豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

恵庭の碑-29, 「花ロードえにわ」の小さな記念碑

2024-04-29 11:21:45 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

花ロードえにわ 

国道36号沿いに位置する道と川の駅「花ロードえにわ」。毎日多くの人で賑わっている。館内のカレー店、ベーカリー、TEAスタンド、売店、別棟の農畜産物直売所「かのな」、コーヒー店やおにぎりの店も人気があり、そして何より、隣接する花の拠点「はなふる」が四季の花々で疲れを癒してくれる。

食べるも良し、散策も良しの「花ロードえにわ」「はなふる」だが、此処にも小さな記念碑が建っている。さあ、探してみよう。

参考までに、「花ロードえにわ」の歩み

*平成17年(2005) 道の駅登録

*平成18年(2006) 道と川の駅花ロードえにわ(地域交流センター)オープン

*平成19年(2007) 農畜産物直売所「かのな(花野菜)」(多目的交流物産館)、多目的広場、ウォーターガーデン等オープン

*令和2年(2020)「花ロードえにわ」、農産物直売所「かのな」がリニュアルオープン。恵庭市花の拠点としてガーデンエリアが整備され、「はなふる」の愛称がつけられた。

 

 

◆「花ロードえにわ」オープン記念の碑

「道と川の駅花ロードえにわ」の正面入り口、向かって右寄りの芝生に可愛い記念碑がある。小さく佇む記念碑に気付く人もいない。誰もが足早に通り過ぎる。

碑には「花ロードえにわオープン記念 2006年7月1日 贈恵庭ニュージランド協会」の文字が刻まれている。道と川の駅開設を記念して建立されたことが分かる。さらに、「本記念石は、NZ・テイマルで採掘されたブルーストーンでつくられています」と説明されている。記念石は、青みがかった灰色、一部に黒色鉱物が模様を織りなしている。

何故「恵庭ニュージランド協会」なのか? 

道と川の駅「花ロードえにわ」は、ニュージランドのテイマル市と関係があったのだ。建物の中にはテイマル市の紋章も飾られている。

経緯を辿ってみる。

*平成12年(2000) 恵庭商工会議所は設立10周年記念事業(国際友好商工会議所締結事業)の相手として、「花を生かしたまちづくり」の先進地ニュージランドのテイマル市を選定。

*平成15年(2003) 「国際友好商工会議所」締結。民間有志による「恵庭ニュージランド協会」が設立され、セミナ開催、道と川の駅に「テイマルショップ」を開設。

*平成19年(2007) 恵庭市とテイマル市が「国際姉妹都市締結調印」。交換留学生、文化交流が現在も続いている。

 

◆恵庭三四会20周年記念植樹の碑

恵庭三四会創立20周年の記念植樹に添えられた記念碑である。「恵庭三四会20周年記念植樹 平成8年10月16日建立」と刻まれている。当初は、恵庭市保健センター(現、はなふるセンターハウス)の駐車場脇に建立されたが、令和2年(2020)花の拠点「はなふる」整備に伴いガーデンエリアに移設されている(記念樹も移転)。

なお、恵庭三四会は昭和52年(1977)に恵庭市の30代、40代の経営者が集い、会員の連携・協調・資質向上を図ると共に恵庭市の発展に貢献することを目的に発足した団体で、納涼花火大会・少年野球大会・清掃活動・慈善活動など地域への貢献活動を行っている。

碑の裏にはOB会員26名、現役会員34名の名前が刻まれている。

 

写真左上は2022年、写真右上は2024年4月、写真下は2016年10月撮影

 

◆消えた花時計

「道と川の駅花ロードえにわ」の西側にシンボルの花時計があり、たしか小さな記念碑が添えられていた。が、令和年2年の改修、農産物直売所「かのな」の移転で花時計は撤去されキッチンカー広場になった。ちょっと寂しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵庭の碑-28, 姉妹都市締結十周年記念碑と石灯篭

2024-04-27 07:58:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

 

◆妹都市締結十周年記念碑と石灯篭(寄贈 山口県和木町)

恵庭開拓記念公園に姉妹都市締結十周年を記念して山口県和木町から贈られた石灯籠と石碑がある。碑には「姉妹都市締結十周年記念 平成元年七月十日 山口県和木町」と刻まれている。姉妹都市十周年記念式典は恵庭で行われたので、その記念に贈られたものだろう。

石灯籠は鍾乳石製で、山口県のカルスト秋吉台、秋芳洞を思い起こさせる。自然石の記念碑も紋様が美しい。

平成元年(1989)に建立されてから35年が経過。雨に打たれた石灯籠は石灰分が溶出し、崩壊が始まったように見える。10年前の古い写真があることを思い出し比べて見ると、滑らかだった灯篭表面に幾条もの溝が出来ている。その差は明らかだ。

さらに、酸性雨や冬季の凍結が繰り返されることを考えると、崩壊を加速させるのではないかと気になる。

 写真は、2024年4月撮影(左)、2016年5月撮影(右

*恵庭開拓記念公園は、旧松園小学校の跡地1.1haを活用し市制施行10周年記念事業により整備、昭和54年(1979)の恵み野宅地開発に伴い造成された公園である。同年、公園の象徴となる開拓記念像「拓望の像」(竹中敏洋作)が建立されているが、この年は山口県和木町との姉妹都市締結調印の年でもある。恵庭開拓記念公園に和木町から贈られた石灯籠を置いた意味を納得する。

 

◆恵庭市総合体育館の玉石(寄贈 山口県和木町)

体育館ロビーの玉石(置物)恵庭開基88年を祝して姉妹都市和木町から贈呈された。「贈 開基八八年記念 姉妹都市和木町」の説明がある。昭和60年(1985)は恵庭市総合体育館がオープした年で、7月には「開基八十八年・市制施行十五年・総合体育館落成記念式典が行われた。これに合わせて姉妹都市和木町から贈られた。

鍾乳石(?)の台座に乗るこの玉石。縞模様が浮かぶ。記念品として贈られたのだから、きっと名のある石だろうと、恵庭市史、広報えにわ、北海道新聞、千歳民報など当時の記事を検索したが寄贈品の記述がない。市役所にも材質(石)名の記録がないと言う。

◆姉妹都市締結の経緯と交流

槌本貞一市長は、①恵庭の開拓は明治19年(1886)山口県岩国地方からの集団入植が先駆であった、②先人の苦労によって現在の恵庭市の基礎が築かれたとの思いから、岩国地方との交流を推進したいと考えた。昭和47年(1972)槌本市長は岩国地方からの移住者名簿を携え岩国市、和木町を訪れ姉妹都市提携を提案。これに応えた和木町と昭和54年(1979)7月に姉妹都市締結調印が行われた(浜垣実恵庭市長、松並正行和木町長ら和木町訪問)。以降、相互訪問、文化スポーツ交流、職員研修派遣、災害相互応援など交流が進められている。

*昭和47年(1972)槌本市長、移住者名簿を持参して岩国地方を訪問、提携を打診

*昭和54年(1979)和木町と姉妹都市締結調印、記念植樹(和木町役場にイチイ)。10月、恵庭市制施行10周年、市民会館落成式に和木町長ら来惠 

*昭和60年(1985)恵庭市総合体育館開館、和木町から開基88年記念品(総合体育館)、イチイとアカマツ記念植樹(総合体育館)

*平成元年(1989) 姉妹都市締結10周年記念式典、和木町長ら来惠。和木町から姉妹都市締結十周年記念品の石灯篭(恵庭開拓記念公園)

*平成11年(1999)姉妹都市締結20周年記念式典(和木町)

*平成21年(2009)姉妹都市締結30周年記念式典、イチイとエゾアカマツ記念植樹(恵庭開拓記念公園)

*令和元年(2019) 姉妹都市締結40周年記念式典(和木町)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵庭の碑-27, 恵庭開拓記念公園の園名石と碑文

2024-04-23 09:07:01 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭開拓公園の園名石

恵庭市郷土資料館(南島松157-2)東側に隣接して恵庭開拓記念公園がある。道道600号島松千歳線に面した公園の入口(表示はないが)を入ると、正面に園名石がドンと置かれている。この自然石には、開拓記念公園造成時の市長浜垣実揮毫による「開拓記念公園 恵庭市長 浜垣実 書」の文字が刻まれている。

園名石の隣には御影石の銘板があり、公園造成の謂れが記されている。

・・・本市開拓のむかしから幾多郷土の先陣をはぐくみ育てあげた松園小学校の跡地を恵庭開拓記念公園として整備し、拓けゆく本市を担う市民の散策と憩いのなかに静かに昔日を偲び未来を志向する希望と創造の園とするものであります。

昭和五十四年八月 恵庭市長 浜垣 実 ・・・

さらに、この園名石の裏側にはもう一つの銘板がはめ込まれている。内容は、開拓記念公園の造成計画に情熱を傾けながらも急逝した前任市長槌本貞一氏への思いを綴ったものである。

・・・恵庭岳 烈風作

 樽前岳噴煙立ちて今日も亦  支笏の湖底に影ぞ映ずる

 白雲棚引く恵庭の峰峡巖我を抱きて天に轟く

 神秘に輝く石狩の平原瑞穂の國ハ此の麓より発す

この詩は故名誉市民・恵庭市長槌本貞一氏が作詞し自らも愛吟されたものです。

故名誉市民・恵庭市長槌本貞一氏は父祖先人の方々のご労績を称えると共に、本市開拓の上に思いを馳せられて開拓記念公園の計画に着手されたものでありますが、その志半ばにして急逝されました。

この園名石は開拓記念公園の上にそそがれました故人のご遺志を表したいと云う願いの中で、ご子息槌本憲道氏ならびにご遺族さまからご寄贈をいただいたものであり、この園名石を通じ永く故人のご遺志を偲んで参りたいと存じます。

昭和五十四年八月一日 恵庭市長 浜垣 実・・・

 

槌本貞一氏は「烈風」と名乗っていたのか。槌本氏が名誉市民恵庭市長田中菊治治氏の跡を受けて、第12代恵庭市長に選出されたのは松園小学校廃校の年(昭和46)であった。槌本氏は恵庭市総合開発計画をスタートさせ(昭和48)、恵庭住宅団地第一次計画着工(昭和54)を目前にして急逝したが、恵庭開拓記念公園の造成もこの場所へと考えていたのだろう。

 

前述したように、この場所は松園小学校の廃校跡地である。園内には松園小学校門柱、二宮尊徳幼時の像が残され昔日を偲ぶことが出来る。松園校跡地記念碑には松園小学校の沿革が記されているので一部引用する。

・・・明治19年山口県岩国地方の団体移民65戸、ついで同20年同県長門の萩藩士45戸が漁川沿岸地帯に集団入植し、原始の森を伐りひらき、よし原を開墾し、部落草創の基礎固まり開拓緒につく。

しかれども子弟教育機関なくその必要性を痛感し、福本幸次郎氏、田中梅太郎氏、 村上勝太郎氏らの尽力実り、この地南島松に31坪の校舎を建て、萩藩士廻神美成氏を校長として明治22年12月18日付を以て設置許可となり、私立尋常小学校を開設するに至る。

校名「松園」は萩のいだいな教育者吉田松陰先生の名前にあやかって名付けたという。明治39年9月公立校となり同40年4月村内唯一の高等科併置校となり、役場所在地の学校として、教育文化の中心的機能を持ち、名実ともに中心校として人材の養成に当った。

時は移り世は流れ、82年にわたる輝かしい歴史と共に5,500有余の有為な卒業生を社会に輩出し、昭和46年2月20日学校統合のやむなきに至る(漢数字を変換)・・・

 

◆恵庭開拓記念公園の見どころ

松園校跡地記念碑

松園小学校門柱

二宮尊徳幼時の像

恵庭開拓記念像「拓望」

天野先生之碑

富山県人開拓之碑

姉妹都市締結十周年記念碑(山口県和木町)

恵庭市郷土資料館(企画展、カリンバ遺跡常設展など)

 

恵庭開拓記念公園は環境緑地保護地区に指定され、恵み野中央公園に連なる「緑の回廊」の北端に位置する。この公園に佇めば、静かに開拓の時代に思いを馳せることが出来るだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冊子「北条水軍の拠点・下田城」が面白い

2024-04-21 13:21:06 | 伊豆だより<里山を歩く>

友からの便り

今年(2024)七草粥の頃だったろうか、旧友から郵便小包が届いた。正月早々の贈物を開封すると冊子が入っていて、一冊は下田城の解説冊子「北条水軍の拠点・下田城」、もう一冊は横浜にあるエッセイ教室の同人誌で旧友の紀行文も掲載されている。能登半島地震や日航機の事故など衝撃の年明けに、懐かしき友からの便りは心温まるものがあった。友は下田北高校の同級生である。

早速、次のような礼状を書いた。

・・・この度は、冊子「北条水軍の拠点、下田城」「芽ぶき」等をご恵送賜り有難うございます。早速拝読、ご活躍に敬意を表します。下田城読本は写真や図もすばらしく、年代を問わず多くの方々に手に取って頂けることでしょう。小生も大変勉強にもなりました。貴兄が下田城保存推進会で頑張っておられることは承知していましたが、立派な冊子出版は同慶の至りです。関心が深まることを期待します・・・

◆冊子「北条水軍の拠点・下田城」について

発行:下田城の保存を推進する会、編集制作:碧水社、編集協力:外岡龍二、初版:令和5年10月23日発行、A4判30ページの冊子である。

目次から内容を追ってみよう。①下田城を歩く、②下田城の戦い、③下田城将・清水康秀、④北条早雲と戦国の伊豆、⑤小田原城を歩く、⑥海の関所・下田、の構成となっている。写真や図を豊富に取り入れ、読みやすい構成だ。

本書の出版背景と目的を理解するため、「はしがき」「あとがき」を抜粋しよう。

・・・(はしがき抜粋)私たちの町下田は、昔から海と深く関わってきました。戦国時代に伊豆に入国して、関東の覇者となった小田原北条氏によって、下田は海上交通の要となりました。下田城が築かれ、行き来する船の検査や監視を行い、海上の戦いになった場合には、水軍の基地になりました。1590(天正18)年、天下統一を目前にした豊臣秀吉がおおよそ20万の兵を率いて、小田原の北条氏目がけて押し寄せます。下田城は1万4000の豊臣水軍に取り囲まれましたが、わずか600余の守備兵で城を守って戦いました。50日後、城は開城しましたが、下田城は優れた海賊城としての力をいかんなく発揮したのでした。

下田城は1973(昭和48)年に下田市の史跡に指定されました。その後、下田城の保存を推進する会も創立されて、市民の間にも下田城址を守る動きが進んでいます。

この本では、下田城を舞台に戦われた海戦の有り様を復元CGによって紹介し、現在の下田城址を歩いて、代表的な海賊城である下田城の姿をたどります。また、伊豆の歴史と深い関わりをもつ北条早雲の活躍と、小田原北条氏の本城となった小田原城についても解説します・・・

・・・(あとがき抜粋)本書は我が郷土の「下田城」について、小学生から成人まで楽しく読んで、そして理解を深める格好の書と確信しております。同時に下田城を通して、戦国時代のロマンを感じていただけることと思います。

令和6年には当会発足15年を迎えますが、その記念事業として本書を発行することになりました。本書が皆様、特に若い人の下田城への関心を一層深める一助になれば、本会会員一同にとって、このうえない喜びです。令和5年9月吉日、下田城の保存を推進する会 会長 澤村紀一郎・・・

◆関連して

下田城についての詳しい解説書は他にも数多くあるが、本冊子は簡易明瞭でとても分かりやすい。伊豆旅に携え行けば、楽しみが深まること間違いない。

そして、蛇足ながら、拙ブログ2020.7.24「下田の城、深根城と下田城」、拙ブログ2021.4.2「一冊の本、伊豆の下田の歴史びと」、拙ブログ2021.4.3「一冊の本、伊豆下田 里山を歩く」もご覧頂ければ有難い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする