多彩な分野の作品を残している。特筆されるのは、大和絵の伝統的な技法を基礎にして、油絵の表現、暈し技法など後期印象派の画風を採り入れるなど常に挑戦的な試みを続け、新たな日本画の境地を築き上げたことにあろう。岳陵の生涯は近代日本画壇の歴史に重なる。

金原宏行は「岳陵芸術は最初の歴史画から大和絵、風俗画、花鳥画、また人物画と多彩であり、それらは新感覚の風景画に生かされている。一貫しているのは自然観察であり・・・どの作品にも過剰な抒情性は見られず、時代の空気を敏感に吸っている。その画面には西洋と日本の伝統がないまぜになった自由さがあり、晩年の鳥や花の描写も単なる花鳥諷詠的な伝統回帰に終わっていない」と、中村岳陵展資料の中で述べている。

岳陵は「自然をよく見ること、優秀な作品に目を向けること、スケッチに励むことの三つを画家の心得るべきこと」と話していたと言うが、一連の作品はどれも作者の意図の結晶であるように見える。

  • 何故、画家になったのか。

奥伊豆の農家に生まれた恒吉(9人兄姉の末っ子)が画家になろうとした動機は一体何だったのだろう。10歳で上京したのは、絵を学びたいと思ったからなのか。尋常高等小学校を終える12歳で江戸琳派の大家野沢堤雨に入門したのは誰の勧めだったのか。病気で一時帰郷を余儀なくされるが、父と堤雨が逝去したのち再度上京する岳陵の背中を誰が押したのか。14歳で土佐派の先覚川辺御楯に師事した岳陵は同年の日本美術協会展で早くも入選を果たすなど、若くして技量の高さを見せている。

「中村岳陵の人と芸術」(金原宏行2001)の中に、「近所の絵凧を描く人が恒吉をかわいがり、絵が好きになった恒坊は毎日絵ばかり描いていた」との記述があるが、この幼少時体験が技量を高めたと想像できる。この時点で周りの人々も恒吉の絵心、才能を認めていたのではあるまいか。

  • 色彩画家と呼ばれる。

岳陵は色彩画家と呼ばれる。豊富な色を使いながら、落ち着いた、穏やかな色彩の作品が多い。美術評論家中村渓男氏(岳陵長男)は、下田を訪れた時の印象から「父岳陵が色彩画家と言われていたその原点は、すばらしい下田という郷里の色であった・・・兼ねがね私は父岳陵の絵に描かれた色彩の妙はどこから生まれて来るのか考えさせられていたが、それはあの南伊豆の和かい光線とそれによってかもし出される不思議な調和と言うハーモニー、これは矢張り南伊豆にさんさんと照る太陽の繊細な感覚があふれ出ている郷土色の特徴なのではなかろうか」(中村岳陵展2001)と述べている。

故郷の幼少時体験は作品の奥深い所に自然と滲み出る。絵画に限らず芸術作品とは作家の生き様なのだろう。

  • 人となり

大久保婦久子は、岳陵に会った時の印象を「非常に丹精で上品で、しかも大らかなお人柄」と述べている。また、金原宏行は岳陵について「人となりは、芯が強く、凛とした態度を保持し、いつでも真剣勝負で来いと言う風情で、澄んだ声の持ち主であった」と述べている。岳陵に会ったことはないが、写真から受ける印象は確かに丹精で、凛とした風に見える。幼少時から晩年まで一途に日本画の神髄を追い求める挑戦者の心を持っていた岳陵。一途さは矢張り伊豆人の証である。

◇ 大久保婦久子

大久保婦久子は、日本芸術院会員、文化功労者・勲三等瑞宝章及び文化勲章を受章した皮革工芸の第一人者であるが、その名前を知る人はそれほど多くないかも知れない。今でこそ、レザークラフト美術展が開催され各地のクラフト教室が賑わっているが、皮革工芸は日本ではマイノリテイな分野であった。

皮革工芸についてブリタニカ国際大百科事典は、「動物の皮革を基本材料とする工芸」と定義し、「制作基本技法には縫製、編み組、接着、成形などがあり、装飾技法には染色、彩絵、メッキ、型打ちなどがある。その歴史は人類の始原以来展開されてきたが、芸術としての皮革工芸品は、中世の南欧、近世のイタリア、ハンガリー、ボヘミアなどで、服飾品、家具、袋物、装丁などのすぐれたものが作られた」と説明している。肉食民族のヨーロッパに比べ日本の皮革利用が遅れたのは確かだが、わが国でも漆皮箱、武具、煙草入れなど精巧な作品が残されており、その技術は伝承されている。

<略歴>

大久保婦久子は大正8年(1919)1月19日下田町(現下田市)に生まれた。本名ふく。昭和6年(1931)下田尋常高等小学校を卒業し、静岡県立下田南高等女学校(現 県立下田高等学校)に入学。昭和10年(1935)同校を卒業して女子美術専門学校(現 女子美術大学)師範科西洋画部に入学。昭和14年(1939)同校を卒業。在学中に皮革染織を学んだことがきっかけで、皮革工芸制作を始める。昭和27年(1952)第8回社団法人日展第四科工芸部で「逍遥」が初入選、以後日展及び現代工芸美術家協会展を中心に活躍、昭和36年(1961)「うたげ」で日展北斗賞、昭和39年(1964)「まりも」で日展菊華賞を受賞。更に、昭和44年(1969)総合美術展「潮」を結成し、同展及び現代女流美術展、現代工芸展にも活躍の場を広げた。昭和62年(1987)には皮革造型グループ「ド・オーロ」を結成し代表に就く。

昭和56年(1981)第20回現代工芸展「折」で内閣総理大臣賞受賞。昭和57年(1982)第14回日展に「神話」を出品し、翌年この作品により第39回恩賜賞日本芸術院賞を受賞。昭和60年(1985)皮革工芸では初めて日本芸術院会員となる。昭和60年(1985)現代工芸美術家協会副会長、昭和61年(1986)日展常務理事の任に就く。平成7年(1995)文化功労者、平成12年(2000)文化勲章を受章した。11月3日皇居で文化勲章親授式に臨んだが、翌日に体調が悪くなり11月4日心不全のため急逝、受章の翌日だった。享年81歳。同年、故郷の下田市は名誉市民の称号を贈り、平成16年(2004)には大久保婦久子顕彰基金条例を制定した。また、母校の女子美術大学には奨励賞制度の一つとして大久保婦久子賞がある。なお、付表13に大久保婦久子年譜を示した。

<作品の特徴>

昭和33年(1958)7か月間、皮革工芸研究のためイタリアに滞在し、皮革装飾の技術を学ぶ。1950年代の作品は家具などの装飾に皮革を素材とした造型作品を用いたものが多かったが、1960年代に入ると皮革を素材とする造型作品自体を独立させるようになる。

1960年代後半には皮革表面を打つことによる凹凸の表現のみならず、編みこみ、張り込みなど多様な技法を用いるようになり、1970年代後半からは縄文など古代のモチーフに興味を抱き、縄目やうねりを作品に取り入れるようになった。このような歩みの中で、清新で格調高い独自の作風を確立した。江戸時代まで仏具、武具、煙草入れなどに持ちられていた日本の皮革工芸技術を、造型芸術作品に高めた先駆者でもあったと言えるだろう。代表作に総理大臣賞の「折」、日本芸術院恩賜賞の「神話」など、他にも「創生」「軌」など作品多数。モンゴル芸術大学名誉教授。

参照:(1)下田市中村岳陵展実行委員会「中村岳陵展」2001、(2)金原宏行「中村岳陵の人と芸術、凛として清純さを失わない画風」2001、(3)東京文化財研究所データベース2020、(4) ブリタニカ国際大百科事典、(5)日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」2004

 

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伊豆の人、今村伝四郎藤原正長

2020-08-07 14:59:50 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

昭和22年(1947)制定の下田小学校校歌(作 田中芳樹・土屋康雄・今成勝司)に「愛の正長 技の蓮杖 学の東里を育みて・・・」とその名を謳われる三名の人物。「技の蓮

杖」とはわが国写真術の開祖と呼ばれる下岡蓮杖、「学の東里」とは著名な陽明学者で清貧に生きた天才詩文家と称される中根東里のことである。二人とも下田生まれ、本書「伊豆の下田の歴史びと」ですでに紹介した。

もう一人の「愛の正長」とは誰か? 下田奉行今村伝四郎正長のことである。三河の人なのに、下田の人々から「愛の正長」と親しみを込めて呼ばれる正長とは一体どんな人物だったのか。

◇ 下田奉行今村伝四郎正長

今村家の遠祖は藤原鎌足に連なると言われる。相模国河村城の城主になった河村三郎義秀は源頼朝に仕えたが、その曽孫五郎秀村のとき河村城を捨て三河国今村郷に移り住み姓を今村に改め、郷士となった。その後幾代か経て、大永7年(1527)今村彦兵衛勝長が徳川家に仕えることになった。勝長は、徳川清康、弘忠、家康三代に仕え、数々の武勲をたてたことで知られる。

今村彦兵衛重長(初代下田奉行):勝長の嫡子。重長は家康、秀忠に仕え数々の武勲をたて、元和2年(1616)目付となり伊豆国に2,200石を知行、下田奉行に任じられる(初代下田奉行)が、老齢のため下田に赴任せず子の正長が職務を代行した。寛永4年(1627)逝去、勝長と同じ岡崎善立寺に眠る。

今村伝四郎正長(第二代下田奉行):18歳になった正長は直参旗本に取り立てられ、二代将軍秀忠の御書院番に選ばれる。25歳で旗本石川八左衛門の娘を妻に迎える。初陣大坂夏の陣で軍功あり1,300石を賜る。元和元年(1615)下田港警備を命じられ、騎馬武士10人と歩卒50人とともに下田へ赴き、遠見番所を設け警備に当たる。寛永4年(1627)第二代下田奉行を継ぐ。多くの治績(船番所の整備、町の区画整理、防風林の植林、社寺振興と下田太鼓祭りの開始、武ヶ浜波除け築堤など)を残したことで知られる。正長の知行は上総国で1,350石、下田知行地(下田、本郷、柿崎、須崎、大賀茂、下賀茂、青野、市之瀬など)2,200石を加え3,600石であった。正長は下田奉行職の傍ら、徳川家直参旗本として特命を受け目付、将軍随行、長崎奉行など諸行事に関わり務めを果たしている。正長の下田奉行職の在任期間は代行を含め37年間に及ぶ。承応2年(1653)下田で逝去。享年66歳。了仙寺に眠る。墓碑銘は今村伝四郎藤原正長(了智院法仙日泰霊位)とある。

なお、第三代下田奉行は正長と昵懇の石野八兵衛氏照が継ぎ、承応2年(1653)から16年間下田奉行を務めた。御番所の整備、七軒町から大浦に抜ける切通し工事、回船問屋の制度確立、隠居同心、火の番小屋の設置など、正長の理想を完成させた。切通し工事は入港の回船から帆一反につき銀一匁を納めさせ、住民には費用を一切負担させなかったと言う。住民に負担を掛けない方式は正長の波除築造の考えを継承している。

今村伝三郎正成(第四代下田奉行):正長の子正成は寛永8年(1668)下田奉行を継ぐ。正長、氏照の治世を継承したが、上水道の敷設は正成の特筆すべき事績と言えよう。井戸水の水質が悪く住民が困窮しているのを見て、中島の水源から道路の地下に木管を埋設して全町に水道を引いた。この上水道整備は時代を先取りする事業であった。在職10年江戸で逝去。享年68歳。了仙寺に葬られた。

・今村彦兵衛正信(第五代下田奉行):正成の子正信が延宝6年(1678)下田奉行を継いだ。在職5年、天和3年(1683)下田で逝去。享年43歳。了仙寺に眠る。正信には子が無かったため今村家は断絶。

この後、第六代下田奉行は服部久右衛門となった。久右衛門は、水道は不用として木管を掘り出しこれで辻木戸を作り、夜間は辻木戸を締め夜盗を防いだと下田歴史年表に記されている。享保6年(1721)御番所は江戸に近い浦賀に移転することになり下田奉行は廃止され、浦賀奉行所支配の浦方御用所が置かれた。

◇ 下田奉行

下田奉行は幕府直轄領に置かれた遠国奉行の一つである。下田奉行は開国の歴史に翻弄され設置、廃止が繰り返され、三つの時代がある。

・第一次:元和2年(1616)~享保5年(1720)

下田港が遠州灘と相模灘の追分にあって江戸~大坂航路の風待ち港として重要な地位を占めていたことから、港の整備、船舶の監督、貨物検査などが重要な仕事であった。今村家四代にわたる下田統治は下田の礎を築く時代であったと言えるだろう。

・第二次:天保13年(1842)~天保15年(弘化元年、1844)

天保13年12月には外国船の来航に備え、海防のため下田奉行が再設置された。小笠原加賀守長毅が浦賀奉行から下田奉行となり、須崎の洲左里崎、狼煙崎(鍋田浜と吉佐美の間)に御台場を築城したが、翌天保15年(弘化元年)2月には御台場廃止、同年5月下田奉行も二代土岐丹波守をもって廃止となった。

・第三次:嘉永7年(1854)~元延元年(1860)

嘉永7年3月に日米和親条約が神奈川で調印され、下田が箱館とともに開港と決まったため、下田奉行が再々設置され佐渡奉行都築駿河守峯重、浦賀奉行伊沢美作守摂津守政義が急遽初代下田奉行任命された。米使ペリー提督艦隊が下田に入港すると、林大学頭・井戸津島守・鵜殿民部少輔・松崎満太郎らと交渉にあたる。奉行所は宝福寺・稲田寺を仮事務所にしていたが、安政2年(1855)中村に奉行所を建設。欠乏所も設置された。伊沢美作守はロシア使節プチャーチンとの交渉に当たっていた筒井政憲・川路聖謨の補佐役にも従事。また、安政3年ハリスが駐日総領事として下田に来航すると下田奉行は岡田備後守忠養、井上信濃守清直(川路聖謨は実兄)、中村出羽守が就任した。安政6年(1859)日米通商条約が締結し横浜開港となると下田港は閉鎖、元延元年(1860)下田奉行も廃止となった。下田が歴史の表舞台に登場したのはこの第三次下田奉行が置かれた僅か七年間であった。

◇ 正長の治績

下田開国博物館編集「肥田実著作集、幕末開港の町下田」に正長の治績が詳細に述べられているので、その概略を紹介しよう。

(1)須崎の越瀬(おっせ)に遠見番所を設け警備にあたる。

元和元年(1615)下田港警備を命じられた正長は、同心50人で沖を通る船を見張り、追船で乗り付けては、女・子供・手負いなど怪しい者が乗っていないか改めたと言う。現在、越瀬に御番所址の石碑が残されている。

(2)下田船改番所の整備

嘉永13年(1636)須崎の遠見番所は大浦に移され、船改番所として整備された。また、鍋田に鎮座していた祠を大浦に移し鎌倉の鶴岡八幡宮を祀り祈願所とした。この年は参勤交代制が実施された翌年にあたり、船改番所の主目的はいわゆる「出女入鉄砲」監視であった。江戸に出入りする諸国の回船は下田船改番所に立ち寄り、宿手形,荷手形を示して船改めを受けなければならなかったのである(海の関所)。

一方、下田沖は海の難所で遭難する船も多く、海難処理も重要な仕事であった。与力や同心だけでは業務が処理しきれない状態になり、正長はかつての配下であった隠居同心28人に回船問屋を申し付け御番所の業務を補佐させた(回船問屋は63人まで逐次増員された)。問屋衆は下田特有の制度であったが、世襲制で、武士ではないが大半の者は名字帯刀が許されたと言う。なお、幕藩体制が固まり治安が安定してくると、享保6年(1721)御番所は浦賀に移され下田奉行は廃止、その後は浦賀奉行所出張所「浦方御用所」が置かれた(場所は澤村邸の辺り)。

(3)武ヶ浜波除けを築く

当時の下田は波浪が市街地に迫り暴風雨が来ると民家が流されるなど被害が大きく、また稲生沢川の河口は土砂が堆積し船の係留も出来なくなることが多かった。正長は港の西側に防波堤を築くことで被害を防ごうと計画、宰領には家臣の薦田景次、太田正次が当った。武山の山麓から切り出した石を運び、高さ2丈(約6m)、長さは直角に曲がった部分を含め6町半(約700m)、寛永20年(1643)から始めて3年目の天保2年(1646)8月8日に完成。この工事では、稲生沢川の先端部分を石堤で絞ることによって水流を強め、土砂を放出し川底が浅くなるのを防ぐ工夫も加えられていた。

この工事にあたり正長は幕府の補助を一切受けることなく、自らの俸禄と私財をなげうって成し遂げた。その後何回か洪水や津波によって破壊されるが、正長が幕府に申し立て、以降の修復は幕府の負担で行われている。長い年月を経て石堤の外側に土砂が寄り、更に埋め立てが行われ現在の武ヶ浜が出来上がった。

(4)城山などの植林

下田城の戦いの後、正長は松を植林。丹精を込めて管理した松はその後も幕府、明治政府、町有林として管理され、防風林及び魚付林として恩恵をもたらした。

(5)社寺の振興、太鼓祭り

正長は敬神の念篤く、大浦八幡宮建立、武山権現社修復、下田八幡神社の修復、了仙寺の開基、大安寺等多くの社寺に寄進するなどしている。人々の信仰も暑かった時代である。また、住民が心を一つにして取り組めるよう八幡神社の祭典を興した。各町が太鼓繰り出す住民総参加型の祭典は太鼓祭りとも呼ばれるが、その旋律は徳川方大阪城入場の陣太鼓を模したと言われている。

◇ 第二の故郷のために

下田奉行を37年間務めた今村伝四郎正長。多くの治績を残したが、私財を投じて行った武ヶ浜の波除け築堤は下田の将来を見据えたものであった。この事業には、住民に負担を掛けまいとする深い配慮があった。正長は下田を第二の故郷と思い、無私の心で工事を進めた。人々は正長の心に愛を感じたに違いない。町民は正長の偉業を称え武山権現社の境内に勒功碑を建てた(大正3年巳酉倶楽部により修復され現在地に移転)。関東大震災の折には、防波堤のお陰で下田は惨事を免れたと町民は「今村公彰徳碑」を建てた。

そして今もなお、下田小学校の子供らは校歌で正長の偉業を学び、「今村公を偲ぶ会」など正長の功績を語り継ぐ人々がいる。

参照:下田開国博物館編集「肥田実著作集、幕末開港の町下田」二〇〇七

 

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「下田北高」の校訓を思い出す(校訓考)

2019-08-02 19:03:28 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田北高の校訓(校訓考)

地域のFM放送に出演することになったとき、パーソナリテイのHさんから自己紹介を求められ、「高校は何処ですか?」と尋ねられた。「下田北高」と答えたが、北海道では知る人もいないだろうから、「十勝開拓で知られる晩成社の創始者依田佐二平(勉三の兄)が明治12年に創設した豆陽学校が創始で、現在の下田高等学校・・・校訓は至誠だったかな」と答える。

後日HPで調べると、下田高の校訓は「至誠/雄飛/献身」、「何事にも誠実に取り組む」「広く日本や世界で活躍する」「地域のために尽くす」とある。在籍当時の校訓を確認しようもないが、下田南校との合併など組織改変があったので校訓も変わった可能性はある。

小学館デジタル大辞典によれば、校訓とは「学校で、教育上特に必要と思われる教えを成文化し、学校生活の指針とするもの」とあるが、高校時代にどれだけ校訓を意識していたのか記憶はない。ましてや、校訓が後の人生に影響したなどと言うつもりは毛頭ないが、歳を取ると歩みし此の方を重ねて見たくもなる。

至誠:高校卒業後は縁あって北大農学部で学び、北海道の農業試験場では大豆育種に携わった。誠実な仕事ぶりと言う評価は当たらないと思うが、一つの仕事に長く関わり多くの新品種を世に出すことが出来た。育種事業は泥臭く何より地道な取り組みを必要とするので、伊豆気質と言われる性分(よろず一筋なり)はこの仕事にあっていたのかも知れない。

雄飛:北海道で大豆育種に関わっていた縁で、国際協力事業団の派遣専門家として海外で働く機会が巡ってきた。中でも、南米アルゼンチン共和国での2年6ヶ月(30代後半)、パラグアイ共和国での5年間(60代)は、苦労も、喜びも味わい、良い体験となった。幸いなことに、これらプロジェクト評価は高いものだったと聞く。奥伊豆から北海道へ、さらに南米へ、雄飛と言えるかどうかわからないが忙しい人生だったことは間違いない。

献身:晩年、恵庭に居を構えた。北海道の他の都市と同じく、明治の時代に府県から移住者を迎え開拓が進んだ街で、人口7万人弱、札幌近郊で新興住宅地が多い農村都市である。散歩がてらに、記念碑、野外彫刻、神社仏閣などを訪ね資料を収集し、一昨年「恵庭の記念碑」「恵庭の野外彫刻」「恵庭の神社・仏閣・教会堂」なる冊子を自費出版した。「歴史を知ること、地域を知ることが故郷を愛することになる」との思いをこめた、いわば、この街への贈り物。このような資料がなかったので、興味を懐かれた方も多かったようだ。

校訓とこれまでの歩みを重ねてみた。まあまあ良しとするか?(振り返れば、失敗の繰り返しで落ち込むことが多い人生だったが、凡々と暮らし何とか帳尻を合わせたものだ)。現役生の皆さんに、母校の校訓がどのような形で浸透しているのか気になるところではある。

◆恵庭所在校の校訓は?

ところで、今暮らしている恵庭の校訓はどんなものかと気になった。調べてみると、「校訓」の下に「教育目標」を掲げ、さらに重点目標、実行目標など具体的に示している場合が多い。

1.恵庭北高の校訓は「拓学」~心豊かに、真理を求めて~とあり、「この校訓には、先人が、雄々しく、力強く、豊かに郷土を拓いた、その不屈の精神で、一人一人が久遠の理想、真理を求め、学ぶという意味が込められています」と説明している。

2.恵庭南校の校訓は、「自主、協同、創造」とある。

3.小中学校の場合は、「教育目標」「目指す子供像」のような形で表現している。例えば、「知、情、意、体」「知、徳、体、労」などの言葉で示されている場合が多い。

◆教育目標

例えば恵庭北高では、校訓に続き教育目標を示している。即ち、「学校教育目標」として、~人生の生き方を自ら決定できる人間~、①知性を磨き、創造性豊かな人間を育成する、②社会性を重んじ、主体的に行動できる人間を育成する、③心身を鍛え、何事にも粘り強くやり通す人間を育成する、④自他の人格を尊重し、互いに協力し合える人間を育成する、の4項目を具体的に提示している。さらに「育成を目指す資質・能力」として到達点(具体像)を示し、「重点目標」を定めている。

校訓を頂点にピラミッド構造で下に基本目標、実行目標置いたと考えられる。が、言わずもがなの重複感は拭えない。

校訓を「教育上特に必要と思われる教えを成文化し、学校生活の指針とするもの」とするなら、シンプルでインパクトある言葉を設定し、個々の想像力に委ねるべきだろう。

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伊豆の人,韮山代官「江川太郎左衛門英龍(坦庵)」

2019-06-07 09:31:03 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

1日乗り放題の周遊バス「歴バスのるーら」は50分間隔で運行している。韮山反射炉の見学を終えて次の便に乗車した。目的地は「江川邸」。江戸時代の世襲代官を務めた江川家の邸宅である。主屋を中心に書院,仏間,表門,裏門,肥料庫,米蔵,武器庫などが残され,江川太郎左衛門英龍(坦庵)にまつわる資料が展示されている。

主屋は,13間(24m)×10間(18m)と大きく,広い土間からは高さ12mにもなる茅葺きの大屋根を支えてきた小屋組の荒々しい架構が眺められる。土間には生えていた欅の木をそのまま利用したとされる「生き柱」が立っている。また,玄関脇には,使者の間,控えの間,塾の間などもあり,そこに佇めば歴史が蘇る。樹齢を重ねた屋敷の樹々も当時の面影を彷彿とさせる江川邸である。

 

1.江川太郎左衛門英龍(坦庵)の生い立ち

◆江川太郎左衛門英龍は韮山代官江川英毅(江川家35代当主,代々太郎左衛門を名乗る)の次男として生まれる。名は英龍,幼名は芳次郎,号を坦庵(たんなん)と称した。父英毅は42年間にわたり,農地の改良・商品作物の開発など職務に尽力し名代官と呼ばれた人物である。

◆少年時代の英龍は兄倉次郎(英虎)とともに,父から直々の教育を受け6歳頃から「論語」「大学」など儒学を学び,母からは厳しさと優しさ,人の上に立つ心構えを学んだと言う。次男で気楽な部屋住み時代に色々な分野の人物と交友したことが,その後の人生に大きく影響したと考えられる。

◆堀内永人「韮山反射炉の解説」(文盛堂書店)によれば,父英毅の多彩な交友関係の中から,①儒学は水戸学の藤田幽谷,市川寛斎,山本白山,②漢詩は山梨稲川,大窪詩仏,頼杏坪,③戯作は大田南畝,山東京伝,④医学は杉田玄白,宇田川玄真,⑤書道は市川米庵,大窪詩仏,⑥測量は間宮林蔵,⑦絵画は谷文晁,大国士豊,立原杏所に師事。武道は荒稽古で有名な剣道場,江戸神田の神道無念流岡田十松の「撃剣館」に入門,2年後に免許皆伝,撃剣館四天王の一人に挙げられたと言う。

◆堀内永人は,撃剣館での様々な人との出会いが英龍の人生に大きな影響を与えたと述べている。例えば,①斎藤弥九郎:幕末の剣豪,英龍が最も信頼した人物,②藤田幽谷・藤田東湖:儒学者,水戸学(尊王攘夷)の権威,③会沢正志斎:儒学者,勤皇思想,④渡邉崋山:儒学者,画家,⑤高野長英:蘭方医,洋学者,⑥幡崎鼎:蘭学者,蘭方医,英龍蘭学の師,⑦川路聖謨:幕臣,勘定奉行,外国奉行,英龍のよき理解者,⑧羽倉外記:幕臣,儒学者,勘定吟味役らである。確かに,各分野のオピニオンリーダーたちである。

◆江川太郎左衛門自画像が残されている。面長で,眉は太く,黒目を大きく見開き,鼻は高く,グイと引き結んだ口元が印象的である。役者絵のような存在感がある。

2.韮山代官としての英龍

◆韮山代官は,伊豆・駿河・相模・甲斐・武蔵にある幕府直轄地の支配を担当する行政官である。英龍は,天保5年(1834)父英毅逝去に伴い家督を相続(兄英虎は24歳で死亡),翌天保6年(1835)韮山代官に任命された。

◆伊豆の国市文化財課「韮山反射炉」栞を引用する。「当時の日本は,全国的な飢饉に見舞われていて,各地で一揆や打ち壊しが頻発していた。また,異国船が相次いで来航し,補給や通商を求めてくるなど,まさに内憂外患と言っていい状態であった。・・・内政面では,飢餓で病弊した管轄地の村々を立ち直らせることが急務であった。英龍は自ら率先して質素倹約に努め,部下たちにも勤務精励と徹底した節約を求めた。また,村々を巡回して村役人への説諭と窮民の救済にあたった。同時に,各地に部下を派遣して実状を調査し,時には甲州微行図にあるように自身が現地に足を運び,正確な情報を得ようとする努力を惜しまなかった。加えて,困窮した村に対し長期低金利の貸付金を設定するなど,金融面の対策も積極的に導入している。そうした様々な努力の結果,韮山代官の管轄地の人々は英龍に心酔し,英龍は世直し江川大明神と称されるようになった(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」栞,平成31)」

◆この地方は二宮尊徳の報徳精神が強く根付いた地域である。英龍も尊徳の教え(質素倹約,殖産振興)を受けひろく実践した。新田開発,田畑改良,道路や橋梁の改修など環境整備に努め,救済事業を推進するなど領民の幸せを願った施策を行った。

◆嘉永2年から3年(1849-50)にかけて天然痘が大流行した。英龍は牛痘種痘法をわが子に治験し,役人の子供らを初め領民にも種痘を進めた。その結果,管内の天然痘被害は軽微であったと言う。

◆安政元年(1854)マグニチュード8.4の地震が発生し,日露外交交渉最中の下田は津波で甚大な被害を受けた。875軒のうち841軒が流失し,死者は総人口3,851人中99人(幕府からの出張役人などを含めると122人と推定される)であったという。幕府の救済支援も素早い立ち上がりをみせ,英龍はその日のうちに「お救い小屋」を設置し粥の炊き出しを行い,翌日には被災者の調査や対応策を処理し,幕府から米1,500石,金2,000両を下田へ届けた。

◆沈没したロシア艦船デイアナ号を修理(造船)することになり,英龍が建造取締役に任命された。英龍の指揮のもと天城山や沼津千本松原から木材が運ばれ,戸田村の船大工たちはロシア人の指導を得ながら設計図を頼りに3か月の突貫作業で100トンの西洋型帆船を完成させた(我が国初)。プチャーチンは人々への感謝を込めて「ヘダ号」と命名,部下47名と共にこの船で帰国(後に日本へ大砲52門を添えて返還・贈呈された。この時英龍は逝去していた)。建設に係った船大工たちは,各地で造船技術の普及指導にあたり我国造船業の礎を築いた。

余談になるが,安政3年に返還されたヘダ号は2年近く下田に繫留されていた。江川太郎左衛門(英敏)の手代となっていたジョン万次郎は漂流後アメリカ捕鯨船に乗り込んでいた経験から,この船に目をつけ捕鯨船に改良し出帆するが嵐に遭い破損し断念。その後,ヘダ号は箱館戦争に参加,函館で廃船になったと伝えられている。

 

3.海防政策推進者としての英龍

◆再び,伊豆の国市文化財課「韮山反射炉」栞を引用する。「英龍は,行政官として能力を発揮する一方で,海防問題にも深い関心を寄せていた。・・・幡崎鼎や渡邊崋山,高野長英といった蘭学者と親交を結び,より深く西洋事情を知って行く中で,日本にとって海防が必要不可欠であるとの思いを強くしたのであろう。後に形を成す英龍の功績の多くは,この海防というテーマを実現するために推進された事業にほかならない。西洋砲術の導入と普及,品川台場の築造,パン食の導入,農兵制度や海軍創設の建議,そして反射炉による鉄製大砲の鋳造。いずれも日本に進出してこようとする列強国と,いかに対峙するかの具体的な方法論であった。・・・英龍は,韮山反射炉の感性を見ることなく世を去ったが,反射炉築造という大型プロジェクト成功の功績は,まさにリーダーであった英龍に帰すると言える。情報収集と分析に始まり,人材の確保,実現可能なプランの策定など,事業を推進していく上で必要な総合力が,江川英龍という人物には備わっていたのである(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」栞,平成31)」

◆天保13年(1842)英龍は,砲術を学びたいと言う者を韮山に集め私塾韮山塾を開く。江川邸玄関脇の18畳一間を教室に当てた(塾の間と呼ばれた)。塾生の中には,佐久間象山,川路聖謨,橋本佐内,桂小五郎,黒田清隆,大山巌,伊藤祐亨らが名を連ねる。

◆天保13年(1842)4月12日,日本で初めて携行食糧としてパンを焼く。兵糧や飢饉のための備蓄食料として適していると判断したものである。江川邸の一角からパン釜の切り石が発見され,江川邸の土間に再建されている。業界では4月12日を「パンの日」と定め英龍を「パンの祖」と慕っている。邸内には,徳富蘇峰の筆による「パン祖江川坦庵先生邸」の碑が建っている。

◆洋式号令を採用する。「気ヲ付ケ!」「前ヘ倣エ!」「右向ケ右!」など今でも使われる歯切れのよい号令は,オランダ語を翻訳したもので,英龍が考え実行したものだと言う。

◆武士に代わる軍隊の必要性を痛感し「農兵隊」を編成。「農民はすぐに戦力にはならないが,訓練すれば国家防衛に役立つ」と農民の潜在力を認め登用を計画。下田警備のため足軽身分の農兵隊許可が幕府から降りると,すぐに農兵隊を編成し訓練を行った。高杉晋作の奇兵隊より17年も前のことである。「農兵節」は民謡として今も歌い続けられている。

◆嘉永6年(1853),ペリー提督やロシアのプチャーチン提督が来航し日本中が騒然となる中,英龍は「勘定吟味役格海防掛」を命ぜられた。また,同年7月「江戸湾砲台築造」を拝命。直ちに台場築造に着工し1年8ヶ月で完成させた。

◆嘉永6年(1853)7月,下田反射炉の築造許可申請書を提出。同年12月,反射炉建設の御用を仰せ付かる。その後の経過については,拙ブログ「韮山反射炉再訪2019.6.3」に記したとおりである。

  

4.英龍没する

◆嘉永7年(1854),54歳になった江川太郎左衛門英龍は多忙を極めた。①韮山代官,②勘定吟味役格,③海防掛,④江戸湾台場の築造工事責任者,⑤幕府の砲兵隊長(鉄砲方),⑥反射炉築造工事責任者,⑦デイアナ号の支援責任者などを兼務していた。英龍がいかに有能で,幕府の信頼を得ていたか想像に難くない。激務の結果病を得て,主治医大槻俊斎を初め16人の医師団が治療にあたるも,安政2年(1855)1月16日逝去。病名は腸胃性リウマチ熱であった。享年55歳。法名修功院殿英龍日淵居士。江川家菩提寺の日蓮宗「本立寺」に眠る。

◆江川太郎左衛門英龍が手掛けた事業は,英龍亡き後も継承され大きな実を結んでいる。韮山代官,江川家36代当主江川太郎左衛門英龍(坦庵),まぎれもなく歴史に残る伊豆人のひとりと言えよう。伊豆人特有の「無私」の心を持つ日本人であった。

 

参照:堀内永人「韮山反射炉の解説」文盛堂書店2015,肥田稔「幕末開港の町下田」下田開国博物館2007,肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館2009,伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」栞2019)

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「韮山反射炉」再訪

2019-06-02 19:08:50 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

2019年5月の或る日、河津から天城峠を乗合バスで越え、修善寺で伊豆箱根鉄道に乗り換え伊豆長岡を訪れた。「韮山反射炉」を70年ぶりに訪ね、江川太郎左衛門英龍の足跡に触れて見ようと思ったのが旅の始まり。前日は季節外れの暴風雨で天城峠は交通止めになっていたが当日は天候も回復し、緑滴る天城路は爽やかだった。

伊豆長岡駅の蕎麦屋で椎茸そば(美味)を食べ、1日乗り放題の周遊バス「歴バスのるーら」に乗車。韮山反射炉バス停まで10分。当日は、5月だと言うのに外は30度を超える暑い日であった。

先ず、平成28年(2016)にオープンした韮山反射炉ガイダンスセンターで歴史を学び、修復なった韮山反射炉を見学する。隣接する物産館に立ち寄る。

 

 

◆旅の動機

小学生の頃、下田へ出る途中に「反射炉跡」と呼ぶバス停があった。下田街道(国道414号)を下田に向かって走り「お吉が淵」の信号を右手に別れる道路が旧国道で、山裾を這うように曲がりくねった細い道が稲生沢川に沿って「河内」「中ノ瀬」「本郷」地区を抜け、伊豆急下田駅前(本郷交差点)まで続いている。当時はこの道をバスが走っていた。現在もこの沿線(東海バス06門脇経由、逆川・蓮台寺・大沢口行き)に「反射炉跡」のバス停が残っている。バス停の周辺は静かな住宅地で反射炉の痕跡はない(当時は反射炉築造に使用した伊豆石がいくつか残っていたように思うが定かでない)。

子供心に「反射炉とは何だ?」と聞くと、「鉄を溶かす溶鉱炉で、江川太郎左衛門という人が大砲を作るために建てたもので、ペリーが下田に来た頃の話だ」と言う。この下田にも「偉い人がいたものだ」と感じたような気がする。その後、韮山反射炉を見る機会があり、江川太郎左衛門の名前は頭の片隅にずっと留まることになる。

◆韮山反射炉

韮山反射炉は、韮山代官江川英龍と英武親子が築造にあたり、砲数百門を鋳造したという耐火レンガ製の反射炉。煙突と炉跡が残っている。近代鉄鋼業発祥のシンボル。国指定史跡、近代化産業遺産。平成27年度に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼・造船・石炭産業(日本国内8エリア、23資産から構成)」登録。

反射炉本体は連双2基(4炉)から構成され、高さ15.7m、外部は凝灰岩(伊豆石)の石積み、内部は耐火煉瓦積み、煙突部は煉瓦組石。溶解量は1炉500-700貫(1.9-2.6t)だと資料にある。九州佐賀藩と技術を交換しながら完成させた先端技術の溶鉱炉。その後、全国各地で建設された反射炉の原型ともなっている。

 

◆築造に至る歴史的背景

築造に至る歴史的背景に触れよう。案内栞から引用する。「アヘン戦争を契機に、日本では列強諸国に対抗するため軍事力の強化が大きな課題となった。それを受けて、薩摩や佐賀などの各藩では、西洋の先進的な技術の導入が積極的に行われるようになる。幕府においても、韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)をはじめとする蘭学に通じた官僚たちにより、近代的な軍事技術や制度の導入が図られ始めた。江川英龍は、西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に進言している。このうち、鉄製大砲を鋳造するために必要とされたのが反射炉であった。嘉永6年(1853)、ペリー艦隊の来航を受け、幕府もついに海防体制の抜本的な強化に乗り出さざるを得なくなった。そこで、以前から様々な進言をしてきた江川英龍を責任者として、反射炉と品川台場の築造が決定されたのである。(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」平成31年発行栞)」

◆築造の経過

築造の経過は年表にも示したが、案内栞には以下のように記されている。「反射炉は、当初伊豆下田港に近い賀茂郡本郷村(現下田市)で着工し、基礎工事などが行われていた。しかし、安政元年(1854)3月、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入する事件が起きたため、急きょ韮山の地に建設地を変更することになった。下田での建設のために用意されていた煉瓦や石材は韮山に運ばれ、改めて利用された。また、千数百度という高温に耐える良質の耐火煉瓦は、賀茂郡梨本村(現河津町)で生産されていた。韮山での反射炉建設は順調には進まず、江川英龍は、その完成を見ることなく安政2年(1855)に世を去っている。跡を継いだ息子の英敏が建設を進め、安政4年(1857)、連双2基4炉の反射炉本体とその周辺の関連施設からなる韮山反射炉を完成させた。(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」平成31年発行栞)」

◆韮山代官江川英龍(坦庵)

見学後に感じるのは、反射炉建設を建議し責任者として苦労を惜しまなかった江川英龍(坦庵)の偉大なる生き様である。

 

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下田の「ペリー艦隊来航記念碑」と「日米友好の灯」

2018-11-24 11:40:05 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

2018年(平成30年)11月、下田の「ペリー艦隊来航記念碑」を訪れた。場所は下田公園(城山公園、鵜島城址)下、当公園入口近くである。幼少時の記憶を辿れば、この辺りは船の建造修理を行うドックがあったような気もするが確かではない。

下田港湾を背景に「ペリー艦隊来航記念碑」、モニュメント「日米友好の灯」が建っている。まさに下田港に手が届く場所である。先ずは、写真をご覧いただこう。中央にペリー提督胸像の記念碑と錨、左にモニュメント「日米友好の灯」、右に説明板がある。

   

◆ペリー艦隊来航記念碑

ペリー提督胸像が置かれた大理石製台座正面には「ペリー艦隊来航記念碑 The Monument for the Arrival of U.S.N. Commodore Perry’s Squadron」と刻まれ、背面には「昭和41年10月28日建之 Erected. October 28, 1966 下田町 ペリー艦隊来航記念碑建設委員会会長鈴木貞夫 臼井房吉 章夫刻」、横面には「M.C. ペリー提督は日米友好の先駆者である 1854年4月18日艦隊7隻を率いて入港 この辺に上陸し 6月17日了仙寺において 日米和親の下田条約を締結した これより下田は日本最初の開港場となった ペリー提督は今下田町の姉妹都市である米国R.I. ニューポート市の出生である 錨は米国海軍寄贈」と刻まれているのが読み取れる。

隣接する説明板には「ペリー上陸の碑」建設の由来が和文、英文で記され、下方に2枚の写真が添えられている。写真は、ウイルヘルム・ハイネ(同行したドイツ人画家)の「ペリー上陸の図」と「下田の船着き場」と題するものである。裏面には「ペリー艦隊停泊図」が描かれており、ペリー艦隊ポーハタン号以下、ミシシッピ、マセドニア、バンダリア、サザンプトン、レキシントン、サプライの7隻について、停泊位置と各艦の大きさ、乗組員数が描かれている。

 

説明板には「下田歴史の散歩道-9 ペリー上陸の碑 嘉永七年(安政元年1854) 再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満している点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、「ペリー上陸の碑」が建てられた。この記念碑のペリー像は故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨はアメリカ海軍から寄贈されたものである。(英文略)」とある。

◆移設される前のペリー像

大理石製の台座とペリー提督胸像は見覚えがあるが、「どこか周りの雰囲気が違う」と記憶をたどってみると、20年ほど前(1999年12月)に「ペリー提督上陸の地」碑を訪ねた時の写真が出てきた。雰囲気が異なると感じたのは、設置場所が変わったことによるものだろう。かつて、このペリー提督胸像は海岸道路をさらに進んだ場所にあった。現在地への移設は2002年(平成14年)、ペリー来航150周年に合わせて整備されたと考えて良いだろうか?

 

このペリー提督胸像は実に穏やかな表情である。ペリー来航に係る記念碑は下田の他に、横須賀市久里浜の「ペリー上陸記念碑」、函館元町公園のペリー像があるが、函館のペリー像と比べると表情に格段の差がある。函館の像はペリーの生誕地ニューポート市にあるペリー全身像をモデルにしたと言うが、威厳に満ちた姿で表情も厳しい(拙ブログ2018.5.22)。作者の村田徳次郎は何を思って、このペリー胸像を創ったのだろうか?

村田徳次郎(1899-1973)は大正・昭和期の彫刻家。 出生地は大阪市。京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、日本美術院に所属、東京芸大講師として美術部基礎実技塑像担当。粲々会結成に参画。「女座像」「小児像」「肘つける少女」「足を組む」「親鸞聖人像」「オーナー正力氏像」「長島選手」など作品が多い。形よりも内面性追究に重きをおいた作家と言われる。

◆モニュメント「日米友好の灯」

赤い炎はモニュメントの中で揺れていた。点火してから消えることなく灯り続けている。モニュメントの下部には建設の由来が、天板にはジョージ・ブッシュ大統領の「日米交流150周年に寄せるメッセージ」が記されている。

 

「日米友好の灯 この灯は、平成15年7月、日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う第20回ニューポート黒船祭のおり「NEW! わかふじ国体」の炬火リレーに使用するため採火されたものです。ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカロードアイランド州ニューポート市から空輸し、「日米友好の灯」と名付けられました。

炬火リレーとして利用後、平成16年3月31日、下田開港150周年の際にこのモニュメントに点火され、日米友好のシンボルとして灯り続けています。(英文略)」

「日米友好の灯宣言 下田市は、日米友好の灯を灯し、日本、アメリカ合衆国両民の永久の友好と親善を願い、両国民の交流に貢献することを宣言します。(英文略)」

そして、ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージは以下の通り綴られている。

「Message from President George Bush to the City of Shimoda on the Occasion of the 150th  Anniversary of U.S. – Japan Relations

This 150th anniversary of the 1854 signing of the U.S. – Japan Treaty of Peace and Amity is a time to celebrate the strong relations between our two great nations. Today, we are building on our strong relationship and partnership and promoting peace and economic prosperity. America is grateful to the people of Japan for our deep and enduring friendship.

George Bush

March 31, 2004

日米交流150周年によせて ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ 1854年の日米和親条約調印から150周年にあたるこの年は、日米両国の強い関係を祝う時である。1853年にマシュー・ペリー提督は、偉大な我々二国間に通商関係を樹立するため日本に向け出港した。今日、日米両国はゆるぎない関係とパートナーシップを確立、平和と繁栄を促進している。アメリカは深く永続的な友好に対し日本国民に感謝するものである アメリカ合衆国大統領 ジョージ・ブッシュ 2004年3月31日」

この地を訪れる観光客は多い。この地からペリーロードを歩いて了仙寺まで。或いは城山公園を散策して開港の歴史を偲んでいる。

 

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晩成社「鈴木銃太郎・渡邊 勝・高橋利八のシブサラ入植」

2018-07-19 17:27:47 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

依田勉三ら晩成社一行が帯広の地に入植したのは、明治16年。入植後の数年はトノサマバッタの大発生や冷害に見舞われ作物の収穫は皆無、ついには所持する食糧を食べ尽くし相次いで逃げ出す移住者が出てくるほどの悲運な状況であった。最初に入植した16戸が明治20年には6戸に減少したのである。

しかし勉三はそれに失望せず、明治19年、意を決し当縁郡オイカマナイに牧場地の貸下げを願い、畜産と農業を一体化した経営で社礎を固めようとした(前述)。

一方、晩成社幹部の渡邊勝、鈴木銃太郎もこれを契機に自らの土地を拓くべく物色し、十勝川の少し上流にあたるシュブシャリ(シブサラ、現芽室町西士狩、アイヌ語でウグイが産卵する深い川の意。サラは葦のこと)に白羽の矢を立てた。この地は十勝川の沿岸で沖積土壌、肥沃な土地であった。明治19年、彼らは社員の高橋利八とともに密林をかき分けこの地に入り開墾の準備に入った。銃太郎は14号付近、勝は16号、利八は17号付近で、これが芽室に和人が入った始まりであった。当初は帯広からの出作であったが、明治21年にはこの地に定住している。近くにはシブサラチャシがあり、この辺りからメムオロブト(芽室太)にかけてアイヌも多かった。彼らは原住のアイヌの人々とも親しく付き合い、雇用し、農業指導や児童の教育にも力を注いでいる。銃太郎は明治17年にアイヌの娘を妻に迎え常盤と名付け、後年は「シブサラの親方」と呼ばれるほど大きな存在であった。

西士狩には、西士狩神社の近くに「西士狩開拓七拾年記念碑」「西士狩開拓百年之碑」「芽室町発祥の地」などの記念碑がある。また、入植場所を示す標石(石柱)が建てられている。

◇鈴木重太郎、渡辺勝、高橋利八の入植地(明治25年当時)

芽室町八十年史(昭和57年刊)24ページに掲載されているシブサラ地域の図。記念碑の位置を追加した。現在は、北5線道路が現在道道75号、西15号に沿って帯広広尾自動車道が走っている。当時の十勝川は狭くて深い川だったと言うが、改修された現在は幅広の一級河川となっている。

◇西士狩開拓七拾年記念碑

芽室町西士狩地区福祉会館の駐車場脇(小学校跡地)、西士狩神社の隣に「西士狩開拓七拾年記念碑」が建っている。明治321110日建立。碑の裏面には「・・・回顧すれば七十年前の明治196月シブサラ(西士狩)原野に渡邊勝、鈴木銃太郎、高橋利八(晩成社幹部)三氏始めて開墾の一鍬を打下したり 実に本町に於ける和人入地の最初にして 亦西士狩開拓の発祥なり・・・」と略歴が刻まれている。

 

◇西士狩開拓百年之碑

現在の道道75号に面して碑は建っている。昭和60年建立。

 

◇芽室町発祥の地

西士狩神社の隣に「芽室町発祥の地」記念碑がある。昭和54921日建立。

 

◇鈴木銃太郎、渡邊 勝、高橋利八の入植地

鈴木銃太郎は安政3年、鈴木親長の長男として江戸に生まれ、旧藩士の城下信州上田で少年期を過ごし、漢学を修め、剣術や槍術を学んだ。17歳の時上京してワッデル塾に入り、この時依田勉三や渡邊勝と知り合う。後に米国人経営の築地神学校卒業後キリスト教伝道師として布教にあたっていたが、勉三とともに北海道開拓を決意。帰農武士の典型で、長身偉丈夫、磊落な性格だったと伝えられている。

渡邊勝は安政元年名古屋藩の家中に生まれる。明治3年上京し、築地の英語学校で語学を学び、後にワッデル塾に入り依田勉三、鈴木銃太郎と知り合う。依田佐二平(勉三の兄)が開いた豆陽中学校で教鞭をとっていたが、晩成社の結成に参加し北海道へ渡る。出発に先立ち、銃太郎の妹カネと結婚。カネは横浜のミッションスクールで英語と音楽を学び、卒業後は教鞭をとっていた才媛であるが、入植後は開墾の鍬をふるう傍ら晩成社の子弟やアイヌの子供たちの教育に当たるなど、開拓の礎づくりに一生を捧げた。

高橋利八は賀茂郡小野村の農家に生まれた。晩成社の一員として北海道にわたり、開拓に励んだ。性格は温厚、質実剛健、営農に範を示した。大村壬作が小学教育を計画した際、教室として住宅を貸与するなど最大の協力者でもあったと言う。

 

2018年7月初め、この地を訪れた。今年は日照不足で湿害や冷害が予想されるような天候が続いたため、作物の生育はやや停滞気味に見えたが、開拓から130年余り沃野は拓け当時の面影を探すのは難しい。数十年ぶりに訪れたこの地で、記念碑を写真に収めた。

参照:拓聖依田勉三伝、芽室町八十年史

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依田勉三の実験場、晩成社「当縁牧場跡地」

2018-07-17 18:00:27 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

20187月上旬、大樹町晩成の「晩成社跡地」を訪ねた。国道336号(ナウマン国道)の大樹町晩成地区から晩成温泉に向かう道路に入り、3kmほどの地点にある案内標識を左折する。しばらく進むと大樹町教育委員会が建てた案内板が飛び込んでくる。この一帯で依田勉三は十勝農業の夢を描いたのだ。今もこの地域には「晩成」の名前が残っている。

写真は、復元された依田勉三住宅と草を食む牛の群れを望む。

十勝の沿岸地帯は、太平洋からの風が強く海霧も発生しやすい。夏季は日照が少ないため気温が低く稲作や畑作には適さない。現在、帯広周辺が畑作で繁栄しているのに対し、十勝南部は冷涼な気象条件のもと牧草主体の酪農、畜産地帯になっている。今考えれば、十勝内陸に牧場適地はいくらでもあったと思うが、交通の要であった十勝川に近く、太平洋に面して広がる広大な土地、湧洞沼や生花苗沼、ホロカヤン沼などが魅力だったのかも知れない。

私事になるが、かつて「冷害防止実証試験」「大豆耐冷性現地選抜試験」で浜大樹と下大樹の農家の方にお世話になり、調査のため頻繁に通ったのでこの地域はことのほか懐かしい。現在は、近くの「ナウマン象発掘の地」「大樹航空宇宙実験場」の方が晩成社跡地よりも観光客に知られている。

写真は、①復元された依田勉三住宅(6坪の住宅は三分され、畳敷きの4畳と中央に土間、西側に風呂と物置がある)、②晩成社当時の地図、③大樹町教育委員会による説明板である。

  

◇晩成社当縁村牧場

晩成社一行がオベリベリ(帯広)に入植してからの開墾生活は辛苦を極めた。開墾した僅かな畑はバッタの来襲で壊滅、病に倒れる人も多かった。理想の地ではなかったのか? 社員の中には不満が渦巻き、離脱を考える者も出てきた。

依田勉三は一同の不満離散を見るにつけ期することがあった。当縁村に牧場を拓き畜産業を興し、その利益を帯広に還元できないかと考えた。入地から3年目の明治19511日、勉三は弟の文三郎と共に十勝川を下り、河口の大津から長節湖の西側を迂回して湧洞に出る。翌日は山に登り湧洞沼を視察、その後オイカマナイ(生花苗)を経て歴舟、豊似までを探査。516日にはオイカマナイ開墾着手届を戸長に提出。「オイカマナイを見て、沃地と思われる」の言葉が残されているが、この地当縁村生花苗を牧場適地と判断したのだろう。6月初めには開墾を開始、オイカマナイ沼を一周し牧地を検分、8月には陸奥から牝牛10頭、牡牛4頭を購入、プラオなど農機具の導入にも積極的であった。明治43年には当縁牧場1,600町歩、牛149頭、馬123頭飼育していた。

勉三はこの地に大正4年まで住み(同年、途別の水田所に入居)、幾多の事業に挑戦している。勉三にとってこの地は十勝開拓の実験場であった。当地での概要については大樹町教育委員会の資料(案内板)に譲ろう。彼は、帯広とこの地を頻繁に往復し、十勝の開拓・振興にかける夢を燃やし続けた。

写真は、④大樹町教育委員会による説明板、⑤サイロ跡、⑥佐藤米吉の墓、⑦祭牛の霊碑、⑧もみじひら歌碑である。

     

この地は、依田勉三が開墾に励んだ時代を感じることが出来る場所と言えよう。

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